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2011年3月

ふう。

ふう。

やっと講座資料ができた。あとは印刷するだけである。

月曜日はリフレッシュ休暇で、朝から晩まで講座準備。ただひたすら由紀さおりのベスト盤を流しながら、2日(土)の国語の講座2本をつくる。

火曜日は朝から出勤。今年度も3学年分の道徳・学活・総合の実績を眺めながらどの学活がカットできるかを考えたり、今年度の生徒会関係の文書ファイルを整理したり。夕方からは2日(土)の学級づくり講座、3日(日)の学級崩壊対策講座をつくる。

今日は朝から出勤。次年度の国語科時数打ち合わせと新年度事務の準備。午後からはリフレッシュ休暇で3日(日)の国語の講座準備。昨日と今日の音楽はポール・サイモンのベスト盤。なぜこんなにも素晴らしいのかと、何度も聴き惚れてしまいそうになる。

すべてのプリントアウトを終えて、やっとゆっくり寝られそう。

明日の午前中もリフレッシュ休暇なので、今日はちょっとだけテレビを見ることにしよう。

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ブログの更新どころではない

ブログの更新どころではない。

先週末に中学校学級経営セミナーを終えて、月曜日からずーっとPCに向かい続けている。昼間もPC、夜もPC。気が狂いそうである(笑)。

昼間は出勤しながら、夕方からは週末の講座の準備である。なにせこの週末には講座が7本ある。三つの研究会を掛け持ちなのだ。それでも昨日までで5本の準備を終えた。あと2本。やっと人心地。なんとか間に合いそうである。

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気のせいだったのだろうか……

校内人事が佳境。毎年のことだが、最後までばたばたする。気持ちよく、すっきり終わるということがない。まだまだ二転三転しそうである。

今日は要録点検のあと、送別会準備。21時までかかる。

加藤智大に一審判決。もちろん死刑である。控訴審も上告審も死刑だろう。まあ、上訴すればの話だが。

法律が変わらない限り、加藤が死刑を免れることはない。加藤が生育歴や更正可能性、精神鑑定結果を理由に減刑されるとすれば、少なくともこの20年に死刑が確定したり執行されたりした者たちの判決のほとんどが怪しくなる。それでも死刑というのはオウム関連と宅間守くらいだろう。先日の元少年3人に下された最高裁判決だって覆さねばならなくなるだろうし、永山則夫や宮崎勤の執行もだいぶ怪しくなる。

それでもぼくは、加藤智大が、本人も自覚しないうちに、時代の、教育の犠牲者としての側面をもつと感じている。派遣労働問題とか、キャリア教育問題とか、偏差値教育問題とか、そういう犠牲者ではない。もっと大きな、この国の豊かさが蝕んでしまった、「人間関係をつくる力の喪失」とでもいうべきものの犠牲者である。

もちろん、そんな人はたくさんいるのに通り魔にはならないと言われれば、それまでである。

しかし、彼が今後たどるであろう、これから死刑が確定し、社会をを震撼させるような新たな通り魔事件が起こったときにその見せしめのように執行される……という未来に、なんともすっきりしないものを感じてしまうのである。

先日、東京に行ったときに、秋葉原事件の現場に立った。道行く人々に笑顔はあったけれど、まだ3年も経たない現場には、どことなくかつての「あの事件」の現場であるという空気が残っているように思われた。気のせいだったのだろうか……。

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安田シスターズ

安田シスターズのコンサートに行ってきた。

Yy24th_s白秋・雨情のコーナーが素晴らしかった。こういうときにしみじみと聴けるのはこういう歌なのだなあ……とつくづく感じさせられた。今後、被災地をアカペラでまわるのだそうだ。被災地をまわるのにこの二人ほどふさわしい歌い手もいまい。

終演後は客席の通路を通ってロビーに立ち、客を見送る。二人と握手もすることができ、ほのぼのとした一日になった。芸能人と握手するなんて、10年以上前の岩崎宏美以来である。近くで見ると、二人ともいい年の取り方をしているなあ……と感じた。

年末には紅白で「ふるさと」を歌って欲しい。震災に沈んでいるこの国の人々には、二人の「ふるさと」が必要である。

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せめてパラレルワールドを信じたいものである

20日(日)

朝、すっきりと目覚める。久し振りに朝食を食べようと部屋を出る。各部屋の前にプラスティックのボールが転がっている。なんだろう……と不思議に思う。和食を中心にバイキングで朝食を済ませ、珈琲を二杯飲む。

窓から昨夜のバーの入り口が見える。あの二人のOLは今頃何をしているだろうか、なんてことを考える。昨夜はメイク以外のことにも問題意識はもっているだろうに、せっかくバーでうまいカクテルを飲みながら、そんな話題しかないものなのかと思ったものだが、二人の人間関係ではあの話題が一番無難だったのかもしれない、なんてことを考えてみたりもする。いずれにしても読書に集中させてくれない二人の喧噪は迷惑だった。それともバーで本を読もうとするぼくが変なのだろうか。

シャワーを浴びて、部屋を出ると、ドアの前のボールがぼくの部屋の前にしかない。そうか。まだ部屋に人がいるという合図だったのか。しかし、それがプラスティックのボールとは……。軽く見られたものである(笑)。もう少し何かアイディアがないのだろうか。あんなふうに客に見える形ではないアイディアが。

荷物をごろごろ転がしながら10分ほど歩いて目的地へ。実は今回の東京行きは免許更新制度の試験である。二つ目の試験、「行動科学概論」の試験問題が良い問題だった。行動科学のある理論を用いて自己分析し、800字程度で論述せよ、というのである。テキスト持ち込み可というから、すっかり知識を問われる、要するに用語レベルでの試験だと思っていたのだが、論述試験。それも骨のある課題である。とても楽しい60分間だった。

終了と同時に電車に乗り、山手線、モノレールと乗り継いで羽田へ。飛行機は18時50分なのだが、うまくいけば前の便に変更がきくかもしれない。急いだ甲斐あって1本前の便に変更してもらった。飛行機の中で再び「パン屋再襲撃」。

「象の消滅」という短編に泣けた。飛行機の座席で文庫本を読みながら泣いているひげ面の中年男という異様な図である。この度の震災の被災者もこの象と飼育員のように幸福なパラレルワールドに移行したのだったら良いのに……。そう思わずにはいられなかった。きっとぼくらが知らないだけでもう一つの世界はあるに違いない。そう信じたいものである。

千歳に着くと、妻からの着信履歴がある。電話をしてみると、気仙沼の友人から連絡があったという。奥さんもお子さんも無事で、避難所にいるという。ただ、自宅も実家も津波に流され、実家のお母さんは行方不明だともいう。良かったという思いとともに、なんとも言葉にならないざらりとしたものがわいてくる。ついに怖れていたことが……。これまで連絡のついたぼくの友人も、ぼくの友人の関係者もだれ一人亡くなったとか行方不明だとかいう人はいなかった。しかし、これまで連絡のついた人たちはみんな仙台市内だった。しかし、気仙沼ということになると、そうはいかなかったようである。

いよいよ、被害のなかった札幌に住んでいるぼくのところにも、抽象的な哀しみではなく、具体的な哀しみが襲ってきたようである。自分に何ができるか。募金というレベルではない、具体的な手立てを考えるデリケートでもあり、蟻地獄のようでもある喪失感がやってきた。

せめてパラレルワールドを信じたいものである。

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秋葉原と浅草橋と二人のおばちゃん

19日(土)

上京するため新千歳空港に向かう。自家用車での移動である。ちょうどカーステレオで80年代のオムニバス盤がかかり始め、気分じゃないなと想いながらも懐かしいヒット曲たちを聴いていた。

ジョン・レノンから始まり、デュラン・デュラン、イエス……、どれも聴くともなしに耳に入ってきている……という感じだった。ところが、ちょうど高速に乗って恵庭インターを過ぎるあたり。シーラ・Eの「ザ・グラマラス・ライフ」が流れ始めた。続いてチャカ・カーンの「フィール・フォー・ユー」も。なんとなく気分がというか、身体の奥がというか、躍動の方向に少しだけ移動するのを感じた。音楽の力といおうか、リズムの力のいおうか。いずれにしても、少しだけ元気になった。

両方とも、歌詞をみるとどうということもない曲である。いや、楽曲自体がいかにも80年代的なダンス・ミュージックに過ぎない。それなのに、この二曲はぼくの中に何かを生み出してくれた。この両者、ぼくはかつてライヴに行ったことがある。シーラ・Eは東京で、チャカ・カーンは札幌で。そのときの興奮を躰が覚えていて、それが気分を高揚させてくれたのだと思う。なんとなく、これからいいことあるぞ、という気分にしてくれた。音楽の力だけでなく、記憶の力でもあるのだろう。

空港に着くとチェックインを済ませ、早々に出発ロビーに入り、喫煙所で村上春樹の「雑文集」の頁を繰る。ワンフレーズ読んでは少し考え、少し考えてはまたワンフレーズ読み、遅々として進まないいつもの読書の仕方。特にオウム真理教関連の記述がおもしろく、時の経つのを忘れた。待ち時間も、飛行機の中でも、モノレールでも山手線でも読み続けた。すっかり村上春樹にはまってしまい、羽田で「パン屋再襲撃」の文庫本も買った。かつて読んだことがあるのだけれど、まあよいだろう、そう思って。

ホテルは秋葉原。チェックインと同時にこの3連休でどうしても書かなければならない雑誌原稿を1本書く。夕方になって食事をと思い、秋葉原をぶらぶら。でも、大衆居酒屋ばかりでぼくの好きなこぢんまりした汚い(?)居酒屋がない。カウンターに座って大将やおばちゃんと話ができるようなタイプの居酒屋である。30分ほどぶらついたが、声をかけてくるのは女子大生専門クラブとメイドカフェのビラ配りばかりである。残念ながらそういう趣味はない。

ふと、夏に浅草に演芸を見に行ったあとにふらりと入った、おもしろいおばちゃんの居酒屋を思い出した。そういえば、おばちゃんと話し込みながら5時間くらい日本酒を飲んだっけ。確か浅草橋駅の近くだったはず。しかも秋葉原と浅草橋は駅一つの距離である。タクシーを拾って移動。道路を眺めながら、これが本当に東京かと思うような暗さに驚く。看板にネオンの類がいっさい灯っていないのである。運転手さんに訊くと、節電への協力でどこもネオンを灯すのを控えているのだという。東京中がこんな感じだともいう。

浅草橋に着いて、これまたしばらくぶらぶら。店を探す。たしかこのへん、たしかこのあたり、こんな感じの入り口だったのでは……と探すこと20分ほど。しかし、店は看板はあるものの、営業していなかった。隣にいた客引きに尋ねると、年末に店を閉めたという。そうか。夏も5時間、客はぼく一人だったものな。それにしてもあのおばちゃん……というか、もうおばあちゃんだったけど……に逢いたかったなあ。

結局、浅草橋駅で電車に乗り、秋葉原にとんぼ返り。駅近くのラーメン屋で夕食を済ませ、ホテルの斜向かいにあるバーにはいる。カウンターに座り、マッカランのロックとチーズ。そこで「パン屋再襲撃」を読みながら過ごす。一つ置いて座っているOLとおぼしき二人がうるさい。相手の男のタイプによってメイクの方法を変えねばならないという話を延々としている。

ホテルに戻り、マッサージを呼ぶ。ゴリラみたいなおばちゃんはこれまでで一番というほどの腕。会津若松出身だそうで、今回の震災に胸を痛めていた。いろんな話をしながら、60分間、疲れを癒してもらう。おばちゃんが帰ったあと、PCの麻雀を2ゲームやって就寝。

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なんと哀しいことであろうか

授業は3時間。すべて2年生の国語。3つとも漢字テスト。

空き時間は旅行業者が来て修学旅行の見通しについて打ち合わせる。予想していたことだが、見通しが立たないとのこと。素人は原発問題をはじめとして、道路・JR・ホテルのことばかりを心配するのだが、例えば、駐車場が救援車両の拠点として借り上げられていて小岩井農場が休園しており、打ち合わせが持てなくて見通しが立たないといったタイプの不明確な要素がたくさん出てきているらしい。なるほどな、と思う。

明日、1週間延びた東京行きがあって、今日の学年の送別会には出席できなくなった。4月から楽しみにしていたイベントの一つではあったのだが、こういう事態だから仕方がない。気を取り直して、東京往復のチケットを受け取った。

給食に肉じゃがが出た。ぼくはあまりじゃがいもが好きではないので、給食の肉じゃがは正直、あまり好んでいない。思わず「ああ、肉じゃがか……」という言葉が口をつきそうになって、はっとした。いま、これを出せば「有り難い」と喜んで食べるであろう人たちが東北に40万人いるのである。好き嫌いはともかくとして、給食の肉じゃがは温かい。彼らにしてみればそれだけで希少価値であるはずだ。

おそらくは10秒にも満たないこんな思考の過程を通じて、「人間とはなんとどうしようもないものよ」と自嘲せざるを得なかった。

日本中がこんなふうに自分を戒める生活が始まって、まる1週間がたった。避難所に避難した方や病院で治療を受けていた方々が、復旧の見通しの立たない混乱の中で亡くなり始めている。あの津波から命からがら逃げ延びたというのに。生きていて良かった、助かって良かったと感じたはずの人たちさえ亡くなっていく。なんと哀しいことであろうか。

今日は、死亡が確認された人数だけで阪神・淡路を超えたという報道もなされた。家族から知らせがあった行方不明者だけで1万人を超えたとの報道もなされた。なんと哀しいことであろうか。

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思考の高度

沼澤先生が珍しくブログで怒りを顕わにされている。

私の知る限り、沼澤先生は温厚な人格者である。ブログの内容にも内省が多い。内省の多い方は信用できる。私のなかで既に疑われることのないテーゼになっている。その彼がブログで外に向けて怒りを顕わにしているのだから、言葉はやわらかながらかなり腹に据えかねたのだろうと推測する。

怒りの対象は石原慎太郎都知事の震災に対する発言である。

日本人のアイデンティティーは我欲になった。政治もポピュリズムでやっている。津波をうまく利用してだね、我欲を1回洗い落とす必要があるね。積年たまった日本人の心のアカをね。これはやっぱり天罰だと思う。(詳しくはこちら

これを受けて、沼澤先生は短い記事を次のように閉じている。

世の中に言ってはならない言葉は多くないかもしれないが、時と場合を考えることが最低の条件でもある。そんな自制のない言葉遣いでトップが務まるものなのか。今は批判などしている時ではない、また「寛容」の精神が大切だという。それらを承知しながら、私も結局言いたいことを記したのかもしれない。しかし、これは言うべきことという思いも強い。

誤解を怖れずに言えば、被災者の心情の問題は別として、石原都知事のように日本人の現状を評する解釈は「ありえる解釈」である(もちろん、私は賛成しない)。おそらく石原都知事のように考えているタカ派やある種の民族原理主義者はけっこういるのだろうと思う。

これまた誤解を怖れずに言えば、被災者の心情だけを基準にこの度の震災を考えるよりも、石原都知事のような国家的視座、民族的視座からこの度の震災を捉える「解釈」のほうが、メタ認知する〈思考の高度〉としては高いのかもしれない。それを暗に示すかのように、本人としては表現のきつさを緩和するつもりで、「津波をうまく利用してだね、我欲を1回洗い落とす必要があるね。積年たまった日本人の心のアカを。」といった情意表現を駆使しているのだろうと思う。「積年たまった日本人の心アカ」という言い方にも、あくまでも被災者のことを言っているのではなく、歴史的な日本人論としてですよ……、ちゃんとコンテクストまで読み取ってよ、というような配慮が見られなくもない。

この国は思ったり考えたりすることは自由な国であるから、好みの問題はあるにせよ、また軽蔑することもできるにせよ、石原慎太郎という個人が今回の震災にこういう解釈を施すこと自体は、だれも否定できない。しかし、これを口に出して表現してしまうとそうはいかない。公人としては都知事の公式見解ととられかねないし、百歩譲ってたとえ私人としての発言だとしてもデリカシーが欠けていると非難されて然るべきであろう。

