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2011年4月

OK!!! C'MON CHABO!!!

「仲井戸麗市リスペクト・アルバム」と題されたトリビュート・アルバムが届いた。

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NAKAIDO “CHABO” REICHI RESPECT ALBUM

2011

参加ミュージシャンは奥田民生、ザ・クロマニヨンズ、斎藤和義、TRICERATOPS、寺岡呼人、桜井和寿、さだまさよし、宮沢和史、Leyona、浜崎貴司、吉井和哉、曽我部恵一、YO-KING。もちろん、CHABO自身もゲスト参加。

「チャボに出会わなかったら、僕はここにいなかった」発起人、寺岡呼人が彼ら世代のアーティストに呼びかけ実現した、仲井戸”CHABO”麗市生誕60周年を記念したリスペクトアルバム……とのこと。

ファースト・アルバムからの選曲が多いことに、やっぱりな……と思う。

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連休初日としてはOK

午前中は宿泊学習下見で撮ってきた映像を編集。5/13(金)の学年集会で生徒たちに見せるイメージビデオを制作。けっこうおもしろいものができた。今年の2年生は1997年度の生まれなので、この年のヒット曲を使うことになる。その第一弾。

午後は5/14(土)の中学校学級づくりセミナー愛知の資料づくり。1本はいつもの内容なので、割と簡単に完成。問題はもう1本の選択講座のほう。どう構成するかを迷っている。なにせ資料を5日までに送ってくれと言われている。ちょっと急いでいる。

15時半にHONDAに行ってタイヤ交換。フロントにヒビが入っているのを直してもらう算段をつけてくる。フロントグラスの交換とのこと。これは値が張る。保険屋に電話して保険で直してもらうことに。車両保険を使うのは初めて。自動車保険を使うことさえ17年振りである。オレって良いドライバーだなあ……。

近所の市場へ。ぶりとそいと三陸わかめ。早速、「まんさくの花 吟熟」で……。

予定していた仕事を2本終え、連休初日としてはOKである。

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ありがたいことである

午前中は400人以上の生徒たちの座高を測る。一人10秒平均で次々と。

12時ちょっと前に学校を出て宿泊学習の下見。農作業をさせていただくキュウリ農家に寄ったあと、夕張マウントレースイへ。ホテルの部屋は良いのだが、動線が複雑。宿泊部屋は廊下が一本で巡視はしやすそう。

帰りに長沼でかねひろジンギスカンを買って帰宅。家で焼きながらビールを1本。スーちゃんの追悼番組を見ていたらもう9時。

愛知の中学校・学級づくりセミナーに人が集まり始めている。長瀬くんを中心とした事務局のみなさんの努力の賜。ありがたいことである。

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一口飲んでぶっ飛んだ

1・2時間目は空き時間。評価評定研修会の資料編を作成。

3時間目は7組。「平家物語」冒頭の筆記テスト。「敦盛の最期」の読みの確認。

4時間目は空き時間。評価評定研修会資料の頁打ち。

5時間目は授業参観。3組。傾聴態度のロールプレイ。

その後、学年PTA。更に評価評定研修会資料の印刷・帳合・配付。

3ginjuku_2 17時Ginjuku05分退勤。同僚に教えてもらった水産会社の市場へ。目移りするほどの品揃え、そして安さ。刺身セットと生鯖の刺身と蛸足を買って帰宅。冷蔵庫に入れて、酒屋へ。「まんさくの花」の珍しい酒があったので購入。「吟熟」の8年もの。

なんとなく買った酒だったのに、一口飲んでぶっ飛んだ。

間違いなく人生でナンバー1。すぐに酒屋に電話して、もう1本とっといてくれと言うと、「お客さんが買った1本しか入荷していない」とのこと。日本国内に37本しかない、たまたまできた古酒とのこと。なんと……。もうこの酒は二度と飲めないということだった。

123ありゃ~。

蛸の足と生鯖を少しずつ包丁で切りながら、山わさびを少しずつすりながら、妻と二人、「吟熟」をちびちび。

うーん……。へへへ。ざまあ……。酒好きの池田も山田も、これは飲めないぜぃ。ああ、うまい。

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笑顔があって建設的な議論がある

1時間目は1組。「平家物語」冒頭の筆記テスト。二つ目の音読テストに向けて「敦盛の最期」の読みの確認。時間が足りなくて前半で終了。

2時間目は6組。筆記テスト。「敦盛の最期」前半の読みの確認。

3時間目は空き時間。筆記テスト結果の転記。教育課程検討委員会に提案する評価評定研修会関係文書・学級編制提案文書・入学式提案文書の修正・プリントアウト・印刷・帳合。

4時間目は2組。2回目の「扇の的」の音読テスト。40名中満点が24名。これはけっこうすごい。一発合格者が多く、15分ほど時間を余す。次の活動に入るのも中途半端になるので、読書タイムとする。

給食はうどん。麺を半分。スープの具材をたくさん。今日のうどんはずいぶんとおいしく感じられた。うどん派ではなく蕎麦派のぼくには珍しいこと。昼休みは1組の筆記テストの追試。

5時間目は学活。途中まで5組で、生徒指導で学級を空けざるを得なかった担任に代わって進路指導。担任が戻ってきてからは6組に入って生徒たちをいじる。途中で筆記テストの追試を入れる。採点。

放課後はまず同僚二人とともに3人で30分ほど校区巡視。その後、16時から教育課程検討委員会。評価評定研修会関係の提案を昨年度との変更点を中心に説明。一つ一つ細かいことを詰めていく。終了したのが18時30分。

帰宅。

ろくに休憩もなく働いた一日。充実感があるわけでもないが、忙しい中にもそれなりに先生方に笑顔があり、建設的な議論がある。まずまずの雰囲気か。

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ありがとうございました

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村岡明さんから書評をいただきました。過分なる評価をいただき、恐縮しております。ありがとうございました。

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スーちゃんが亡くなって4日経った

スーちゃんが亡くなって4日経った。

若くして亡くなった人……というか、リアルタイムでその活躍振りを見聞きしてきた芸能人が亡くなったのを見るのは初めてではない。しかし、スーちゃんの癌というありきたりの病と、55歳という微妙な年齢とが、ぼくに何とも言葉に出来ない「死」というものに対する実感のようなものを運んでくる。

ぼくが「ああ、著名人って死ぬんだな」と最初に感じたのは岡田有希子だったように思う。その後、尾崎豊とか本田美奈子とか同世代が亡くなっていったわけだが、彼らはあまりにも若すぎて、どこか「事故死」のような、特異な死にしか感じられていなかった。三人のうち二人が自殺であったことも影響が無くはないだろう。むしろ子どもの頃から親しんできた石原裕次郎や美空ひばりが亡くなったときのほうが「死の実感」には近かったように思う。渡哲也の直腸癌報道のときには、「ああ、手術してくれた本当に良かった」と、心から胸をなで下ろしたものである。

しかし、今回のスーちゃんは違う。キャンディーズをちゃんと認知したのは「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」だったような気がするが、「普通の女の子に戻りたい」という衝撃的な解散劇とか、その後の女優転身とか、揖保の糸のCMとか、あまりにも長く、同時代を生き続けすぎているのである。なんとなくあたりまえのようにいつもテレビに出ていて、その姿を見る度に「ああ、スーちゃんだ」と言いながら、小学校6年生の4月4日の解散劇を想い出す……そんな心象が、この三十数年間に幾度も幾度もあったのである。

特に、彼女が40歳を過ぎてから、ぼくの好きなテレビの2時間ミステリーでときどき見せる、平凡な主婦の中に垣間見せる魔性……といったタイプの演技がぼくは大好きだった。いい女優になったなあ、あのスーちゃんが……なんて思ったことも、一度や二度ではない。

こんなことを書くことに何の意味もないことはわかっているし、スーちゃんの熱烈なファンだった人たちはぼくなんかには想像もできないほどにショックを受けているのだろうとは思う。

でも、スーちゃんの死はぼくにとって、なんというか、

「ああ、オレの友達もこれから、一人、また一人と逝ってしまうのだな……。いや、オレだってそろそろ逝くかもしれないと意識しながら生きる時期がそこまで来ているのだな……。」

そう感じてしまうような出来事だったのである。

スーちゃんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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失敗しない家庭訪問

かつての原稿を整理していたら、2002年の春に書いた家庭訪問の原稿が見つかった。35歳の原稿である。たぶん、小学館の「中学教育」の原稿だと思う。最近上梓した「学級経営10の原理・100の原則」の家庭訪問の項の元になった原稿でもある。

ちょうど時期なので、掲載しようと思う。

【失敗しない家庭訪問】

1 教師にもそれぞれのキャラがある

私は現在、教職11年目である。この11年間はすべて担任だ。家庭訪問も11年間にわたって、毎年行き続けてきた。現在、私の家庭訪問の実態は、次のようなものだ。

   どうもいらっしゃいませ。
   いやあ、どうも。堀でございます。
   どうぞ、お入り下さい。
   失礼します。
   どうも息子がお世話になっております。
   いえいえこちらこそ。本人は家でなんか言ってます? 新しい学級のこと。
   ええ、とにかく楽しい、って。なんだかわいわいと……。
   おお、そりゃ良かった。なんたって楽しいのが一番だからねぇ。僕の印象は、なんか言ってますか?
   はあ、なんか面白いけど、変な先生だって……。
   ははは……そうでしょう? みんなそういうんですよ。母さんはどうですか? 僕の印象、率直に言って……。
   ……。
   いやあ、正直に言っていいんですよ。率直に言って、悪かったでしょう? ひげ面だわ、でかいやらで……。

終始、軽い調子である。こういった対話の在り方は、多くの若い教師に支持されるはずである。このように、教師と保護者とがざっくばらんに話すことができたら、教育活動もうまく行くことが多いのではないか……。若い教師はそう考えがちである。

しかし一方で、こういった訪問の在り方を失礼だと言う先生方も多い。特に、ベテラン教師の多くはそう考えるに違いない。そしてこうした考え方は、軽い調子の家庭訪問を11年間続けてきた私でさえ、肯定するのである。もしも同僚の新卒教師が、私の真似をしようとしたならば、私はすぐに「やめた方がいい」と助言するだろう。

教師にもそれぞれのキャラクターがある。このような家庭訪問での対話は、私という教師のキャラクター故なのである。つまり、学校でも生徒相手にこのキャラで教育活動を行っているからこそ、家庭訪問でもそれで通しているのだ。いわばこれは「演技」なのである。私は意識的に、こういうキャラを演じているのである。

2 まずは〈自己キャラ〉を分析する

例えば、同僚の女性教師が「こら!」などと大声を張り上げて生徒指導を行っているのを見て、違和感を覚えたことはないだろうか。或いは、どこから見ても強面の男性教師が生徒と和気藹々で談笑しているのを見て違和感を感じたことはないか。優しそうでまじめそうな細面の男性教師が、非行生徒と対面でやりあい、生徒に押し切られたのを見たことはないだろうか。これらはすべて、教師の「自己キャラ」分析ができていないことから生じた違和感なのである。

周知のように、学年の教師集団には、それぞれに役回りがある。

ある者は生活指導教師として、生徒の服装・頭髪・挨拶の仕方などに対して、厳しくチェックすることが役回りである(父性型教師)。ある者は教育相談的な教師として、カウンセリングマインドを旨とした繊細な接し方をする役回りである(母性型教師)。ある若手の教師は生徒たちの兄貴分として友達的な接し方をし、生徒達から教師には見えづらい情報を入手する(友人型教師)。こうした役回りがきちんと意識されており、それぞれが機能的に動き、尚かつチームワークがとれているというのが、理想的な学年集団である。

そして、それぞれの役回りは、学年に所属するそれぞれの教師のキャラクターによって設定されるのである。生徒指導においては、それぞれの教師のキャラクターを最大限に活かした役割分担がなさるべきなのである。また、この三つの役割のどれをも演じられる教師ほど、或いはそれぞれを使い分けられる教師ほど、教師としての実力が高いといえる。

こうした役割分担を意識した上で、私は学年の男性教諭の中では最も若く、生徒達を笑わせることも得意としているので、「友人型教師」の役回りを意識的に演じている。つまり、それが家庭訪問の在り方にも、つながっているわけである。

3 家庭訪問には十箇条がある

本稿のテーマは「失敗しない家庭訪問」である。一般的に家庭訪問が失敗しないためには、次のような十箇条が考えられるだろう。

(1) 明確な目的をもって訪問すべし
家庭訪問の目的が、最低でも、家庭環境を把握することにあるのか、子どもの性行を確認することにあるのか、対応の仕方の話し合いにあるのか、このくらいは明確に意識して臨むべきであろう。

(2)  細かな情報を用意すべし
一年間の行事の見通し、高校入試の情報、学校の基本姿勢といったことは、訊かれたときにすぐに答えられなくてはならない。わからないことを尋ねられた場合には、即答を避け、明日調べてお電話いたしますと答える。

(3)  時間通りに訪問すべし
若い教師にはこれが難しいようである。家庭訪問は保護者がわざわざ時間を割いてくれている。できるだけ時間通りにまわらなくてはならない。また、時間通りにまわれる日程を立てなくてはならない。

