優れた形象にザワッとする
数日前から『死刑』(読売新聞社会部/中央公論社/2009.10.10)を読んでいる。2008年秋から2009年初夏にかけて、40回にわたる連載をまとめたものである。かなり多角的に死刑問題を扱っていて圧巻の連載である。並々ならぬ取材の厚みも感じられる。読売新聞社の力を感じさせる本だ。
1994年12月20日、未明のことである。栃木県益子町の牧場で、牧場主の家屋が燃え上がった。焼け跡にはSさん(72歳)と妻Mさん(68歳)の遺体が見つかった。
後日、平野勇が逮捕される。事件の5ヶ月前までこの牧場で働いていたという、勤勉な印象の男だった。この男がまとまった金を得ようと元雇い主の家に侵入し、現金50万円を奪うとともに、Sさんをサバイバルナイフで、Mさんを千枚通しで幾度も突き刺し、犯行を隠すために灯油をまいて火をつけたというのである。
裁判で平野被告は起訴事実を争い、強盗傷害は認めたものの、放火と殺人は否認し続け、裁判は最高裁まで争われた。死刑の確定は2006年9月。事件から実に11年9ヶ月後のことである。
Sさん夫婦には二人の娘と一人の息子がいる。裁判の傍聴において被告をにらみつけたり、両親の遺影を法廷に持ち込んだりして注意を受けたこともあったという。証言台に発ったときには「極刑以外に考えられません。命で償ってください」とも訴えたという。
この平野死刑囚の死刑が執行されたのは2008年9月。死刑確定から2年後のことである。14年近く前の事件を思い起こしながら、息子と娘たちはその報告に両親の墓参りに行ったという。
死刑が執行されたと聞いたとき、どのように感じたかとの記者の問いに、姉妹の姉は良かったという肯定的な気持ちはまったく感じなかったといった。そして感じたのは「何とも言えない生理的な拒否感だった」ともらしたらしい。そしてその「生理的な拒否感」を次のように形容したという。
「まるで手の中で生きた虫を握りつぶしてしまったような、ざらっとした嫌な気持ちだった」
取材の中で出てきた発言をつなげたものなのか、被害者の娘さんから直接的に出てきた言葉なのか、ぼくにはわからない。しかし、あまりにも優れた形象にザワッとし、ある種の感動を覚えた。まるで川端康成や横光利一といった新感覚派を彷彿させるような、見事な形象ではないか。
この回のルポルタージュは、次のように閉じられている。
早月さん(姉妹の姉/筆者注)は、「今回の事件で、父と母が平野死刑囚に殺され、平野死刑囚もまた、国家の手によるものとはいえ、人為的に殺されたのだ」という気がしてならない。/それでは死刑でない方が良かったのか、と聞かれれば、そうではない。「何をやっても死刑にはならない」という国ではいけないとも思っている。/ただ、刑が執行されて初めて知った。死刑というものが、あんなにまで生々しく、自分に迫ってくるということを。〈105頁〉
この末尾の文章が読者に差し迫ったものに感じられるのは、やはり「生理的な拒否感」「ざらっとした嫌な気持ち」のくだりがあるからこそである。新聞の連載とは思えないような散文的な手法を使いながら、ルポルタージュとして鬼気迫る訴えに成功している。新聞の文章にこんなにも感じ入ったことは初めてである。
もちろん、小説の中にこの描写があったとしても、これほどに感じ入ることなどなかっただろう。しかし、新聞文体の中にこういう優れた形象を投げ込まれると、これほどまでに心に突き刺さるものなのだということを初めて知った。死刑問題において、被害者遺族の捉え方についてまた一つ、複雑で深い問いを投げかけられた気がした。
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