自信はまったくない
原稿などやはり書けるはずもなく、聴くともなく音楽を流しながら、ふだんのぼくならば無駄な時間とさえ呼ぶであろう、何もしない時間を過ごしている。
学校に行っている時間は良い。そこにはやるべきことのある具体的な時間がある。そしてぼくの指導を、ぼくの指示を、待っている生徒たちもいる。しかし、帰宅してみると、いつもならやるべきことと思えることがやるべきこととは思えなくなってくる。いったい何をしているのだろう……、自分でもよく理解できないままに、時間だけが過ぎていく。
報道を見ても、ネット上を見ても、前向きにとか批判ばかりしていないでとか、どれもこれももっともな意見が寄せられている。感動的な話も少なくない。でも、いま起こっていることは、こんな「意志の世界」というか「意識の世界」というか、何かをする、何かになる、何かをさせるというレベルの話ではないように思う。
例えていうなら、いまはまだ「待つ時期」である。待ちながら目の前の事態を粛々とこなしていくしかない時期なのだと思う。この国の空気として、自発的に、「前向き」とか「批判ばかりしてはいけない」とか「感動だっていっぱいあったじゃないか」とか、そういう流れが出てくるのを待つ時期である。「自ら(みずから)」何かをするのではなく、「自ずから(おのずから)」何かが立ち上がってくるのを待つ、それまで期待せず、祈りもせず、粛々と生きる、それがいま、ぼくらの最も正しい在り方のような気がしてくる。
「さあ、復旧しなければ」というのは当然だが、「さあ、復興に向けて」と本心からいうのにはまだまだ早い。まだまだそんな段階じゃない。この国の空気以前に、ぼくの気持ちでさえ自発的に上を向き始めるのはまだまだ先のことのように思える。
職員室では「まるで映画を見ているようだった」と形容する人が多かった。確かにそういう形容はあり得るだろうと思う。でも、ぼくは多くの日本家屋が波に飲まれる映画など見たことがない。あれは映画のようなどではなかったように思う。もっとリアリティのかたまりだった。もっとずっしりと重い、どろどろしたものだった。
「やろうと思うから判断が難しくなる。こういうときはシンプルにしないと」
プロ野球開催の是非を問う前に、25日の開幕を延期すべきとの私見を述べた星野仙一の言葉である。
「野球をやって励ますとかそういうレベルじゃない。上が決めたらそれに従うだけですけど」
これも開幕延期を求めるダルビッシュの言葉である。
これに対して巨人の清武球団代表は今後のオープン戦や公式戦について、予定通り開催したい意向を示した。
「復興に向けて前に進まなければ。お客さんは入らなくても、プロ野球は前向きに始める、というアピールもある」
こう述べたそうだ。仙台をフランチャイズとする楽天監督の星野仙一、東北高校出身のダルビッシュの言葉だからバイアスがある、という向きもあろうと思う。でも、ぼくには星野やダルビッシュが言ってることのほうが正しいとはいえないまでも妥当な気がする。
被害のない場にいる者が「教師として何ができるか」とか、「子どもたちに何を伝えるか」とか必死になって考えることは、ぼくにはどこかこの巨人の清武代表と重なって見える。いま起こっていることは、「プロ野球は前向きに始める」とか「より良い学校教育とは何か」とかとは関係のない事態なのだ。ダルビッシュのいうように「そういうレベルじゃない」のだ。
かつて武田泰淳は、人肉食で被告とされた船長に「私は我慢しています」「この裁判が私には関係のないもののような気がするのです」と言わしめた。〈ひかりごけ〉
V・E・フランクルは次のように書いた。
私の心は絶え間なく我々の哀れな収容所生活の無数の小さな問題にかかずらっていた。今晩の食事には何が与えられるだろうか? おそらく追加として与えられるであろう一片のソーセージをパンの一片と取りかえた方がよいだろうか? 二週間前私に「特給」された最後の煙草をスープ一杯と取引きすべきだろうか? どうして切れてしまった靴紐の代りに鉄条網の切端をみつけるべきか? 〈夜と霧〉
言葉にならない、ぼくの中にある重くてどろどろしたものが、かつて読んだこうした表現たちを連れてくる。ただ我慢し、耐え、待ち、日常の由無し事に粛々と取り組んでいく。それがぼくらにできるただひとつのことのような気がする。
この論理に、いや論理とはいえないようなつれづれ思考に、自信はまったくない。
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