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〈学校アーキテクチャ〉の抱えるジレンマ

久し振りに藤原くんのプログを見たら、面白い記事が載っていた。「授業参観記」と題された、上士幌の石川学級参観に伴う記事である。「参観記」と記録性を主眼としているがごときタイトルが施されてはいるが、実質的には藤原くんの教育論が語られていると見て良い構成になっている。

藤原くんは石川学級参観に際し、生徒たちの自由度を極端に保障する授業システムを敷きながら、それが石川晋という教師の〈権威性〉によって担保されているとし、そこに〈矛盾〉を見る。もちろんこの〈矛盾〉に対して批判的な態度を示しているわけではないのだが、ファシリテイトの論理からいってまだまだ発展型が想定され、数年の後に生徒たちが〈育ち〉〈慣れる〉ことによって、教師の〈権威性〉が減退し、生徒たちの意欲・意見・意識、総じて表現が溢れ出るような授業が実現されるかもしれない。要約すればこういう論理である。

しかし、これは「ないものねだり」というものである。たとえ生徒たちが〈育ち〉〈慣れ〉たとしても、そこに実現するのはいま現在行われていることの五十歩百歩の実践であって、外から見た学習活動のなめらかさは変わるだろうが、すべての生徒たちの表現が溢れ出るような授業などというものは決して実現しない。

藤原くんは〈矛盾〉だというが、実はこれは〈矛盾〉ではない。石川晋から見れば、その〈矛盾〉は自らが実践しようとしている授業形態において最初から織り込み済みの、織り込み済みというよりは大前提としての、いわば〈必然〉である。

言うまでもなく、学校教育における〈環境〉は無限ではあり得ない。

ここで言う〈環境〉は、東弘紀が〈アーキテクチャ〉を訳すときに、インターネット社会が構築しようとしている〈アーキテクチャ〉と、或いは90年代に登場し00年代になって普及したネット型消費社会やセキュリティー型監視社会等に見られる〈アーキテクチャ〉との親和性を意識して、本来は〈建築〉とか〈建築物〉というような意味である〈アーキテクチャ〉という語を〈環境〉と意訳したのに起因する。当初からインターネットには有限性がなく、ある種の無限性が想定されるのに対し、〈建築〉は実際に〈建築物〉として実現させるとともに「ここまでで完成とする」という〈断絶〉をつくり〈限界〉をつくることによってのみ成立するとの批判が、主に建築家を本業とする言論者たちから東弘紀の意訳に対する批判がなされた。石川も私と同じ〈環境調整型権力〉の語を使う教師である。これを意識しないわけはない。

もとより、教師が一人一人の意欲対象、意見対象、意識対象をすべて取り上げたいと切に願ったとしても、そこにはどうしても「最大公約数」の論理で対応せざるを得ないというジレンマがある。考えてみればいい。例えばアマゾンのごときロングテールを対象とすることが、学校教育にできるだろうか。例えばアマゾンのごとき、ある個人についてどういうワードで検索したかという情報をすべて記録し、そのような嗜好性をもつ別の顧客情報と照合することによって、「あなたにはこれを推薦します」と投げかけたり、「あなたの欲しいものはこれではないですか?」と問いかけたりすることが、学校教育に可能だろうか。それはどだい無理な話である。

図書館の蔵書をすべてデータ化して、オンラインで結ぶように、すべての子どもの情報をデータ化してオンラインで結ぶとか、すべての子どもに一人一台のPCを与え、一つ一つの指導言や学習活動に対してどういう反応を示したかを蓄積していくようなシステムを構築しなければ、〈環境〉は成立しないのである。もちろん、こんなシステムが学校教育の根本をはずしていてナンセンスであることは言うまでもない。

よく〈環境管理型権力〉の象徴として引き合いに出されるものとして、ジョージ・リッツァのマクドナルドのアナロジーがある。バイトの女の子の「いらっしゃいませ」という笑顔、全国どこに行っても同じような味の商品、少ないメニューによる注文時間の縮減、客をそうと意識させずに労働させることによる人件費の削減、固い椅子による回転率の上昇、BGMの音量調整による回転率の上昇などなど。学校教育でもこれと同じことができるのではないかと考える向きもある。

しかし、決して同じことはできないのである。もちろん、似たようなことならできる。だが、同じことはできない。マクドナルドにはそのシステムが気に入らなければ「行かない自由」がある。しかし、学校教育には、原則として「行かない自由」がないのである。「行かない自由」がある〈アーキテクチャ〉たるマクドナルドでは、マクドナルドの想定する「最大公約数」から漏れた者たちは「行かなければよい」のである。しかし、学校には最も基本となる、すべての前提となるこのシステムを施す余地がない。

ファシリテーションも同じである。基本的にファシリテーションはすべての人たちを包摂しているわけでない。交流などしたくないと思いながら付き合いで参加している人が一定程度いる。ファシグラだって参考にする人としない人がいる。そして何より、ファシリテーションは成功すればするほど、〈コンテンツ〉の問題が生じてくる。話し合い、交流するに値しない、くだらないことを交流したとき、そこにはくだらなくないことを交流したい人たちがそっぽを向く可能性を常に内包している。こういうことは常に意識されていなければならない。

そもそも石川晋が提唱しているのは、「教えやすさ」から「学びやすさ」への転換であって、「教えやすさ」から「学べる」への転換ではない。つまり、あくまで相対的な問題であり、これまでの学校教育システムから少しだけ〈環境〉の方向にシフトしてみませんか、という提案に過ぎないのである。「絶対に学べる」などということは学校教育が現在のシステムを敷いている限り、想定できないのである。こんな根本のところをなやましいと考えていては先に進めない。いまよりもっと、いまよりもっとと、進めていくしかないのである。

学校は学校である限りにおいて、教師の権威性を必要とせざるを得ない。その権威性に浅い権威性と深い権威性があり、狭い権威性と広い権威性があるだけなのである。

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