石原都知事は政治判断をするときでさえ半分以上自身の美学的見地から判断しているようなところがあって、それが一つの魅力となって都民の支持を得てきたところがある。知事の放言・失言も都知事としての、公人としての発言というよりは、本人のメンタリティとしては作家石原慎太郎が言ってしまったことが非難されてきたという経緯もある。石原都知事が本気でこういう解釈を美学的に信じ込んでいて、たまたまデリカシーを欠いた発言をしてしまったのだとすれば、私もこの発言をデリカシーの問題として片付けてもいい。民族主義的な歴史解釈としては後にそういう解釈も様々な解釈の一つとしてはあり得るかもしれませんね、と……。

しかし、今回の会見での発言はそうではないと思う。石原都知事は自らの持論を展開するために、今回の震災を利用する発言をしたのではないか。そうでなければ、この文脈の中で「津波をうまく利用してだね」という言葉遣いが出てくるのはどうも納得いかない。

本気でこのような〈思考の高度〉から見ることを信条とし、こうした大局的な自然法則による、いわば「いっちゃってる見解」を信じ込んでいる人ならば、それはあくまでデリカシーの問題である。私も決してデリカシーのある方ではないので、というよりもデリカシーというものをそこまで重く見なければならないという価値観をもつ者ではないので、つまり、世の中にはデリカシーを欠いてでも発言しなければならないことはあると考えるタイプなので、そうした表現主体の心的構造はわからないでもない。

しかし、自らの持論を展開するために、日常的に感じている国民への不満を解消するために、つまりは自己主張や自己顕示欲のために、この度の数万もの被害者が出ることのもはや決定的になってしまった国家的災厄を〈利用〉しようとしたのだとすれば、しかもその渦中において〈利用〉しようとしたのだとすれば、それは都知事としてどころか、人としてあさましい行為と言わねばならない。これは〈思考の高度〉の高い人間がよく陥る自己欺瞞構造の代表である。

沼澤先生がお怒りになるのも理解できるというものである。

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綱渡りである

昨日、なんの理由もないのに夜更かしをしてしまい、今朝起きるのがつらかった。体調は最悪である。午前中の授業は確か4連発。覚悟して出勤。1時間目をなんとか終えて2時間目の学級に向かうと、なんと国語ではないという。そうか。授業が足りないからと、他教科の先生に授業をあげたのは今日だったか……。手帳を見ると、2時間目も3時間目も授業をあげてしまっている。一気に楽になった。

1時間目も4時間目も2年生の国語で小学校5年生の漢字テスト。事前練習をしっかりやっているので、まずまずの出来である。しかもぼくは教卓に座っているだけで楽ちんである。というわけで、とても楽な一日を過ごした。空き時間はテストの採点をしたり、次年度の時数について検討したり。

放課後は職員会議。新年度日程や年度計画、入学受付・始業式・入学式・参観懇談その他もろもろ。とはいうものの、ほとんどお決まりの事項なのでスルスルと進んでいく。職員会議が終わり次第退勤して、雑誌原稿を執筆。さすがにもう書かないと編集者を泣かせてしまう。教育技術などについて考える気分では全然ないけれど、1時間ほど格闘してなんとか仕上げて送付。綱渡りである。

※太田裕美の「袋小路」を聴きながら……。

41icpa2tm7l__sl500_aa300_心が風邪をひいた日

太田裕美/1975

もう何度も書いているけれど、太田裕美のルックスと声を愛している。「清楚」という言葉がこれほど似合うルックスも、舌足らずでありながら高音が伸びる歌声も、太田裕美以外にはない。2曲目「袋小路」が好きである。

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研究と実践とを融合する

名人教師と評される教師、何冊も本を書いている教師、研究授業が参観者であふれかえる教師、そしてあなたの周りにいる尊敬すべき先輩教師。みんな若いときから努力を続けてきたのです。子どもたちの成長を願う教師ならば、自らが成長し続けることを怠ってはなりません。

第1条 自らを発信の場に置く

学級通信・研修通信・校内研究集録・地元研究会の研究集録……教師には発信の場がたくさんある。発信しようとする教師は情報を集める。勘違いされがちだが、決して情報を持っているから発信できるのではないのだ。まずは自らを発信の場に置くこと。これこそが成長する教師の絶対条件である。

第2条 校内研究に積極的に取り組む

どんなに面倒だと思っても、どんなに自分の興味とかけ離れていても、自分の実践の場に最も近い実践研究の場は校内研究である。これを怠ってはならない。その時々に懸命に実践したことが、将来、必ず花開く。

第3条 地元の研究会に積極的に取り組む

同じ論理で地元の研究会(市教研など)も大切にしたほうがいい。地元の先達と知り合うことのできる場である。

第4条 民間の教育研究会に顔を出す

時間とお金に余裕があれば、テーマに興味を惹かれた民間の教育研究会に参加することをお勧めする。玉石混淆ではあるが、全国的な「超一流」に出逢える場は民間研究会を措いて他にはない。

第5条 学習指導要領は暗記するくらい読む

私たちの教育活動は教育基本法や学校教育法によって規定され、生徒に伝えるべき指導事項は学習指導要領によって規定されている。私たちはこれを深く理解したうえで日常実践に取り組まねばならない。

第6条 大学研究者の研究にも目を通す

私たちはついつい日常実践に埋没してしまい、今日の授業、明日の行事のことばかり考えて過ごしてしまう。自分でも気づかぬうちに視野が狭くなってしまうのだ。研究者の研究に目を通すことは、この実践埋没を避けられるという効果がある。たまには「これからの教育」について、「壮大な未来像」について思いを馳せることも必要である。

第7条 研究・実践の目的をぶれさせない

研究にしても実践にしても、それが生徒たちのためになっているかという視点で常に見つめ続けることが必要である。目的はあくまで生徒たちに力をつけることであり、生徒たちの人格陶冶に寄与することなのである。これを見失ってはいけない。

第8条  自分の実践を整理する

定期的に自分の実践を整理することを怠ってはならない。実践はやりっ放し、垂れ流しでは身につかない。成果と課題とを自分の頭で整理して次へとつなげていく、その繰り返しが教師に成長を促すのである。

第9条 若いうちは金を惜しまない

若いうちは金を惜しんではならない。どうせ結婚して子どもができれば、自由に使える金などほとんどなくなってしまうのである。若いうちにどれだけ学ぶ機会をもったか、そしてそれを蓄積したか、それが教師人生を決める。そして学びには金がかかるのである。

第10条  ライフワークとなる趣味をもつ

仕事一辺倒の人間になってはならない。「自分の趣味は○○です」とはっきりいえるくらいの趣味をもつことが大切である。次第にその趣味が仕事にも役立つようになっていく。サッカーのフォーメーションから学級組織の構造を考えたり、ジャズのアドリブ論から学級経営のゆとり理論ができたりということが世の中には少なくない。

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晴れて忘れることができる

昨日の卒業式を終え、今日は通常の5時間授業。送別集会を終えたばかりだというのに、放課後は既に生徒会役員と新入生歓迎会の企画会議である。忙しいというわけでもないのだ゜が、やることがあるというのは良いことである。

授業は4時間。1年生書写は5年生の漢字。2年生の国語3時間は一つが「走れメロス」のビデオの後半、二つは漢字である。今日は2年生にいよいよ入試を見据えた話をした。生徒たちは真剣に耳を傾け、くそ面白くもない漢字練習に真剣に取り組んだ。空き時間は漢字テストの印刷を1000枚以上。何度かの印刷機のトラブルでけっこうな時間がかかった。

昨日の卒業式は途中で車を飛ばして、前任校の卒業式を見に行った。上篠路中学校である。担任していた小さな男の子の背がずいぶんと伸びていたり、大声を張り上げて返事をする男の子がいまだに不必要な大声で返事をしていたり、生徒というのは、いや、人間というのは2年くらいではそう変わりはしないのだということがよくわかる。

学級減に伴い、1年生のときに組んでいた学年の先生3人がいまは3年生を担任している。馴染み深い3人の担任が呼名しているのを見ていると、自分がそこにいないことが不思議な想いがしてくる。あの3人とともに、ぼくは4年間、いくつもの壁を乗り越えたのだったっけ。遠い昔のことのような気もするし、つい最近のことだったような気もする。ほんとうは生徒たちの歌が聴きたかったのだが、全員の卒業証書授与を見たところで失礼する。

この子たちが卒業すれば、ぼくは晴れて上篠路を忘れることができる。

勤務校の卒業式は滞りなく進んだ。落ち着いた、愛される3年生だった。学年団の結束力も高く、敬意を表する。生徒会役員の6人以外とは接することのなかった生徒たちだったが、間違いなく良い学年だった。自分の所属する2学年も、最近、新たな落ち着きを示している。一段階大人になったな、と感じられる今日この頃である。

※中島みゆきの「キツネ狩りの歌」を聴きながら……。

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中島みゆき/1980

名盤である。松山千春と中島みゆきが北海道の誇りと感じられた頃の、代表的な秀作である。ちょっと他のアルバムとは比べられないような、未熟さ故のパワーみたいなものが感じられる。中島みゆきの一つの頂点である。

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自信はまったくない

原稿などやはり書けるはずもなく、聴くともなく音楽を流しながら、ふだんのぼくならば無駄な時間とさえ呼ぶであろう、何もしない時間を過ごしている。

学校に行っている時間は良い。そこにはやるべきことのある具体的な時間がある。そしてぼくの指導を、ぼくの指示を、待っている生徒たちもいる。しかし、帰宅してみると、いつもならやるべきことと思えることがやるべきこととは思えなくなってくる。いったい何をしているのだろう……、自分でもよく理解できないままに、時間だけが過ぎていく。

報道を見ても、ネット上を見ても、前向きにとか批判ばかりしていないでとか、どれもこれももっともな意見が寄せられている。感動的な話も少なくない。でも、いま起こっていることは、こんな「意志の世界」というか「意識の世界」というか、何かをする、何かになる、何かをさせるというレベルの話ではないように思う。

例えていうなら、いまはまだ「待つ時期」である。待ちながら目の前の事態を粛々とこなしていくしかない時期なのだと思う。この国の空気として、自発的に、「前向き」とか「批判ばかりしてはいけない」とか「感動だっていっぱいあったじゃないか」とか、そういう流れが出てくるのを待つ時期である。「自ら(みずから)」何かをするのではなく、「自ずから(おのずから)」何かが立ち上がってくるのを待つ、それまで期待せず、祈りもせず、粛々と生きる、それがいま、ぼくらの最も正しい在り方のような気がしてくる。

「さあ、復旧しなければ」というのは当然だが、「さあ、復興に向けて」と本心からいうのにはまだまだ早い。まだまだそんな段階じゃない。この国の空気以前に、ぼくの気持ちでさえ自発的に上を向き始めるのはまだまだ先のことのように思える。

職員室では「まるで映画を見ているようだった」と形容する人が多かった。確かにそういう形容はあり得るだろうと思う。でも、ぼくは多くの日本家屋が波に飲まれる映画など見たことがない。あれは映画のようなどではなかったように思う。もっとリアリティのかたまりだった。もっとずっしりと重い、どろどろしたものだった。

「やろうと思うから判断が難しくなる。こういうときはシンプルにしないと」

プロ野球開催の是非を問う前に、25日の開幕を延期すべきとの私見を述べた星野仙一の言葉である。

「野球をやって励ますとかそういうレベルじゃない。上が決めたらそれに従うだけですけど」

これも開幕延期を求めるダルビッシュの言葉である。

これに対して巨人の清武球団代表は今後のオープン戦や公式戦について、予定通り開催したい意向を示した。

「復興に向けて前に進まなければ。お客さんは入らなくても、プロ野球は前向きに始める、というアピールもある」

こう述べたそうだ。仙台をフランチャイズとする楽天監督の星野仙一、東北高校出身のダルビッシュの言葉だからバイアスがある、という向きもあろうと思う。でも、ぼくには星野やダルビッシュが言ってることのほうが正しいとはいえないまでも妥当な気がする。

被害のない場にいる者が「教師として何ができるか」とか、「子どもたちに何を伝えるか」とか必死になって考えることは、ぼくにはどこかこの巨人の清武代表と重なって見える。いま起こっていることは、「プロ野球は前向きに始める」とか「より良い学校教育とは何か」とかとは関係のない事態なのだ。ダルビッシュのいうように「そういうレベルじゃない」のだ。

かつて武田泰淳は、人肉食で被告とされた船長に「私は我慢しています」「この裁判が私には関係のないもののような気がするのです」と言わしめた。〈ひかりごけ〉

V・E・フランクルは次のように書いた。

私の心は絶え間なく我々の哀れな収容所生活の無数の小さな問題にかかずらっていた。今晩の食事には何が与えられるだろうか? おそらく追加として与えられるであろう一片のソーセージをパンの一片と取りかえた方がよいだろうか? 二週間前私に「特給」された最後の煙草をスープ一杯と取引きすべきだろうか? どうして切れてしまった靴紐の代りに鉄条網の切端をみつけるべきか? 〈夜と霧〉

言葉にならない、ぼくの中にある重くてどろどろしたものが、かつて読んだこうした表現たちを連れてくる。ただ我慢し、耐え、待ち、日常の由無し事に粛々と取り組んでいく。それがぼくらにできるただひとつのことのような気がする。

この論理に、いや論理とはいえないようなつれづれ思考に、自信はまったくない。

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卒業式総練習

朝から第40代、41代の二人の生徒会長と送辞・答辞の打ち合わせ。式の流れの確認、合唱練習、そして卒業式総練習と続く。全校生徒が下校したのち、二人の生徒会長とともに送辞・答辞の練習。震災発生に伴って、原稿を少し書き換える。二度ずつ練習したところで切り上げ、生徒を下校させる。最終打ち合わせの後、13時10分で年休をとって帰宅。

宮城県で2000人前後の遺体が浜辺に打ち上げられたという。第一原発3号機も水素爆発を起こしたという。道路が寸断され、援助物資を届けるペースも昨日までとほとんど変わらないという。計画停電の混乱も始まったとのこと。被害がどこまで拡大するのかわからない状況がまだ続いている。

ぼくはこの土日に仕上げる予定だった雑誌原稿に取り組んでいる。

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切に祈る

阪神・淡路大震災/死者 6,434名/行方不明者 3名/負傷者 43,792名

地下鉄サリン事件/死者 13名/負傷者 約6,300名

これからどうなるんだろう……/だれもが不安を感じていた1995年/きみたちはだれもが祝福した/この国の希望だった

復興に向けて

ちまたではこんな曲が流行っていた……

阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件の報道映像のあとにこのメッセージを流して、「ズルイ女」「Man & Woman」「Tomorrow」「ロビンソン」「Love Love Love」の5曲に載せて、3年間の想い出のビデオ・スライドを流す。これが送別集会の映像だった。23分ほどである。

3年生の生徒たちに、この国が不安に包まれた中で自分たちが産まれ、だれもが自分たちに希望を託していたのだということを知って欲しい。そういう想いを込めてつくったものだ。その送別集会の真っ最中、全校生徒・全職員が体育館に集まるなかで、あの長い地震が起きた。まさかこんな形で、この国の哀しみと、そしてこれからおそらく為されるであろう復興に向けて、新たな命に希望を託すという心象を、彼らが実感するであろうことなど予想だにしなかった。なんとも複雑な気持ちである。

ついさっき、煙草を買いに近くのコンビニに行った。金曜日の夕方に帰宅して以来、初めての外出である。札幌には日常があった。近くに住む、もう80をゆうに超えたおじいちゃん、おばあちゃんが温かい陽射しの中で家の前の氷を割っている。北海道にやっと春が訪れつつあることを垣間見せる光景である。

