今年は発信の年にすると決めたのだから
ちょっと尋常でない執筆依頼書の山に苦しめられている。
世の中にはたくさんの講演をこなしながら、ものすごい量の雑誌原稿や書籍原稿をもこなしている著名人がたくさんいるけれど、いったいどうやって取り組んでいるのだろう……と不思議に思う。ぼくも仕事術なるものをもってはいるけれど、それはあくまで学校の仕事をどうこなしていくかという仕事術であって、外の仕事、個人的な仕事をこなしていく仕事術ではない。しかもぼくの場合、隙間時間を利用してどんどん仕事を進めてしまい、休日は研究会に一日中取り組み、夜は懇親会で遊べるようにと、時間を産み出すことを目的にした仕事術であるから、その時間にもこれだけ仕事が入ってくるということになると、休日の過ごし方の仕事術までつくらなければならなくなる。
これはこの一年、生活のペース自体を変えてしまうような新たなスタイルを確立しなければダメだなあ……と感じ始めている。
とはいえ、心底、悩んでいるわけではない。そういう仕事術というものは必要に迫られれば確立されていくわけで、要するに細かなこだわりを捨てて、月に一度か二度ある完全オフ日の一日に原稿を5本書くとかいうペースをつくればいいわけである。これまでの一日に1本書いたら「今日はもういいや……」ではなく、「3本書いたからもういいや……」に変更すればいいわけだ。
一番の問題は「細かなこだわり」を捨てられるか……というところにある。
1本の原稿を書くのに、ぼくは3つの視点を提示することを旨としてきた。現象というものは決して一つの視点から成り立っているのではなく、複雑にからみあって成立するものである。この観点を大きくもっているが故に、ぼくは1本の原稿で3視点くらいは提示するのが礼儀であり、文章を書く者の倫理であると考えてきた。これがぼくのこだわりといえばこだわりである。
しかし、こうした書き方がぼくの文章をわかりづらくし、難しくしているということはかなり大きく自覚もしてきた。20年間、森くんや鹿内先生に指摘され続けてきたことでもある。必要に迫られて、いよいよ、一点突破で原稿を書く段階に来たのだなあ……という気がする。それが「細かなこだわり」(書いているうちに決して細かくはないなあ……とも感じるけれど)を捨てるということであるらしい。
今回、「学級経営10の原理・100の原則」を書くなかで、一番の闘いは一つ一つの項目について本当は書きたいことがたくさんあるのに……という想いとの決別だった。この具体例を入れればもっと伝わるのに……とか、こんな骨格だけの論述で若い読者はわかるのかなあ……とか、なんでこんな大きなことを1頁におさめなければならないのかなあ……とか、そういう想いとの格闘である。
しかし、いまとなってはこの程度の書き方で良かったのだとの思いがある。これからは原稿依頼をもらったら、こうした一つ一つの項目について、書きたかったけれど書けなかった具体を書くことで紙幅を埋めることができるのだ。
もう少しで「120の言語技術」を提示する本が完成する。あと20頁程度のべた打ちと全体修正を5回ほどすればなんとか完成しそうである。「学級経営10の原理・100の原則」同様、この20年間の中間まとめ的な意味合いをもつ、ぼくにとっては大きな仕事になる。それが終われば、生徒指導とか保護者対応とか行事指導とか力量形成とかの原理・原則をまとめたいと考えている。
また、国語関係では「〈習得〉させるべき120の言語技術」に続いて、「〈活用〉させるための100の学習活動」を書く予定だ。この本はいよいよ、先日石川晋に「高踏的」と指摘された態度を超えて、ぼくがいま取り組んでいる対話型学習活動形態について本格的に紹介する本にしていくつもりである。「120の言語技術」と「100の学習活動」とは、中学校で新学習指導要領が実施される来年の春に同時刊行できたらいいなあ……と思っている。できれば、「研究集団ことのは」著の実践編も同時刊行できたらいいなあ……という野望も抱いている。
いずれにしても、今年度は徹底的に原稿を書く。それでいて登壇ペースを落とさない。必要に迫られて……とは言っているけれど、ぼくのなかにはある程度の計算もある。今年は発信の年にすると決めたのだから。
そもそも執筆依頼が来たり登壇依頼が来たりということは、それだけ求められているということである。有り難いことである。
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