(4)  できるだけ本人を交えて話すべし
これは家庭訪問の目的によって変わることなので、必ずしも本人がいた方がいいと言えるものではない。しかし、年度初めの家庭訪問であれば、親子の会話の様子から親子関係をはかることもでき、また、教師と生徒との話し方、関わり方を保護者に見せることもできる。

(5)  できるだけ褒めるべし
年度当初の家庭訪問から、注意や説諭が中心では保護者も警戒してしまう。短い期間で子どもの良いところを見つけ、それを伝えてあげることを忘れてはいけない。

(6)  できるだけ具体的な話をすべし
子どもを「いい子ですね」「積極性がありますね」と抽象的に褒めるだけではいけない。具体的なエピソードを交えながら、保護者の目に浮かぶように描写的に語るべきである。

(7)  メモは訪問後に取るべし
話をしている目の前でこと細かくメモを取られるのは、あまりいい気がしない。聞いた話をメモするというスタンスではなく、あくまでも「対話」をするつもりで訪問すべきだ。その場でのメモは大切な数字やデータ、健康に関わることのみとし、必要なメモは辞してからするのが礼儀に適う。

(8)  プライバシーを口外するべからず
家庭訪問で何軒もまわっていると、先ほど訪問した家で出た話題と同じ話題が出ることがある。つい気がゆるんで、「○○さんでも同じことがあったそうですよ」などとやりがちである。これは厳禁である。

(9)  他人を批判するべからず
保護者が子どもの友達の悪口を言ったり、ある教師を中傷したりする場合がある。いっしょになって非難するのは厳禁である。そういう噂は必ず漏れると心得るべきだ。

(10)  接待を受けるべからず
若く独身の男の先生には、保護者もお菓子や飲み物だけでなく、夕食やビールを振る舞おうとする場合がある。これは絶対にいけない。あの先生は○○さんの家で酒を飲んだということが、次の日の朝には学年中が知っている、ということになる。また、ある家で接待を受け、ある家では受けないという差をつけることにもなるからだ。

以上の十箇条を守るならば、少なくとも「失敗しない家庭訪問」にはなるはずだ。

4 〈自己キャラ〉に応じたメリハリを

しかし、「失敗しない家庭訪問」は、あくまで「失敗しない」というだけのことである。「失敗しない」ことは「成功する」ことと同義ではない。そして、この「家庭訪問十箇条」を応用し、「自己キャラ」に応じて保護者と接し、自分を印象づけるとともに有益な情報を引き出してこそ、家庭訪問は「成功した」と言えるのである。

例えば、私は接待について、毎回生徒達に次のように言う。

「先生はコーヒーが好きです。それも濃~いコーヒーが好きです。薄いのはコーヒーだとは思っていません。家庭訪問に行くと、ケーキとか和菓子とか、いろんなものが出されますが、先生はそれらには一切手をつけません。基本的に気遣いはいらないんですが、もしも何かを出してくれるのなら、濃~いコーヒーをお願いしますと、父さん、母さんに言っといてください。お願いします。」

ここ六年ほど、この言い方で通すことにしている。二つの利点がある。

第一に、各家庭によって受ける接待に差が出ない、ということである。日本は贈答文化の国であるため、家庭訪問で先生が来ているのに、何も出さないというのは保護者も気が引けるようである。私はコーヒー好きなので、すべての訪問家庭でコーヒーをいただくことにしている。もちろん、その他には一切手をつけない。

第二に、教師の言ったことがどの程度ニュアンス通りに保護者に伝わるかをはかることができる、ということである。大抵の家では、保護者の方から「先生は濃~いコーヒーがお好きなんですって?」と、笑いながらコーヒーを出してくれる。これはこれでおいしくいただけばよい。しかし、中にはケーキと紅茶が出てきたりする家もある。こうした家では、間違いなく私の話が家庭の会話の中で出ていないのである。それほど罪のない言い方だからこそ、こうした日常的な会話の在り方をもはかることができるのだ。

もう一つ例を挙げよう。

一般に、家庭訪問ではプライバシーにあまり深く踏み込まない方がいいとされている。しかし、いわゆる母子・父子家庭の家庭環境の実態だけは是非ともつかんでおきたい。子どもに直接聞くにはデリケートな問題だからだ。ラポートがしっかりと取れた後ならともかく、年度当初ならばこれは保護者に聞いた方がよいだろう。ある程度、会話がはずんだところで、私は次のようにストレートに切り出すことにしている。

   ところで、失礼なんですけれども、○○さんは家庭環境調査によりますと母子家庭なんですけれども、お父さんは死別なんでしょうか、離婚なんでしょうか。
   はあ、離婚です。
   本人はお父さんに会うことはあるんでしょうか。
   はい、あります。時々ですけど。
   どのくらいの頻度ですか。
   三ヶ月に一度くらいです。
   本人はお父さんのことをどのように言ってますか。お母さんの手前もあるでしょうけど……。
   はい、ほとんどしゃべらないんですよ。
  まあ、その家庭家庭でいろいろでしょうけど、それはよくないかも知れませんね。精神的にも微妙な時期ですから……。お母さんが考えているよりも、中学生というのはずっと大人でいろんなことを考えていますから、機会を見て話してみるのもいいと思いますよ。

こういう話はまじめにする。それまでが軽い調子だっただけに、保護者も大切な話なのだという思いで対応してくれる。こういうメリハリも家庭訪問では大切なことである。こういったメリハリをどうつけるのかも、「自己キャラ」を知って、初めて決まるのである。

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ほのぼのとした良い時間だった

1時間目は空き時間。評価評定研修会提案の修正。

2時間目は1組。傾聴態度のロールプレイ。このクラスには傾聴態度のロールプレイがずいぶんと機能した。生徒たちが楽しそうで、授業しているこちらまで嬉しくなってくる。

3時間目は3組。「扇の的」の音読テスト2回目。かなり練習してきている生徒が多く、最後まで読み切った生徒も多かった。

4時間目は空き時間。評価評定研修会提案の修正。一応、提案文書はほぼ固まった感じである。あとは明日から資料編をつくることになる。残り時間は学力テストの得点入力。

5・6時間目は生活安全教室。白石署の少年係が来ての非行防止講演会。終了後は学活で感想を書くという流れ。いつもならドラマ風の映像があるのだが、今年はそれがなく、生徒たちには講演時間が少々時間が長かったかもしれない。

放課後は先日の職員会議の積み残しの2案件について原案を作成したり、打ち合わせに来ていたPTA役員と雑談をしたり。18時から宿泊学習の学年会。すべての係の原案を検討。19時半過ぎに退勤。

特に生徒指導もない平和な一日だったが、連日の宿泊学習関係の打ち合わせで、学年が少々疲れてきている。なんとか今週を乗り切って、連休でゆっくり休んでもらいたい。学年主任は昨日の朝8時から仕事をして、細かなことを整理し終わるまで15時までかかったという。まったく頭の下がる思いである。

学年会前に、学年メンバー分の飲み物とお菓子を買いに、同僚とちょっとだけ外出。20分ほどの外出だったが、ほのぼのとした良い時間だった。

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鋭気を養うことにしよう

朝8時に起床。珈琲を飲んだあと、すぐに原稿の執筆を開始。「義務教育で〈習得〉させる国語学力~授業づくりの10の原理・120の言語技術」のべた打ちが終わる。

気に入らない。

最初から作り直し始める。一度できた原稿を最初からつくり直すのは初めて。正確に言えば、卒論以来である。卒論は記憶が正しければ11回書き直した。さすがにそんなつもりはないが、この本はぼくにとって大切な1冊になるので、一度だけ書き直してみようと思い立った。なにせ締切までに時間がある。

思い立ってはみたものの、なかなか書き出そうという気にならない。気分が乗らない。

犬の散歩。

帰宅し次第、すぐに書き始める。書き始めれば軌道に乗るはずだ。さあ……。しかし、乗らない。20頁分を書き直したところで、授業づくりについて考えるのに飽きてきた。飽きてきたというよりは煮詰まってきたというほうが近いかもしれない。そうなのだ。書き直しの基本方針がいま一つ固まっていないのである。これは少し寝かせたほうがいい。

やめる。

「生徒指導10の原理・100の原則」の執筆を始める。プロットはできているので、あとは書くだけ。ただ、最初は本全体のトーンを決めることを同時にしなくてはならない。書いては消し、書いては消しを繰り返す。第1章第1節を書くのに3時間くらいかかった。たった4頁の原稿である。その後は第2節を書くのに1時間程度。

買い物。大野さん来訪。風呂。刺身で獺祭を一杯。

第3節を書くのに1時間程度。でき上がったところで編集者に送付。このトーンで書き進めていいかどうかを確認するためである。今回はイクタケさんにイラストではなく漫画を描いていただく予定なので、そちらの打ち合わせも必要である。こんな感じの原稿をもとに漫画が描けるか否かについても確認しておく必要がある。

明日からまた4日間、仕事である。授業が楽しく、有意義に進んでいる。

今年度は授業面においては、ぼくにとっても挑戦の年である。前にも書いたように、これまで以上に協働学習的な要素を強くしようと考えているからだ。しかも生徒たちの実態に応じて、かなり細かく計画も立てている。月曜日はワークショップ型か、テストのような強制力か、フラッシュカード的なノセていく学習が必要なようである。金曜日はワークショップ型が良いようだ。授業システムを構築しながらもワークショップ型授業を挟み込んでいく、これまでとは違ったシステム構築の手法をためしている。

ゆっくりとお茶を飲み、早めに寝て鋭気を養うことにしよう。

※GERRY MULLIGAN QUARTETの「FRENESI」を聴きながら……。

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原稿執筆のBGMには最高だった。なんとなく頭が冴えてくる。インスタント・コーヒーさえうまく感じられるから不思議である(笑)。

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エリート教育

久し振りに〈エリート教育〉を始めている。

生徒の教育の話ではない。教師教育の話である。おそらく〈エリート教育〉をするのは5年振り。上篠路の高村くん以来である。

いま、同僚に逸材がいる。意欲的にも技能的にもセンスの良い若者である。要するにハートも脳みそも持ち合わせた若者である。間違いなく「超一流」になれるセンスをもった若者だ。自己主張も強いし、躰も強い。こういう若者とはなかなか出会えない。

先日、この若者を叱りつけた。教師を叱りつけるのもまた5年振りである(笑)。生徒指導で個人で突っ走り過ぎたのをとがめたのである。自己主張が強く、自身をもっている教師にはよくありがちなことである。別に生徒指導においてとった行動自体が間違っていたわけではない。学年教師が残っているにもかかわらず、事実報告会もせず合同打ち合わせも持たずにどんどん一人で進んでしまい、他の教師たちがその後追いをしなければならない状況に陥ったことを指摘したのである。

まあ、本人はそう感じてはいないだろうけれど……(笑)。

この若者は間違いなく、次のひとまわりでは学年主任か副主任になる。しかも学年の生徒指導を司る立場として。とすれば、一人で走ってはいけないこと、自分のステイタスを上げすぎることが周りにマイナスに機能すること、周りの先生方の個別事情や個別のキャラクターに配慮しながら学年を運営していかないと年度後半(多くは11月や2月)に学年のチームワークが乱れていくこと、こうした「目には見えないけれど大切な因果律」について学ぶ必要がある。それへの第一歩といったところ。

いま所属している学年はとてもおもしろい。まずスタッフが若い。学年主任が40歳で副主任が30代半ばの女性。あとは新卒や新卒3年目を含めて担任陣がみな20代前半から30代半ばである。男性4人、女性3人。みなキャラが立っていておもしろい人間ばかりである。それでいて副担任も充実している。20代の期限付き採用一人いるほかは、ぼくも含めた40代男性が二人、50代の大ベテランが男女各一人ずつ、もう一人女性がいれば……とも思うが、かなり理想に近い学年団構成である。ちゃんと機能すればかなり大きな力を発揮するし、ほころびが見え始めれば一気に崩壊もする、そういう編制である。

生徒指導のキーマンは間違いなく、この若者になる。彼が自分の学級、自分のステイタスのことだけを考えて動くのでなく、常に学年教師全員、学年生徒全体のことを考えて指導に当たることができるようになれば、ぼくごときが何もいう必要はなくなる。あとは自分で切り開いていけばいい。

こういう若者に接するのはとても楽しい。

※沢田研二の「TOKIO」を聴きながら……。

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沢田研二/1979

ぼくが中学1年のときにリリースされたアルバム。1980年のお年玉で買って、毎日毎日聴いていたアルバム。「Dear」とか「ロンリー・ウルフ」とか「夢を語れる相手がいれば」とか「捨てぜりふ」とか、大人を感じさせるバラードがカッコよく思えたアルバム。いい出来だな……と思うのと同時に、ぼくにとってはノスタルジーにも浸れるアルバムである。あの頃のジュリーはすごかったな、と素直に思う。

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学級開きから1ヶ月チェックリスト

「学級づくりプログレッシブ・セミナー」の2回目が終わった。

1テーマ2は運動会と学級スタート1ヶ月のチェックリストという二本立て。ぼくは運動会については一切語れないので、チェックリストづくりについて、2時間弱のファシリテーター。参加者にファシリテーションに慣れている人が多く、スムーズに進む。