彼らにはこういうときこそ日常を過ごすことの大切さが染みついており、そのとおりに行動するという、いわば〈倫理〉があるように思う。自分のできること、やるべきことに取り組みながら、ただただ時が過ぎるのを待っている……、しかし、今回の震災で自分に何かできることが見つかればいつでも応える用意はもっている……そんな〈倫理〉である。

記者会見の度に枝野官房長官の表情に疲れがにじみ出る。不眠不休の緊張感ももう3日目である。頭の下がる想いである。各地で死亡が確認されたり行方不明になった地域のお巡りさんが報道され始めている。おそらく避難誘導をするうちに、或いは逃げ遅れた人たちを探すうちに波に飲まれたのだろう。少し落ち着けば、これから消防や自衛隊の報道も始まるはずだ。そして授業中の子どもたちをなんとか助けようとした教師の姿も報道されることだろう。そういう非常事態においては、命を賭けなければならないのが公務員の立場である。そのことを我々はまた実感することになる。その覚悟のない者は公務員になってはいけないのだ、と。

テレビを見ていると、避難所となっている学校の校長先生や教頭先生が電話を通じてコメントを寄せている。いま何が必要である、何が足りないと声をあげている。さきほど函館の藤原くんと連絡をとったが、津波の影響の出た地域では校区巡視をしている。岩手の佐藤正寿さんのブログを読むと「これから遠く離れた職場に向かいます。教師としてすべきことに力を尽くしたいと思います。」との言葉があった。ぼくは自宅である。札幌が被害のなかった、安全な場であったことを実感させられる。

もう阪神・淡路を超えてしまうことが決定的になってしまった国家的災厄のなかで、一人でも多く救出されることを切に祈る。

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気仙沼

今日は上京の予定だったが、空路欠航のため一日中家にいる。朝から今の今までテレビにかじりついていた。テレビ朝日の気仙沼の映像には背中が寒くなった。自分の歩いた場所が波に飲み込まれていく。海沿いのホテルに200人が避難とのこと。おそらくぼくも泊まった観洋だろう。暖もとれないとのこと。夜中の火災の映像もすさまじいものがあった。まるで空襲を受けたような火の手だった。なんてこった……。ただただ茫然とするだけである。

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どうかご無事で

気仙沼で大きな研究会に二度招かれた関係で岩手・宮城には知り合いがたくさんいます。ネットワーク大会に招かれた関係で福島にもいっぱいいます。大内善一先生関係で茨城にもたくさんいます。どうかご無事で。

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卒業式まであと2日

1時間目は1年生書写で5年生の漢字。空き時間2時間は同僚と話し込む。4時間目は2年国語で「走れメロス」のビデオ。4時間目が終わり次第すぐに給食を食べ、体育館に行って送別集会準備。整列が思いの外早く終わり、予定していた時刻よりも10分早く送別集会が始まる。集会中に何度も地震が来て一時中断も余儀なくされたが、会はそれなりに進み、1時間15分ほどで終了。余震が続いたため、急遽完全下校に。

生徒たちはリハーサル通りに仕事に取り組み、地震以外は大きなトラブルもなし。まずまずの送別集会だった。完全下校で予定していた卒業式の送辞・答辞の練習ができなくなったが、まあなんとかなるだろう。

卒業式まであと2日である。

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今日感じたこと5つ

坂上二郎が亡くなった。76歳。脳梗塞。今朝の9時40分。ちょうどぼくが2年2組でテスト形式で漢字練習をさせて、解答を配付していた頃である。ショックだ。ハナ肇のときもいかりや長介のときも谷啓のときも同じようにショックだった。子どもの頃にぼくらを腹の底から笑わせてくれた芸人たちが、一人、また一人と旅立っていく。これで植木等とか萩本欽一とか加藤茶とか志村けんとかが亡くなったら、ぼくはもっとショックを受けるのだろうと思う。と、こんなことを考えていると、ふと、「のっぽさん」こと高見映が亡くなったら、ぼくは立ち上がれないほどショックを受けるだろうと思った。ほんとうに子どもの頃から「のっぽさん」と「ゴン太くん」が大好きだったっけ……。

リンチで4人を殺害した18~19歳の少年たち3人の死刑が確定した。平成6年の事件である。ぼくが日常的に接している中学生と3つ4つしか違わないなあ……と思ったときから、この裁判の経緯をずーっと注目してきた。被害者もいることだし、死刑廃止論者でない限り、この司法の判断にだれも明確に反対することはできないだろう。しかし、この判断に無条件で賛成する人もなかなかいないのではないか。少年……。そして3人いっぺん……。どちらも重い重い判断である。

ヴィジョンを語る校長がいなくなった。部下に意気に感じさせる校長がいなくなった。別に勤務校の校長がどうこうと言いたいわけではない。そういう具体的なことを言いたいのではない。2000年を過ぎた頃から、「よし!やってやろうじゃねえか……」と感じたことがない。これはそう感じさせる校長がいなくなったのか、ぼくが年齢を重ねることで変わってしまったのか、微妙な問題である。

自らの評価査定が低いという不満から、校長に椅子を振り下ろし骨折させた元高校教諭(48歳/既に懲戒免職)が逮捕された。上司の評価などというのは高いこともあれば低いこともある。天意ではなく人事なのだからあってあたりまえである。問題は自分の自己評価の媒介になるものがそれしかない……という自分自身の問題である。それに気づいていないから、四十代後半にもなって椅子を振り下ろしたりヘッドロックをかけたりと馬鹿げた行為に出てしまうのである。こんな同義容赦がいるのかとなんとも複雑な気分にはなるが、事件の構造としてはシンプルである。

生涯で4冊目の「人生の書」ともいうべき書物に出逢った。1ヶ月ほど前にこの書に出逢い、一日1章ずつのつもりで、ゆっくりゆっくり読んできた。わからない言葉は逐一辞書をひきながら、そこから産まれる発想は逐一メモを取りながら、そして今ひとつ理解できない章は何度も何度も読み返しながら、それでもその本ばかりというわけにもいかないので時々浮気もしながら、1ヶ月かけて今日、読了した。ぼくのなかで新しい教育論ができた。いや、できたは言い過ぎで、ベクトルが完全に見えたといった感じだろうか。ぼくに逢ったときに「何ていう本ですか?」と訊いても無駄である。「人生の書」は絶対に紹介しないことにしている(笑)。

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相手の立場・心情を想定する

1.相手の立場に配慮しないネットコミュニケーション

かつて,米国の掲示板サイト(アメリカYAHOO!)において,一人の心ない日本人の書き込みが米国人を激怒させたことがあった。掲示板参加者の怒りのレスポンスは当日だけで数千件に及んだと言う(1)。

【資料A】
------国際貿易センタービル倒壊は笑えた!/ビルが折れるごとにカウントしてたのってオレだけ?/(よっしゃー片方粉砕!よーし次はもう片方もーって)/でも結局はみんな避難したんだよね。全然,騒ぐほどじゃないし。/国際貿易センタービル倒壊は笑えた。まじで。/ニュース知って,手を叩いてわらったなあ。(以下略)

これが「アメリカYAHOO!」の掲示板に書き込まれたのは2001年9月12日。折も折,9.11テロの翌日だったのである(ただし,本文は翻訳ソフトを用いての英文である)。

さて,この書き込みは,2ちゃんねるのいわゆる「コピペ」と呼ばれる形式で書き込まれたものだった。コピペとは「コピー&ペースト」の略語で,鈴木謙介によれば,2ちゃんねるでは「書き込みのテンプレート」のことを指すと言う。その機能は「相手に対する揶揄であると同時に,それがそもそもテンプレートであるがゆえに場の雰囲気を『茶化す』」ことにもなると言う。つまり,内容的な茶化しと形式的な茶化しとを同時に成立させる,2ちゃんねる特有の修辞であるというわけだ。

テンプレート化するに至るもともとの書き込みは以下である。

【資料B】
------阪神大震○は笑えた!/死者1000人ごとにカウントしてたのってオレだけ?/(よっしゃー2000人突破!よーし次は3000人突破しろーって)/でも結局は6000人しか死んでねえんだよね。全然,騒ぐほどじゃないし。/阪神大震○は笑えた。まじで/ニュース知って,手を叩いてわらったなあ。(以下略)


「アメリカYAHOO!」では,2ちゃんねるに詳しい日本人が,米国人参加者に対して「この書き込みが日本の匿名掲示板に特有の書式であること」「投稿者を無視して欲しいこと」を訴えたが,事態が収束するはずもなく,米マスコミでも報道されるに至った。

この事件は,日本人の「2ちゃんねる」的な匿名性が及ぼす軽薄さ,モラルハザードが巻き起こした国際的な騒動として,記憶しておく必要がある。もちろんこれを読んで怒りを覚えるのはアメリカ人ばかりでなく,多くの日本人が見ても,被害者の立場や心情に思いの至らない下品な記述に怒りを覚えることだろう。

ただし,このような軽薄さ,下品さこそが,昨今問題視されている学校裏サイトや掲示板等に見られる,生徒たちのコミュニケーションの粗雑さと通底していることは確かである。

2.生徒のネット体験の掘り起こし


資料A・Bを題材として,以下のような指導計画を立てて授業実践(中学校3年生/国語科)をおこなった。※道徳での実践も可能と思われる。

【第1時】
①資料Aを配布し,この文章の問題点を箇条書きさせる。
②4人グループで問題点を交流させる。
③各グループに発表させ,板書にまとめる。
④資料Bを配布し,資料Aが2ちゃんねる特有のテンプレートで書かれていることを説明する。
⑤4人グループに資料A・Bを対比させ,更に問題点を交流させる。
⑥各グループに発表させ,板書にまとめる。
⑦各自に200字感想を書かせる。
※次時,携帯電話を所持している者は持参することを確認。

【第2時】
①インターネット上の資料(学校別掲示板から抜粋したもの。自校のものは避ける。)を配布し,問題点を箇条書きさせる。
②4人グループで問題点を交流させる。
③持参した携帯電話の着信メール,自校の学校別掲示板等から同様の問題点をもつメールや書き込みを探す。
※携帯電話をもっていない生徒には,インターネット上の学校別掲示板から抜粋した資料(10種類程度)を与えた。
④見つけたメールや書き込みを引用しながら,その問題点について800字で論述する。

第1時の資料Aを題材とした問題点の交流では,主に内容的な問題点が挙げられる。「多くの被害者を9.11テロに対して,こういう書き込みはひどい」「日本人として恥ずかしい行為である」といった感想をはじめとして,「他人の不幸を笑いものにしている」「不幸な事件を題材と資することで優越感に浸っている」「国際問題に発展してもおかしくないほどに,読み手がどうとらえるかに配慮されていない」などいった問題点が出された。ところが,資料Bを配布すると,内容面ばかりでなく,インターネットの危険性について主に技術的な側面の問題点が検討されることになる。「簡単に素早く文章をつくれるから,深く考えないで書いてしまう」「瞬時に無限の相手に対して一斉に送ることができてしまって,具体的な相手について考えづらい」といった問題点が挙げられた。特にインターネットで誹謗中傷する場合,内容的な引用ばかりでなく,フォーマット自体の引用(テンプレートの引用)が瞬時に可能であり,それがインターネット上のコミュニケーションに独特の「空気」を産み出していることが生徒たちにも実感される。

その結果,インターネットコミュニケーションについて,①読み手の立場・心情を思いやる気持ちが必要であること,②読み手の置かれている文化のレベルまで想定しなければ資料Aのような国際問題に発展しかねない危険性をもっていること,③簡単にメッセージがつくれ,瞬時に複数の相手に送信できることから,内容をよく考えるということが蔑ろになりやすいこと,という3点について教師が説明した。こうしたことを勘案しないと,インターネット上のコミュニケーションはとれないのだという趣旨である。

第2時の生徒のレポートについては,個人情報保護の観点からここでは公開できないが,授業においても生徒に書かせるレポートにおいても,引用文の匿名性を担保することが大切である。ハンドルネーム(インターネット上のニックネーム)でさえ書かせようとしてはいけない。また,レポートを交流させてのフィードバックも避けた方が良い。生徒個々にとって,かなり微妙な問題をはらんでいるだけに,教師はできる限り心理的抵抗を和らげることに腐心しなければならない。文明の利器に伴う問題,生徒に現在起こっている問題の教材化は授業づくりにも大きく影響を与えている。

【注1】『RUNAWAY 暴走するインターネット』鈴木謙介/イースト・プレス/2002年9月/p35~40
※資料A・Bの全文についても同書を参照されたい。

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これでぼくが休んでもできる

授業は2時間。式練習が1時間。授業は2年国語。両方とも5年生の漢字練習。式練習では歌う度に合唱が仕上がっていく。歯車に良い方にまわってきている。空き時間は教務主任と次年度行事関係の打ち合わせ。

放課後は体育館で送別集会のリハーサル。3年生の合唱の動き、部活動部長のPPT、入退場のプラカード係の動き、記念映像上映の動き、先生方のPPTの順でリハーサル。それが終わったあと、つなぎ場面の機材のセッティングを念入りに練習。生徒会室に戻って見づらかったPPTの修正。終了は18時。

音響生徒が発熱で早退、ナレーション生徒の一人が風邪で欠席の中、分担を入れ替えながら当日の各自の動きを徹底的に確認。これで明日はぼくが休んでもできる。ほっとした。

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ヤマ場

「ヤマ場CM」という語をご存知だろうか。ドラマの見せ場やクイズの解答直前でパッとCMに切り替わる、アレである。番組のキリのいいところで流される「一段落CM」と区別して、こういうのを「ヤマ場CM」と呼ぶのだそうだ。見ている側としてはイライラする。イライラしないのは「もう少し考えたいなあ」と思えたときのクイズ番組くらいか。

この「ヤマ場CM」について興味深い調査がある。日本は欧米に比べて「ヤマ場CM」が圧倒的に多いというのである。ちなみに、日本での「ヤマ場CM」率は40%程度。これに対し、アメリカが14%、イギリスが6%、そしてフランスはなんとゼロなのだそうだ。

しかし、これだけならばそれほどのインパクトはない。日本の広告主が商業主義的であるとか、視聴者を惹きつけるための工夫に余念がないとか、利潤追求を旨とする企業としては当然のことと思われるからだ。

実は、この調査の面白いところはこのあとである。横行する「ヤマ場CM」に対して、日本の視聴者の実に86%が「不愉快」「イライラする」と感じており、しかもそのうちの多くが「ヤマ場CMの商品は買いたくない」と答えているというのである。簡単に言えば、企業がよかれと思って工夫していることが、かえって視聴者(延ては消費者)の反感を買っているということになる。〈以上慶応大学・榊博文・2006/『グーグルが日本を破壊する』竹内一正・PHP新書・2008.04・孫引き〉

その昔、授業を「ヤマ場」で切るという手法をためしていた時期がある。一番いいとき、これから面白くなるとき、つまりそれまでの謎がいよいよ解決する、そんなときに、「じゃあ、続きは次の時間ね」と授業を終えるのである。私としては、授業内容に対するモチベーションとはどのくらい続くのか、或いは続かないのかということに関心を抱いてのことだった。

私がこんなことを始めたのは92年か93年頃のことだったと記憶しているが、当時の生徒たちは、休み時間にサッと私の周りに集まり、「ねえねえ、なんなの?」「私にだけ先に教えて」などとしつこく問いただしたものである。次の日の朝、廊下ですれちがったときに、「先生、昨日のあれですが…」などという生徒さえ珍しくなかった。

これが通用しなくなったのが、2000年頃だったろうか。いや、通用しなくなったというのは語弊がある。私がこれを始めた頃だって見向きもしない生徒もいたし、現在だってまったく問いただしてくる生徒がいないわけではない。この手法に食いついてくる生徒は、現在もそれなりに存在する。しかし、食いつく生徒が明らかに減っているのである。それも激減と言っていいほどに。

更に、私にとってもっと不思議なのは、90年代前半には、学級のリーダー的存在を中心に、ごくごく普通の感覚をもっているように見える生徒が食いついてきたのに対し、現在は、「この子は皆とちょっと異なった独特の感性をもった子だな」と思われるような生徒が食いついてくる、ということである。

