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山寺提案の作文指導史上の意味

昨日の累積国研。山寺くんの提案を聴いていて、改めて研究とはこういうものだとの認識を深くした。時流に乗ったポッと出の提案ではなく、自らの問題意識に従って一歩一歩階段を昇っていく、そういう提案の在り方である。

こういう研究会は、模擬授業にしても講座にしても、基本的にその日1回きりの参加者でもわかるようにと、〈一話完結型〉とでもいうべきネタ主義、パッケージ化主義に陥りがちである。その日のウケは良いものの、その後につながる研究提案にはなかなかならない、息の長い研究にはなっていかない、そういう傾向がある。

その点、山寺くんはの提案には派手さはないものの、提案内容には今後体系化していく全体像イメージがちゃんとあり、現在の提案がそのどこに位置づけられ、何を明らかにしようとしているのかということがしっかりと意識されている。と同時にこの研究会でもらった感想・意見・批判を次の段階に活かしていこうとする視点もかなり強く意識されている。全体地図を常に意識しながら、一本一本の等高線をしっかり調べながら描いている。そんなイメージである。

ぼくはこの山寺くんの作文指導法研究は数年後にかなり大々的に評価されるものになっていくと確信している。こういう私的な、民間研究会だけでなく、全国大学国語教育学会とか、教育方法学会とか、そういう場にも積極的に提案していくべき研究である。あとは手法の開発だけでなく、実践データを確実に収集し分析していくことだろう。

大谷さんは秋に、山寺提案を目にして「非常にセンスがいい」と評した。しかし、山寺提案は「センスがいい」という類のものではないように思う。もっと山寺くんの問題意識の根幹から出てきた、「豊かな実践手法」というタイプに見えながら、実は「確かな実践手法」というタイプの、作文指導の歴史の一番弱いところを突いた、作文指導の在り方に一石を投じる革命的な大提案である。「センスがいい」というような評価はむしろ、藤原くんの「FG研究」に見られるような時流と本人の資質とを融合した提案に対して評する言葉であろう。

いずれにせよ、山寺くんの研究を促進し、彼が深めていくのと同時に、ぼくらは彼が多視点から広い視野で見られるように発展型を次々に開発して提示することに取り組んでいこうと思う。今回の山寺提案の手法は、作文指導に閉じられるべき手法ではない。みんなこの、無意識のうちに学び合いが起こり、お互いの表現がお互いのモデルとして機能し合う〈発想・着想〉の授業の在り方を模索してきたのである。

もちろんいくつもその成果は発表されてきたが、すべてがあまりにも大きなパッケージとして提案されたたために普及しない実践ばかりだった。この方向の研究は、いかに気軽に、簡単に、だれでも取り組むことができるような、応用範囲が高く汎用性も高いとだれもが実感できるような提案が待たれていたのである。山寺くんの研究にはそれを解決する可能性がある。

ぼくが山寺くんの提案を高く評価するのは、まさにこの点なのである。

山寺くんはある意味頑固である意味難しい男でもあるのだが(笑)、その頑固さと難しさとをつくり出している彼特有の〈こだわり〉が、10年以上の実践経験を得ていままとまろうとしているのであり、花開こうとしている。ぼくにはそう見える。

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