1_2 2_2 まず、学級開きから3週間が経って、いま自分の学級で担任として気になっている列挙してもらう。それを4人グループで交流してもらい、問題点を分類していく。そこからチェックリストとともに対処法・指導法を考えてもらう。各グループにそれをプレゼンしてもらい、最後に4人の講師陣にも同じことをしてもらっていたので、その発表を聞く。参加者のチェックリストと講師陣のチェックリストとを対比することによって、チェックする視点のレベルの違いを実感してもらう。最後に指定討論者の南山先生と山田先生に3分程度のコメントをしてもらう。こういう流れである。

講師陣(児玉・高橋・堀・南山・山口・山田・)がつくったチェックリスト11項目は以下である。

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そういう日は必要である

1時間目は空き時間。授業準備。プリントを印刷し、教具をつくる。

2時間目は1組。まずは「平家物語」冒頭の暗唱の不合格者に暗唱テスト。今日で全員合格。「扇の的」の音読テストの2回目。10点満点多数。熱心に練習してきていて、とても楽しい時間だった。テストを終えた者から「扇の的」の視写、それも終わった者は読書、という指示。

3時間目は7組。傾聴態度のロールプレイ。聞き方指令カードに基づく、3人一組のロールプレイである。完全なワークショップ形態なのだが、振り返りの仕方を段階的に指示。最終的には各班で「良い聞き手三箇条」をつくるというのが目的。

4時間目は6組。同じく傾聴態度ロールプレイ。7組よりも少ししっとりと進む。ワークショップ型授業は一斉授業以上に学級の現実が如実に出ておもしろい。

5時間目は2組。暗唱テストは全員が合格しているので、すぐに音頭テストに入る。満点をとった生徒が1回目にして半数以上。メンツがいいのだろう。意欲が高い。

6時間目は空き時間。支払いのため、銀行、郵便局。学校に戻って評価評定資料を印刷。

放課後は臨時で教務部会。評価評定研修会の確認事項について検討。終わり次第、宿泊学習の学年会……の予定だったのだが、17時半に職員室に戻ってみると、まだ始まっていない様子。確認してみると、生徒指導案件がある模様。みんなでそれを待っているうちに、次第に協議が始まる。本人指導・保護者連絡が完了したのが21時50分。どうせここまで遅くなったのなら……と、22時から学年会。宿泊学習の生活ルールについてのみ確認。終了は23時15分。まあ、新しい学年にとって、あとで振り返れば重要な一日、エポックとなった振り返られる一日になることだろう。長丁場、そういう日というのは必要である。

帰宅後、すぐに寝る。

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やっと楽しい仕事に意識を集中できる体制が整った

1時間目は2組。まずは「平家物語」冒頭の暗唱テスト。まだ合格していない生徒は2名だけ。この二人も合格。その後は「扇の的」の音読練習。音読テストの予告→連れ読み→個人読み→モデル付き斉音を前半と後半に分けて繰り返す。全員が15回程度繰り返し読む計算。その後、4人グループをつくり、音読テストのシミュレーション・エクササイズ。生徒たちは楽しそう。最後に、次回、1番に当たる生徒と2番に当たる生徒だけを予告して授業が終了。

2時間目は空き時間。評価評定研修会資料の作成。これまでの評価評定の流れや点検の仕組みを大幅に変えようとしているので、これまでの評価評定の文書を一つ一つ点検しながら、何を変え、何を残すべきかを検討しながらの作成。時間がかかる。

3時間目は6組。まだ合格していない生徒たちの暗唱テストをしたあと、「扇の的」の音読テスト2回目。満点をとった生徒が半数強。まずまずである。生徒たちは一生懸命に取り組んでいる。古典のリズム、テンポを体感することが目的。とにかく回数を読んで、目と耳と躰で古典の韻律を体感する。「浴びるほど読ませる」とぼくが言っているのはこの方式のことである。この経験がないと、古典が苦になり、古典が苦手になる。古典の理屈を教えるのはあくまでこの体験の後が良い。

4時間目は7組で自習監督。数学のプリント。

5時間目は空き時間で評価評定研修会資料の作成。この時間になんとか出来上がる。

放課後は出来上がった資料をプリントアウトして、教務主任と打ち合わせ。その後、管理職に渡して打ち合わせ。更に昨日の職員会議で話題になった二つの問題について打ち合わせ。両方とも原案を作成する機関、原案を検討する組織、決定までの日程の3点の見通しを決め、組織に入ってもらう先生方への根回しも済ませる。二つの会議の日程を組み、旅行的行事の予算関係の打ち合わせ、生徒会部長と生徒総会関係に使う年間の学活コマの打ち合わせをして本日の仕事が終了。

17時30分退勤。年度当初のぼくの仕事のすべての見通しが立った。これで1学期のうちに教務関係のシステムはほぼ固まるだろう。24年度の新教育課程対応にもなっている。これで、2学期はこれらハードに見合ったソフトの構築と小中連携関係に専念できそうな気配である。明日からは学年協議会を動かしながら、宿泊学習の具体的な動きが始まる。やっと楽しい仕事に意識を集中できる体制が整った。

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いろいろあったが、いい日だった

校舎の建て替えのため、今日からテニスコートが駐車場。テニスコートが駐車場というよりは、元テニスコートだった場所が駐車場として指定された。

朝、出勤してみると、駐車場内で同僚の若手教師の車がタイヤをとられて動かなくなっている。要するに、埋まっているのだ。つい最近まで工事をしていた場所なので、基礎を引っ張り出したり、また埋め直したり、もちろんまだ雪解け途中ということで、地盤がゆるゆるなのである。

これは押してやらなくちゃと、自分の車を降りて歩いていくと、自分も埋まる。泥に靴を取られ、裸足になってしまう。靴下も靴もどろどろ。教頭に電話をして事情を説明し、家に戻ってズボンと靴下を履き替えて再び出勤。再び出勤したときには既に若手同僚はいなくて、埋まった車だけが放置されている。どうやら諦めたらしい。結局、1時間目に業者を呼んで車を救出したらしい。いやはや、改築途中には予想外のことが次々に起こる。

1時間目は2組で「平家物語」冒頭の暗唱テスト。一発合格が9割。たいしたものだ。後半は学力テストの返却。

2時間目は7組で「扇の的」音読テストの2回目。こちらも満点続出。

3時間目は空き時間で、評価評定の資料を作成。

4時間目は3組で「扇の的」音読テストの1回目。こちらは途中で口腔検査が入り、生徒たちもテストに向かう精神的なペースを乱されたようでいまひとつ。毎年のことだが、そして仕方がないことだとは思っているが、授業開き直後のこの健診の嵐はなんとかならないものだろうか。授業システムをつくらねばならないこの時期に、1時間すべてがつぶれるならまだしも、さみだれ式に15分とか20分とかの穴が空くのは、学力向上にとってかなり大きな影響を与えている。何かアイディアが必要だと思う。

2年2組で給食を食べ、清掃指導。今日は午前授業で職員会議である。各部・各学年・各特別委員会の推進計画が議題。かなり建設的な意見が出て、建設的な意見のすべてが通り、なかなか良い職員会議だったなと思う。

17時近くから宿泊学習に特化した臨時学年会。かなり言い合いながら、なんとか大枠を固める。4月も下旬になろうという時期に5月末の宿泊学習の大枠を決めるなんて非常識なのだが、何せ震災の影響で予定していた宿泊学習の2日目がすべてパーになったという事情がある。仕方がない。それにしても、震災の影響は大きい。予想外のことが次々に起こる。それでも東北の被災した方々に比べれば……との思いが、ぼくらに淡々と仕事をさせる。こういう経験も無駄ではない、とさえ思えてくる。学年会は19時過ぎに終了。

その後、総務係が集まって係案の打ち合わせ。これが1年間を見通した大規模なものに発展。これの終了が21時過ぎ。

職員室に戻り、さあ帰ろうと思ったところに携帯が鳴る。出てみると、なんと!気仙沼の大内哲夫である。大内哲夫……。元気そうな、いや、決して元気ではないのだが、取り敢えずの肉声を聴いて、涙が溢れるのが止まらなかった。迷惑になると思い、この40日間、こちらからは連絡を取らなかった。やっと携帯が手元に来たとのこと。自分の携帯は学校の職員室で津波に流されてしまっていたらしい。状況を聴くと詳しくは書けないがめちゃくちゃだ。気仙沼のお世話になった人たちはみな、本人たちは無事だか、その家族とか周りの状況ということになると、大内でさえわからないとのこと。何とも言いようのない電話だった。気仙沼も明日から新年度が始まる。

結局、帰宅は22時。でも、いろいろあったが、いい日だった。

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〈当事者意識〉と〈安心感〉の同時達成

2008年度、前任校で研修を担当した。私の企画した校内研修会(年3回)は以下である。

【6月】学校祭・合唱コンクールの指導法

【11月】道徳の公開授業/授業技術の検討

【2月】理科の公開授業/基礎基本の検討

私が実際に企画・運営したこの三回の校内研修会に沿って稿を進めることとする。

1 特別活動の研修会を(第一回)

通常、第一回校内研修会では、その年度の研究テーマ、研究仮説、研究推進計画などが提示されるのが普通であろう。私はこれらの年度計画を四月の年度当初の職員会議で提案してしまう。校内研修会は研修をこそすべきであり、研究計画のごときは通常の行事の計画と変わらないものである。職員会議において数分で提案し、承認を受ければ済むものに過ぎない。こうした提案と承認にせっかくの校内研修会の一回分を使ってしまうのは馬鹿げている。同様に、年度反省に校内研修会一回分を使うのも馬鹿げている。

この年、第一回校内研修会では、学校祭・合唱コンクールの指導法と題して、職員室内で学校祭指導・合唱コン指導を得意としている教師の講演会をおこなった。

(1)全員が興味関心のもてる題材を選択する

授業研究は確かに必要度が高いものだが、中学校の場合、教科性の問題があって、なかなか問題意識を共有できないことが多い。その点、学級経営や特別活動ならば、全教職員が深くかかわるものであり、学級担任ならば好むと好まざるとにかかわらず、実際に企画・運営しなければならないものである。しかも、学校祭や合唱コンクールの指導は、意外と苦手にしている教師が多い。 年度当初の、まだ本格的に行事が始まる以前に、学校祭や合唱コンクール等について、指導の在り方を検討しておくことは有益である。

(2)自校の人材を活用する

何かテーマを決めて講演をという場合、多くの学校は外部の人材に依頼して学ぼうとする。しかし、外部講師は学校の実態・生徒の実態を知らない。その学校の校風も知らない。保護者がどのくらい行事を楽しみにしているのか、クレームはどの程度されるのか、こうしたことも知らない。講演内容は当然、一般論にならざるを得ない。

そこで、内部人材の活用である。どこの学校にも、毎年、学校祭でみんなが楽しむことのできるステージ発表をする、或いは合唱コンクール指導を得意としていて、毎年入賞している、といった教員が一人や二人はいるのではないだろうか。そうした教員に前年度の指導の在り方について、具体的に実践発表してもらうのである。前年度のビデオを見ながら、或いは指導に苦労した具体的な生徒とのやりとりを紹介してもらいながら、学校独自のかなり具体的な話を聞くことができる。更には、参加者の誰もが具体的な場面を想像しながら聞くことができる。合唱コンクールならば、前年度の学年別優勝学級担任三人の実践発表という手もある。

(3)専門家にはデメリットがある

一般に、学校祭ステージ発表指導なら学校の演劇部顧問を、合唱コンクール指導なら音楽教師を、と考えがちである。しかし、講師はこのような専門家ではない方がいい。理由は単純である。聞いている側が、あの「人は演劇的センスのある人だから…」「あの人のような音楽の素養ないからなあ…」と、講師を〈遠い人〉と感じてしまうからだ。人間はあまりに遠い目標に対して努力しようとは思えないものである。〈自分よりちょっと上〉という講師がよい。また、専門家や上級者は、初心者が何をわからないのかということがわからない、ということが多い。この意味でも、専門家ではない、普通の学級担任で〈割とそれを得意としている人〉というのが、最もふさわしい講師である。校内の専念家は、最後の話のまとめをしゃべらせて、プライドを維持させてあげればいいのである。

(4)具体的な題材をテーマに据える

校内研修会のテーマを授業外に設定しようと考えたとき、多くの教師は「学級経営」をテーマに据えようとするだろう。しかし、「学級経営」という漠然としたテーマを設定しても、議論はなかなか具体化しない。テーマが広すぎるからである。それよりも、「合唱コンクールの指導・三週間のプログラム」といった具体的な題材をテーマに据えることである。こうすれば、合唱コンクールの指導ばかりでなく、学級リーダーをどう育てるか、予想外の案件が起こったときにどのように対処するか、問題傾向生徒が学級の輪をこわしにかかったときにどう対処するかなど、実質的には学級経営の議論が起こる。しかも、全職員が具体的な場面を想定して議論に参加することができ、研修の機能度が高まる。

2 授業システムの比較を(第二回)