おそらくこの20年で、社会を包む「空気」に圧倒的な変化が生じたのである。私が教職に就いた頃には、学校が様々に批判されながらも、まだまだ「勉強は先生に教えてもらうもの」というテーゼが世の中を支配していた。生徒たちもその「空気」の中に生きていた。それが90年代の半ばから後半にかけて、風が変わり始めた。いや、風が変わったのはもっと前で、この時期に完全に浸透し始めたということなのかもしれない。いずれにしても、学級リーダーは「よく先生の話、先生の意図を理解する者」から、「他人を巻き込みながら、自分で選択する者」「他人に対して、自分への興味関心を喚起できる者」に変わったのである。

この変化はおそらく、時代の象徴的企業が、充実したPCを提供することにこだわり続けたマイクロソフト社から、人々の興味関心を把握してそこに関係性を結んでひと儲けしようとするグーグルへと変わったことと、どこか対応しているように思える。最近、先生が大好きで、「先生の話を理解しよう」「先生の意図を理解しよう」とする生徒には、どこか「変わり者」の匂いさえ感じられる。教師が普通の生活を送っていて感じるほどだから、生徒たちはもっと敏感に感じているはずである。

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乱世である

5時間授業。出勤と同時に漢字テストの印刷。昨日印刷しようと思っていたのを忘れて帰ってしまったのである。メモをしておかないとこういうことが起こる。1時間目は1年書写。5年生の漢字テスト。2時間目は2年国語。「走れメロス」のビデオの続き。なんと今日の授業はこれで終わり。本当は2年生の国語がもう一時間あったのだが、学級閉鎖中。空き時間は会計や送別集会のビデオ映像の確認、送別集会シナリオの最終チェックなど。5時間目は卒業式練習。送別集会の会場図のチェックをしたり、卒業式の看板について担当者と打ち合わせをしたり。

放課後は生徒会役員と送別集会関係の最終打ち合わせのあと学年会。更に校長と面談とともに次年度人事等々について話す。今年で退職される校長だが、ここには書けないけれど、さまざまな問題が山積である。いわゆる人事問題とか職員室の人間関係云々といった話ではない。次年度の学級数がこの時期になっても確定しないのである。しかも、小学校との合築関係で、札幌市ではだれも経験したことのない未知数の問題がたくさんある。ぼくにもまったく見えない。なるようにしかならないのだが、それでもあれこれ考えなければならない。乱世である。

※BILLY VERA & THE BEATERSの「AT THIS MOMENT」を聴きながら……。

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BILLY VERA & THE BEATERS

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〈自立〉と〈依存〉

かつて二年間かけて、〈すごい学級〉をつくったことがある。三十代前半の頃のことである。

〈すごい学級〉といっても、崩壊学級のことではない。文字通り〈すごくいい学級〉である。生活態度はいい。いじめはない。体育大会、合唱コンクール、球技大会、旅行的行事の学年レクなどなど、行事にはすべてこれ以上望めないという熱心さで取り組み、とにかく順位のつくものはすべて優勝。2年生の4月、学級結成時には6学級中最下位だったテストの学級平均も、3年の1学期にはトップに立った。私は生徒からも保護者からも信頼が厚く、やることなすことすべてうまく行く。そんな学級に、私は大きな満足感を抱いていた。

「卒業式で涙を流すなどもってのほかだ。卒業式とは凜として臨むもの。泣くのはあとでいい。」

私の言葉を彼らは真正面から受け止め、卒業式では涙をこらえ、最終学活で合唱コンの優勝曲を二曲、涙声をしみじみと響かせた。

私はその日、

「こんないい学級はもう二度ともてないかもしれない……」

そう思っていた。

いまでも、二年に一度の割合でクラス会がある。私という担任が彼らに「中学校」というものを強く印象づけたのは確かである。

当時の私は、ちょうど、単行本の執筆依頼をいただいたり、研究会提案や講演の依頼をいただいたりし始めた頃で、ノリにノっていた。私はこの学級の成功に「学級経営の勘所も会得したな」などと思い上がったことさえ考えていた。

しかし、彼らが卒業して1年がたった頃、私はこの学級経営が失敗していたこと、しかも大失敗であったことに気づかされることになる。なんと、高校1年生の一年間に、実に40名中7名の生徒が不登校に陥ったのである。

第一報は5月だった。ゴールデンウィーク明け、私のところに卒業生のA子から電話がはいった。

「高校に入学してすぐ、いじめを受けるようになった。担任の先生に訴えたが、何もしてくれない。」というのである。私は彼女を慰め、励ましながら、「なんという高校か」「なんという担任か」と憤りを感じていた。「入学早々のいじめごときをつぶせずして、それでも教師か」と。次は7月、B男とC子である。B男は「いじめられている」と訴え、C子は「なんとなくクラスになじめない。高校になじめない」という。私はやはり憤りを感じていた。「担任に力量がないからだ」と。と同時に、いまだに中学時代の担任に相談する彼らに、なさけなさもまた感じていた。

しかし、2学期に入り、四人目のD子が出たとき、私は気づかざるを得なかった。「これは高校の責任ではない。他でもない、私の責任だ……」と。自分が中学2、3年の担任として、生徒たちに「新たな環境に対応する力」、大袈裟にいうなら「社会を生き抜く力」を育てなかったからだ、と。

思えば、私の学級経営の要諦は、生徒たちのすべてを完全に私の支配下に置くことにあった、と言っていい。人間関係トラブルがあれば私が間に入ってすぐに解決し、学級組織も私の意図通りに動かした。行事は私が先頭を切って場を盛り上げて生徒たちの意欲を喚起し、練習の仕方・ものづくりの方法、すべて私が教えた。家庭学習ノートを全員分用意し、定期的に点検し、わからないところがあると言われれば、自分の教科ではなくても放課後に指導した。1年生のときのいじめられっ子とは、昼休み・放課後に将棋を指しながら信頼関係をつくり、粗暴な問題傾向生徒は私がいじることによって「いじられキャラ」へと変容させていく。こういう学級経営である。

生徒たちは高校に行って、「いじめられた」と感じたり、「学級・学校になじめない」と感じたりした。言うまでもなく、中高生のいじめの対象となるのは、〈その場の空気を敏感に察知して対応すること〉のできない者たちである。彼らは中学時代、少なくとも学級において、〈場の空気〉を読む必要がなかった。自分が〈空気〉を読まなくても、担任がいち早く〈空気〉を察知してだれも困らないように先手を打ってくれるのである。彼らは〈空気〉を読まなくても、私という担任さえ見ていれば、私の言うことさえ聞いていれば、学級に〈居場所〉を確保することができた。それもかなり満足度の高い〈居場所〉を。彼らは在学中、他の学級に羨まれ、他の先生方に褒められ、行事は常に優勝することに鼻が高くなっていた。それは、おとなしめの女の子や少々おたく傾向をもつ男の子にも少なからず見られる、堀学級生徒の特徴だった。

もちろん、全員が全員、このことがマイナスに機能したわけではない。もともとある程度の「自己」をしっかりもっていた生徒、ノリのいいコミュニケーションを得意としている生徒、いまどきのパワフルな女子生徒といった者たちにとっては、私という担任は様々なことを教えてくれ、集団を率いるときのコミュニケーション・モデルとして機能したはずである。しかし、そうしたリーダーシップ、統括力には縁のない生徒たちにとっては、明らかに私の学級経営はマイナスに機能していたのだ。行事の優勝も、様々な褒め言葉も、すべてが〈その場だけの楽しさ〉に堕してしまっていたのである。

長久保裕(日本フィギュア・スケーティング・インストラクター協会副理事長)は常々、「自分以外のいい先生を探してやるのも、先生の大事な仕事のひとつなんですよ」と言ったという(「スポーツ名伯楽が語る教育と指導の奥義」阿部珠樹/「文藝春秋」2006年11月臨時増刊・111頁)。

学校教育に限らず、〈教育〉の目的を端的に言うなら、それは「自立」である。担任も、部活指導者も、親でさえ、その子を一生支えながら生きていけるわけではない。言うまでもないことだ。〈教育〉とは、子どもを「自分で生きていけるようにする営み」なのである。だからこそ大切なのであり、だからこそ尊いのだ。

このことに気づかない、考えたこともない、そういう教師が増えてきている……そう感じているのは、私だけだろうか。いや、おそらく教師だけではない。保護者も、マスコミも、行政も、政治も、このことを忘れている。

まずい。大変、まずい。

最後に、今回、私が述べた構図と、ほとんど同様の構図について述べた、ある精神科医の言の引いておこう。読者の皆さんにも、思い当たるところがあるのではないだろうか(『「普通がいい」という病』泉谷閑示・講談社現代新書・2006年10月・30頁)。

「精神療法やカウンセリングの場面でついついセラピストは、クライアントの悩み・苦しみをどうにかしてあげようと、自分の考える答えを教えたくなってしまう。しかし、それはクライアント自身の、葛藤を持ちこたえる力を育てないどころか、自分自身で答えを見つけ出す力を退化させてしまい、セラピーへの依存を作ってしまうことに なります。/ちょっと「脚が痛い」と言っているからと、リハビリすれば十分歩けるようになる人に車椅子を提供するような治療やカウンセリングほど、治療者の方では、すごく治療してあげているような自己満足を感じるものです。しかし、これが大きな罠なのです。治療熱心な治療者ほどこの失敗に陥りやすいのですが、治療者自身が患者さんに「治 療依存症」を作る元凶になっているこ とに気付かない。ドラマの「赤ひげ」よろしく、私生活をほとんど犠牲にして、それで自分はたくさんの患者さんの役に立っていると密かに満足をしている。でも患者さんはなかなか治らないものだから、患者数だけがどんどん増えて、どんどん頼りにされて、忙しくなる。その治療者はこれまた密かに、自分の腕が良いので繁盛していると錯覚する。こういう困った悪循環もよく見られます。」

※BILLY VERA & THE BEATERSの「YOU'VE GOT ME」を聴きながら……。

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BILLY VERA & THE BEATERS

2002年に出たベスト盤である。 いまだに「AT THIS MOMENT」を聴くと、泣きそうになる。別にこの歌にまつわる想い出があるわけでもない。純粋にこの曲には感動してしまう。BILLY VERAって、いま何してるんだろう。新譜が出るという話も聞いたことがないし。出れば絶対に買うんだけどなあ。

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隙間時間を利用する

皆さんは空き時間や放課後をどのように過ごしているでしょうか。空き時間が足りない、放課後は会議ばかり……そう嘆いていませんか。それが多忙観を生み、精神的な余裕を奪っていきます。隙間時間を活用すれば、仕事が効率的になるばかりでなく、心の余裕も生まれます。

第1条 隙間時間を把握する

皆さんは一日にどれだけの隙間時間があるかを意識したことがあるでしょうか。出勤直後、朝学活後、10分休み、会議が始まるまで待ち時間などなど、一日うちに隙間時間はかなり多くあります。まずはこれを一覧表にして把握してみましょう。一日2時間近く生まれるはずです。隙間時間の利用とは、こうした時間を活用することです。

第2条 出勤後の動きを固定する

出勤簿の押し忘れや出席簿の未記入といつたことをしていませんか? 効率的な仕事をするベテランの先生はみな、出勤後は「出勤簿を押し、珈琲を入れ、それを飲みながら一日の動きを月行事予定で確認、更に出席簿に欠席・遅刻連絡のあったものを記入する」という一連の動きを習慣化しているのです。

第3条 To-Doリストをつくる

「To-Doリスト」をつくっていますか? 人間はコンピュータではありませんから、仕事はしっかりとメモをとっておかなくてはなりません。逆にメモをとれば、忘れても確認すればいい、という安心感につながります。

第4条 To-Doリストは常時携帯する

「To-Doリスト」を付箋に書いてPCに貼るという先生を多く見ますが、この方法は感心しません。これでは職員室でしか仕事ができなくなってしまいます。「To-Doリスト」は手帳がにして、常時携帯でき、どこにでも持ち運べる状態にしておくのがコツです。

第5条 会議でTo-Doリストに記入する

学年会・校務部会・職員会議では、担任がしなければならないことがたくさん提案されています。その会議中に、「○月○日には○○をしなければならない」というメモを、手帳のその日のところに書いてしまうのが良いでしょう。会議は効率的な仕事をするための情報の宝庫なのです。

第6条 生徒・保護者との約束事はその場で記入する

「To-Doリスト」常時携帯していれば、生徒・保護者に頼まれたことをその場でメモすることができます。約束を守るためにはこれが姿勢が大切です。

第7条 小さな仕事は10分休みにする

10分休みは廊下を巡視していたり、次の授業教室に入っていたりというのが一般的ですね。この時間、支出伺簿の記入とか作成したプリントの校正くらいなら難なく終わらせることができます。

第8条 電話は10分休みにする

保護者への電話はダメですが、業者への発注、職場体験の事業所への連絡といった電話なら簡単にすませることができます。私はこの手の電話は、生徒からちょっと隠れて、自分の携帯電話で連絡するようにしています。

第9条 生徒の提出物はその場で処理する

朝学活の生徒の提出物の確認を空き時間の仕事にしていませんか。名箋を教室に持って行って、受け取ったらその場で○印をつければ、この手の仕事が空き時間を浸食することはなくなります。休み時間に提出遅れの生徒が持ってきた場合も同様です。

第10条  ルーティン・ワークにはよけいなこだわりを捨てる

とにかくルーティン・ワークにはよけいなこだわりは捨て、拙速を旨とすることが大切なのです。

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帯広柏葉、万歳!

授業は2時間。2年生の国語が2時間。1時間は6年生の漢字テスト、1時間は学級閉鎖明けで「走れメロス」のビデオ視聴。空き時間は送別集会に関する機能の打ち合わせ事項を細かく入れた担任用プリントを作成・印刷・配付。昨日決まった送別集会シナリオの修正箇所を生徒会書記生徒が家ですべてつくってきたという。素晴らしい! これで今日は生徒会役員の仕事はなし。生徒会室は生徒会長が卒業式の送辞の原稿をつくっていただけ。

※中島みゆきの「恋文」を聴きながら……。

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中島みゆき/2003

昨夜、岩崎宏美の「Dear Friends Ⅱ」に収録されている「恋文」を聴いていたらオリジナルが聴きたくなった。中島みゆきのボーカルの方がはるかにいい。岩崎宏美の声は確かに伸びやかで美しいけれど、歌はやはり語った者勝ちである。中島みゆきの歌は「語り」が成立している。うまいなあ……と思う。さすが我が母校の先輩である。帯広柏葉、万歳!

