天国と地獄
三畳ひと間の下宿の窓から見える山上の大邸宅。その邸宅の子を誘拐する。誘拐したのは医者の卵。いわゆるインターンである。共犯者は社会の最下層に位置する夫婦。
しかし、大邸宅の子と思った子はその運転手の子。大邸宅の主はそれでも身代金を払うという決断をする。会社の株を買うための資金として用意した3000万円を運転手の子のために惜しげもなく支払う。医者の卵と夫婦の3人はまんまと身代金を手に入れるわけだ。しかし、医者の卵は身代金を手に入れるとあっさりと夫婦を殺害してしまう。
逮捕された医者の卵は大邸宅の主に、毎日窓から見えるあんたの大邸宅を見ているとあんたが憎くなってきたと告げる。複雑な表情を見せる大邸宅の主。医者の卵は「死刑になる恐怖」におびえる。医者の卵は死刑、夫婦は殺され、大邸宅の主は株を買えずに職を追われる。
こんなストーリーだったように記憶している。
大邸宅の主は実生活で豊かな生活をも送るエリート。医者の卵は現在はインターンではあるものの、将来を約束されたエリート。両者の間に、三畳ひと間と山上の大邸宅という差異がある。
医者の卵は将来を約束されたエリート。夫婦はのし上がるにはこのエリートを頼るしかないと決意して協力したのだが、あっさりと、しかも医者の卵故の方法(毒殺)で殺されてしまう社会の最下層の大衆。両者の間に、殺す者と殺される者との差異がある。
階層間における二重の格差を描き出した黒澤明の名作と呼ばれる映画である。エリート間における搾取と、エリートと大衆の間での搾取、それを同時に描いたところに名作、傑作と呼ばれる所以があるのだろう。
さて、別に映画評論をしたいわけではない。
ぼくも初めてこの映画を見たときには感動もしたし、数年前にテレビで安っぽいリメイク版を見たときには憤りもした。でも、基本的に、こういうエリートによる搾取とか、エリートとエリートとの間にある搾取とかは、我々の世界とは無縁であるだけに実感がわかないのである。初めてみたときの感動は、映画の描き方に感動したのであって、決して物語の描く格差に感動したわけではない。つまり、映画づくりの〈方法〉に感動したのであって〈内容〉に感動したわけではないのだ。
もちろん、教員世界に搾取がないわけではない。管理職昇進目前の人間が下の者が挙げた成果を自分の功績のように搾取して昇進したとか、実践研究において他人の授業のアイディアを搾取して発表したとか、まれに搾取の構造を聴かないわけではない。それどころか、この二点ならぼくはよく搾取されている(笑)。しかし、管理職昇進がナンボのものか、実践研究のちょっとしたアイディアがナンボのものかという意識があるため、腹も立たない。腹も立たないどころか、「ははは。オレはあの人を昇進させてやった」などと、呑み会のネタにして遊ぶほどである。結局、ぼくにとってはどうでもいいことなのである。
そうこう考えを巡らしているうちに、職員室で一番他人から搾取しているのはぼくだな、と思えてきた。
ぼくはいろいろな先生方の学級経営の在り方をずいぶんと観察している。良い実践をしている先生の実践はぼくの講座で紹介することもあるし、本に書くことだってある。しかし、それは極めてまれである。
むしろ、ぼくのアイディアの元になっているのは、ダメな先生のダメな実践である。そういうのを見ていると、自分だったらこうするのにな……というアイディアが浮かんでくる。そのアイディアを実際に試してみる。うまく行くと、それがコンテンツになる。
ダメな先生になぜそれがダメなのかを指導しているうちに、学校教育で当然のように行われていることの構造を発見することもある。のそ発見した構造を他の領域に当て嵌めてみると、ほかのものもその構造で動いていることが論理的に証明できたりもする。それがコンテンツになる。
これはまぎれもなく搾取である。ただ搾取された本人が気付いていないだけだ。
今日、学級経営に悩むある教師の質問に応えているうちに次々に発見が生まれた。帰り道、その発見の数々に高揚しながら、こんなことを考えたのだった。
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