第二回校内研修会では、「授業システムの比較」として、道徳の公開授業をおこなった。研修担当者(つまり私)がつくった道徳指導案にもとづいて、二人の授業者が同時進行で授業を公開するというものである。

(5)同一指導案の二つの授業を比較する

通常、校内研修会で公開授業をおこなうという場合、一つの学級、一人の教師の公開授業というパターンが多い。この場合、その教師がどの程度の力量なのか、その教師がどのようなキチャラクターなのか、また、生徒の実態によってどのように反応が異なるのか、更には日常的にどのような授業システムがとられているのかといったことが、見えにくくなってしまう。そこで、同一指導案について、二人の教師が隣り合った二つの学級で授業を公開するという手法をとった。参観者は廊下から、二つの授業を比較しながら参観することになる。

この手法をとると、一方は導入に十分かけていたのだが、もう一方は導入一分ですぐに発問に入った、というような違いが出る。しかも、冒頭の十分で進度に大きな差がついていたのに、三十分後には進度がぴたりと合ってしまう、などということも起こる。導入に十分かけた教師は最後まで一斉授業で進めたが、導入を簡単に終わらせた教師は途中で小集団学習を入れた、などということも起こる。こうなると、学習活動の是非と時間の使い方・生み出し方という観点が、明確に見て取れるようになるわけだ。必然的に、研究協議も盛り上がることになる。

(6)道徳・学活・総合の授業公開をおこなう

前節でも述べたことだが、中学校は教科性に基づいた〈縦割り意識〉の強い職場である。他教科の授業公開は、多くの教職員にとって当事者意識の薄いものになりかねない。よほど意識の高い職員室である場合にはその限りではないが、多くの場合、できるだけ当事者意識を強くもつことのできる道徳・学活・総合といった授業のほうが、多くの職員が当事者意識をもって参観することができる。ただし、同一指導案による二つの授業を比較する場合には、できるだけ発問・指示型で展開されるような授業案とし、教師の関わり方が見えにくい活動型授業は避けた方がよい。研究協議での話題が授業技術や授業システム、指導案の是非ではなく、生徒の質にばかり向いてしまうからである。

(7)授業者を孤独にしない

二つの授業を比較する場合に限らず、校内研修会で公開授業をもつ場合には、授業づくりを授業者任せにしないことが大切である。忙しい中で授業を引き受けた教師が孤独感を抱くような公開授業なら、やらないほうがましである。

この年の道徳の授業は一学年二学級でおこなわれたのだが、一学年教師八人を二つのグループに分けて四人ずつのプロジェクトチームをつくり、このプロジェクトにおいて三回にわたる授業細案検討、そしてプレ授業をおこなった。教科の違いによって道徳の授業のつくり方の細かなニュアンスが異なり、こうした検討がかなり有益に機能する。若手教師とベテラン教師とが同じ土俵で授業論、授業観を交流することができ、学年のチームワークも高めることができる。そして何より、多くの場合、授業者に「やってよかった」と思ってもらうことができる。

3 年に一度は教科の公開授業を(第三回)

年に一度程度は、教科の公開授業をおこなったほうがいい。ただし、これは教科内交流の話ではなく、一つの授業を全教職員で見るという形態の公開授業を指す。同一教科の教師のみが授業を見合う教科内交流ならば、何も校内研修会の時間として設定する必要はない。

この年は、「作業指示の出し方/グループ討議のさせ方」と題して理科の公開授業を全員で参観した。

(8)教科横断的なテーマを設定する

この年、授業教科は理科であったが、理科の授業研究としてではなく、「作業指示の出し方/グループ討議させ方」というテーマを設けて、理科実験の授業を公開してもらった。の授業を理科の授業としてのみ公開したのでは、やはり他教科の教師の当事者意識が低くなってしまう。しかし、「作業指示/グループ討議」という観点で公開されると、それは全教科共通の「授業システム研究」「指導言研究」となる。こうしたテーマを設定するだけで、教職員の参加意識が格段に高まる。

(9)なぜその教科なのかを納得させる

皆さんの学校では、校内研の授業者はどのように決まるだろうか。教科の輪番だろうか。それとも、教科よりも人、つまりたまたまその教科に若い人間がいたからその教師に授業をあてる、という感じだろうか。授業者の決め方はそれぞれでいいとは思うが、もう少し、今年はこれ…というふさわしい教科があるのではないだろうか。それも、全職員が人情として納得するような決め方が……。

私の前任校ではこの年、実は、理科を専門とする学校長が退職する年だった。退職まで一ヶ月あまりというこの時期、学校長が校内研修会に気持ちよく参加でき、しかも気持ちよくまとめの話をすることができる、私はそういう研修会にしようと思った。そのために、四月から理科の教師に授業公開をお願いし、二月の授業公開に向けての心構えを抱かせた。研修担当者にはこうした心遣いをもつこと、そして年度当初から見通しをもって研修計画をたてること、この二点が重要である。

退職を控えた学校長は、実に楽しそうに指導案の事前検討に参加し、プレ授業を参観し、そして意見を述べた。校内研修会が退職への一つの花道ともなったわけである。

(10)研究協議では全員に発言させる

私がよく使うのは、公開授業のあと休憩時間を20分間とり、付箋に授業の分析を書かせるという手法である。

付箋は縦76ミリ、横127ミリのものを使っている。この大きさの付箋に必ず記名させたうえで、肯定的な意見を一点、批判的な意見を一点書くことを強制する。これを全員分コピーして研究協議冒頭で配付するわけである。研究協議はこれをレジュメに一人一分で授業分析を発表するところから始まる。授業者のコメントの前に、全員からの肯定的意見と批判的意見とが提起されるわけだ。全員が意見を述べたうえで、それに応える形で授業者がコメントを発する。その後、司会者が論点を整理して、協議にはいっていく、という流れである。

ここでは、批判的意見を書くことが強制されているという点が重要である。多くの教師にとって他人の授業を批判することはいやなものである。それを強制されるとなると、しかも全員がそれなりに批判を書くということになると、二重に責任が生じる。授業者を批判する責任と他の参観者と視点が異なった場合の説明責任とである。こうした二重の責任を感じることが、公開授業を当事者意識をもって参観することへとつながるわけだ。

研修を厭わない教師たちから、「なぜ、多くの教師は研修に積極的でないのか。法律にも規定されている義務ではないか。」という声をよく聞く。しかし、研修に対して消極的な教師たちをこのような言葉で責めてみても逆効果である。〈当事者意識〉をもたせるとともに〈安心感〉をもたせる。この二つの同時達成こそが、実は校内研修会を活性化させるのだということを肝に銘じたいものである。

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ダイアログ/ユーモア

子どもたちがスピーチやプレゼンの冒頭で「みなさんは○○ですか?」と問いかける場面があります。多くは問いかけただけで、すぐに自分の予定していた話を展開し始めます。要するに、問いかけが流れてしまうわけです。

しかし、「○○ですか?」と問いかけたら、少し間を置いて聞き手に考えさせる時間をもった方が効果的です。「うーん、どうだろうなあ……」と考えることは、「この人はどう考えているのだろう」と話し手の話の内容に興味をもってもらえるからです。実は、「○○ですか?」「○○って何だと思いますか?」と問いかけたら、二、三人を指名して応えてもらうとより効果的です。指名されて応えるのは二、三人だったとしても、多くの聞き手が「自分だったらどう応えるだろうか……」と考えてくれるからです。聞き手がそのように考えてくれるということは、とりもなおさず「話を聞く構えをつくってくれている」ということなのです。聞き手の応えに対して「なるほど」とか「そうですよねぇ」とか簡単なリアクションをしているうちに、聞き手は話し手に親近感を抱いていくものなのです。

スピーチやプレゼンの中にこうした話し手と聞き手とのやりとりを入れることを、私は〈ダイアログ〉と呼んでいます。日本語に訳すと「対話」という意味です。

子どもたちのスピーチの中にちょっとした聞き手とのやりとりを入れさせる、総合のプレゼンの中にクイズを入れて四、五人に指名して答えさせる。こうした〈ダイアログ〉を意識させることで、子どもたちのスピーチ・プレゼンは驚くほどに豊かになります。ぜひ取り入れたい技術です。

子どもたちに〈ユーモア〉が必要と言うと、流行りの芸人ネタや級友のいじりに走りがちです。そうしたネタものは確かに笑いを誘いはするのですが、意味なくネタが発せられたり他人を傷つけかねない言動があったりと、決して感心するものではありません。

実は〈ユーモア〉には、「攻撃的なユーモア」と「受容的なユーモア」とがあります。流行りの芸人ネタや他人に対するいじり、毒舌系のブラック・ユーモア等が「攻撃的なユーモア」、失敗談を語って自らを落としたり、わざとボケて聞き手にツッコミを入れさせたり、〈ダイアログ〉を用いて聞き手の答えにやわらかくツッコミを入れてクスリと笑わせたりというのが「受容的なユーモア」です。「攻撃的なユーモア」は当たれば爆笑を誘いますがはずれたら大火傷、「受容的なユーモア」は爆笑に至らないまでも確実なスマッシュ・ヒット、こういう違いがあります。「攻撃的なユーモア」は固定的ですが、「受容的なユーモア」は柔軟で動的という特徴もあります。聞き手の反応に切り返したり、瞬時に対応したりということを旨とするわけですから、総じて「受容的なユーモア」の方が高度であるともいえるでしょう。

「話すこと・聞くこと」において子どもたちに取り組ませたいのは、この「受容的なユーモア」の方です。〈ダイアログ〉を頻繁に用いて、聞き手の反応にやわらかなツッコミを入れることで場の空気を和ませる、そんな〈ユーモア〉です。そのためには、教師が授業の中で日常的にモデルを示すような〈対話術〉が必要になります。

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活きている時間/再掲

〈多忙〉と〈多忙感〉とは異なる─あなたは仕事にとって最も大切なこの原理を自覚しているだろうか。言うまでもなく、〈多忙〉とは「忙しいこと」であり、〈多忙感〉とは「忙しいと感じること」である。〈多忙〉であるから〈多忙感〉をもつのだと、多くの人が単純に考えてしまうのだが、実は〈多忙〉と〈多忙感〉との間にあるのはそんな単純な因果関係ではない。周りが感嘆するような〈多忙〉な生活を送りながら〈多忙感〉を抱かない人がいる一方で、周りからは暇そうな仕事ぶりに見えるのに〈多忙感〉に苛まれている人もいる。この違いはいったい何なのだろうか。

例えば、「総合的な学習の時間」の導入によって教師の仕事が多忙を極めるようになったとの声を聞くことがある。しかし、「総合」の計画立案に目を輝かせ、周りが不思議に感じるくらいに生き生きと「総合」の授業に取り組んでいる、そんな教師があなたの周りにも一人くらいはいないだろうか。その教師は「総合」の導入によって、あなたに比べてはるかに大きな〈多忙〉に見舞われているはずだ。にもかかわらず、その教師はおそらく、「総合」に対してあなたが感じているような〈多忙感〉を抱いてはいない。

例えば、二○○二年の教育課程の改訂によって、放課後の時間に余裕がなくなったとの声をよく聞く。生徒達とのコミュニケーションの時間が不足し、よりよい教育活動を行ううえで支障を来している、というわけだ。確かに六時間授業が増えたことが、行事指導や部活動指導、会議の時間を圧迫している。これは事実だろう。

しかし、あなたの周りにこの少ない時間で効率的に行事の準備を行い、みなが驚くほどに大きな成果を挙げている教師はいないだろうか。その教師が指導すると、生徒達のステージ上の演技が躍動して見える。その教師が指導すると、生徒達が自らのブレスにまで気を遣いながら美しいハーモニーを奏でる。そんな教師があなたの学校にも一人くらいはいるのではないだろうか。

あなたの周りに、この少ない時間のほとんどを部活動に費やし、生き生きと部活指導に取り組んでいる教師はいないだろうか。会議が終わるとすぐに、一杯のお茶を飲む間さえ惜しんで部活の指導へと向かっていく、そんな教師があなたの学校にも一人くらいはいるのではないだろうか。

あなたの周りにいるこんな教師達も、実はあなたが感じているようには〈多忙感〉を抱いていない。行事指導に熱心な教師は、行事指導のスキルをもっているから簡単に成果を挙げられるのだと思ったら大間違いである。行事の指導というものは、不得手とするあなたがやっても、得意とするその教師がやっても、やらなければならない仕事量にそれほどの違いがあるわけではない。しかし、行事指導を得意とする教師は、行事で成果を挙げることにやり甲斐を感じているから、その〈多忙〉が苦にならないのである。部活動に熱心な教師も、その競技が好きだからという理由で、趣味で指導しているなどと思っては大間違いである。毎日毎日生徒達に指導を重ね、生徒達が少しずつ力をつけていくことにやり甲斐を見出しているからこそその指導にも熱が入るのである。彼らが物理的には〈多忙〉であるにもかかわらず〈多忙感〉を抱かない所以がここにある。いや、彼らだって実は〈多忙感〉を抱かないわけではない。ただ、彼らの〈多忙感〉はあなたとは異なり、心地よい〈多忙感〉なのであり、ポジティヴな〈多忙感〉なのである。