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「ストーリーをつくらない」ということ

暴力を使って拷問して相手にストーリーに合うような供述をさせるというのは、下策の下です。暴力など使い、あとで問題となったら大変で、検事をクビになってしまうかもしれない。そんな危ない橋を渡らなくても、もっと楽な方法があるのではないかと。このようなわけで、ストーリーにあった調書を検事が勝手に作文するのです。そして、最後のところに、相手に署名と指印をしてもらう。そうすれば、一件落着。何も拷問など面倒なことをする必要もないのです。/暴力を使って自白を引き出すのは要領の悪い素人のやることだという特捜部の考え方が、説得力をもって理解されると思います。〈『「捏造」する検察-史上最悪の司法スキャンダルを読み解く』井上薫・宝島社新書・2010.12.17〉

大阪地検特捜部の前田恒彦元検事がFD改竄によって証拠を捏造したと報道されたのは、昨年の9月21日である(「朝日新聞」朝刊 「検事、押収資料改ざんか/郵便不正事件 捜査の見立て通りに FDデータ書き換え」)。

前田元検事は検察庁内で「割り屋」と呼ばれていたらしい。「割る」というのは「口を割る」ことで、要するに「取り調べの相手に口を割らせるのがうまい」の意である。

「割り屋」との評価によって出世してきた前田元検事にとって、取り調べ相手から上司の描いたストーリー通りの供述をとり、その検察側が作文した供述調書に署名・指印させねことは何よりも大切なことだった。暴力こそ振るわないまでも、あくまで検察側の作文に対して手を変え品を変えて説得することによって署名・指印させる、それが優先順位の一番であったのだ。そのためには「悪いようにはしないから」といった懐柔や「家宅捜索すれば家族も近隣から色目で見られるぞ」といった威圧も厭わない、そういう人物であったと報道されている。そして、こうした描かれたストーリーを前提としてなされる取り調べの在り方は、特捜部において最も顕著だったとの論評も流れた。前田元検事のFD改竄もこうした空気の中で行われたのだとする論評である。事の真偽は私にはわからない。

こうした報道に接して、多くの人たちが検察はひどいことをするものだと感じたはずである。だからこそこの事件は「史上最悪の司法スキャンダル」と呼ばれたのだから。

しかし、私が言いたいのは、事の重大性に違いはあるはにしても、こうしたストーリー通りの内容を取り調べ相手に認めさせようとする構図は、学校教育においても日常的に行われているのではないか、ということである。検察の取り調べによる自白調書が裁判の重要な証拠になるのに対し、学校において指導の名において行われる供述がせいぜい「ごめんなさい」すれば済まされるという違いがあるからそれほど問題にされないだけである。

「それは違う。でも先生は認めてくれない」

こういう思いを抱きながら、納得できぬままに納得した振りをせざるを得なかった児童生徒は、学校教育史上無限大と言わねばなるまい。先般、モンスター・ペアレンツだと提訴した小学校の女性教諭がいたが、その元となっている女児の喧嘩の仲裁もこの手の問題だった。教諭が最初からストーリーをつくり、それに合うような供述をとろうとして指導が行きすぎたのである。私はこれをかなり大きな問題であると指摘したのだった。

教師が教師のあらかじめ作り上げたストーリーに従って指導するということは、思いの外多い。中学校における生徒指導を得意とする教師たちは、ストーリーを描かないで事情聴取を重ねる。想いを一切捨象して、起こった事実だけを述べよと関係生徒に強く釘を刺して事情聴取に当たる。それも一人の生徒に必ず一人の教師がついてである。それを全員で突き合わせて、まずは起こった事実を明らかにしようとする。これが明らかにならないと指導が始まらないと認識している(もちろん、生徒指導を得意とする教師たちであって、中学校教師全員が……ではない)。それが生徒たちから生徒指導に対するある種の信頼を得るための第一歩なのである。

もちろん、このような中学校的な事情聴取は小学校ではできない。複数の関係児童がいた場合に、事情聴取をする教師が関係児童分の数だけいないからである。しかし、それならばなおさら、思い込みでストーリーをつくらず、とにかくまずは起こった事実を確認するのだというストイックな構えが必要であるはずだ。しかし、小学校においても中学校においても、多くの教師たちにそれができない。

ちょっと厳しい言い方になってしまったが、前田元検事をはじめとする大阪地検特捜部に関する本を読んでいて感じたことを率直に述べさせていただいた。

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職員室の人間関係10箇条

2学期も終わりに近づきました。大きな行事も終わり、あと残り3ヶ月。と同時に、生徒指導上の問題傾向をもつ生徒たちに手を焼くのもこの時期。そんな中、1学期にはなかった同僚への不信感も芽生えてきます。でも、もう一度、踏みとどまって考えてみませんか。

第1条 チームで組織的な動きをしよう

職員室は組織です。学年団も組織です。問題のある生徒がいるのも担任だけの責任ではありません。うまくいっていない仕事があるのも、担当者だけの責任ではありません。その組織にチーム力が欠けているのです。

第2条 仲よくなることよりも共に成果をあげることを考えよう

職員室や学年団は、仲がいいから良い仕事ができるのではありません。良い仕事をし、成果があがっていて、その成果をあげている組織に自分も貢献しているのだという思いが、組織を仲良くさせるのです。この考え方の順番を間違ってはいけません。「うちの学年は仲が悪いからね」というのは禁句です。仕事が充実していないから、今ひとつ一体感がないのです。この構造は学級と同じです。

第3条 すべての教師にその教師なりのキャラクターがあることを意識しよう

教師のキャラクターは概ね三つに分けて考えるとわかりやすいでしょう。即ち「父性型」「母性型」「友人型」です。いろんなキャラクターの教師が生徒たちに複雑に影響を与え合って、学年運営・学校運営は成り立っているのです。

第4条 すべての教師に得手不得手があることを意識しよう

生徒指導が得意な教師もいれば、事務仕事が得意な教師もいます。部活が好きな教師もいれば授業研究が好きな教師もいます。学校にはそのどれもが必要なのです。

第5条 すべての教師にその教師なりの教育観があることを意識しよう

教師も人間ですから、どうしても自分の好きなこと、得意なことを中心に教育観を抱きます。それを調整しながらチームで動く。これが理想の職員室・学年団なのです。

第6条 すべての教師にその教師なりの事情があることを意識しよう

家族に持病をもつ人がいる、介護を要する家族がいる、そんな同僚が必ずいます。若いうちはそういうことの大変さがわからないものです。これは教師としてではなく、人間として理解できるようになりましょう。

第7条 自己をメタ認知する努力をしよう

以上のような観点で考えたとき、自分は偉そうなことを言える教師なのか、と顧みてみましょう。きっと何かが見えてきます。

第8条 自分自身がアレルゲンになっていないかと考えよう

自分のネガティヴな発言が、職員室や学年団にマイナスになっていないか、冷静に考えてみることも必要です。

第9条 嫌いな人・苦手な人といっしょに小さな成果をあげてみよう

道徳の指導案を1枚、いっしょに作ってみる、学年行事の担当をいっしょにやってみる、そんな小さなことで構いません。ただ大切な子ことは、成果をあげようと頑張ってみることです。きっとその同僚の意外な良い面が見えてくるはずです。

第10条  職員室で馬鹿話をしていっしょに笑ってみよう

人はいっしょに笑った時間が長ければ長くなるほど、楽しい時間を共有すれば共有するほど、心が通じ合い、仲良くなれるものです。みなさんも学生時代の友人との関係を考えればわかるのではないでしょうか。

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一気に送別集会モードに

1時間目は自習監督。国語のワークとのこと。2・3時間目は空き時間。送別集会関係の生徒の動きを示す職員用プリントをつくり、送別集会のビデオを点検し、漢字テストを印刷し。4時間目は1年書写で漢字テスト。5時間目は2年国語で「走れメロス」のアニメを見せる。6時間目は式歌練習。なぜかアルトパートの担当。みるみる声が出るようになり、かなり上達。

放課後は全校協議会。その後、送別集会のシナリオを見ながら、各自の細かい動きを確認していく。これが18時近くまでかかる。終わり次第退勤。

特に忙しかったというわけでもないのだが、放課後はやることが多く、少々バタバタした。何せシナリオをつくった生徒会役員が発熱で早退。明日に延期しようかとも思ったが、明日登校するとの保証もない。ということで1時間強の打ち合わせ。後期から役員になった生徒たちにとっては、初めての大きな生徒会行事になる。一つ一つ、細かいところまで具体的に詰めていかなければならない。それに時間がかかった。

打ち合わせ終了後、一気に送別集会モードになってきた感じ。

※岩崎宏美の「五番街のマリーへ」を聴きながら……。

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岩崎宏美/2003

オリジナルと比べてこちらの方が良いという曲は、残念ながらほとんどない。あくまでも岩崎宏美のアルバムとして聴くという気持ちで聴かないと、なかなかアルバム世界に入り込めない。ぼくはもちろん岩崎宏美の大ファンなのだが、この企画だけはいま一つ……という印象を抱いている。「白い色は恋人の色」の岩崎良美との姉妹デュオだけが「なるほどな」との印象を抱かせる。「海岸通」の伊勢正三のコーラスもちょっといいかな。

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単純な永遠

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沢田研二/1991

「シンプルな永遠」と読みます。沢田研二のアルバムとしては完成度が高いとの評判で、最も高値で取引されているアルバムです。吉田健プロデュース時代のアルバムで、ロックとバラードとがバランスよく配された、聴き飽きないタイプのアルバムです。ぼくは「ニュー・ソング」「月のギター」といったバラードが好きですが、「この僕が消える時」のような当時の沢田研二の状況を彷彿させるような、同時代批判的な曲もあります。

この後、沢田研二が吉田健から離れてセルフ・プロデュースの道を歩んだことを思えば、そしてそのどれもがいま一つ完成度の高さを感じさせないことを思えば、吉田健の力量のすごさを感じさせられる……というものです。何度も書いていますが、この80年代後半から90年代半ばまでの沢田研二のアルバムはほんとうに良いです。

みなさんにもお勧めしたいところですが、アマゾンでは最安値で13,829円ですから、ちょっと一般には手の出ない値段ですね。おそらくファンでさえ簡単には買おうと思わないでしょう。ぼくは持っていて良かったなと思います。

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偶然と必然

寝てばかりいた。仕事といえばある担任に頼まれて火曜日の学級懇談会用のDVDを一枚焼いただけ。あとはドラマを見て、ソファにまどろみ、犬と戯れ、本を開き、風呂にはいり……とまあ、要するに何もしない。

ゆったりとした週末もこれが最後になる。来週はとある用件で東京、再来週は学年の打ち上げで温泉、そしてその翌週からは怒濤の新年度研究会の連続に入っていく。

本の執筆は平日に少しずつ進めている。毎日少しずつ進めていると、10日も経つとけっこうな量になる。正直、自分でも驚いてしまうほどに進んでいる。いまは7割といったところ。そろそろ終わりが見えてくる時期である。何事も終わりが見えてくると嬉しいものである。やる気が出てくる。この二日間で一気にやってしまおうかとも思ったが、やめた。休むことを優先した。頭の中が言語技術だけになる週末を送って来週の1週間を過ごすのは、なんとなく得策でない感じがしたからだ。

昨日もちょっと書いたけれど、「通知表所見の10箇条」という2009年7月の記事がこの週末で500アクセス。世の中の先生はこの週末に通知表と格闘しているのだなあと思うと、だらけた二日間を過ごす自分が申し訳ないような気もしてくる。副担は気楽な稼業と来たもんだ、である。でも、自分が担任だったときに休日に通知表をやったということはない。申し訳ないが、週末をあてにする仕事の仕方をしている、その結果という面もあるのだ。

録画しておいた「悪党」を2週分まとめて見た。内山理名出演ドラマだから見ているわけだが、高橋克典色が濃すぎて内山理名がつぶされている。もちろん演技力がないわけではないのだが、たぶん本が内山理名に合っていない。でも、こういうのもちゃんと一つ一つ踏み固めて行くのだろうなと思う。29歳らしいから、まだまだこれからである。

上篠路時代の若手教師から手紙をもらった。新刊を送っての礼状である。ずいぶんと長い手紙で、形式的なものではないのがよくわかる。今年やっと教員採用試験に合格し、不安に感じながらも担任をもってみたい、頑張ってみたいとの心情が綴られている。ぼくが面倒を見ていた頃は、精神的にふらふらとしたやつだったのだが、この4年間でずいぶんと成長したようである。それが文面ににじみ出ている。当時はほんとうに「面倒を見た」という言い方がふさわしいような若者だった(笑)。時は流れているのだ。

野中さんからもメールが来た。これも新刊を送ったことへの礼状である。東京・京都と「明日の教室」は大成功だったようで何よりである。ただ新卒教師を育てるのは「オン・ザ・ジョブ・トレーニング」が最も効果を発揮するわけで、ぼくも自分の学年で面と向かって指導した若者と比べて、研究会でエッセンスを伝えただけの若者から来る相談からぼくの言っていることの「伝わらなさ」を実感させられたことは一度や二度ではない。研究会で伝えたものはOJTの成果の1割にも満たないというのが実感である。藁にもすがる想いで野中講座に訪れた若者たちが、職場でよき先輩に巡り会い、野中さんから学んだことを一つ一つ噛み締めながら自分のものにしていくことを切に祈る。

今日は書斎で過ごした時間はすべて、松山千春の「偶然と必然」が流れていた。一日、いろいろなことを考えながら、頭に浮かんできたことを「偶然性」と「必然性」とに分けてみる、そんな試行を繰り返した。コンテンツとなっていくのは数年後かもしれないが、その萌芽は今日である。休むべき日に休むようになったのは、こういうタイプの生産が有益であると実感させられることが多くなってきたからでもある。

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パンプキン・パイとシナモン・ティー

この曲を聴くと肩の力が抜ける。この曲を聴いて力が抜け目ことによって、肩に力が入っていたのだと気づかされたことも一度や二度ではない。そんなふうに三十年以上にわたってフッと微笑ませてくれている、そんな曲である。

34e1a1909fa06a4a73c20210_lパンプキン・パイとシナモン・ティー」は「夢供養」(1979年)というアルバムに収録されている。「待つわ」のあみんがこの曲に登場する「安眠」という喫茶店名からとられている、というのも有名な話である。「天までとどけ」「関白宣言」「親父の一番長い日」と立て続けにソロヒットを飛ばした年の、レコード大賞ベストアルバム賞を受賞したアルバムでもある。いずれにせよ、さだまさしとしてはおそらく最も売れたオリジナルアルバムなのだろうと思う。ぼくも当時、ご多分に漏れず購入した。

松山千春と長渕剛と並んで、さだまさしは70年代末から80年代初頭にかけて、第二次フォークブームを巻き起こした。千春・長渕がどこか攻撃性を帯びた、自分の世界観に聞き手を〈迎えに行くフォーク〉だったのに対し、さだのそれはさだ流の大和言葉を駆使して、聞き手の中に世界観が形成されるのを〈待つフォーク〉だったという印象を抱いている。そしてぼくはどちらかといえば、千春や長渕のような〈迎えに行くフォーク〉を中心に聴いていた。

こんなことを考えるのは、最近、ぼくの授業観を作り直そうというぼくの試みとリンクしているからだ。

従来の一斉授業で教師が用いる言葉は、すべてが〈迎えに行く言葉〉だった。おいで、こっちにおいで、そう子どもたちを迎えに行くのである。しかも学校という様々な社会的コンセンサスを背負って、子どもたちにもそれをオーラとして実感させつつ。子どもたちが何か言葉を発すれば、教師はすぐに応じる。いわば〈迎え撃つ言葉〉もふんだんに用意されている。必然的に、子どもたちは肩に力が入せざるを得ない。教師が迎え撃とうと肩に力を入れているのだから、当然そうなる。

〈迎えに行く言葉〉は道具言語観に立っている。それは伝える言葉だ。伝達する言葉だ。ぼくのことをわかって、いまこういう気持ちでいるんだよ、こんなふうに考えたんだけどどうかな、千春も長渕もそういう世界を歌い続けている。

しかし、言葉が言葉を発する者の中で機能するのは、決して伝えられ伝達されて理解できたときではない。

例えば、生徒指導場面において、ひと言いっては間、ひと言つぶやいては間、という連続の中で、カール・ロジャースよろしく教師が非指示の〈待ちの姿勢〉で応じていると、ぼそぼそとした言葉の中からふと生徒自身が自らに巣くう某かを発見して饒舌に転化することがある。ぼそとぼそとがつながり、光明らしきものがぼんやりと見え始めるのは、それ以前のぽつりぽつりと雫が落ちるようなつぶやきが数十分、数時間と続いたあとなのである。これを〈したたり落ちる言葉〉と呼ぶとして、〈したたり落ちる言葉〉は教師が〈迎えに行く言葉〉を発しているうちは決して現象しない。そういうものなのである。そこには〈待つ言葉〉が必要なのだ。

