〈当事者意識〉と〈安心感〉の同時達成
2008年度、前任校で研修を担当した。私の企画した校内研修会(年3回)は以下である。
【6月】学校祭・合唱コンクールの指導法
【11月】道徳の公開授業/授業技術の検討
【2月】理科の公開授業/基礎基本の検討
私が実際に企画・運営したこの三回の校内研修会に沿って稿を進めることとする。
1 特別活動の研修会を(第一回)
通常、第一回校内研修会では、その年度の研究テーマ、研究仮説、研究推進計画などが提示されるのが普通であろう。私はこれらの年度計画を四月の年度当初の職員会議で提案してしまう。校内研修会は研修をこそすべきであり、研究計画のごときは通常の行事の計画と変わらないものである。職員会議において数分で提案し、承認を受ければ済むものに過ぎない。こうした提案と承認にせっかくの校内研修会の一回分を使ってしまうのは馬鹿げている。同様に、年度反省に校内研修会一回分を使うのも馬鹿げている。
この年、第一回校内研修会では、学校祭・合唱コンクールの指導法と題して、職員室内で学校祭指導・合唱コン指導を得意としている教師の講演会をおこなった。
(1)全員が興味関心のもてる題材を選択する
授業研究は確かに必要度が高いものだが、中学校の場合、教科性の問題があって、なかなか問題意識を共有できないことが多い。その点、学級経営や特別活動ならば、全教職員が深くかかわるものであり、学級担任ならば好むと好まざるとにかかわらず、実際に企画・運営しなければならないものである。しかも、学校祭や合唱コンクールの指導は、意外と苦手にしている教師が多い。 年度当初の、まだ本格的に行事が始まる以前に、学校祭や合唱コンクール等について、指導の在り方を検討しておくことは有益である。
(2)自校の人材を活用する
何かテーマを決めて講演をという場合、多くの学校は外部の人材に依頼して学ぼうとする。しかし、外部講師は学校の実態・生徒の実態を知らない。その学校の校風も知らない。保護者がどのくらい行事を楽しみにしているのか、クレームはどの程度されるのか、こうしたことも知らない。講演内容は当然、一般論にならざるを得ない。
そこで、内部人材の活用である。どこの学校にも、毎年、学校祭でみんなが楽しむことのできるステージ発表をする、或いは合唱コンクール指導を得意としていて、毎年入賞している、といった教員が一人や二人はいるのではないだろうか。そうした教員に前年度の指導の在り方について、具体的に実践発表してもらうのである。前年度のビデオを見ながら、或いは指導に苦労した具体的な生徒とのやりとりを紹介してもらいながら、学校独自のかなり具体的な話を聞くことができる。更には、参加者の誰もが具体的な場面を想像しながら聞くことができる。合唱コンクールならば、前年度の学年別優勝学級担任三人の実践発表という手もある。
(3)専門家にはデメリットがある
一般に、学校祭ステージ発表指導なら学校の演劇部顧問を、合唱コンクール指導なら音楽教師を、と考えがちである。しかし、講師はこのような専門家ではない方がいい。理由は単純である。聞いている側が、あの「人は演劇的センスのある人だから…」「あの人のような音楽の素養ないからなあ…」と、講師を〈遠い人〉と感じてしまうからだ。人間はあまりに遠い目標に対して努力しようとは思えないものである。〈自分よりちょっと上〉という講師がよい。また、専門家や上級者は、初心者が何をわからないのかということがわからない、ということが多い。この意味でも、専門家ではない、普通の学級担任で〈割とそれを得意としている人〉というのが、最もふさわしい講師である。校内の専念家は、最後の話のまとめをしゃべらせて、プライドを維持させてあげればいいのである。
(4)具体的な題材をテーマに据える
校内研修会のテーマを授業外に設定しようと考えたとき、多くの教師は「学級経営」をテーマに据えようとするだろう。しかし、「学級経営」という漠然としたテーマを設定しても、議論はなかなか具体化しない。テーマが広すぎるからである。それよりも、「合唱コンクールの指導・三週間のプログラム」といった具体的な題材をテーマに据えることである。こうすれば、合唱コンクールの指導ばかりでなく、学級リーダーをどう育てるか、予想外の案件が起こったときにどのように対処するか、問題傾向生徒が学級の輪をこわしにかかったときにどう対処するかなど、実質的には学級経営の議論が起こる。しかも、全職員が具体的な場面を想定して議論に参加することができ、研修の機能度が高まる。
2 授業システムの比較を(第二回)
第二回校内研修会では、「授業システムの比較」として、道徳の公開授業をおこなった。研修担当者(つまり私)がつくった道徳指導案にもとづいて、二人の授業者が同時進行で授業を公開するというものである。
(5)同一指導案の二つの授業を比較する
通常、校内研修会で公開授業をおこなうという場合、一つの学級、一人の教師の公開授業というパターンが多い。この場合、その教師がどの程度の力量なのか、その教師がどのようなキチャラクターなのか、また、生徒の実態によってどのように反応が異なるのか、更には日常的にどのような授業システムがとられているのかといったことが、見えにくくなってしまう。そこで、同一指導案について、二人の教師が隣り合った二つの学級で授業を公開するという手法をとった。参観者は廊下から、二つの授業を比較しながら参観することになる。
この手法をとると、一方は導入に十分かけていたのだが、もう一方は導入一分ですぐに発問に入った、というような違いが出る。しかも、冒頭の十分で進度に大きな差がついていたのに、三十分後には進度がぴたりと合ってしまう、などということも起こる。導入に十分かけた教師は最後まで一斉授業で進めたが、導入を簡単に終わらせた教師は途中で小集団学習を入れた、などということも起こる。こうなると、学習活動の是非と時間の使い方・生み出し方という観点が、明確に見て取れるようになるわけだ。必然的に、研究協議も盛り上がることになる。
