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〈自立〉と〈依存〉

かつて二年間かけて、〈すごい学級〉をつくったことがある。三十代前半の頃のことである。

〈すごい学級〉といっても、崩壊学級のことではない。文字通り〈すごくいい学級〉である。生活態度はいい。いじめはない。体育大会、合唱コンクール、球技大会、旅行的行事の学年レクなどなど、行事にはすべてこれ以上望めないという熱心さで取り組み、とにかく順位のつくものはすべて優勝。2年生の4月、学級結成時には6学級中最下位だったテストの学級平均も、3年の1学期にはトップに立った。私は生徒からも保護者からも信頼が厚く、やることなすことすべてうまく行く。そんな学級に、私は大きな満足感を抱いていた。

「卒業式で涙を流すなどもってのほかだ。卒業式とは凜として臨むもの。泣くのはあとでいい。」

私の言葉を彼らは真正面から受け止め、卒業式では涙をこらえ、最終学活で合唱コンの優勝曲を二曲、涙声をしみじみと響かせた。

私はその日、

「こんないい学級はもう二度ともてないかもしれない……」

そう思っていた。

いまでも、二年に一度の割合でクラス会がある。私という担任が彼らに「中学校」というものを強く印象づけたのは確かである。

当時の私は、ちょうど、単行本の執筆依頼をいただいたり、研究会提案や講演の依頼をいただいたりし始めた頃で、ノリにノっていた。私はこの学級の成功に「学級経営の勘所も会得したな」などと思い上がったことさえ考えていた。

しかし、彼らが卒業して1年がたった頃、私はこの学級経営が失敗していたこと、しかも大失敗であったことに気づかされることになる。なんと、高校1年生の一年間に、実に40名中7名の生徒が不登校に陥ったのである。

第一報は5月だった。ゴールデンウィーク明け、私のところに卒業生のA子から電話がはいった。

「高校に入学してすぐ、いじめを受けるようになった。担任の先生に訴えたが、何もしてくれない。」というのである。私は彼女を慰め、励ましながら、「なんという高校か」「なんという担任か」と憤りを感じていた。「入学早々のいじめごときをつぶせずして、それでも教師か」と。次は7月、B男とC子である。B男は「いじめられている」と訴え、C子は「なんとなくクラスになじめない。高校になじめない」という。私はやはり憤りを感じていた。「担任に力量がないからだ」と。と同時に、いまだに中学時代の担任に相談する彼らに、なさけなさもまた感じていた。

しかし、2学期に入り、四人目のD子が出たとき、私は気づかざるを得なかった。「これは高校の責任ではない。他でもない、私の責任だ……」と。自分が中学2、3年の担任として、生徒たちに「新たな環境に対応する力」、大袈裟にいうなら「社会を生き抜く力」を育てなかったからだ、と。

思えば、私の学級経営の要諦は、生徒たちのすべてを完全に私の支配下に置くことにあった、と言っていい。人間関係トラブルがあれば私が間に入ってすぐに解決し、学級組織も私の意図通りに動かした。行事は私が先頭を切って場を盛り上げて生徒たちの意欲を喚起し、練習の仕方・ものづくりの方法、すべて私が教えた。家庭学習ノートを全員分用意し、定期的に点検し、わからないところがあると言われれば、自分の教科ではなくても放課後に指導した。1年生のときのいじめられっ子とは、昼休み・放課後に将棋を指しながら信頼関係をつくり、粗暴な問題傾向生徒は私がいじることによって「いじられキャラ」へと変容させていく。こういう学級経営である。

生徒たちは高校に行って、「いじめられた」と感じたり、「学級・学校になじめない」と感じたりした。言うまでもなく、中高生のいじめの対象となるのは、〈その場の空気を敏感に察知して対応すること〉のできない者たちである。彼らは中学時代、少なくとも学級において、〈場の空気〉を読む必要がなかった。自分が〈空気〉を読まなくても、担任がいち早く〈空気〉を察知してだれも困らないように先手を打ってくれるのである。彼らは〈空気〉を読まなくても、私という担任さえ見ていれば、私の言うことさえ聞いていれば、学級に〈居場所〉を確保することができた。それもかなり満足度の高い〈居場所〉を。彼らは在学中、他の学級に羨まれ、他の先生方に褒められ、行事は常に優勝することに鼻が高くなっていた。それは、おとなしめの女の子や少々おたく傾向をもつ男の子にも少なからず見られる、堀学級生徒の特徴だった。

