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ヤマ場

「ヤマ場CM」という語をご存知だろうか。ドラマの見せ場やクイズの解答直前でパッとCMに切り替わる、アレである。番組のキリのいいところで流される「一段落CM」と区別して、こういうのを「ヤマ場CM」と呼ぶのだそうだ。見ている側としてはイライラする。イライラしないのは「もう少し考えたいなあ」と思えたときのクイズ番組くらいか。

この「ヤマ場CM」について興味深い調査がある。日本は欧米に比べて「ヤマ場CM」が圧倒的に多いというのである。ちなみに、日本での「ヤマ場CM」率は40%程度。これに対し、アメリカが14%、イギリスが6%、そしてフランスはなんとゼロなのだそうだ。

しかし、これだけならばそれほどのインパクトはない。日本の広告主が商業主義的であるとか、視聴者を惹きつけるための工夫に余念がないとか、利潤追求を旨とする企業としては当然のことと思われるからだ。

実は、この調査の面白いところはこのあとである。横行する「ヤマ場CM」に対して、日本の視聴者の実に86%が「不愉快」「イライラする」と感じており、しかもそのうちの多くが「ヤマ場CMの商品は買いたくない」と答えているというのである。簡単に言えば、企業がよかれと思って工夫していることが、かえって視聴者(延ては消費者)の反感を買っているということになる。〈以上慶応大学・榊博文・2006/『グーグルが日本を破壊する』竹内一正・PHP新書・2008.04・孫引き〉

その昔、授業を「ヤマ場」で切るという手法をためしていた時期がある。一番いいとき、これから面白くなるとき、つまりそれまでの謎がいよいよ解決する、そんなときに、「じゃあ、続きは次の時間ね」と授業を終えるのである。私としては、授業内容に対するモチベーションとはどのくらい続くのか、或いは続かないのかということに関心を抱いてのことだった。

私がこんなことを始めたのは92年か93年頃のことだったと記憶しているが、当時の生徒たちは、休み時間にサッと私の周りに集まり、「ねえねえ、なんなの?」「私にだけ先に教えて」などとしつこく問いただしたものである。次の日の朝、廊下ですれちがったときに、「先生、昨日のあれですが…」などという生徒さえ珍しくなかった。

これが通用しなくなったのが、2000年頃だったろうか。いや、通用しなくなったというのは語弊がある。私がこれを始めた頃だって見向きもしない生徒もいたし、現在だってまったく問いただしてくる生徒がいないわけではない。この手法に食いついてくる生徒は、現在もそれなりに存在する。しかし、食いつく生徒が明らかに減っているのである。それも激減と言っていいほどに。

更に、私にとってもっと不思議なのは、90年代前半には、学級のリーダー的存在を中心に、ごくごく普通の感覚をもっているように見える生徒が食いついてきたのに対し、現在は、「この子は皆とちょっと異なった独特の感性をもった子だな」と思われるような生徒が食いついてくる、ということである。

おそらくこの20年で、社会を包む「空気」に圧倒的な変化が生じたのである。私が教職に就いた頃には、学校が様々に批判されながらも、まだまだ「勉強は先生に教えてもらうもの」というテーゼが世の中を支配していた。生徒たちもその「空気」の中に生きていた。それが90年代の半ばから後半にかけて、風が変わり始めた。いや、風が変わったのはもっと前で、この時期に完全に浸透し始めたということなのかもしれない。いずれにしても、学級リーダーは「よく先生の話、先生の意図を理解する者」から、「他人を巻き込みながら、自分で選択する者」「他人に対して、自分への興味関心を喚起できる者」に変わったのである。

この変化はおそらく、時代の象徴的企業が、充実したPCを提供することにこだわり続けたマイクロソフト社から、人々の興味関心を把握してそこに関係性を結んでひと儲けしようとするグーグルへと変わったことと、どこか対応しているように思える。最近、先生が大好きで、「先生の話を理解しよう」「先生の意図を理解しよう」とする生徒には、どこか「変わり者」の匂いさえ感じられる。教師が普通の生活を送っていて感じるほどだから、生徒たちはもっと敏感に感じているはずである。

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