「応える」ということ
教育は誘惑なりとはよく言ったもので、それは言葉が誘惑であるのと同様にある種の真理を突いている。
人は自らを誘惑してくれるような言葉を探し求めるものだが、それと同じように、どこか脳の斜陽の部分でだれかに誘惑されたがっているところがある。やれ一社懸命だ、やれマインド・コントロールだと騒がれたけれど、そうした被洗脳を選ぶ側も最初から会社や教典に洗脳されたわけではあるまい。それは多くの場合、ごく身近に誘惑者がいたのである。直属の上司の場合もあれば、受付で最初に会った信者の場合もあろう。そしてそれを契機におめおめと誘惑されたのは半分は誘惑者のせいであるけれど、残りの半分は常日頃から誘惑されたがっていた自分のせいでもある。
80年代を機にそれこそ教育は誘惑なりと様々な手管(てくだ)が喧伝されたけれど、手管を身につけたからといって商売女は商売女、手に手を取って誘惑し切るには至らない。
例えるなら手管は答え方を教えてしまう。師と呼ばれる者が教えねばならぬのは在り方である。なのに似非(えせ)は応えさせるべきところを答えさせてしまう。すると教わる側も応えるその在り方を学ぶのでなく、答えを求めるようになるのは必然。それが四、五年も続けばいくら銀にも金にも玉にも優れる者とて、鉛に堕ちるのも仕方ない。手管が悪いのではない。手管を用いる女に魅力がないのである。
応える在り方を教えられるのは、自ら応える者のみである。子らの期待に応え、希いに応え、祈りに応える。これなくして応えるその在り方を学ばすことはあたわぬ。期待に希いに祈りに答えてはならぬ。応えるのである。応えずに答えてしまうと教わる側は待てなくなる。待てない子らは待てない大人になり、それが今日の待てない社会をつくり出した。期待と希いと祈りを捨てた者は人との糸を断って自らの殻に閉じこもり決してそこから出なくなる。待たせても待たせても期待を断たせず、希いを断たせず、祈りを断たせずにいられる者こそが誘惑者である。そしてそれは手管のみを追求した者には決して届かぬ境地である。
いうは易く行うは難し。
いつかこんな境地に立ってみたいものである。応える在り方を追い求める復路を歩みたいと切に願う。
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