もちろん、全員が全員、このことがマイナスに機能したわけではない。もともとある程度の「自己」をしっかりもっていた生徒、ノリのいいコミュニケーションを得意としている生徒、いまどきのパワフルな女子生徒といった者たちにとっては、私という担任は様々なことを教えてくれ、集団を率いるときのコミュニケーション・モデルとして機能したはずである。しかし、そうしたリーダーシップ、統括力には縁のない生徒たちにとっては、明らかに私の学級経営はマイナスに機能していたのだ。行事の優勝も、様々な褒め言葉も、すべてが〈その場だけの楽しさ〉に堕してしまっていたのである。

長久保裕(日本フィギュア・スケーティング・インストラクター協会副理事長)は常々、「自分以外のいい先生を探してやるのも、先生の大事な仕事のひとつなんですよ」と言ったという(「スポーツ名伯楽が語る教育と指導の奥義」阿部珠樹/「文藝春秋」2006年11月臨時増刊・111頁)。

学校教育に限らず、〈教育〉の目的を端的に言うなら、それは「自立」である。担任も、部活指導者も、親でさえ、その子を一生支えながら生きていけるわけではない。言うまでもないことだ。〈教育〉とは、子どもを「自分で生きていけるようにする営み」なのである。だからこそ大切なのであり、だからこそ尊いのだ。

このことに気づかない、考えたこともない、そういう教師が増えてきている……そう感じているのは、私だけだろうか。いや、おそらく教師だけではない。保護者も、マスコミも、行政も、政治も、このことを忘れている。

まずい。大変、まずい。

最後に、今回、私が述べた構図と、ほとんど同様の構図について述べた、ある精神科医の言の引いておこう。読者の皆さんにも、思い当たるところがあるのではないだろうか(『「普通がいい」という病』泉谷閑示・講談社現代新書・2006年10月・30頁)。

「精神療法やカウンセリングの場面でついついセラピストは、クライアントの悩み・苦しみをどうにかしてあげようと、自分の考える答えを教えたくなってしまう。しかし、それはクライアント自身の、葛藤を持ちこたえる力を育てないどころか、自分自身で答えを見つけ出す力を退化させてしまい、セラピーへの依存を作ってしまうことに なります。/ちょっと「脚が痛い」と言っているからと、リハビリすれば十分歩けるようになる人に車椅子を提供するような治療やカウンセリングほど、治療者の方では、すごく治療してあげているような自己満足を感じるものです。しかし、これが大きな罠なのです。治療熱心な治療者ほどこの失敗に陥りやすいのですが、治療者自身が患者さんに「治 療依存症」を作る元凶になっているこ とに気付かない。ドラマの「赤ひげ」よろしく、私生活をほとんど犠牲にして、それで自分はたくさんの患者さんの役に立っていると密かに満足をしている。でも患者さんはなかなか治らないものだから、患者数だけがどんどん増えて、どんどん頼りにされて、忙しくなる。その治療者はこれまた密かに、自分の腕が良いので繁盛していると錯覚する。こういう困った悪循環もよく見られます。」

※BILLY VERA & THE BEATERSの「YOU'VE GOT ME」を聴きながら……。

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BILLY VERA & THE BEATERS

2002年に出たベスト盤である。 いまだに「AT THIS MOMENT」を聴くと、泣きそうになる。別にこの歌にまつわる想い出があるわけでもない。純粋にこの曲には感動してしまう。BILLY VERAって、いま何してるんだろう。新譜が出るという話も聞いたことがないし。出れば絶対に買うんだけどなあ。

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