もう終わったのである
石川晋が今日行われたらしい十勝教育研究所教育研究大会の在り方を嘆いている。12月の6日だからほぼ2ヶ月前に、ぼくも札幌市の教育課程研究協議会の在り方を嘆いたことがあるので、その気持ちはよくわかる。
それでも今日の十勝の会には100人の参加者がいる。教科を問わないのだろうから比較にはならないけれど、ぼくの参加した札幌市教育課程研の国語は10人を少し超えた程度の参加人数だった。札幌市の中学国語教師が400人いることを思えば、ものすごく小さな参加率だと思う。ぼくが若い頃は少ないときで50人程度、多いときには80人近くが参加していたように思う。それだけこういう会はマイナーになったのだと感じる。たぶん参加した十数人のうち、動員されたものが9割を占めていたと思う。ぼくも含めて、多くの参加者は学校に割り当てられた動員に従って、参加したくもないのに参加している、そういう雰囲気がありありと感じられた。
たぶんぼくらが思っているより、学校現場も教委も研究所も進んではいないのである。進んでいないどころか、多くの教育施設のなかで実践研究は優先順位を落としているのである。危機感はそれなりに抱いているのだろうが、ぼくらの危機感とは比べものにならないような甘い認識のなかで、なんとかその日その日を暮らし、こうしたイベントもなんとか消化試合的なこなしているのである。それが見える。
昨日、「月刊国語教育」の廃刊を嘆いたけれど、こうした教育雑誌が下降線をたどるのと同じ構造が公的研究会開催の在り方にも見て取れる。もう終わったのである。おそらくぼくらが新しい工夫のつもりで取り組んでいる現在の実践研究の在り方も、すでに終わったものを、すでに終わった世界観の延長線上で考えている悪あがきに過ぎないのだ。
たぶんいま、坂口安吾ばりに堕ちたり、ジャック・デリダばりに壊したり、そういうふうにやらないと立ちゆかない状況になっているのだ。ぼくらはそれに気づいているが故にもがき、一般にはそれに気づかぬ故に従来のやり方を踏襲している。しかし、結局、行き着くところは五十歩百歩だったという嘆きに過ぎないのではないか。最近、そんな気がしてならない。
「学びのしかけ」も、「ファシリテーション」や「ワールド・カフェ」も、結局、箱の中で教師がリードするという点で従来の延長線上にある。誤解を怖れずにいえば、提案されているものはちょっとした工夫に過ぎない。しかし、この「ちょっとした工夫」ではダメなのだ。もう「ちょっとした工夫」でなんとかなる現実は眼前にないのである。
たぶんいまぼくらが取り組んでいることは、ほんとうは90年代に行われているべきことだったはずだ。ぼくらがやっていることさえ、きっと20年近く遅れているのである。そう考えるとぼくらの世代の責任も大きいように思えてくる。
最近、考えることが多すぎて、しかもパラダイム・シフトや認知レベルのメタ化のスピードが早すぎて、乱世が大好きなぼくでさえ気が狂いそうである(笑)。思えば、2002年の教育課程改変は人事だったが、現在の教育現状の崩壊は天意であるように思う。人事による馬鹿げた小改革に行政は躍起になっているけれど、いま、教育界の現状は決してそのレベルで動いているのではない。そういうことなのだと思う。
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