(6)道徳・学活・総合の授業公開をおこなう
前節でも述べたことだが、中学校は教科性に基づいた〈縦割り意識〉の強い職場である。他教科の授業公開は、多くの教職員にとって当事者意識の薄いものになりかねない。よほど意識の高い職員室である場合にはその限りではないが、多くの場合、できるだけ当事者意識を強くもつことのできる道徳・学活・総合といった授業のほうが、多くの職員が当事者意識をもって参観することができる。ただし、同一指導案による二つの授業を比較する場合には、できるだけ発問・指示型で展開されるような授業案とし、教師の関わり方が見えにくい活動型授業は避けた方がよい。研究協議での話題が授業技術や授業システム、指導案の是非ではなく、生徒の質にばかり向いてしまうからである。
(7)授業者を孤独にしない
二つの授業を比較する場合に限らず、校内研修会で公開授業をもつ場合には、授業づくりを授業者任せにしないことが大切である。忙しい中で授業を引き受けた教師が孤独感を抱くような公開授業なら、やらないほうがましである。
この年の道徳の授業は一学年二学級でおこなわれたのだが、一学年教師八人を二つのグループに分けて四人ずつのプロジェクトチームをつくり、このプロジェクトにおいて三回にわたる授業細案検討、そしてプレ授業をおこなった。教科の違いによって道徳の授業のつくり方の細かなニュアンスが異なり、こうした検討がかなり有益に機能する。若手教師とベテラン教師とが同じ土俵で授業論、授業観を交流することができ、学年のチームワークも高めることができる。そして何より、多くの場合、授業者に「やってよかった」と思ってもらうことができる。
3 年に一度は教科の公開授業を(第三回)
年に一度程度は、教科の公開授業をおこなったほうがいい。ただし、これは教科内交流の話ではなく、一つの授業を全教職員で見るという形態の公開授業を指す。同一教科の教師のみが授業を見合う教科内交流ならば、何も校内研修会の時間として設定する必要はない。
この年は、「作業指示の出し方/グループ討議のさせ方」と題して理科の公開授業を全員で参観した。
(8)教科横断的なテーマを設定する
この年、授業教科は理科であったが、理科の授業研究としてではなく、「作業指示の出し方/グループ討議させ方」というテーマを設けて、理科実験の授業を公開してもらった。の授業を理科の授業としてのみ公開したのでは、やはり他教科の教師の当事者意識が低くなってしまう。しかし、「作業指示/グループ討議」という観点で公開されると、それは全教科共通の「授業システム研究」「指導言研究」となる。こうしたテーマを設定するだけで、教職員の参加意識が格段に高まる。
(9)なぜその教科なのかを納得させる
皆さんの学校では、校内研の授業者はどのように決まるだろうか。教科の輪番だろうか。それとも、教科よりも人、つまりたまたまその教科に若い人間がいたからその教師に授業をあてる、という感じだろうか。授業者の決め方はそれぞれでいいとは思うが、もう少し、今年はこれ…というふさわしい教科があるのではないだろうか。それも、全職員が人情として納得するような決め方が……。
私の前任校ではこの年、実は、理科を専門とする学校長が退職する年だった。退職まで一ヶ月あまりというこの時期、学校長が校内研修会に気持ちよく参加でき、しかも気持ちよくまとめの話をすることができる、私はそういう研修会にしようと思った。そのために、四月から理科の教師に授業公開をお願いし、二月の授業公開に向けての心構えを抱かせた。研修担当者にはこうした心遣いをもつこと、そして年度当初から見通しをもって研修計画をたてること、この二点が重要である。
退職を控えた学校長は、実に楽しそうに指導案の事前検討に参加し、プレ授業を参観し、そして意見を述べた。校内研修会が退職への一つの花道ともなったわけである。
(10)研究協議では全員に発言させる
私がよく使うのは、公開授業のあと休憩時間を20分間とり、付箋に授業の分析を書かせるという手法である。
付箋は縦76ミリ、横127ミリのものを使っている。この大きさの付箋に必ず記名させたうえで、肯定的な意見を一点、批判的な意見を一点書くことを強制する。これを全員分コピーして研究協議冒頭で配付するわけである。研究協議はこれをレジュメに一人一分で授業分析を発表するところから始まる。授業者のコメントの前に、全員からの肯定的意見と批判的意見とが提起されるわけだ。全員が意見を述べたうえで、それに応える形で授業者がコメントを発する。その後、司会者が論点を整理して、協議にはいっていく、という流れである。
ここでは、批判的意見を書くことが強制されているという点が重要である。多くの教師にとって他人の授業を批判することはいやなものである。それを強制されるとなると、しかも全員がそれなりに批判を書くということになると、二重に責任が生じる。授業者を批判する責任と他の参観者と視点が異なった場合の説明責任とである。こうした二重の責任を感じることが、公開授業を当事者意識をもって参観することへとつながるわけだ。
研修を厭わない教師たちから、「なぜ、多くの教師は研修に積極的でないのか。法律にも規定されている義務ではないか。」という声をよく聞く。しかし、研修に対して消極的な教師たちをこのような言葉で責めてみても逆効果である。〈当事者意識〉をもたせるとともに〈安心感〉をもたせる。この二つの同時達成こそが、実は校内研修会を活性化させるのだということを肝に銘じたいものである。
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