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教師のための成長術/長瀬拓也

『失敗・苦労を成功に変える教師のための成長術-「観」と「技」を身につける-』
長瀬拓也・黎明書房・2011.02.10

若手教師の〈人間〉がよく出ている書として、大変好感をもって読んだ。圧倒的に優れた教師による圧倒的に優れた成長術ではないところに、本書の価値がある。しかもその点に著者が自覚的なのもいい。

しかし、違和感を抱いたのも事実である。最も大きな違和感は本書のコンセプトともいえる「『観』と『技』の二項」のみによって著者が自らの失敗を分析している点である。「観」は理想・思想、「技」は技術・技能とすれば、明らかに第三項が必要である。それはぼくの言葉でいえば「自己キャラクター」である。

ごくごくシンプルに定義つければ、「観」は頭の中にある思想である。頭の中の思想は本や研究会で得た情報と自らの生活経験、実践経験から形成される。つまり、「観」は〈情報〉と〈体験〉の融合として現出する。学べば学ぶほどに、経験すれば経験するほどに「観」は修正され、基本的には「大きく」「広く」という拡大ベクトルと、「深く」「細かく」という深化ベクトルとが螺旋状に関連し合って高まっていく。そういう構造をもっている。

「技」は自らの外にあるデータベースである。決して自分だけのものではない。「観」が究極的には分かち伝えることができないのに対し、「技」は軽薄短小から重厚長大へと相対的な差はあるものの、基本的には分かち伝えることのできるものである。また、「技」には、ほぼ自分のものにしていていつでもどこでも使える技、ある程度自分のものにしているが条件がそろっていないと使えない技、一応訓練はしているけれどまだまだ使うのが下手な技、その技があることを知ってはいるけれど自分には使えない技、といった様々なレベルもある。データベースにはこうしたレベルの違いも整理されている必要がある。こうしたレベルが意識されていないデータベースは、技術的・技能的データベースとしては不完全であり、機能しない。

さて、頭の中の「観」と自らの外にある「技」、教育実践においてこの二つと同等の重みをもって条件として位置づいているのが「自己キャラクター」である。教師の持つ「キャラクター」に応じて、使うにふさわしい「技」とふさわしくない「技」がある。これを多くの若者が、そして多くの実践研究をする教師が理解していない。

野口芳宏氏に子どもたちを追い込むタイプの授業技術がある。「裁きの場に立たせる」とか「論破させる」といった方向性の授業技術である。これをだれでも追試していい授業技術だと思ったら大間違いである。

例えば、これを菅原文太先生が使ったとしよう。子どもたちは必要以上に緊張感を強いられ、授業技術が機能不全を起こす。「裁きの場に立たせる」「論破させる」といった授業技術は、野口氏のユーモラスな語りで包み込むことのできる「キャラクター」とセットであるからこそ機能するのである。野口流授業技術の多くが、実は怖すぎるキャラの教師には危険性をもつという特徴がある。

例えば、これをアンガールズ先生が使ったとしよう。子どもたちは教師の強制に不満を抱くかもしれない。少し子どもだれている雰囲気を感じたアンガールズ先生は、野口実践の追試だから野口氏よろしく子どもたちにすごむ。はっきり自分の意見を主張しろ、と。しかし、それが子どもたちの不満に更に火をつける。なぜそこまで強要されなくてはならないのか、と。アンガールズ先生が野口氏に習ったとおり一歩も引いてはいけないとすごみ続ければ保護者クレームへ、自分には無理だと引いてしまえば教師とその子のカーストが逆転する。いずれにしても学級崩壊へつなりかねないマイナス要素となる。

若手教師にとって、「観」をもつこと、「技」を学ぶことと同等に大切なのは、「己」を知ることである。自分は子どもたちにどういう印象を与えるのか、保護者にはどうか、職場でのステイタスはどうか、性格的に楽観的か悲観的か、他人と協調することに喜びを感じるタイプか否か、などなど。そして何と言っても大切なのが「見かけ」であり「ルックス」である。教師にはいわゆるイケメンや美女である必要性はない。しかし、菅原文太とアンガールズ、小沢一郎と鳩山由紀夫、キムタクとシンゴ、ビートたけしと明石家さんま、なんでもいい。こういう組み合わせで考えたとき、同じ教育活動をおこなって同じ効果がでるはずがない。まったくキャラクターが異なるからである。

「キャラクター」は見かけやルックスだけで構成されるわけではない。ちょっとした表情、ちょっとした仕草、子どもがトラブルを起こしたときにどういう態度で接したか、周りの先生にどういう態度で接しているか、服装はどうか、運動能力はどうか、恋愛経験が豊富そうに見えるか、頭の回転が速いか、そうした多種多様な物事の総合的なイメージによって決まる。

これらのすべてが野暮ったく、ある種の威厳、オーラをもっていない教師は、それらをもっている教師よりも、基本的に「教師-生徒」関係を築くのが難しい。一応断っておくが、これは子どもを怖がらせるような威厳とは限らない。周知のように、石川晋や中村健一には怖がらせるような威厳はない。しかし、頭の回転の速さや圧倒的なユーモア力といった核となるイメージに種々のキャラクター要素を総合的にもっているが故に、ある種の威厳、オーラを感じさせるのである。これは自分ではわからない。あくまでも他人にどう見えるか、ということがすべてである。

若者に最も欠けているのはこれなのである。これが欠けている自覚がなく、なのに自分の頭の中の「観」や頭の中のセルフイメージだけで変に過信し、それに依拠して教育活動を行おうとするところに、子どもたちに見透かされる要因がある。

ぼくらの年代の教師から見れば、「できる教師」は新卒4月から〈目〉でわかる。それは学級開きで「できる生徒」(勉強ができる、という意味ではない)が瞬時にわかってしまうのと同じである。

「できない教師」にとって必要なのは、まず「己」を知り、自分の「キャラクター」を生徒や同僚との関係からよく分析して、自らの「観」を実現するために、双方をつなぐような「技」を選んで用いることなのである。

今日はここまで。

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コメント

堀先生、はじめまして。先日の明日の教室に参加していたながいと申します。

「できない教師」である私にとって、うまくいかない原因をすべて言い当てていただいたような気がします。勉強になりました。また、先生の学年経営に対する見方もとても興味深いです。先日紹介されていた学年会議の資料も是非読んでみたいなと思いました。

これからも先生のブログでたくさん学びたいと思います。ありがとうございます。

投稿: ながい | 2011年2月 6日 (日) 09時37分

こんにちは。ありがとうございます。メールをいただければ、資料は添付メールでお送りします。お気軽に連絡をください。

投稿: 堀裕嗣 | 2011年2月 6日 (日) 09時57分

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