ここまでを読んだあなたは、私が、〈多忙感〉などというものは気の持ちようで何とでもなりますよ、やり甲斐をもって仕事をしましょうよ、そう主張しているように思われるかもしれない。しかし、私の意図はそうではない。私がここで強調したいのは、あなたの抱いているネガティヴな〈多忙感〉は、実は「〈多忙〉であること」が原因なのではない、ということである。では、あなたの感じている〈多忙感〉の原因は果たして何なのか。現在、私達教師をこれほどまでに圧迫している要因は、いったい何なのだろうか。

それは結論から言えば、〈徒労感〉に他ならない。

考えてみて欲しい。私達は本当に〈多忙〉が嫌いなのだろうか。かつて、残業手当も出ないのに、生徒のためにと夜遅くまで学年の先生方といっしょに仕事をした、そんな経験があなたにもあるはずだ。かつて、学年の先生方と酒を酌み交わしながら、今度は生徒達に何をやらせてみようか、こんなことをしたら生徒達が一段と成長するのではないか、イメージがイメージを呼び、アイディアがアイディアを呼ぶ、そんな宴会をあなたも経験したことがあるはずである。そんなとき、あなたもいまとは違い、充実した時間を過ごしていたのではなかったか。そして何より大切なのは、あの頃だって、あなたは忙しかったはずなのだ。そう、あの頃だって、決して暇ではなかったはずなのだ。なのにあの頃は、現在のようなネガティヴな〈多忙感〉を抱くことなどなかったのである。いま考えれば、あの頃はそんな〈多忙感〉さえ、どこか心地よいものだった。いったいこの違いは何なのだ。

そう。あの頃の仕事は、どんなに忙しくても、〈徒労感〉がなかったのである。頑張れば頑張った分だけ、生徒の目が輝いた。頑張れば頑張った分だけ、同僚が認めてくれた。生徒にとって、同僚にとって、自分は必要な人間である、そう実感することができた。自分は生徒達とつながっている、同僚達とつながっている、その実感があったからこそ、〈多忙〉ごときはものともせずに頑張ることができたのである。

なのにいま、私達には生徒とつながっているという実感がない。自分なりに頑張っても、生徒はこちらに振り向いてくれない。懸命に教材研究を重ねて臨んだ授業なのに手応えがない。生徒のためと思って施した指導に対して、保護者からクレームが来る。次第に生徒指導における優先順位が、「生徒達の成長を促すこと」から「保護者からクレームが来ないこと」に移っていく。こんな指導をしたって、生徒に伝わるはずもない。そんな思いが〈徒労感〉を生んでいく。

生徒だけではない。いま、私達には同僚とつながっているという実感さえない。校務分掌の役割分担が明確化され、行政から求められたアリバイづくりの無意味な調査、無意味な文書の作成に追われている。みんな自分の仕事をこなすことで精一杯。そういえば、職員室に笑い声が響かなくなって何年たつだろうか。各々が黙々とPCに向かっているだけの職員室。音をたてることさえはばかられる。職場の宴会は年に三度、歓迎会と忘年会と送別会だけである。それも一次会が終わると、潮が引くようにみな帰って行く。自分の仕事は自分でやるしかない。成果などまったく見えない。そこに仕事があるから片付ける。仕事がルーティン化していく。そしてそれが〈徒労感〉を生んでいく。

いまあなたが抱いているネガティヴな〈多忙感〉は、このような負のスパイラルに取り込まれていることに起因しているのである。もしもあなたが現在の〈多忙感〉を打開したいのなら、まずはこの構図をしっかりと見据えることだ。行事指導に熱心な教師は、いまなお、生徒の目の輝きを実感しているのである。部活指導に熱心な教師は、いまなお、自分が生徒に力をつけていることを実感しているのである。「総合」に熱心な教師も、自らの「総合」の指導が、生徒達にとって良い方向に機能しているという実感を抱いているからこそ頑張れるのである。喩えて言うなら、あなたの時間が死んでいるのに対し、これらの教師達の時間は活きているのだ。死んでしまっているあなたの時間を再び活き返らせること、それ以外に、あなたの〈多忙感〉を打開する手立てはない。

死んでしまっているあなたの時間を活き返らせるためには、二つのことに取り組む必要がある。

一つは、あなたが自分の得意分野で成果を出すということである。あなたが得意としているのは、授業だろうか生徒指導だろうか部活指導だろうか、それとも行事や生徒会活動といった特別活動だろうか。何でもいい。勤務校において自分が成果を挙げていると、自分自身が実感できるような分野をもつことである。これだけ〈徒労感〉を感じさせる学校教育の現状である。自分の取り組む仕事のすべてに成果を挙げ、すべてに満足感を得ることなど夢想してはいけない。たった一つでいい。自分の得意分野にもう一度、精一杯に取り組んでみることだ。その時間が次第に、あなたにとって〈活きている時間〉となっていく。そしてその〈活きている時間〉を大切な時間だと思い始めたとき、その他のルーティンワークにかける時間が惜しくなっていくはずだ。その気持ちがあなたを、「なんとかこのルーティンワークを効率的に進める手立てはないか」という思考に誘っていく。こうなればしめたものである。ここまで来れば、ルーティンワークにかける時間が、仕事の効率性について考える機会となっていく。どれだけ単純作業を効率的に行えるのか、その効率の度合いが成果として意識されるようになる。次第次第に、ルーティンがルーティンでなくなっていくのだ。それは取りも直さず、ルーティワークの時間が〈活きている時間〉になっていることを意味するのである。

いま一つは、職員室に共同性を回復することである。もちろんこれは一筋縄ではいかない。あなたがかつて経験したように、生徒のためにみんなで残業しようと投げかけたり、宴会でよりよい教育について語り合おうなどと誘ったとしても、同僚から鬱陶しがられるだけである。しかし、同僚に対して、「あなたが必要なのだ」「あなたがいなければ仕事が成り立たないのだ」というメッセージを発信し続けることはできるはずだ。あなたが管理職なら、あなたは自分の学校の先生方に「あなたの功績は大きい」と言ってあげるといい。あなたが学年主任なら、あなたは自分の学年の若手に「きみの仕事がこの学年の安定に大きく貢献している」と言ってあげるといい。あなたが新卒数年の若手教師なら、先輩教師に「先生のここを真似したらうまくいきました」と伝えてあげるといい。こうした何気ないやりとりが、実は職員室を少しずつ、しかし確実に活性化させていくのである。あなたが職員室の雰囲気に閉塞感を抱いているのなら、まずはあなたがこうしたメッセージを発信し始めてはいかがだろうか。管理職や先輩から自分の存在を認められる、後輩から自分が頼りにされる、それを意気に感じない人間などいないのである。互いに互いの存在感を認め合うこうした人間関係こそが、実は〈活きている時間〉を大きく補強していくのである。

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ずいぶんと仕事の進む夕刻である

午前中は授業が4連発。

1時間目は7組。。「平家物語」冒頭暗唱テスト。前回合格できなかった生徒たち数名。今日テストを受けた生徒たちは全員合格。あとは今日欠席していた2名のみ。その後、「扇の的」の音読テスト1回目。出来はまずまず。よく練習してきている。

2時間目は3組。「平家物語」冒頭暗唱テスト。これが5分程度。次に「扇の的」の読みの確認。これが25分程度。残り20分で学力テストの返却、解答、点数の訂正。

3時間目は1組。「平家物語」冒頭の暗唱テスト数人。続いて「扇の的」の音読テスト1回目。この学級には驚かされた。一度も読み間違わず、詰まらず、噛まずに最後まで読み切った生徒が半数近く。こんなことは初めてである。おかげで音読テストが時間いっぱいまでかかってしまった。いつもなら5分程度、時間が余って、グループで音読練習をさせるのだが……。嬉しい悲鳴。

4時間目は6組。「平家物語」冒頭の暗唱テスト数人。続いて「扇の的」の音読テスト1回目。出来はまずまず。よく練習してきているのに、みなの前に立って音読するという緊張感にやられてしまった生徒が多かったのが特徴。

3年5組で給食を食べ、職員室に戻ると、教頭が腰を低くして近づいてくる。「堀先生、たいへん申し訳ないお願いなんですが……」と教頭。「実は午後から来る予定だった○○先生が急遽午後も来られなくなって……」

なんと。午前中4連発だったぼくに5時間目の自習監督を当てようというのか!

ほう……とぼく。朝から3時まで働きづめですか、とジャブを入れて、自習課題を受け取る。昼休みの廊下巡視のあと、再び6組に行って数学のプリントに取り組ませる。

放課後、清掃指導を終えたところで、「ああ、疲れた」と言って教頭に年休簿を渡す。二日連続で15時年休。教頭が申し訳なさそうに受け取る。

良い言い訳ができた。ぼくは自習監督がまったく苦にならないタイプである。生徒たちと適度におしゃべりをしながら過ごす時間が嫌いではない。読書をしようと思えばできるし、仕事をしようと思えばできないわけでもない。それより今日の放課後もこれといって仕事がなかったので、年休をとりたいなあと思っていたのである(笑)。二日連続だから、ちょっと取りにくかった感じがあったのを、教頭が解消してくれた。

帰宅後は編集者に頼まれている教師用グッズの開発について参考意見をしたためてメールで送付。更に原稿執筆。二日連続でずいぶんと仕事の進む夕刻である。

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生徒の意欲を引き出す中学生の通知表所見欄記入文例

宣伝で申し訳ありませんが、私も書いた以上は売らなくてはならない宿命を帯びておりますのでご容赦ください。

実は中学校用の「通知表所見文例集」を出しています。いつも学期末近くなってみんなが必要とする時期になると、amazonで在庫切れ状態になってしまいます。いまは時期外れで在庫があるので、よかったら是非お買い求めくださいませ。

自分でいうのもなんですが、役に立つと思います。

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小学館教育技術MOOK

堀 裕嗣編

森寛・對馬義幸・小木恵子・中村貴子

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全体指導の原理

「生徒指導」という言葉を聞いて、あなたは何を思い浮かべるでしょうか。生徒たちの服装・頭髪の乱れを注意することでしょうか。それとも、万引きや喫煙、飲酒などの指導でしょうか。いじめや喧嘩の指導を思い浮かべる方も多いでしょう。落書きや器物破損といった公共物の扱いに対する指導も必要です。また、最近は携帯電話をはじめとする、パーソナル・メディアが引き起こす複雑な事件・事故を思い浮かべる方もいるかもしれません。

実はこれらは、どれも突出した生徒個人に対応するタイプの生徒指導なのです。もちろん、事件・事故によっては集団化している場合も多々ありますが、いずれにせよ、これらの生徒指導は当該生徒・関係生徒を別室に呼び、教師が事情を確認したり説諭したり、場合によっては保護者と連絡を取り合いながら個別に指導する、そうしたタイプの生徒指導です。

しかし、生徒指導の基本、基本というより根本は、何といってもこうした個別の生徒指導をしなくても良いような学級集団、学年集団をつくることなのではないでしょうか。つまり、生徒指導の根幹は〈予防〉なのです。

もちろん、一年もの長い間、学級や学年に個別指導事案が一つも起こらないなどということは考えにくいことです。しかし、そうした事案が起こるにしても、教師が日常的に服装・頭髪・いじめ・触法行為等に関して訴えかけている場合とそうでない場合とでは、個別指導事案の頻度が変わってくることはもちろん、仮にそれが起こった場合でも解決への道筋がよりスムーズになるものです。その意味で、教師は事が起こったときは当然ですが、何事も起こらない平時においても、機会を見つけて学級・学年全体に対して「落ち着いた生活」「けじめのある生活」の必要性を語って聞かせなければなりません。私はこれを「全体指導の原理」と呼んでいます。

かつて私はこんな経験をしたことがあります。学年で集団万引きが発覚したのです。事情聴取を進めてみると、各学級に五~八人程度の万引き実行生徒がいることがわかりました。学年の先生方は大慌てです。しかしこのとき、私の学級には対象生徒が一人もいませんでした。その年、私は毎日の帰りの学活で、「それじゃあ今日も、万引き、喫煙、飲酒、援助交際はせずに清く正しく帰宅しましょう」と冗談めかして言っていたのです。おそらく私の学級に万引き実行犯が出なかったのはこのせいだと思われます。全体指導による〈予防〉に力があるという証拠です。

※久保田早紀の「夜の底は柔らかな幻」を聴きながら……。

51wbqnjvxzl__sl500_aa300_夜の底は柔らかな幻

久保田早紀/1984

久保田早紀名義のアルバムとしては最高傑作だと思う。 ファーストの「夢がたり」の印象が強く過ぎて、幻想的でエスニックなイメージばかりが先行する感のある久保田早紀だが、アイドルホップ路線が鳴かず飛ばず、ファドを前面に出したアルバム構成が失敗、本人が自信を喪失し自己を失った末にカトリックと出逢い、このアルバムあたりからは宗教色が垣間見える。しかし、そうした宗教的な思いと、デビュー当時のエスニックイメージと、更にはその後伴侶となる久米大作のアレンジとが見事にハーモニーを奏でる、完成度の高いアルバムに仕上がっている。もう30年近く聴き続けているというのに、まったく飽きが来ない。いま聴いても、決して古くない。

