自分にもできること/自分にしかできないこと
赤坂がブログに書いている。
しかし、堀裕嗣とは恐ろしい男である。こんな研究会を思いついてしまうのだから。参加者はもちろん、事務局、そして講師まで含めてかかわった全員に深い学びをもたらしてしまうコンセプトを、いとも簡単に思いつき、実現させてしまう。誤解なきように言えば、堀さんの常軌を逸するようなインプット、研究量があっての思いつきである。達人教師の、瞬時瞬時の判断がことごとく「正しく」機能するように、堀さんの判断は、キレているのである。そのトップバッターに私を指名してくれたことに心から感謝している。最初、話を受けたときは「また、堀がオレをいじろうとしている・・・バツゲームかっ!」半分本気、半分冗談に感じたが、彼は本気で学びを生み出そうとしていた。
まあ、例によって褒めすぎなのだが、これはぼくにとっては最も〈我が意を得たり〉というタイプの「褒めすぎ」である。
誤解を怖れずに言えば、自分でいうのも何なのだが、ぼくの最も優れているところは〈プロデューサー〉としての資質である。一つ一つのネタとか、一つ一つの実践とか、一人一人のヒトとか、そうしたものにはほとんど興味がない。そういう巷に溢れているものではなく、AとBを掛け合わせたら何が産まれるかとか、Cは対局にあるDを見たらどんな反応を見せるかとか、Eを産み出すにはFとGとHのほかに何が必要かとか、いつもそういうことばかりを考えている。
研究会、セミナーのコンセプトを考えるときも同じで、これまた誤解を怖れずに言えば参加者が何を学ぶかは二の次、まずは自分達が何を学べるか、そして読んだ講師自身が何を学べるか、この2点が最重要課題である。
ぼくは若い頃から、例えば野口芳宏先生をお呼びするときでさえ、野口先生ご自身が学べないような企画にはお呼びする意義がないと感じていた。だから、野口vs寺崎とか、野口vs阿部とか、野口vs鶴田とか、野口vs大内とか、野口vs鹿内とか、そんなバーサス企画ばかり立ててきた。しかも必ず行司も呼ぶ。野口vs上條の作文対決なら行司として大内善一先生をとか、野口vs阿部の物語授業対決なら教科調査官と田中・須貝を呼ぶとか、そういう手法である。有名講師を呼んでただお話を拝聴……というタイプの研究会、セミナーは反吐が出るほど嫌いである。
2000年前後、「研究集団ことのは」イベントの基本コンセプトは、若気の至りもあって、「野口さんに何を学ぶか」ではなく、「野口さんに何を学ばせるか」だった。そういうあまりにも生意気なコンセプトをライフワークとする団体が、全国にひとつくらいあってもいいじゃないか。それが失礼で不遜だという価値観しか世の中にないののだとしたら、ちゃんと時代がぼくらをつぶしてくれるはずである。それはそれでいいじゃないか。森くんや大内とよくそんな話をしたことを覚えている。
公務も同じである。授業も学級経営も、すべてのぼくの教育活動がこういう発想でいまなお動いている。いまなお、生徒に対して挑戦的な授業、挑戦的な企画ばかりを投げかけている。ぼくはそれでいいと思っている。「自分にもできること」ばかりをやっていてはおもしろくない。「自分にしかできないこと」を本気でやってみるからこそ、おもしろくなるのだ。いまでは、それがぼくの人生なのだと、ある意味達観しているようなところがある。
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