例えば、学校行事の企画を生徒といっしょに立てているときに、ああでもないこうでもないと各々が思いつきを語っているうちに、ふとしたある瞬間から思いつきが思いつきを呼び、その場にいる全員が満足するような企画が一気に決まってしまうことがある。こうした場面において、教師はもちろん〈迎えに行く言葉〉を使っていない。かといって〈待つ言葉〉を使っているのでもない。むしろ、アイディアを出す者としては教師も生徒も同列であるという場の状況が教師と生徒との関係をフラットにさせ、長い時間、〈戯れる言葉〉を発し続けているうちに、同時多発的な発見と連鎖の一瞬を迎え、言葉があふれ出すのである。これを〈あふれ出る言葉〉と呼ぶとして、〈あふれ出る言葉〉は教師が〈迎えに行く言葉〉を発しているうちは決して現象しない。そういうものなのである。そこには〈戯れる言葉〉が必要なのだ。

〈待つ言葉〉も〈戯れる言葉〉も、教師が〈迎えに行く言葉〉を使い〈迎え撃つ〉用意をしているうちは決して現象しない。肩に力の入っているうちは決して成り立たない。「パンプキン・パイとシナモン・ティー」を聴いているときのような、精神のリラックスを必要とする。それはきっと、具体的な目標とか目的とかをもたずに、何かわからない何かが産まれるのを〈待つ〉という姿勢で、ただ過ぎていく時間と〈戯れる〉ことを楽しむ姿勢になり切れた、そんなときにのみ現象するものなのである。

教師が子どもに〈したたり落ちる言葉〉と〈あふれ出る言葉〉こそを求め始めたとき、この時代の学校教育が少しだけ変わっていくような気がしている。

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中学生の通知表所見欄/記入文例

左側サイドバーの「人気記事ランキング」でとうとう「通知表所見の10箇条」がトップに立ちました。毎回学期末になるとこの傾向があります。この記事は2009年7月の記事ですから、おそらくぼくのことを知らない方が検索によってこのブログに辿り着き、この記事を読んでいるのだと思います。

となると、「通知表所見の10箇条」などという理念的なことよりも、欲しいのはずばり「記入文例」なのでしょう。だとしたら、次の本をお買い求めください。学年別、学期別、生徒のタイプ別に、所見記入文例が128頁にわたってびっしり掲載されています。確か2005年くらいにつくったものだと思いますが、内容としてはまだまだ役に立ちますし、いまだによく売れています。値段も手頃です。

41p062rnnrl__sl500_aa300_生徒の意欲を引き出す/中学生の通知表所見欄・記入文例

堀裕嗣・森寛・對馬義幸・小木恵子・中村貴子/小学館/1575円

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「八甲田山」のような雪だった

2組の担任がお休みで一日担任……と思いきや、朝学活に行ってみると11の空き席。1時間だけ授業を受けたところで学級閉鎖が決定。生徒たちは猛吹雪のなか帰って行った。

1時間目は1年生書写。漢字テスト。

2時間目は生徒たちを帰したあと、欠席生徒の家に学級閉鎖の電話連絡。3時間目は連絡のつかなかった家をまわって連絡文書を置いてくる。これが猛吹雪で大変。小道に入って車が埋まる。幸い通りかかったおじいちゃん二人が押してくれて脱出。この国はなんだかんだ言って、まだまだいい国だなあ……などと感じる(笑)。それにしても、真冬の山中のような、映画「八甲田山」のような雪だった。

4時間目は2年生の国語で「走れメロス」。5時間目は送別の装飾飾り付け。放課後も飾り付けの残りの作業。更に生徒会役員と送別集会の準備、打ち合わせ。17時になって生徒会室でPCトラブル。1時間ほどそれと格闘。なんとか事なきを得た。バックアップを三つとって、生徒たちを帰す。

家に車を置いてタクシーで「武蔵」へ。少し早い気もするけれど、国語科の送別会。6人で楽しい宴。その後、「屯田屋敷」に移動。2時半帰宅。

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珈琲

初めて一人で喫茶店に入った日のことをよく覚えている。

ブロックくずしとインベーダーを両方置いている喫茶店があって、お年玉のなかから2000円だけ持って、しずしずと入り口のドアを開けた日のことである。小学校6年生の冬休みのことだ。なぜその喫茶店に両方のゲームがあることを知っていたのか、それはもう覚えていない。親といっしょに行ったことがあったのかもしれないし、友達に聞いたのかもしれない。

中学時代は札幌の「ペペ」、高校時代は帯広の「くれよん・はうす」、浪人時代は札幌の「ヌーヴォー」、大学時代は岩見沢の「琥珀」、就職しての独身時代は札幌の「北都館」、それから必ず毎日のように行く喫茶店をもっていたものである。

喫茶店に行かなくなったのはいつ頃からだろうか。入りたいと思うような喫茶店がない。珈琲の味も覚えてしまい、よほどうまい店じゃないと通おうなどとは思わない。その意味では西区の「北都館」はいい喫茶店だった。ストロング・ブレンドが猛烈にうまい。マンデリンも香りがいい。毎日、交互に飲んでいたっけ。

喫茶店に行かなくなった理由ははっきりしている。中学時代から浪人時代まではそこに行けば仲間がいたからだ。珈琲一杯で何時間でもおしゃべりをしている。きっと喫茶店である必要はなかったのである。ただ、目的のないおしゃべりをする場所が必要だった。それだけだ。

大学時代の「琥珀」はマスターの栗さんが好きだった。そこには「三国志」と「あしたのジョー」と「キャプテン」と「プレイボール」があって、同じ漫画を何度も何度も読んでいた。たまにはバーボンも飲んだ。「琥珀」の珈琲はそれほどうまくはなかったから、あそこに通う目的はマスターと漫画とジャズだったように思う。ジャズなんてチェット・ベイカーとジェリー・マリガンしか聴いたことのなかった自分が、栗さんのおかげでずいぶんと詳しくなった。その後、栗さんは医者の誤診で指を亡くし、それから数年後に亡くなった。確か肺癌だったと思う。まるで村上春樹の小説のようだ。

就職して4年間は「北都館」である。ぼくは「北都館」の隣に部屋を借りていた。正確に言うと、「北都館」から「進龍」(字が違うかもしれない)というラーメン屋をはさんで隣の1DKマンションである。夕食は「進龍」で、その後、「北都館」で食後の珈琲、それが4年間続いた。

喫茶店に行かなくなったのは酒の味を覚えたからである。特に日本酒を飲むようになってからはほとんど行かなくなった。白石区に住むようになってからは、近くのどこに喫茶店があるのかさえ知らない。白石区には馴染みの酒屋なら何軒もある。

ぼくはここ2週間ほど、酒を口にしていない。別にやめようと思っているわけじゃない。ここ2週間、研究会がなかったので、飲む機会がなかっただけである。家で酒を飲むということはあまりない。それだけのことである。ちょうど明日は学校の国語科の呑み会だから、またたらふく日本酒を飲むことだろう。

酒を2週間も飲まないでいると、うまい珈琲が飲みたくなる。コーヒーではない。珈琲である(笑)。なぜか珈琲は「珈琲」と書かねば納得できない。

週末にはうまい珈琲屋を探してみようと思う。

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想像だにできない

産経新聞広島版に「尽きぬ『教育者の犯罪』 揺らぐ信頼感」が掲載された。記事中に興味深い数値があった。

文部科学省によると、平成21年度に懲戒処分を受けた公立学校の教職員は、全国で943人に上った。このうち、わいせつ行為やセクシャルハラスメントにからむ処分は全体の14・6%にあたる138人で、交通事故や体罰に次いで多かった。/県内では20年度に6人、21年度に9人がわいせつ行為で懲戒処分を受け、今年度も2月末までに4人が懲戒処分を受けた。/小学校教頭の誘拐未遂事件のほか、1月には知人の女性にわいせつ行為をした北広島町の中学校教頭が懲戒免職処分を受けたばかり。20年には小学校教諭が教え子10人にわいせつ行為を繰り返すなど、悪質さも目立っている。〈産経新聞/3月3日(木)8時0分配信〉

平成21年度にわいせつ行為やセクハラで懲戒処分を受けた公立学校教員が全国で138名。そのうち広島県が9名。これは確かに広島県教委も頭を抱えるだろう。これは何なのだろう。

ぼくら教員から見れば、広島は信州と並んで「教育王国」のイメージがある。そんな地域で猥褻行為による懲戒処分教師の14人に一人が出ている。広島県の人口は286万。国の人口の2.2%に過ぎない。それがわいせつ処分者は6.5%を占める。これはいかにも多い。理由がまったくわからない。想像だにできない。

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自己アピール文/推薦書/個人調査書

進路指導において負担になるのが進路事務です。それも師走の忙しい時期に一気に押し寄せてくるわけですから、少々やっつけ仕事に陥ってしまうことも……。しかし、生徒たちのことを考えればできるだけ丁寧に緻密に行うことが必要です。今回はそのための観点です。

進路事務として学級担任が取り組まなければならないこととして、個人調査書・推薦書・欠席事由書等があります。また、具体的な入試に伴う指導事項として、推薦依頼書・自己アピール文・小論文・面接等が挙げられるでしょう。ここでは便宜的に、前者を「進路事務」、後者を「進路指導」と呼ぶことにしましょう。

一般に、学級担任は進路事務は進路事務として、進路指導は進路指導として、ともに独立した、一般的な取り組み方をしがちです。しかし、受験者を選抜する高校側からみれば、「進路事務」と「進路指導」とは一人の生徒の特徴を知るための資料として連動しているはずです。進路に伴う事務や指導においてまず大切なのは、この観点です。

例えば、ある生徒の推薦書に次のように書いたとしましょう。

「中学校3年間の学校生活では貴校に進学するために様々な分野のことに挑戦してきました。」

この言葉は確かに褒め言葉です。担任として推薦に値する生徒であるというアピールでもあります。しかし、これを高校の先生が見たらどう思うでしょうか。「様々な分野って何だろうか」と思うのではないでしょうか。そして生徒は、面接で「どんなことに挑戦したの?」と問われてしまうのです。

生徒は「○○に取り組んできました」と、一つか二つ、その例を答えます。しかし、「様様な分野」というわけですから、それは一つや二つではないはずです。少なくとも面接官はそう感じます。推薦書におけるこうした抽象的な書き方は、面接において面接官にマイナスイメージを抱かれやすい記述なのです。

推薦書や個人調査書の所見といったものは、できるだけ細かな項目を数多く挙げて、更にその具体的な意見・事例・エピソードなどを面接用に用意させておく、といった面接と連動させた考え方が必要なのです。

第1条 所見スペースは適度な字の大きさですべて埋める。

教務部として推薦書や調査書を点検していると、よくスカスカの所見を見ることがあります。スペースを埋めることは、社会人としてのマナーです。

第2条 一文一義を基本とし、重文や複文はできるだけ避ける。

一つの文は一つの意味で構成する。複雑な構成の文は二分に分ける。この二つを実行するだけで文章はずいぶんと読みやすく、わかりやすくなるものです。

第3条 志望の動機は、職業科の場合には将来の希望職業と、普通科の場合には高校の特色と関連させて書く。

最も大切なのは志望動機です。職業科にしても普通科にしても、なぜその高校なのかという意思表示をできるだけ具体的にすることが大切です。

第4条 可能な限り、数多くの項目について取り上げる。

第5条 所見に書いた内容はすべて面接で訊かれることを想定し、生徒と事前打ち合わせをして意見・事例・エピソード等を用意させる。

第4・5条については本文に書いたので詳述しないが、この二点こそが進路書類の所見を書く現実的な目的なのだと肝に銘じたい。

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久し振りの大雪

授業は2年生の国語が3時間。自習監督が一つ。学級閉鎖で1年生の書写授業が1時間カット。2年生の国語は「走れメロス」。自習監督も含めて午前中4連発。ところがビデオやらワークやらが中心で、ほとんど声を出すこともなし。

結局、4時間で新書を一冊読み切ってしまった。曾野綾子の『老いの才覚』という新書である。上坂冬子と並んで右翼系女性のツートップの一人。小気味よい文体だが、言っている内容は普通のこと。でも普通のことが大事だという趣旨なのだろう。彼女が惚けるのを怖れていることが行間からにじみ出ている。

5時間目の空き時間は評定作業。放課後は送別集会のための部活部長会議。更に生徒会役員と打ち合わせ。早めに退勤。

今日は公立高校入試日。転機が荒れるのは例年通り。久し振りの大雪である。札幌では公立入試が晴れていたということがほとんどない。ぼくが高校受験する日も天気が荒れていたのをよく覚えている。

入試問題投稿の高校生が逮捕されたという。

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それでもつながっている

いまという瞬間は過去とつながっている。私たちは素直にそう信じている。

見慣れたものが眼前に現れれば「ああ、またか」と思い、前に見た情景と似た情景を見れば「ああ、どこそこと似ている」と思う。以前に成功したのと同じ手法でいままさに取り組んでいるのも、やるべきかやらざるべきかといままさに葛藤しているのもかつての経験から見て成否が五分五分に感じられるからだ。いまという瞬間はこういうふうに過去とつながっている。

いまという瞬間は未来とつながっている。私たちは素直にそう信じることができる。

見慣れたものが眼前で見慣れた展開を見せたとき、「次はこうなってああなってこうまるとまるに違いない」と思い、前に見た情景と似た情景を見て、「こういう景色はよくあるのかもしれない。きっとまた見ることがあるのだろう。」と思う。以前に成功したのと同じ手法でいままさに取り組みながら、結果はこうなるに違いないとかなくなに信じている。やるべきかやらざるべきかと葛藤しながらどちらか一方を選ぶのも、以前に失敗した経験からこちらを選んだほうが失敗したとしても自分が納得できるだろうと信じられるからだ。いまという瞬間はこういうふうに未来とつながっている。

そう。いまという瞬間は過去とも未来ともつながっている。私たちは素朴にそう信じている。

しかし……。痛みに耐えているとき、私たちのなかに過去も未来も不在となる。ずきずきと歯が痛む。どうしようもなく痛む。もう我慢できない。いや、もう少し我慢してみよう。歯医者に行きたい。早く出られないか。やっと出られた。まだ着かない。やっと着いた。なんでこんなに込んでるんだ。まだか。まだなのか。なんでおれだけがこんな目に遭うんだ……。過去にどうだったとか、未来はこうなるだろうとか、そんなことはまるで考えられない。人は痛みに耐えているとき、ただ「いまという瞬間」に縛られ、はりつけられる。

苦しい。つらい。もうダメだ。学級崩壊に遭遇した教師が、保護者の執拗なクレームに遭遇した教師が、その苦しみに耐えているとき、その教師のなかに過去も未来も不在となる。ずきずきと心が痛む。どうしようもなく時間が過ぎるのが遅い。もう我慢できない。いや、もう少し頑張ってみよう。やっぱりダメだ。やっぱりダメだった。なんでおれだけがこんな目に遭うんだ……。なぜ私だけがこんな目に遭うのかしら……。過去にどうだったとか、未来はこうなるだろうとか、そんなことはまるで考えられない。教師は苦しみに耐えているとき、ただ「いまという瞬間」に縛られ、はりつけられる。

でもね、いまという瞬間はちゃんと過去とも未来ともつながっているんだよ。

そう言ってくれる人が近くにいれば耐えられるのだ。

これまでだって失敗なんて何度もしてきたはずだ。そしてその失敗を乗り越えたあとには、「ああ、必要な経験だったな」「これで少し成長したかな」と振り返ってきたはずなのだ。そういう過去の経験を素直に信じてみるといい。今回はちょっとだけ大きな失敗なだけだ。きっと数年後、うん、3年後、「ああ、あれは自分にとって必要な経験だったんだ」「ああ、あれがあったからいまの自分があるんだ」と振り返られる自分がいるはずだ。そう素直に信じてみるといい。

ママに叱られたとき、友達と大げんかしたとき、あの子に振られたとき、希望した進路が潰えたとき、いつだって絶望的に世界は暗かった。でも、みんないい想い出になっているじゃないか。あるものは成長の糧となり、あるものは笑い話になり、あるものはキュンとした青春の一頁となる。いまの絶望的に思える苦しみだって、そういうものなんだよ。

いまという瞬間は過去とも未来ともつながっているのに、人は痛みや苦しみに耐えるしかないとき、ただ「いまという瞬間」に縛られ、はりつけられる。それでも「いまという瞬間」はやっぱり過去とも未来ともつながっているのである。

