帰納的指導/演繹的指導
「言語技術教育」を標榜する実践家の授業を見ていると、授業構成の在り方に二つのタイプに分かれることに気づかされます。一つは、授業の冒頭である言語技術を教え、それを使って活動させるタイプ。もう一つは、まずは課題を与えて活動させてみて、どんなことに注意して活動したかを子どもたちに尋ね、そこから言語技術をまとめていくタイプ。私は前者を「演繹的な言語技術指導」、後者を「帰納的な言語技術指導」と呼んでいます。
ここでは、この二つの授業構成の使い分けについて考えてみましょう。
まず第一に、大まかに考えて、この二つの授業構成は領域別に使い分けることが必要である、と言うことができます。「帰納的指導」はある言語技術をこれまで無意識になんとなく使っていた経験の中から、一度ちゃんと言語技術を抽出してみて、それを意識的に使える技術にしよう、という場合に適しています。つまり、日常体験の中にその言語技術があったのだが意識していなかった、そういうものを意識させるというタイプの言語技術指導に向いているわけです。この指導の在り方は基本的に「音声言語」指導に向いている授業形態といえます。
「話すこと・聞くこと」は日常生活の中にあふれています。どうしたら相手に伝わるか、どうしてら相手にわかってもらえるか、どうしたら相手にわかりやすく話せるか、こうした思考を経験したことのない子どもはほとんどいません。小学校一年生は一年生なりに、中学校三年生は三年生なりに、間違いなくそういう経験をもっています。とすれば、わざわざ「○○という言語技術を使いなさい」と先に指示しなくても、多くの子どもたちは学習活動を行わせるだけでそれなりにわかりやすく伝えようという意識をもって活動するのだということです。その学習活動から言語技術を抽出し、教師がそれを取り上げてまとめると、子どもたちはその言語技術を実感的に捉えることができます。
しかし、「文字言語」指導ではそうはいきません。まずは「読むこと」領域を考えてみましょう。文学的文章教材にしても説明的文章教材にしても、作者・筆者がどのような工夫をしながらその文章を書いたのか、どんな論理展開でその文章を書こうとしているのか、こうしたことは日常経験で本格的な文章を書く機会のない子どもたちにはなかなか実感的に捉えられないものです。こうしたとき、教師が最初に「こういう工夫があるんだよ。」と教え、「この作者はそういう工夫をいっぱいしているから探してごらん。」とやるのが理に適っています。
「書くこと」領域においては少し違う要素があります。教師が何も指示せず書かせたとします。その作文ができ上がったあと、「実はこういう言語技術があるんだよ」と伝えて「これを使って書き直してごらん」と言ったとしてら、子どもたちはどう感じるでしょうか。「おいおい、最初からいえよ。せっかく苦労して書いたんだぜ。」ということにならないでしょうか。作文指導は使って欲しい言語技術、教えなければならない指導事項は事前に指導し、その上で「それを使って書いてみよう」という順番で行うのが定石なのです。
原則として、「話すこと・聞くこと」領域の「音声言語」の指導では「帰納的指導」で授業を展開し、「読むこと」「書くこと」領域の「文字言語」の指導においては「演繹的指導」で授業を展開するのが理に適っている、といえるでしょう。
第二に、ある言語技術を初めて教える場合と、既習事項として扱う場合との差を考える必要があります。ある言語技術を教えるという場合に、その言語技術の必要性も理解していないうちに、ただこういう言語技術があると教えてしまうと技術主義に陥ります。それを避けるためには、まずは言語生活においてこういう困ったことが起こることがあるということを実感的に体験させ、ではどうすればいいかと十分に考えさせた上で言語技術を教える、という必要が出てきます。要するに、初めて教える場合には基本的に「帰納的指導」が適しているということです。
逆に、既に既習の言語技術に関してああでもないこうでもないいじくりまわした上で、「実はこういう言語技術があったよね。」では時間の無駄です。上位の子どもたちは「なんだ、前に習ったよ。」となるでしょう。こういう場合には、「前に○○という言語技術を習ったよね。これを使ってみる練習だよ。」と、今日は〈スキル訓練型〉の授業であることを宣言してしまったほうが子どもたちも納得して活動できるわけです。
これも原則として、初めて教える言語技術は「帰納的指導」で授業を展開し、既習の言語技術は「演繹的指導」で〈スキル訓練型〉の授業を展開するのが理に適っている、といえるでしょう。
第三に、〈言語技能〉にまで定着させなければならない言語技術と、〈言語技術〉の段階で良しとする言語技術との指導の差も考えなくてはなりません。〈言語技能〉段階の言語技術には、本人はちゃんとやっているつもりでも端から見るとできていないということが多いからです。
いわゆる「言語技術」には、その言語技術を知っているけれど使えないという〈言語知識〉の段階、その言語技術を意識しながら使えるという〈言語技術〉の段階、その言語技術を使い慣れていて無意識に使えるという〈言語技能〉の段階、という「習熟三段階」があります。〈言語技能〉段階を目指す言語技術の指導は多くの場合、その学習集団を指導するようになった初期段階で終えているのが一般的です。例えば、「みんなに聞こえるような大きな声で発言する」とか、「音読のときに句読点では間をとる」とかいった言語技術がこれにあたります。こうした指導事項について、発言の度に、音読の度に、「さあ、みんなに聞こえるような大きな声で話すんだよ。」とか「今日も句読点でちゃんと間をとって音読するんだよ。」といった演繹的な指導が行われるのはナンセンスです。多くの子どもたちはできているわけですから、学習活動の中でそれができていない子が顕れたときに個別に指導する、というのが理に適っています。いわば個別的な「帰納的指導」です。
また、「話し合い」指導においてはこれが顕著に表れます。「話し合い」指導において司会の手法を教えたり、論点整理の手法を教えたりというのにも、「帰納的指導」が向いています。「話し合い」や「対話型の音声言語指導」(インタビューや面接など)は他の学習活動に比べて展開が予想しづらい〈動的な学習活動〉です。事前に今日の話し合いや対話で留意すべきことを演繹的に確認することが必要ではありますが、より効果が表れるのは活動時間中の〈事中指導〉です。司会が手を挙げて発言しようとしている子がいるのにそれに気づかなかったり、誤った方向に議論を整理しようとしたりした場合には、即座に介入して場に応じた適切な指導を施すことが必要です。話し合いや対話において、何が論点なのかを子どもたちが見失ってしまって、水掛け論のような形になってしまった場合にも、一つ高い次元の論点で整理してあげて、なぜこのような水掛け論に陥ってしまったのかを冷静な視座から助言してあげるのが必要でしょう。こうした指導事項は、学習活動を数多く経験し、失敗と成功を数多く経験することによって、言語感覚的に身についていくところに本質があるからです。「ちゃんと冷静に論点が何なのかを見極めようね」という「演繹指導」など、何も指導していないのと同じなのです。
原則として、〈言語技能〉段階として位置づけられている言語技術や、多くの活動経験の中から言語感覚的に身につけていく指導事項については、事前の「演繹的指導」でもなく事後の「帰納的指導」でもなく、事中に個別的に「帰納的指導」を施すのが理に適っている、といえるでしょう。
指導してから活動させるのか、活動させてから指導するのか、この二つの授業スタイルも指導事項との関連によって決まるのです。教師が指導事項をしっかりと捉えた上で授業しなければならない所以です。
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