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新入生歓迎会

今日は授業がなし。朝から3時間連続で空き時間。この間、5/6(金)に行われる評価・評定研修会の資料をつくる。昨年までの資料を大きく変えて整備しようと考えているため、3時間かけても半分くらいしか完成しなかった。まあ、まだ時間はあるので追々やっていくことにしよう。

今日は給食早出しで午前中は3時間授業。6組で給食指導をしたあと、生徒たちを廊下に整列させて体育館入場。新入生歓迎会である。

生徒会代表の挨拶、生徒会役員のパフォーマンス、生徒会組織の紹介、1年間の行事の紹介、新入生を歓迎するビデオ映像、部活動紹介のパフォーマンス、2・3年生のエール、新入生代表の挨拶、校長先生のお話という、どこにでもあるプログラム。しかし、このどこにでもあるプログラムの一つ一つをある程度の充実感をもてるような内容にするために2年間かかった。ぼくはこの行事をもって完全に生徒会を引退である。今年度、ぼくのあとを引き継いでくれる生徒会部長は、ぼくが北白に来て以来、深く信頼している中堅教師が担ってくれた。有り難いことである。

生徒会役員たちも、生き生きと仕事をしていた。何よりである。

15時に年休を取って帰宅。依頼に応じて新著のプロットを立てて編集者に送付。夏休み中に脱稿して秋には上梓したいなあ……と思っている。その後、雑誌原稿の執筆。

※中島美嘉の「一番綺麗な私を」を聴きながら……。

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中島美嘉/2010/Maxi

なぜかこの曲が気に入っている。中島美嘉はルックスも声もあまり好きではないのだが、杉山勝彦の楽曲世界がぼくの中で中島美嘉の歌声にぴたりとはまってしまったわけである。去年リリースされたシングルの中で、ぼくのなかではダントツの1位である(笑)。

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毎日少しずつ、しかし確実に

昨夜も21時に寝る。

7時に目覚める。10時間寝たことになる。

それでも昨日は9時から18時まで、かっちり仕事をした。原稿もずいぶんと進んだ。四十代も半ばになり、家での仕事もできるだけ昼間にすることにしようと決めた。

しばらくはこのペースで仕事をしてみようと思う。

今週はそれほど忙しくはない日程である。生徒指導が入らない限り、だいたい勤務時間終了と同時に退勤できそうな感じである。週末も土曜日にファシリテーションの登壇が一つあるだけ。毎日少しずつ、しかし確実に仕事を進めていこうと考えている。

さあ、今日はぼくの最後の生徒会の仕事、新入生歓迎会である。久し振りに、まるで子どものようにわくわくしている。

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第28回・累積科学国語教育研究会in札幌

少々地味な研究会ですが(笑)、お時間が許せば、どうぞご参加下さい。どちらかというと、「深さ」を追究する研究会です。

第28回・累積科学国語教育研究会in札幌

国語教育の原点に立ち返る

言語の教育としての観と勘、そして感

新学習指導要領が小学校では今年度から、中学校でも次年度から完全実施となります。「習得・活用・探究」「言語活動の充実」「伝統的な言語文化」などなど、大文字のキーワードが目白押し。国語科に課せられた課題も多いといわざるを得ません。

一方、子どもたちにとって「学ぶこと」の意味意義があたりまえではなくなってきている……そうした声も聞かれます。「学びからの遁走」「子どもの変容論」などなど、こちらもまた大文字のキーワードに彩られています。いま、国語科授業は何を目指し、どんな方法をとるべきなのでしょうか。

今回の累積国研は小中学校教師、若手・中堅・ベテランの先生方から、国語教育の過去から現在、そして未来を語っていただく研究会です。

日 時:2011年5月7日(土) 9:10~16:50

会 場:札幌市・白石区民センター1F多目的室

参加費:3,000円

定員:30名

【日程】

9:00~  9:10 受付

9:10~  9:15 開会セレモニー

9:15~ 10:30 新学習指導要領の「国語教育観」 ~教育現場との整合・不整合/堀 裕嗣

10:45~ 12:15 「国語教育観」私のこだわり/大谷和明・小木恵子・齋藤佳太

昼食・休憩

13:15~ 14:15  「国語科授業勘」私の組み立て/高橋裕章(文学)・大野睦仁(説明)

14:30~ 15:30 「児童生徒感」私のの実感/山口淳一・山下 幸

15:45~16:45 Q&Aで学ぶ国語教育の観・勘・感/司会:大野睦仁/指定討論者:南山潤司・大谷和明・堀 裕嗣・高橋裕章・山口淳一・山下 幸

【お申し込み方法】

以下の5点をお書きの上,FAXかEメールにて下記まで御連絡ください(24時間OK)。

〈必要事項〉
1.イベント名・日時/2.氏名/3.勤務校/4.FAX番号/5.メールアドレス

〈お申し込み先〉
小木恵子(こぎ・けいこ)
FAX:(011)866-6422
E-mail : YFA39060@nifty.com

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今年は発信の年にすると決めたのだから

ちょっと尋常でない執筆依頼書の山に苦しめられている。

世の中にはたくさんの講演をこなしながら、ものすごい量の雑誌原稿や書籍原稿をもこなしている著名人がたくさんいるけれど、いったいどうやって取り組んでいるのだろう……と不思議に思う。ぼくも仕事術なるものをもってはいるけれど、それはあくまで学校の仕事をどうこなしていくかという仕事術であって、外の仕事、個人的な仕事をこなしていく仕事術ではない。しかもぼくの場合、隙間時間を利用してどんどん仕事を進めてしまい、休日は研究会に一日中取り組み、夜は懇親会で遊べるようにと、時間を産み出すことを目的にした仕事術であるから、その時間にもこれだけ仕事が入ってくるということになると、休日の過ごし方の仕事術までつくらなければならなくなる。

これはこの一年、生活のペース自体を変えてしまうような新たなスタイルを確立しなければダメだなあ……と感じ始めている。

とはいえ、心底、悩んでいるわけではない。そういう仕事術というものは必要に迫られれば確立されていくわけで、要するに細かなこだわりを捨てて、月に一度か二度ある完全オフ日の一日に原稿を5本書くとかいうペースをつくればいいわけである。これまでの一日に1本書いたら「今日はもういいや……」ではなく、「3本書いたからもういいや……」に変更すればいいわけだ。

一番の問題は「細かなこだわり」を捨てられるか……というところにある。

1本の原稿を書くのに、ぼくは3つの視点を提示することを旨としてきた。現象というものは決して一つの視点から成り立っているのではなく、複雑にからみあって成立するものである。この観点を大きくもっているが故に、ぼくは1本の原稿で3視点くらいは提示するのが礼儀であり、文章を書く者の倫理であると考えてきた。これがぼくのこだわりといえばこだわりである。

しかし、こうした書き方がぼくの文章をわかりづらくし、難しくしているということはかなり大きく自覚もしてきた。20年間、森くんや鹿内先生に指摘され続けてきたことでもある。必要に迫られて、いよいよ、一点突破で原稿を書く段階に来たのだなあ……という気がする。それが「細かなこだわり」(書いているうちに決して細かくはないなあ……とも感じるけれど)を捨てるということであるらしい。

今回、「学級経営10の原理・100の原則」を書くなかで、一番の闘いは一つ一つの項目について本当は書きたいことがたくさんあるのに……という想いとの決別だった。この具体例を入れればもっと伝わるのに……とか、こんな骨格だけの論述で若い読者はわかるのかなあ……とか、なんでこんな大きなことを1頁におさめなければならないのかなあ……とか、そういう想いとの格闘である。

しかし、いまとなってはこの程度の書き方で良かったのだとの思いがある。これからは原稿依頼をもらったら、こうした一つ一つの項目について、書きたかったけれど書けなかった具体を書くことで紙幅を埋めることができるのだ。

もう少しで「120の言語技術」を提示する本が完成する。あと20頁程度のべた打ちと全体修正を5回ほどすればなんとか完成しそうである。「学級経営10の原理・100の原則」同様、この20年間の中間まとめ的な意味合いをもつ、ぼくにとっては大きな仕事になる。それが終われば、生徒指導とか保護者対応とか行事指導とか力量形成とかの原理・原則をまとめたいと考えている。

また、国語関係では「〈習得〉させるべき120の言語技術」に続いて、「〈活用〉させるための100の学習活動」を書く予定だ。この本はいよいよ、先日石川晋に「高踏的」と指摘された態度を超えて、ぼくがいま取り組んでいる対話型学習活動形態について本格的に紹介する本にしていくつもりである。「120の言語技術」と「100の学習活動」とは、中学校で新学習指導要領が実施される来年の春に同時刊行できたらいいなあ……と思っている。できれば、「研究集団ことのは」著の実践編も同時刊行できたらいいなあ……という野望も抱いている。

いずれにしても、今年度は徹底的に原稿を書く。それでいて登壇ペースを落とさない。必要に迫られて……とは言っているけれど、ぼくのなかにはある程度の計算もある。今年は発信の年にすると決めたのだから。

そもそも執筆依頼が来たり登壇依頼が来たりということは、それだけ求められているということである。有り難いことである。

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6ミリと3ミリ

2年振りに煙草のタールを落とそうとしている。2年前に立てた5年間での減煙計画の一環である。正直なところ、実現するとはまったく思っていないのだが、一応、取り組んでみている。

5年計画とはこういうことだ。

【1年目】それまで吸っていた12ミリのLARKを6ミリに落とす。

【2年目】それまで吸っていた一日二箱のペースを一日一箱に落とす。

【3年目】それまで吸っていた6ミリのLARKを3ミリに落とす。

【4年目】それまで吸っていた一日一箱のペースを一日10本に落とす。

【5年目】それまで吸っていた3ミリのLARKを1ミリに落とす。

こういう壮大な減煙計画である。いかにもぼくらしい計画だと自分では思っている。いまこの計画の3年目が始まったのまで、これまでの6ミリを3ミリに落としている、というわけである。

始めて見ると、12ミリを6ミリに落としたときよりも、格段にきつい。タールが6ミリくらいあれば、まあまあ煙草を吸っているという感覚がある。だから、薄いなあ……とは感じながらも、6ミリに落としたときには煙草を吸っているなあ、うまいなあ、と1本1本を味わうことができた。

ところが、である。

3ミリになるとその実感が感じられない。煙は一応出ているものの、ぼくのようなヘビースモーカーには〈空気〉にしか感じられないのである。なにせ味がしない。5時間くらい吸わずにいて、さあやっと1本……というときでさえ、確かに楽にはなるのだが、胸騒ぎを沈めてはくれない。

煙草を吸わない人にはわからないだろうが、ヘビースモーカーが長い時間煙草を吸わないでいると、100匹の小さな小さな沢ガニが胸の中でガサガサゴソゴソとあばれまわっているような落ち着かなさに襲われる。それが6ミリなら完全になくなるのに、3ミリだと完全にはなくならないのである。

これは困った。

まあ、こういうのは慣れだとは思っているが、なにせぼくには禁煙経験も節煙経験もない。もう30年近く(計算が合わないけど、許してね)、ずーっと煙草を相棒に生きてきたのである。最盛期には1日4~6箱吸っていたほどだ。いまでも呑み会や原稿執筆ではチェーン・スモーカーに戻ってしまう。

そんなぼくが12ミリから6ミリに落とせただけでも奇蹟だと思ったものだが、この5年計画の最初の2年間が思いのほか予定通り進んでしまい、今回もやってみるかと思った次第である。

煙草はいいものである。もしもぼくが煙草を吸っていなかったなら、ぼくに生徒指導を教えてくれた多くの先輩教師たちはぼくをあんなには可愛がってはくれなかっただろうし、いまなお研究会の度に喫煙所に集まるいつものメンツにはなんとなく本音で語り合う空気がある。

もう世の中ではまったく通用しないけれど、煙草にはいまなおコミュニケーション促進剤としての作用があるように思う。

ああ、3ミリがまずい……。

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そろそろ「日常」が始まりつつある

授業は3時間。1・6組は「扇の的」の音読練習をしたあと、学力テスト返却。7組は「平家物語」冒頭の暗唱テストをしたあと、学力テスト返却。年度当初ということもあって、どの学級も学習意欲が高い。特に7組は暗唱テストの一発合格者が9割を超えた。短い文章の暗唱とはいえ、ぼくの経験上、これは驚異的な数字。

空き時間は、1時間が郵便局で支払いをしたり、宅急便で荷物を送ったり。赤坂への荷物の返送が忙しさに今日になってしまった。もう1時間は小中連携特別委員会の推進計画をつくって配付、更に道徳の年間計画を作成し始める。

放課後は生徒会役員とともに、新入生歓迎会のリハーサル。これが生徒会役員とつくる最後の行事なので、とても楽しかった。リハーサルが終わり次第、退勤。今日は職場の歓迎会だったのだが、疲れも仕事も溜まっているので失礼する。