※BILLY JOELの「JUST THE WAY YOU ARE」を聴きながら……。

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BILLY JOEL/1977

「JUST THE WAY YOU ARE」の歌詞を見ながら聴いていたら、こんなことを考えた。苦しんでいる人には「きみのままでいいんだよ」と言ってあげられればいいんだろうと思う。でも、それがなかなか難しいのがいまの世の中なのだ。そうも思う。

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学力向上の10箇条

うちの学級の生徒は勉強しない……そんなふうに嘆いていませんか。勉強しない傾向があったとしても、それを嘆いているだけでは何も進みません。学級担任として、まずはできるだけのことをやってみましょう。いろいろなことが見えてくるものです。

第1条 4月段階でレディネスをとる

まず何よりも大切なのは学級開きから数字の段階でレディネスを把握することである。小学校の漢字、九九、通分など、基礎的なことが身についていないために学力がつかないという生徒たちが一定程度いるのが最近の学校である。このレディネス把握を怠ると、その後の指導が教師にも生徒にもきつくなる。特に「特別な支援を要する生徒」については早めに把握しなければならない。

第2条 家庭学習帳を担任がチェックする

多くの生徒は自分なりのやり方で「勉強したつもり」になっている。家庭学習帳の提出を課し、どんなふうに家庭学習をおこなつているのかを担任として把握したい。

第3条 家庭での時間の使い方を意識させる

テレビやゲームに費やす時間はどのくらいか、睡眠時間はどのくらいか、こうしたことを把握したい。本誌本年6月号参照。

第4条 テスト計画表づくりのモデルを示す

テスト計画表は基本的には自分なりに工夫して作るのがよい。しかし、作り方がわからないという生徒も多い。具体的に記述している生徒のものをよい見本として配付し、書き方・作り方のモデルとするのがよい。

第5条 テストで成績が下がった生徒とは個人面談を行い、具体的な反省を促す

定期テストの結果が出たら、成績の下がった者とはなんとか時間をつくって二者面談をしたい。その際、どのくらい学習したか、どんな学習をしたか、定着の手立て(繰り返し)をとったかなど、できるだけ具体的に分析し反省させたい。

第6条 前回のテストで成績が上がった生徒には必ず戒めの言葉をかける

前回のテストで成績の挙がった生徒はどこか安心している傾向がある。それを戒めるために、テスト3週間前を目処に戒めの言葉をかけるとよい。

第7条 朝自習・帰りの5分間プリントなど独自に取り組む

学級全体に基礎学力不足が見られる場合には、朝自習や帰り学活内の5分を使ってのプリント学習など、独自の取り組みをしたい。学年全体で取り組めればなおよい。

第8条 放課後の補習を行う

学力不足の生徒たちを集めて、専門教科でない教科について補修を行うとよい。学校の副教材をコピーして、何度も何度も取り組ませる。繰り返し取り組めば成果が上がることを体得させることが目的である。

第9条 勉強を教えるのではなく、勉強の仕方を教える

多くの生徒は定期テストに向けて、教科書を読む、ノートを見直すという勉強の仕方をしている。しかし、多くの場合、効果の上がる勉強法は問題に取り組むことである。ワークや問題集に繰り返し取り組むよう助言し続けるとよい。家庭学習習慣の身についていない生徒には、問題集をコピーして渡し、それを家庭学習帳にやらせて、毎日提出させるとよい。3ヶ月程度で効果が出てくる。

第10条  保護者との情報交換を密にする

基礎学力不足の生徒については、家庭での時間の使い方、勉強の仕方について、保護者との情報交換を密にすることが必要である。家庭生活を少しでも改善していけるよう、保護者にも意識してもらうことが必要である。

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特に何事もない一日

特に何事もない一日。

授業は2時間。1時間は2年生の国語で「走れメロス」の読解。もう1時間は1年生書写で小学校4年生配当の漢字テスト。5時間目は卒業式に向けての合唱練習。男子が変声期を終え、良い声になっていた。本番まであと2週間。まずまずのところまでいけそうである。

空き時間2時間は評定作業。放課後は校務部会。生徒会役員の仕事はほぼ終わったようで、ひと安心。同僚と談笑して18時過ぎに退勤。

大学入試問題を流出させた高校生がほぼ特定されたようだ。試験監督がしっかり監督していなかったと大学側の落ち度を指摘する超えも上がっているようだが、いよいよ小中高に対するクレームの論理と同じものが大学にも寄せられるようになったようだ。それが京大だというのも象徴的である。気の毒だとは思うけれど、まあ、時代はそういう論理が横行する時代になったのである。諦めて対応するしかない。

宮城県と大阪府が性犯罪前歴者のGPS携帯を検討しているそうだ。事の善し悪しはともかくとして、すごい時代になったものである。10年前であれば考えられないようなことが次々に検討それるようになった。強姦・強盗の被告が懲役29年の判決を受けたという報道もなされている。裁判員が予備も含めて全員女性だったということに疑問の声も上がっている。これも裁判員制度を抜きにしても、10年前であれば考えられないことである。

時代はいろいろな意味で、いよいよ本格的な過渡期を迎えているようである。いろいろな議論の末に、安定した社会ができればいいなと思う。

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学級経営10の原理・100の原則

学級経営 10の原理 100の原則/困難な毎日を乗り切る110のメソッド』堀裕嗣・学事出版・2011.03.17初版

ご注文はこちらへ/ご注文はこちら

3月です。この本の第1章の題材となっている学級開き・学年開き関係の記録をご希望の方に添付メール(一太郎)でお送りします。ご希望の方はこちらにお名前と勤務校をお書きの上メールをください。

9784761918088 編集の戸田さんに頑張っていただいて、ぼくの本としてはかなり読みやすいものになっている。イクタケマコトさんのイラストも内容にマッチしていて、表紙カバーの装丁も気に入っている。出来上がるまで1年半ほどの紆余曲折があったこともあって、著者として満足感とともに大きな喜びも感じている。

基本コンセプトは、「学級経営に失敗できない時代になった」という前提のもとに、まずは非凡な実践に憧れる前に平凡なことをしっかりと基盤づくりとして意識しよう、というものである。いま、勤務校でつまずき、ひとたび目に見えた失敗してしまうとなかなか浮上できない現実がある。生徒も保護者の中には、一度失敗した先生としてずーっと記憶に残る。下手をするとネット上に記録としてまで残ってしまう。そういう時代になった。同僚や管理職もかつてほど頼りにはならなくなっている。もちろん指導に加わってはくれるのだが、かつてのような精神的な支えとしてはなかなか機能してくれなくなった。「成功すること」よりも「失敗しないこと」が大切な時代になってきている。

教師は「成功」に憧れる。非凡な教師が非凡な実践をしていると、「よし!自分も」となる。これは人としてあたりまえの思考回路でもある。しかし、「よし!自分も」と始められる実践の多くは成功しない。非凡な教師の実践が「平凡の上に築かれている非凡である」ことに、彼らが気づいていないからである。非凡なまでに生徒たちを引っ張り、非凡なまでに自己実現しているように見える教師の実践は、その前提にやるべき平凡なことが積み重ねられ、それを基盤として成り立っているのである。若い教師はそれに気がついていない。これまで若さで乗り切ってきたのだが、最近どうもうまくいかないと嘆いている中堅教師もそれに気がついていない。最近子どもがわからなくなった、最近子どもが変わった、自分のやり方ではもう通用しないのだ、やめたい……と嘆いているベテラン教師もそこのところに気づいていない。

この本は徹底的に学級経営の基盤となる「平凡」にこだわった。それもかなり細かいところにまでこだわった。学級経営で決して蔑ろにしてはいけないマネジメントの10原理、そして「学級組織づくり」「席替え」「給食指導」「清掃指導」「ショート・ホームルーム」「リーダー育成」「学力向上」「家庭訪問」「通知表所見」「職員室の人間関係」という10項目について、それぞれ10原則を提示した。どれも臨機応変性の求められる領域ではなく、基本原則に則って指導にあたることで、まず間違いなく失敗を避けられるといういわばコンクリート領域ばかりである。

生徒指導や教育相談、不登校生徒の対応や特別な支援を要する子の指導など、臨機応変性の求められる領域については次著で……という予定である。

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第1回・中学校学級づくりセミナーin札幌

まだ北海道ではこの研究会の案内をしていないのですが、このブログを見てだと思いますが、早くも申し込みが入っています。道外からの申込者が多いです。実名は挙げませんが、道外からの申し込みの皆さん、1日目の夜に講師全員が揃っての懇親会がありますので、よろしければご参加下さい。遠慮は無用です(笑)。もちろん、道内の方も。

全国・中学校学級経営研究ネットワーク
第1回 中学校・学級づくりセミナーin札幌
~中学校・学級経営の極意/決定版~

教師なら「よい学級をつくりたい!」と思うことでしょう。しかし、学級づくりは学習指導と違ってなかなか学ぶ機会がないのが現状です。「学級づくりに役立つ情報がほしい」「気になるあの子にどう対応すればいいの?」「あの保護者どうも苦手で……」などなど、様々な学級づくりに対するニーズにお応えしていこうというのがこのセミナーです。

今回は京都から「こんなときどう言い返す」の池田修先生、九州から「とっておきの道徳授業」の桃崎剛寿先生をお招きし、「中学校学級づくり/全国縦断セミナー」のスタートです。この後、新潟・東京・京都・熊本と全国を縦断していく、その第1回目のセミナーが札幌で開催されるわけです。

若い先生はもちろん、中堅・ベテランの先生方にとっても、目からウロコの提案の連続です。どうぞお誘い合わせのうえご参加下さいませ。

日 時:2011年3月26日(土)~27日(日)

会 場:札幌市コンベンションセンター・2F207研修室

参加費:両日参加6,000円/1日参加4,000円

定員:60名(登壇者を含みます)

【講師】

池田 修/こんな時どう言い返す?

桑原 賢/特別支援教育の理論派

堀 裕嗣/感化主義の学級経営

桃崎剛寿/とっておきの道徳授業

山下 幸/コミュニケーション教育の気鋭

【日程】

1日目(26日・土)

9:15~10:45 講座1 全体オリエンテーション/堀 裕嗣
これだけははずせない!生徒・保護者の信頼を得る10の原則

11:00~12:30 講座2/堀 裕嗣
これだけははずせない!学級システムをつくる10の原則

13:30~14:15 講座3/山下 幸
年度当初!保護者懇談会・5つのアイテム

14:15~15:00 講座4/桑原 賢
年度当初!特別な支援を要する生徒たち 対応の極意

15:15~16:45 講座5/桃崎剛寿
とっておきの道徳授業!心を育てる学級経営の原理・原則

2日目(27日・日)

9:15~10:45 講座6/池田 修
こんなときどう言い返す?咄嗟の生徒指導の原理・原則

11:00~12:15 講座7 シンポジウム/池田・桑原・堀・桃崎・山下
学級経営・生徒指導の勘所をこう考える

13:15~14:15 講座8/堀 裕嗣
通知表所見で苦労しない/生徒観察の思想と技術

14:30~16:00 最終講座/堀 裕嗣・池田 修・山下 幸
職員室の人間関係学~同僚とどう付き合い、チーム力を発揮するか

【お申し込み】

以下の9点をお書きの上,FAXがEメールにて下記まで御連絡ください(24時間OK)。

〈必要事項〉
1.イベント名
2.両日参加か1日参加か
3.氏名
4.勤務校
5.郵便番号
6.住所
7.電話番号
8.FAX番号
9.メールアドレス

〈お申し込み先〉
小木恵子(こぎ・けいこ
FAX:(011)866-6422
E-mail : YFA39060@nifty.com

【講師紹介】

07_ikeda 池田 修(いけだ・おさむ/京都橘大学・准教授)
  國學院大学文学部国語学専攻卒、東京学芸大学大学院修士課程国語教育講座修了。教育研究会「明日の教室」事務局。「全国教室ディベート連盟」近畿支部副支部長。「授業づくりネットワーク」「全国生活指導研究協議会」会員。東京都中学校国語科教員を19年間勤めた後、大学に籍を移す。「国語科を実技教育にしたい」「学級を楽しく経営したい」をテーマに研究と実践を重ねている。大学では、「特別活動論」「学級担任論」の授業も担当する。単著『国語科ディベート授業入門』『こんな時どう言い返す』(以上、学事出版)、『教師になるということ』(ひまわり社)、編著に『シリーズ 明日の教室1~5』(ぎょうせい)がある。

Photo桑原 賢(くわばら・けん/北海道立鷹栖養護学校・教諭)
 北海道教育大学大学院教育学研究科教科教育専攻(社会科教育)修士課程修了。旭川や上川管内の普通中学校勤務を経て、現在特別支援学校に勤務。「授業づくりネットワーク」「自由主義史観研究会」「新しい歴史教科書をつくる会」「日本学校教育相談学会」会員。また、「教師力BRUSH-UPセミナー」会員として、特別支援教育や生徒指導・学級経営についての研究を進め、セミナー講師等をつとめる。共著『学級経営力を高める2 説明責任時代の生徒指導力』のほか、『生徒・保護者にわかりやすい絶対評価の通知表』『学級経営力を高める』シリーズ(以上明治図書)に執筆している。

Photo_2堀 裕嗣(ほり・ひろつぐ/札幌市立北白石中学校・教諭)
   北海道教育大学札幌・岩見沢校修士課程・国語教育専修修了。「研究集団こと のは」代表・「教師力BRUSH-UPセミナー」代表・「実践研究水倫」研究担当・「日本文学協会」・全国大学国語教育学会・日本言語技術教育学会など。学生時代、森田茂之に師事し文学教育に傾倒。1992年、森寛・對馬義幸らとともに「研究集団ことのは」設立。「文学教育」と「言語技術教育」との融合を旗印に長く国語科授業の研究を続けている。主著:『全員参加を保障する授業技術』『学級経営力を高める~感化主義の学級経営』(以上明治図書)『中学校通知表・所見文例集』(小学館)など著書・編著多数。

Image12桃崎剛寿(ももざき・たけとし/熊本市立江原中学校・教諭)
  昭和63年熊本大学教育学部数学科卒業、平成2年熊本大学大学院教育学研究科数学教育専攻代数学専修修了。本渡市立本渡中学校、熊本市立北部中学校、熊本市立武蔵中学校、熊本県立教育センター指導主事(道徳担当)を経て、現在熊本市立江原中学校に勤務。教育サークル「道徳教育改革集団」に所属。団長兼中学代表。著書にベストセラー『中学校編とっておきの道徳授業』Ⅰ~Ⅷ(日本標準),『「中学生を変えた」奇跡の道徳授業づくり」(日本標準)がある。また、熊本県中学校数学教育研究会の事務局長として数学教育でも県のトップとして活躍している。教育月刊誌『数学教育』(明治図書)に執筆多数。

Yamashita山下 幸(やました・みゆき/札幌市立上篠路中学校・教諭)
北海道教育大学岩見沢校卒。「実践研究水輪」「研究集団ことのは」「中学校・学級経営研究ネットワーク」「教師力BRUSH-UPセミナー」等、様々な研究団体に所属。学生時代、森田茂之に師事し、1950年代の文学教育実践研究とともに、作文教育の研究に傾倒。1992年、「実践研究水輪」入会。1995年、「研究集団ことのは」入会。「教師力BRUSH-UPセミナー」には設立から参加している。『全員参加を保障する授業技術』『教室プレゼンテーション20の技術』『聞き方スキルを鍛える授業づくり』(ともに明治図書)といった国語科教育に関するものをはじめ、『学級経営力を高める』シリーズ全10巻(明治図書)の編集に携わる、精力的に活動を続けている。

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第1回 中学校・国語科授業づくりの原理・原則

累積科学国語教育研究会主催
第1回 中学校・国語科授業づくりの原理・原則
~いまどきの生徒を授業にひきこむ~
国語科授業づくりAtoZ

日時:2011年4月2日(土)~3日(日)

