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「青春の終焉」と「遅れてきた青年」

早速、石川晋から返信が届く。お互いにブログに書いているだから、返信というのもおかしな話なのだが、まあ、返信である。

石川の書いたことはこうだ。

堀とぼくとは、数年来の伴走者であり、堀の指摘は、ぼくの考えている事をよく言い当てている。/藤原は、明るく未来志向の強い青年教師である。ぼくの取り組みが、ぼくのある見通しの上に立った、最終的に「問題解決」されていく提案の始まりなのだと、分析している。少し失礼な書き方になってしまうかもしれないが、問題は必ず全面的に解消していくと、基本的にはそう考えていて、そのための道筋の途上に、ぼくがいると考えているわけである。/で、堀は、その藤原の分析を、多分そうではなく、石川はもう少し「相対的」なバランスの中で、「環境調整的」な方向にシフトさせようとしているわけ(だけ)だよ、と説明している。

そして、これを受けて次のように結論づける。

しかし、ここまで歩いてきて、これは基本的にはバランスの問題の収斂できない、自己崩壊を伴う道筋なのだと思い始めているということなのだ。/ぼくは、パンドラの匣を開けつつあるのだという自覚を持っている。/(中略)そしてにも関わらず、その枠組みの中で、ぼくは今、反戦自衛官のような、自己崩壊の道を行けるところまで進んでみようと思いはじめている。

石川はぼくの文章を誤読している。そんなことはわかっている。敢えてクレームをつければ、ぼくの文章の次の箇所を引用して欲しかった。

「絶対に学べる」などということは学校教育が現在のシステムを敷いている限り、想定できないのである。こんな根本のところをなやましいと考えていては先に進めない。いまよりもっと、いまよりもっとと、進めていくしかないのである。

そう。いまよりもっと、いまよりもっと、なのである。

今世紀に入って、三浦雅士に「青春の終焉」という名著があった。近代は左翼系文学にしても、三島にしても、全学連にしても全共闘にしても、急進的に進む個の心象で形成されてきた。少なくとも美学的にはそう言えるはずである。そうした心象は高度経済成長が終わっても、短いオイルショックをはさんで、何とか80年代まで延命させてきた。もちろんニューアカによるポストモダンの流行がそうした古い美学的知見に疑義を唱えはしたが、その疑義も近代を「向こうにまわして闘うべき相手」として意識していた点で、近代はまだまだ健在だったのである。

簡単に言えば、ぼくらはその微妙な時期を生きてきた。だから、バブル崩壊ととともに成長の飽和が意識され、「まったり」ブームで「終わりなき日常を生きろ」と言われたとき、ぼくらのなかの新しい部分が呼応して「なるほど新たな機運を的確に捉えている」という感慨とともに、ぼくらのなかの古い部分が「理屈はわかるが、そうはいっても、ぼくらはそれに満足できない」という違和感とに引き裂かれたのである。

近代的心象は、或いは三浦雅士流に言えば「青春」は、ある種、絶望を基盤に急進的に破滅へと向かっていく行為である。それはことごとく悲劇に終わる。漱石の主人公がことごとくそうであるように、学生運動がそうであったように、三島が死を賭したように。

ぼくらはいまだに「青春」を生きていて、まだそれを終焉させていない。だから偉い人たちに嫌われるのである(笑)。そんなことはわかりきっている。しかし、公教育に挑戦して、絶望を基盤に急進的に破滅に向かう心象は、ロマンティシズムとしては成立しても、現実としては悲劇に至らざるを得ない。そういうものなのである。

晋が生きているのは「終わりなき日常」などではない。むしろ、「近代」であり「青春」である。自らが全共闘よりも更に「遅れてきた青年」であることを自覚せよ。それは「団塊」以前の心象だよ。本音をいえば、そう言いたいのである。

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