今年度もそろそろ「日常」が始まりつつある。

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四十代も半ばになって初めて気がついた

「先生、どうして3年生はずれちゃったの?」という3年生。「時期に慣れるさ」とぼくの応え。

「あたし、国語、堀先生が良かったぁ」という女子生徒の声。「じゃあ、2年生に降りといで」とぼくの応え。

「やっぱり堀先生のほうがいいなあ」という生徒会役員の声。「3ヶ月たってもそう感じたら、また来い」とぼくの応え。

年度が変わって、これまでもっていた生徒が校内にいるのに学年を変わるというのは、複雑な環境に置かれることを意味する。ぼくの次を担当する教師にはちょっと迷惑をかけているなあ……とも感じる。

ところがぼくはといえば、意識は既にすっかり2学年の一員である。スタッフが若いだけに、なんとなく責任が重い。いろんなことをフォローしなくちゃという思いで毎日を動いている。どうやらぼくは若い教師が好きなのだなあ……とも思えてくる。彼らは穴だらけで、不安げで、目を覆いたくなるような失敗もするけれど、総じてひたむきである。小手先の動きをしない。それだけに浮沈も大きいけれど、数ヶ月とか1年とか経ったときには、少しずつそれが生徒たちに伝わっていくに違いない。

失敗してもいいから、思った通りにやればいい。できる限りフォローしてやるし、どうしてもダメになったら担任くらいいつでも変わってやる、最後には骨も拾ってやる、そう思っている。

学校に「月刊生徒指導」5月号が届く。1頁を使ってぼくの本が宣伝されていて驚いた。帰宅すると、amazonから小学館「通知表所見文例集」を勧めるメールが届いていて笑ってしまった。「オレが書いたんだよ……」とPCにつぶやいてもだれも聴いてはくれない。デジタル世界の馬鹿馬鹿しさを表す一例である。

今週は23時に寝ている。おかげで朝はすっきり目覚める。昨日はPTAの呑み会だったからどうかな……と思っていたけれど、今朝もすっきり目覚めることができた。なーんだ、朝がつらかったのは寝不足のせいだったのか、と四十代も半ばになって初めて気がついた。夜型人間の馬鹿さ加減とはこういうものである。

今日ももう寝る。

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年度当初らしい、ピンと張った空気

学力テスト。試験監督が三つ。空き時間と放課後で採点。1クラス30分平均の採点。5クラスで2時間半。一斉に学年委員会を開いて三役決定。合間に生徒指導が一件。生徒とじっくり話をし、最後には教師側の言っていることが落ちた様子。何よりである。

生徒会役員が新入生歓迎会に向けて、詰めの準備を行っている。3学年教師団が行き先の変更になった、ゼロ出発の修学旅行に四苦八苦している。1学年が中学生としての基礎を培おうと躍起になっている。毎年恒例のように見る風景と今年ならではの風景とが混在している。

それでも年度当初らしい、ピンと張った空気が学校にはある。

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どうということもない一日

1時間目は6組で「平家物語」冒頭の暗唱テスト。2時間目は技術の自習監督でビデオを視聴させる。3時間目は空き時間で道徳の指定研究の申請書を作成。

7組で給食を食べ、担任の授業参観を保護者といっしょに参観。その後、PTA総会。議事の司会。引退するPTA会長が10年以上PTA活動に携わってきたそうで、涙ながらに挨拶していたのが印象的だった。更に生徒会役員と新入生歓迎会について少しだけ打ち合わせて、17時ちょうどに退勤。

帰宅後は学校に来ていた大量の執筆依頼書に目を通し、1時間ほどPCに向かい、19時からのPTA役員会の歓送迎会へ。

どうということもない一日。取り敢えず、PTA関係の仕事が中心の一日である。

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由紀さおり

先月のライヴに行って以来、最近、由紀さおりばかり聴いている。原稿を書いたりブログを書いたりといったときのBGMはほとんどが由紀さおりである。

由紀さおりはぼくが物心ついた頃には既にドリフのコントでしか見ないような、半分お笑い芸人のような扱いをされていた。年に一度、紅白歌合戦で「ああ、この人、歌手だったんだな……」と想い出す、小学生のぼくにはそう見えていた。

ぼくが小学校5年生だったと記憶しているから、1977年だったと思う。その年の紅白で「う・ふ・ふ」という曲を歌う由紀さおりを見た。この曲を歌う由紀さおりに惚れた。当時、由紀さおりは29歳。既に二十代とは思えないような貫禄とおばさん振りを発揮していたのだが、このときの由紀さおりは少なくともぼくにとって色っぽかった。ただ、周りの友達はだれも認めてくれなかったし、その映像を読者のみなさんが見ても、きっと色っぽいとは思わないだろうと思う。

この映像である。

いかがでしょうか。おそらく「ただのおばさん」に見えたことと思う。

でも、もう一度よく聴いて欲しい。この曲はものすごく難しい曲である。例えば、カラオケでこの曲をうまく歌える人はほとんどいないと思う。次の予測されるメロディラインをことごとく裏切る形で進んでいくのである。これをこんなに遊びながら歌う由紀さおりがあまりにも色っぽかったのである。

ああ、由紀さおり。

また、札幌に来たら、彼女の歌を聴きに行こう。何度でも何度でも聴きに行こう。

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自分にもできること/自分にしかできないこと

赤坂がブログに書いている。

しかし、堀裕嗣とは恐ろしい男である。こんな研究会を思いついてしまうのだから。参加者はもちろん、事務局、そして講師まで含めてかかわった全員に深い学びをもたらしてしまうコンセプトを、いとも簡単に思いつき、実現させてしまう。誤解なきように言えば、堀さんの常軌を逸するようなインプット、研究量があっての思いつきである。達人教師の、瞬時瞬時の判断がことごとく「正しく」機能するように、堀さんの判断は、キレているのである。そのトップバッターに私を指名してくれたことに心から感謝している。最初、話を受けたときは「また、堀がオレをいじろうとしている・・・バツゲームかっ!」半分本気、半分冗談に感じたが、彼は本気で学びを生み出そうとしていた。

まあ、例によって褒めすぎなのだが、これはぼくにとっては最も〈我が意を得たり〉というタイプの「褒めすぎ」である。

誤解を怖れずに言えば、自分でいうのも何なのだが、ぼくの最も優れているところは〈プロデューサー〉としての資質である。一つ一つのネタとか、一つ一つの実践とか、一人一人のヒトとか、そうしたものにはほとんど興味がない。そういう巷に溢れているものではなく、AとBを掛け合わせたら何が産まれるかとか、Cは対局にあるDを見たらどんな反応を見せるかとか、Eを産み出すにはFとGとHのほかに何が必要かとか、いつもそういうことばかりを考えている。

研究会、セミナーのコンセプトを考えるときも同じで、これまた誤解を怖れずに言えば参加者が何を学ぶかは二の次、まずは自分達が何を学べるか、そして読んだ講師自身が何を学べるか、この2点が最重要課題である。

ぼくは若い頃から、例えば野口芳宏先生をお呼びするときでさえ、野口先生ご自身が学べないような企画にはお呼びする意義がないと感じていた。だから、野口vs寺崎とか、野口vs阿部とか、野口vs鶴田とか、野口vs大内とか、野口vs鹿内とか、そんなバーサス企画ばかり立ててきた。しかも必ず行司も呼ぶ。野口vs上條の作文対決なら行司として大内善一先生をとか、野口vs阿部の物語授業対決なら教科調査官と田中・須貝を呼ぶとか、そういう手法である。有名講師を呼んでただお話を拝聴……というタイプの研究会、セミナーは反吐が出るほど嫌いである。

2000年前後、「研究集団ことのは」イベントの基本コンセプトは、若気の至りもあって、「野口さんに何を学ぶか」ではなく、「野口さんに何を学ばせるか」だった。そういうあまりにも生意気なコンセプトをライフワークとする団体が、全国にひとつくらいあってもいいじゃないか。それが失礼で不遜だという価値観しか世の中にないののだとしたら、ちゃんと時代がぼくらをつぶしてくれるはずである。それはそれでいいじゃないか。森くんや大内とよくそんな話をしたことを覚えている。

公務も同じである。授業も学級経営も、すべてのぼくの教育活動がこういう発想でいまなお動いている。いまなお、生徒に対して挑戦的な授業、挑戦的な企画ばかりを投げかけている。ぼくはそれでいいと思っている。「自分にもできること」ばかりをやっていてはおもしろくない。「自分にしかできないこと」を本気でやってみるからこそ、おもしろくなるのだ。いまでは、それがぼくの人生なのだと、ある意味達観しているようなところがある。

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年度初めだから仕方ない

授業は3時間。2年2組と6組で授業開き。「平家物語」の視写と音読・暗唱をさせながら、ノート指導をはじめとする授業のルールを説明していく。生徒たちは真剣なまなざしで聴き、そして取り組む。音読の声も大きい。ちょっと語弊があるかもしれないが、学びに飢えているといった印象である。7組は昨日が学級写真撮影で暗唱まで行き着かなかったので、今日は暗唱練習をしたあと、本来なら3時間目にやるはずの「扇の的」の音読練習、視写を開始。暗唱テストは次回。

空き時間は1時間が小中連携委員会年度計画の作成、道徳授業年度計画の作成、もう1時間は郵便局と銀行へ。放課後は生徒指導研修会。いろいろな決まり事の確認、そして情報交流。会議がテンポ良く進み、かつ有意義な研修会だったように思う。

17時、勤務時間終了とともに退勤。疲れていて、ソファで眠り込む。妻の帰宅で目覚めるも、気づくと21時近く。妻も疲れている様子。まあ、年度初めだから仕方ない。

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現実的な現実との格闘

先週の金曜日に授業開きで「平家物語」冒頭を学習した2クラスが、今日は既に暗唱テスト。それぞれ25人強の合格者だから、だいたい7割程度の合格率。新しい持ち学級の年度当初としてはまずまずといったところか。

今年は協同学習をベースに授業づくりをしていくつもりなので、その前にノート指導の徹底をはじめとして授業ルールの定着から始める。まずは毎時間少しずつペア学習を導入するという1ヶ月間になるだろう。

もう1クラスは「平家物語」冒頭の音読練習。途中で学級写真の撮影が入り、中途半端な終わり方。この学級は次回に暗唱テストというわけにはいかない。まあ、年度当初だからこういうこともある。毎年のことだから慣れているとはいえ、やはり授業をつぶしてまで……という思いがなくはない。

PTA役員会、旅行的行事委員会、更にはPTA総会資料の印刷・帳合・製本。何せ裏表10枚20頁の冊子を家庭数配付にして850部をつくるわけだから尋常ではない。結局、すべての作業が終わるのに21時までかかった。まあ、こういう日もある。

まさに現実的な現実と格闘した一日だった。

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第2回学級づくりプログレッシブセミナー

第2回学級づくりプログレッシブセミナー
運動会指導徹底分析!~微細技術から運動会「後」まで~運動会の取り組み方が1か月の学級づくりの成果だ!!

プログレッシブ宣言…。

10回連続講座「学級づくりプログレッシブセミナー」

いよいよスタート。

新しい指導要領が実施される一方、現代は、これまで経験したことがないほどに、変化のスピードが加速し、複雑性が増し、多様性が高まっています。

そんな時代を生き残るために、学び、考え続け、常に新しいものに挑戦していく、まさにアグレッシヴな教師のためのセミナーを企画しました。

具体的な場面や課題を想定し、1年間をアグレッシヴに取り組める年間10回の講座を道内屈指の実践家が企画しています。

今、新しいうねりが始まろうとしています。

日 時:2011年4月23日(土)

会 場:札幌市白石区民センター

参加費:3000円各回参加費3000円。
※10回連続のお申し込みは20000円です。

申し込み
札幌市立厚別通小学校大野睦仁(メールorFAXで)
hugtheluv@gmail.com/011-372-2300(FAX)

【日程】

09:15~09:25 受付

09:25 開会セレモニー

09:30~10:00
運動会で何を育てるべきか?~忘れがちな大事な視点~
札幌市立南小学校 南山潤司

10:00~10:30
全体指導の3原則~大きな集団を動かすための指導とは?~
札幌市立厚別通小学校 大野睦仁

10:30~10:40 休憩

10:40~11:10
競技づくりの5原則~ねらいと保護者を意識した競技とは?~
札幌市立藻岩小学校 高橋裕章

11:10~11:15 休憩

11:15~12:15
ビジュアルで紹介するおススメ競技
 低学年ネタ  札幌市立藻岩北小学校  山口淳一
 中学年ネタ  札幌市立藻岩小学校   高橋裕章
 高学年ネタ  札幌市立厚別通小学校  大野睦仁

12:15~13:15 昼食休憩

13:15~13:45
次への意欲につなげる振り返りの取り組ませ方~自己評価と相互評価で~
北広島市立大曲東小学校 山田洋一

13:45~14:15
クラスや学年を盛り上げるアイデア~盛り上げることで、集団性と所属感を高める~
札幌市立藻岩北小学校 山口淳一

14:15~14:25 休憩

14:25~14:55 
若手が陥りがちな失敗事例/中堅、ベテランの危うい指導事例
札幌市立南小学校 南山潤司

14:55~15:00 休憩

15:00~16:50
スタートから1ヶ月をチェックする視点
ファシリテーター 札幌市立北白石中学校 堀 裕嗣
グループワーク「チェックリストづくり」
私の作った「チェックリスト」