会 場:札幌市白石区民センター・1F多目的室

参加費:両日参加5,000円/1日参加3,000円

定員:両日とも30名(登壇者を含みます)

【本セミナーの4つの特徴】

1.国語科で何を教えたらいいのかよくわからない……そんな素朴な疑問にこたえます。

2.最近の子どもは授業に集中してくれない……そんな現状の打開策を提案します。

3.習得・活用・探究~新学習指導要領のために何を準備しておけばいいの?この疑問にこたえます。

4.教材研究とか学習活動とかって、どんなふうに取り組めばいいの?この疑問にもこたえます。

どうぞお誘い合わせのうえ、ご参加下さい。今年度の授業が楽しくなります。やる気が出ます。

【日程1日目/2011年4月2日・土】
(「日程2日目」は裏面をご覧下さい)

講座1/堀裕嗣 9:15~10:00
中学校国語科・授業づくりの10の原理
〈習得〉させる指導事項をどう考えるか。〈活用〉させる学習活動をどう仕組むか。国語科授業づくりの10の原理について、適宜模擬授業を交えながらわかりやすく解説します。

講座2/山下 幸・對馬義幸・坂本奈央美・米田真琴 10:15~12:30
子どもをひきつける授業技術入門
説明文・米田真琴 10:15~10:45/詩:坂本奈央美 10:45~11:15
解説:山下 幸・對馬義幸 11:30~12:30
若手教師による二人による模擬授業を題材に、ベテラン教師が代案を示しながら解説します。いまどきの子どもを授業に巻き込むための授業中の発問・指示・説明の勘所を学べます。

講座3/小林 智 13:30~14:15
子どもをひきつける授業システム入門~スピーチ指導を例に
いまどきの子どもが夢中になる教材開発法、授業システムに必要な勘所について、昨年度の累積国研秋の陣で絶賛された模擬授業の再現+解説で体験的に学べます。

講座4/小木恵子 14:15~15:00
子どもをひきつける教材開発入門~作文指導を例に
「授業のネタはどこに転がっている」と豪語する教材開発の天才が、日常生活でのアンテナの張り方、素材の加工の仕方についてわかりやすく解説します。

講座5/堀 裕嗣 15:15~16:45
義務教育で〈習得〉させる120の言語技術・1
~「話すこと・聞くこと」「書くこと」「音読指導」編~

国語って何を教えたらいいの? 国語を専門にしながらも今ひとつわからない。そんな声に明快にお応えします。これを頭に入れれば、国語の授業が変わる。生徒への指導が変わる。そんな70の言語技術の体系を示します。

【日程2日目//2011年4月3日・日】
(「日程2日目」は表面をご覧下さい)

講座6/堀 裕嗣 9:15~12:30
義務教育で〈習得〉させる120の言語技術・2
~「読むこと」(説明的文章教材・文学的文章教材・古典教材)編~

国語って何を教えたらいいの? 国語を専門にしながらも今ひとつわからない。そんな声に明快にお応えします。これを頭に入れれば、国語の授業が変わる。生徒への指導が変わる。2日目の午前中は「読むこと」領域の50の言語技術体系です。

講座7/對馬義幸 13:30~14:15
子どもを惹きつける授業システム~韻文教材を例に
いまどきの子どもが夢中になる教材開発法、授業システムに必要な勘所について、模擬授業+解説で体験的に学べます。短歌・俳句の指導に困っている方、必見です。

講座8/山下 幸 14:15~15:00
子どもを惹きつける授業システム~小説教材を例に
いまどきの子どもは小説をまともに読めない。そう感じていませんか。こうすればそんな子どもたちも読めるようになる。そんな授業の勘所について模擬授業+解説で提案します。

講座9/ ファシリテーター:山下 幸 15:15~16:45
解説:堀 裕嗣・對馬義幸・小木恵子・小林 智・坂本奈央美・米田真琴
国語科授業づくり・なんでもQ&A
講座でもう少し聞きたかったこと、疑問に感じたこと、そして日常的に困っていること、どんな質問にも講師の6人が自分の実践をもとに応えます。基本文献も紹介します。毎回、講師のこたえが具体的だと評判を得ているQAコーナーです。

【講師】

研究集団ことのは
1991年結成。言語技術教育・文学教育・コミュニケーション教育・メディアリテラシー・ファシリテーション等、国語科教育を中心に実践研究を重ねて20年。「全員参加を保障する授業技術」「教室プレゼンテーション・20の技術」「聞き方スキルを鍛える授業づくり」「発信型授業で『伝え合う力』を高める」「絶対評価の国語科テスト改革・20の提案」「義務教育で習得させる国語学力~授業づくりの10の原理/120の言語技術」「学級経営力を高める」「中学校・通知表所見文例集」など、国語科教育・中学校学級経営に関する著書多数。「月刊ホームルーム」連載中。

堀 裕嗣(代表/札幌・中学校教諭)

對馬義幸(副代表/札幌・中学校教諭)

山下 幸(事務局長/札幌・中学校教諭)

小木恵子(札幌・中学校教諭)

小林 智(旭川・中学校教諭)

坂本奈央美(渡島・中学校教諭)

米田真琴(石狩・中学校教諭)

【お申し込み方法】

以下の7点をお書きの上,FAXがEメールにて下記まで御連絡ください(24時間OK)。
 1.氏名/2.勤務校/3.郵便番号/4.住所/5.電話番号/6.FAX番号(ない場合には「なし」と明記)/7.メールアドレス(なし場合には「なし」と明記)

小木恵子(こぎ・けいこ)

FAX(011)866-6422

E-mail : YFA39060@nifty.com

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その後の予定

【その後の予定】

2011年5月7日(土)/第28回・累積科学国語教育研究会in札幌/未定/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費:3000円/講師:堀裕嗣・山下幸(他・交渉中)/定員30名/近日詳細

2011年5月14日(土)/第2回・中学校学級づくりセミナーin名古屋中学校・学級経営の極意・決定版講師:石川晋・伊藤慶孝・神崎弘範・長瀬拓也・堀裕嗣・堀川真理・松久一道・桃崎剛寿/定員100名

2011年5月15日(日)/日本文学協会国語教育部会・5月拡大例会シンポジウム/魯迅「故郷」をめぐって/東京都立産業技術高等専門学校/堀裕嗣・田中実・藤井省三/司会:須貝千里

2011年6月4日(土)~5日(日)/日本ファシリテーション協会・全国フォーラムin札幌

2011年6月11日(土)/第3回・学級経営プログレッシヴ・セミナーin札幌

2011年7月9日(土)/第4回・学級経営プログレッシヴ・セミナーin札幌

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好きな曲/シングル

YOU TUBEを見ていたら、リンクしておいていつでも見られるようにしておこうと思ったので、この頁をつくることにしました。いずれ、「人生のトップテン/シングル編」にまとめていこうと思います。

【女性】

色彩のブルース Midnight Dejavu/Ego-Wrappin'

いっさいがっさい/奥村愛子

思秋期/岩崎宏美

わたしの1095日/岩崎宏美

月見草/岩崎宏美

【男性】

シクラメンのかほり/布施明

落ち葉が雪に/布施明

明星/沢田研二

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「応える」ということ

教育は誘惑なりとはよく言ったもので、それは言葉が誘惑であるのと同様にある種の真理を突いている。

人は自らを誘惑してくれるような言葉を探し求めるものだが、それと同じように、どこか脳の斜陽の部分でだれかに誘惑されたがっているところがある。やれ一社懸命だ、やれマインド・コントロールだと騒がれたけれど、そうした被洗脳を選ぶ側も最初から会社や教典に洗脳されたわけではあるまい。それは多くの場合、ごく身近に誘惑者がいたのである。直属の上司の場合もあれば、受付で最初に会った信者の場合もあろう。そしてそれを契機におめおめと誘惑されたのは半分は誘惑者のせいであるけれど、残りの半分は常日頃から誘惑されたがっていた自分のせいでもある。

80年代を機にそれこそ教育は誘惑なりと様々な手管(てくだ)が喧伝されたけれど、手管を身につけたからといって商売女は商売女、手に手を取って誘惑し切るには至らない。

例えるなら手管は答え方を教えてしまう。師と呼ばれる者が教えねばならぬのは在り方である。なのに似非(えせ)は応えさせるべきところを答えさせてしまう。すると教わる側も応えるその在り方を学ぶのでなく、答えを求めるようになるのは必然。それが四、五年も続けばいくら銀にも金にも玉にも優れる者とて、鉛に堕ちるのも仕方ない。手管が悪いのではない。手管を用いる女に魅力がないのである。

応える在り方を教えられるのは、自ら応える者のみである。子らの期待に応え、希いに応え、祈りに応える。これなくして応えるその在り方を学ばすことはあたわぬ。期待に希いに祈りに答えてはならぬ。応えるのである。応えずに答えてしまうと教わる側は待てなくなる。待てない子らは待てない大人になり、それが今日の待てない社会をつくり出した。期待と希いと祈りを捨てた者は人との糸を断って自らの殻に閉じこもり決してそこから出なくなる。待たせても待たせても期待を断たせず、希いを断たせず、祈りを断たせずにいられる者こそが誘惑者である。そしてそれは手管のみを追求した者には決して届かぬ境地である。

いうは易く行うは難し。

いつかこんな境地に立ってみたいものである。応える在り方を追い求める復路を歩みたいと切に願う。

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合唱コンクール指導の10箇条

合唱コンクールの指導に苦手意識をもち、合唱コンクールの時期になると憂鬱になる……そんな教師は意外と多いものです。いろいろ工夫をしながら、1年1年経験を重ね、練習のバリエーションを増やしていく。若いうちから意識しておくべき、学級担任の視点です。

第1条 練習の仕方を考えて選曲する

合唱コンクールの勝負は、実は選曲によって大きく左右される。練習しやすい曲と練習しにくい曲があるのだ。私の場合、①ユニゾンから入る、②発声練習ができる山場を含む、③強弱がはっきりしている、④発達段階に応じた歌詞をもつ、⑤学級の実態に応じた難易度である、という5つの観点で選んでいる。

第2条 パートの音取りを徹底する

多くの教師が音取りが不完全なままにパート合わせをしている。音楽の不得意な生徒にとっては、この練習はほとんど機能していない。パーと練習には「やりすぎ」ということはない。それほど大切である。

第3条 2パート練習を徹底する

ある程度音が取れたら、2パートの合同練習を取り入れると良い。他のパートとハモるということを体感させることができる。いきなり全体練習をするよりも、この方法が最も効果的である。

第4条 個人ハーモニーを体験させる

音が取れたら、各パートから一人ずつ出て4人で合わせてみるという練習が効果的である。他のパートとどんなハーモニーをつくるのかということを体感することができる。

第5条 他パートを意識させる

全体であわせる場合にも、自分勝手に自分のパートを歌うのではなく、或いは自分のパートを合わせることに集中するのではなく、あくまでも他パートとハーモニーをつくるのだという意識をもたせたい。そのために、他パートに耳を傾けての練習を意識させる。

第6条 最強・再弱の練習を繰り返す

曲想をつける段階では、自分たちの学級の最大の声と最小の声で4小節程度ごとに歌わせ、どの弱さからどの強さまでが自分たちの歌える範囲なのかを意識させるとよい。これを繰り返しているうちに、更に声量が大きくなり、ピアノでは歌詞をはっきり語ることができるようになっていく。

第7条 入りの歌詞をはっきり発音させる

曲の最初の歌詞はもちろん、各フレーズの最初の歌詞がはっきり聞こえない合唱は聴き手に歌詞を聴くことを放棄させてしまう。これは合唱の価値の半分を捨てることを意味する。歌詞をはっきりと、特に「入りの歌詞」をはっきりとという指導は、何度でも繰り返す必要がある。

第8条 全体練習のバリエーションを増やす

いつも同じ歌い方をしていたのでは生徒たちも飽きてしまう。各パートが向かい合ったり、輪を作って歌ったり、テンポを合わせて歩きながら歌ったり、寝転がりながら歌ったりといったバリエーションを多くもちたい。

第9条 楽しい雰囲気をつくることがリーダーの使命であると意識させる

合唱練習では、音楽を得意とするリーダーたちが音楽を不得意とする生徒たちを責めるという練習形態になりがちである。この雰囲気に陥ると、合唱練習は絶対にうまくいかない。合唱部の練習ではないのである。ほとんどは素人なのである。楽しい雰囲気さえつくれれば、リーダーは成功……くらいの心持ちをリーダー生徒にもたせたい。

第10条  歌詞を深く解釈させる

毎年、歌詞の意味もわからずに歌う合唱をよく聴く。それは歌というものの根幹をはずしている。

※BILLY JOELの「THE STRANGER」を聴きながら……。

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BILLY JOEL/1977

ぼくが初めて買った洋楽アルバム。「THE STRANGER」とか「JUST THE WAY YOU ARE」あたりを聴くと涙があふれそうになる。結局、ぼくにとってビリー・ジョエルは英語圏で15番手くらいのアーティストになってしまっているけれど、ぼくらの世代にとってのスーパースターを一人だけ挙げろと言われれば、きっとだれもがビリー・ジョエルと答えるだろうと思う。。「THE STRANGER」のピアノと口笛。あれを初めて聴いたときの衝撃はきっと一生忘れられないのだろうと思う。こんな格好いい音楽がこの世にあるんだ……と感じた。

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のんび~り過ごした一日

今日は昨日に続いて、これまでお世話になった先輩教師に新刊を発送。これで札幌市内の発送は取り敢えず終わり。ひと安心である。夕方、新刊を送った先輩教師のお一人から早速お電話をいただく。たった1年しか職場をともにできなかったが、ぼくの最も信頼している管理職のお二方のうちのお一人である。電話をいただいて、「こういうところなんだよなあ……」と妙に感心する。自分も見習わなければならない。間違いなく、数日後には何枚にもわたる感想が届くはずだ。そういう人なのである。ありがたいことだ。

さて、今日の授業は2時間。2年生の国語が2クラス。それも一つはワーク、もう一つはワークの解答&グループ音読である。これほど楽な日はない、とのんびりした気分で出勤。結局、自習監督が1時間入ったものの、とにかくのんび~りと過ごした一日。特別な生徒指導事案もなく、こういう日ばかりだと月給泥棒だな……と思いつつ、一日を過ごす。金曜日が小票提出だというのに、なんと今日の朝の時点でまだ担任にさえ小票が配付されていない。今日の5時間目に請求して、やっと放課後になって出てきた。まったく、こちらものんび~りした学校である(笑)。しかし、こういう雰囲気も嫌いではない。

放課後は生徒会役員が一生懸命仕事をしているのを尻目に、既に引退した3年生の生徒会役員の面接練習をしたり、野球部の生徒とキャッチボールをしたり、これまたこれまたのんび~りした放課後。生徒会役員も送別集会のすべての準備作業を終えて16時45分に下校。送別集会は来週の金曜日だというのに、もうPPTその他が仕上がってしまっているというのである。生徒会長が今日格闘していたのは卒業式の送辞原稿である。PCに向かって腕を組み、しかめっ面をしている。すべてが早い。良いことである。

勤務時間終了とともに退勤。

※SERGIO MENDES & BRASIL '66の「Mais Que Nada」を聴きながら……。

Gold_002_1Golden POPS 1966

DeAGOSTINI/2005

DeAGOSTINIの「Golden POPS」という10曲入りCDを付録にして発行したものの2巻である。1966はちょうどぼくの生まれ年だったので、この巻だけを買った。収録曲は「恋の終列車」「孤独の太陽」「ダンス天国」「男が女を愛する時」「夢のカリフォルニア」「君といつまでも」「バス・ストップ」「サニー」「マシュ・ケ・ナダ」「この胸のときめきを」の10曲。先日、送別集会用のビデオを生徒たちの生まれ年のヒット曲をBGMにしてつくっていたら、これが聴きたくなった。初めて聴いたときには、とれも知っている曲ばかりで驚いた記憶がある。 現在の2、3年前のヒット曲でもわからない世の中とは大違いである。

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