コンテクスト
ぼくのなかに「還暦を過ぎると右傾化する」というテーゼがある。ほんとうは「還暦を過ぎると」というのは正しくなくて「リタイアすると右傾化する」のほうが良いのかもしれない。ぼくには経験がないので想像にしかならないのだが、たぶん自分の職務上の動的な位置づけから離れ、それでも社会のいろいろなことが気になるというとき、かつて自らの立っていた共同体を絶対視することにしか発言の信憑性を確保できなくなることが原因なのだろう。共同体は職業でもあり、世代でもあり、地域でもある。
もちろんこれはあくまで相対的な問題であって、若くて現役だからといってその呪縛から逃れられるわけではない。しかし、「リタイア」して数年でのそ傾向が顕著になっていく事例が多い。かつて自分の上司として、或いは尊敬すべき先輩として君臨していた彼らが、妙に価値観を固定化し、下の世代を、或いは社会を断罪するのを見ていると哀しくなる。現在の「団塊前記」ともいえるリタイア組は基本的に、それを昭和30年代から40年代に置いている。物心ついた頃から青春期までを人は懐かしむ。それは仕方のないことなのだが、しかしそこに価値判断を伴わせて彼が主張し始めるとき、そしてそれが現代にも通ずるリアリティがあると主張するとき、彼は時代から用済みの烙印を押される。彼らの議論にどうしようもなくコンテクストが欠落してしまうからである。
かつてはこうした昔語りもある程度の尊敬をもって迎えられた時期もあった。それは昔語りが「戦争」であったり「終戦」であったり「戦後復興」であったりした頃である。その手の話について若い世代は聴く価値を見出せた。もちろん当時のその世代も確かに右傾化していたのだが、戦争体験者が自らの戦争体験を、或いは家族の喪失を語りながら、別の場所では右傾発言をするということに、それがこの国のもつジレンマと解釈することができた。昭和ひと桁からぼくらの親世代、つまり昭和十年代生まれ程度にまでは彼らの話を聴いていてその意識を抱くことができた。
しかし、とうとう「団塊」の番が来た。「全共闘」の番といってもいい。彼らは何も語るものをもたない、数だけは多い、上からも下からも蔑まれた世代である。上からは思想のなさを指摘され、赤軍事件の後には暴走族や校内暴力に取って代わられたと揶揄され、ぼくらの世代からは「全共闘などアルマーニのスーツと何も変わらない」と思われている。高度経済成長の終焉を前に、社会構造の変化をあばかず、それ以前の社会構造をただただ延命させようとした。いや、正確に言えば、彼らの上の世代が延命させようとしてきたことをあばかず、それに乗っかった。そしていよいよ自分たちの番だと思った矢先にバブルの崩壊、拓銀や山一、オウムや酒鬼薔薇に象徴されるような時代の流動化のなかで、右往左往した過ぎない。
その彼らがいま、必然というべきか右傾化している。もちろん、右翼思想・左翼思想の右傾化ではない。経験則だけでものをいう馬鹿げた論理を展開しているにもかかわらず、その論理に拘泥し続けるという程度の意味で理解していただくと近い。
彼らは大塚英志を無視し、宮台真司を無視し、東弘紀を無視した。学力論争の一方に与し、教育再生会議に賛同し、「国家の品格」に賛同した。郊外化とヤンキー社会と浜崎あゆみとケータイ小説の構造的関連を無視した。ロングテールを自らのことだと勘違いしながら、大衆的な共同性に洗脳されていることに気づかない。記号化された80年代的ポストモダンをいまだにポストモダンだと理解し、心理主義的なひきこもり社会と社会学的な決断主義を無視し続けている。秋葉原事件をキャリア格差の世論に持って行ったのも彼らだ。農業その他に求人はたくさんあるのに、ネットカフェ難民になるのは甘えだと感じている。ネットカフェに入り浸る金があるならひと部屋くらい借りられるではないかと発想し、ロスジェネを蔑む。もう時代を語る資格を失っているのである。かつてのような「もう我々の時代までは良かった」という論理は通用しないのである。
ケータイ小説や「デス・ノート」や「リアル鬼ごっこ」や「バトル・ロワイヤル」に抵抗があるなら、せめて綿矢りさや平野啓一郎くらいは読んでみるといい。そこにはいま起こってることの萌芽がある。例えば、藤村・花袋・漱石・鴎外からこれらの作品までを等価として並べてみる視座をもったとき、初めて見えてくるものがある。「団塊」が、「全共闘」がアンビバレントな感覚で見つめ続けた近代は、ちょうど中上健次が亡くなった頃、完全に終焉を迎えたのである。
ぼくは教育現場にいるから、必然的にこういうことを追いかけざるを得ない立場にいる。思索とフィールドワークの往還にしか、コンテクストを欠落させない言説は生まれ得ないのである。
「さようなら。団塊よ、全共闘よ。私は所詮、あなたたちとは無縁の存在であった。」とでも、高橋和巳ばりにつぶやいてみようか(笑)。
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