札幌市立厚別通小学校 大野睦仁
札幌市立藻岩北小学校 山口淳一
札幌市立藻岩小学校  高橋裕章
指定討論者 札幌市立南小学校 南山潤司
      北広島市立大曲東小学校 山田洋一

16:50~ 閉会セレモニー

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最近の出来事

3月26~27日、4月2~3日、9~10日という3週連続の土日開催、研究会の嵐が終わりました。研究会には呑み会がつきものです。途中からは新学期も始まりました。新年度の職場にも呑み会はつきものです。この3週間で14本の講座と8夜の呑み会。正直、躰の芯まで疲れました(笑)。

3月下旬は「中学校・学級づくりセミナー」の第1回。全国縦断で5回行われる1回目です。運営事務局はぼく。講座はもちろんですが、運営もしなければならないセミナーです。池田修先生と桃崎剛寿先生のお二人をメイン講師に、学級開き・生徒指導・道徳授業をかなり深いところまで掘り下げました。参加者も中学校セミナーにしてはまずまずの集まりで、夜はべろべろになるまで呑んで……というわけで、かなり充実した二日間でした。

春休みはほとんど毎日出勤して校務を片付けながら、夜はセミナーの準備という4日間。必然的に削るのは睡眠時間ということになり、かなりきつい4日間になりました。なにせ、2日と3日に3つの研究会をはしごしながら7本の講座をしなければなりませんでしたから、並みの準備量ではありません。たぶんこれまでで最も講座準備の重なった4日間だったように思います。

特に3つの研究会のうちの二つがメイン講師扱いだったので、なにせ失敗することが許されません。この二日間はビデオを流したり、グループワークを連続させたりといった楽な組み立てではなく、がっちり語るタイプの講座立てにして、メイン講師らしい動きをしなければなりません。

この間、2学年の副担という新しい年度が始まり、教務部の一員として小中連携や教育課程づくりの仕事をしながら、若手担任で構成された学年をフォローするという役回りです。これまで所属していた学年を離れて新しい学年に所属しましたので、一つ一つの動きをみんなで決めながらの年度当初。更には昨年度までやっていた生徒会の仕事も引き継ぎ前に動いていた関係上、新入生歓迎会までは中心的にかかわることになり、二重に仕事をする毎日です。1日と8日には職場の呑み会もあり、これもしっかり二次会まで行きました(笑)。もちろん、責任感で行ったのではなく、楽しいから行ったまでです。おかげで2日(土)も9日(土)も完全に寝不足の二日酔いで研究会一日目を迎えるという、いつもどおりの展開になりました(笑)。

始業式を終え、入学式を終え、今年度の初授業も2本して、9日・10日の研究会。赤坂真二先生を迎えての二日間。土曜日は自分の講座もあり。でも、ここはメイン講師扱いではないので、気が楽。なにせ赤坂の前座である。ほんとうに気が楽だった。どんなにいやな空気をつくっても、赤坂が次で吹っ飛ばしてくれるから(笑)。

さて、問題は今日、10日である。これは自分でいうのもなんなのだが、歴史的な研究会だったと思う。そもそも企画があり得ない企画なのだがら、それだけでも歴史的なのだが、その無理のある企画が見事に機能した。最初のオリエンテーションから最後のファシリテーションまで、企画段階で想定していた通りの、いや想定していた以上の最高の一日になった。これまでにも満足度の高い研究会というのは何度もあったのだが、今回は群を抜いている。赤坂の力とか企画の妙とか理由はいろいろいえるのだが、完全に新しい視点を導入したことによって、参加者だけでなく、事務局も、そして講師の赤坂自身が準備段階を含めて多くの発見をした、という躍動感があったように思う。「勉強になった……」という実感の深さがいつもの研究会と段違いなのである。この無理な企画を引き受けてくれた赤坂に深く深く感謝である。

ぼくがこれまで参加したり企画したりした研究会に仮に順位をつけるとして、間違いなく今回のセミナーが2位をぐーんと引き離した1位である。教師としての一日を追うという企画であっただけに、最後のシェアリングも考えるレベルが異なる。ものすごく広いのだ。メタ認知の度合いが違うのである。毎回こんな広い視座でセミナーが出来たら、参加者は10回程度参加したら、一気に実力が上がってしまうだろうなあ……という感じの、歴史的というか、革命的というか、言葉が見つからないくらいのものすごいセミナーだった。

9日の夜は赤坂、大野、山田、高橋、堀の5人で小宴。その後、赤坂と二人、もう一軒行ってこれまでのこと、現在の不満・不備、そしてこれからのことと、いろいろなことを話した。きっとこれから、いろんなつながりといろんな志が少しずつ結実していくに違いない。呑みながら、堀川さんに電話したり、庭野さんに電話したりと、充実した今後の芽の話もできた。たぶん新潟と北海道のつながりが一気に太くなる。7月には石川も新潟初登場の予定である。堀川さんが北海道に来るのもおそらく今年度内に実現するだろう。ぼくも既に7月と9月に新潟に行く予定がある。

楽しくなりそうである。

さあ、次は名古屋だ。

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今月のお知らせ/2011年4月

【研究会関係】

私に関係する3~4月の研究会をご案内させていただきます。3月は月末まで研究会を一切入れていません。基本的に2ヶ月下旬から3月中旬については、新刊本の原稿執筆に集中したいと考えています。勤務校の学年旅行やライヴに行く予定などもあり、研究会以外の楽しみを追うことしたいと思います。

さて、3月下旬からはいよいよ新年度企画です。「中学校学級づくりセミナー」「中学校国語科授業づくりの原理・原則セミナー」「先生のためのとっておきセミナー」「学級づくりプログレッシヴセミナー」など、新たな企画が目白押し。道外から講師を呼ぶ大規模な企画が目立ちます。もちろん、例年どおり、年度当初の「教師力ブラッシュアップセミナー」もあります。

2011年4月23日(土)/第2回・学級経営プログレッシヴ・セミナーin札幌/学級開きから1ヶ月・チェックリスト/札幌市白石区民センター(予定)/参加費:3000円/講師:大野睦仁・高橋裕章・堀裕嗣・南山潤司・山口淳一・山下幸・山田洋一/定員40名/近日詳細

2011年3月26日(土)~27日(日)/第1回・中学校学級づくりセミナーin札幌中学校・学級経営の極意・決定版/札幌市コンベンションセンター2F207研修室/参加費:両日参加6000円・1日参加4000円/講師:池田修・桑原賢・堀裕嗣・桃崎剛寿・山下幸/定員60名/終了しました

2011年4月2日(土)~3日(日)/第1回・中学校国語科授業づくりの原理・原則in札幌いまどきの生徒を授業にひきこむ~国語科授業づくりAtoZ/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費:両日参加5000円・1日参加3000円/講師:堀裕嗣・對馬義幸・山下幸・小林智・小木恵子・坂本奈央美・米田真琴/定員30名/終了しました

2011年4月2日(土)/第1回・学級経営プログレッシヴ・セミナーin札幌プログレッシヴ宣言 今、新しいうねりが始まる~始業式前夜 今、何を考え、何を準備すべきか/札幌市白石区民センター集会室A/参加費:3000円/講師:大野睦仁・高橋裕章・堀裕嗣・南山潤司・山口淳一・山下幸・山田洋一/定員40名/終了しました

2011年4月3日(日)/第33回・教師力BRUSH-UPセミナーin札幌さあ新学期、『元気が出る4月!』をつくるには、これだ!~学びやすさ・教えやすさ・仕事のしやすさを考える1日~/札幌市白石区民センター視聴覚室/参加費:3000円/講師:大野睦仁・太田充紀・兒玉重嘉・斎藤佳太・高橋裕章・堀裕嗣・水戸ちひろ・南山潤司・山口淳一・山下幸・山本和彦/定員50名/終了しました

2011年4月9日(土)/第1回・先生のためのとっておきセミナーin札幌学級担任が楽しくなる!5つのメソッド/札幌市白石区民センター1F多目的室(予定)/参加費:4000円・10日(日)と連日参加は両日で6000円/講師:赤坂真二・大野睦仁・堀裕嗣・山下幸・山田洋一/定員30名/終了しました

2011年4月10日(日)/第2回・先生のためのとっておきセミナーin札幌できる教師は一日をこう動く!赤坂真二の一日をまるごと体験/札幌市白石区民センター1F多目的室(予定)/参加費:4000円・9日(土)と連日参加は両日で6000円・なお、この日は別途600円がお弁当代としてかかります。/講師:赤坂真二/定員30名/終了しました

その後の予定はこちら

【書籍関係】

9784761918088_3学級経営 10の原理 100の原則/困難な毎日を乗り切る110のメソッド』堀裕嗣・学事出版・2011.03.17初版

ご注文はこちらへ/ご注文はこちら

イクタケマコトさんの装丁でとても綺麗な本に仕上がりました。

3月です。この本の第1章の題材となっている学級開き・学年開き関係の記録をご希望の方に添付メール(一太郎)でお送りします。ご希望の方はこちらにお名前と勤務校をお書きのうえ、メールをお願いします。

※堀の著作はこちらこちら

※今後、学事出版から中学校学級経営ワークシート集を上梓します。今年は日本標準の「とっておきの道徳・中学校」にも2本の実践を寄稿しています。双方とも近刊。

14_ihk83e838d83b83v000明日の教室DVDシリーズ14/文学の授業~読む・解く・書く』石川晋・堀裕嗣・門島伸佳・有限会社カヤ・2011年3月中旬発売

1月末に京都で行われた「明日の教室」がDVDになりました。予約受付中です。

※「オツベルと象」を題材に、〈語り手の自己表出〉の読み解きの基礎的な授業を模擬授業の形で提案しています。後半は石川晋先生と授業づくりの視点について語り合っています。

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10原理・100原則

久し振りに石川晋のブログを見ると、「10原理・100原則」の書評が載っている。彼はこう書いている。

堀は今、「協同学習」にも「ファシリテーション」にも精通する教師になりつつある。彼の姿勢は、叱られるかもしれないが、高踏的である。彼が走っている場所から、ある種の冷淡ささえ感じられる視点で振り返りながら、君達こういうことが必要なんでしょ、と書いているように思える。また、それでよいとも思う。

高踏的……と評されて「そのとおり!」とも応えづらいが、まあ、そういうことだ。この程度のことはしっかりと身に付けてから「協同学習」や「ファシリ」に取り組まないと火傷しまっせ……との思いもある。

まあ、そういうことだ。

理念先行で実践に対峙すると大火傷をする。ぼくは幸い小火傷くらいで済んできているけれど、それでも後悔したことは一度や二度ではない。

しかし、石川も書いてはいけないことをあっさりと書いてくれる(笑)。これが堀です……と宣伝した方が読者にはわかりやすいんだけどねえ(笑)。いまのぼくの実践が本になるのはもう少しあとでしょう。まだ整理が終わっていないからね。その間に何冊か基本原則のようなものを出そうとも思っている。高踏的な本は最低でも「生徒指導」「保護者対応」「仕事術」くらいは書かないと……との思いもある。「協同」や「ファシリ」はその後だな。

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始業式

今週は月曜日が23時過ぎに退勤、火曜日が19時過ぎに退勤、そして今日が17時過ぎに退勤。帰宅後は月曜日がバタンキュー、火曜日が新入生歓迎会のビデオ制作、そして今日がテレビを見ているうちにすやすや……。疲れている。土曜日の講座準備をしようと思っていたのだが、そこまで体力がもたない。どうやら明日一日でつくることになりそうだ。

今日は始業式。2年間続けてもってきた学年を離れて2年副担。まあそれもよい。

それにしても土日休みなしで3週間働き続けるのは少々つらい。背中が張ってきているのがわかる。今日は睡眠をしっかりとることにしよう。ブログの更新をいつもどおりに戻すのは来週からだな。

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怒濤の二日間

怒濤の二日間が終わりました。

土曜目はまず「中学校・国語科授業づくりの10の原理」と題した45分講座から始まり、プログレッシブ・セミナーに移動して「学級開き講座」を50分、その後、中学国語イベントの会場に戻って、作文指導と音声言語指導の講座を90分。屯田屋敷に行って22時まで小宴。これがまた楽しい宴会。DNAと堀・山下・坂本・米田の8人で5時間。ずーっと大笑い。実は金曜日が職場の呑み会で2時まで呑んでいたのでフラフラ。家に帰るとバタンキュー。

日曜日の午前は古典と説明文の講座を90分、更に文学の講座を90分、ブラッシュに移動して学級崩壊対策の講座を45分、更に中学国語に戻って参加者のQに答えること90分。金曜日の夜から日曜日にかけて、実に8時間半の登壇と12時間の呑み会。足して20時間、しゃべり続けていたわけだ。喉が痛い。いがらっぽい。

準備も含めてとことん疲れたけれど、この二日間が終わって、とても楽になった。来週も土日に研究会があるが、二日間でぼくの登壇は180分。90分は講座だが、90分はファシリテーターである。あとは赤坂真二におんぶにだっこ。赤坂には悪いが、来週は楽だ(笑)。

もう寝ます。おやすみなさい。

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