明日は我が身だ
おもしろい記事が掲載された。今日の読売新聞の記事だ。
時間オーバーの給食、布に載せ食べさせる
島根県出雲市塩冶(えんや)小の男性教諭(58)が、給食を時間内に食べられなかった1年生児童たちに対し、おかずなどを食器から特製ランチョンマットに載せ替えて食べさせていたことがわかった。/男性教諭は「給食時間を過ぎて食器を返さなければならなかったが、完食させたかった。子どもの気持ちを考えない安易な指導で、後悔している」とし、校長と一緒に児童らに謝罪した。/同校などによると、男性教諭は昨年10月頃から10回以上、担任するクラスの児童25人のうち7人に、「食器を帰す時間だから」などと言って給食をマットに移して食べさせた。汁物は先に汁を飲ませて、具をマットに移させたことも数回あったという。/今月6日、保護者からの苦情で発覚。男性教諭と校長が7日朝、児童たちに謝罪し、8日夜に保護者会を開いて説明、謝罪をした。〈読売新聞/2011.02.11〉
もう一つ、昨年10月の産経新聞の記事。
「バカなんじゃないか」 小2担任が学級通信で児童を非難
大阪府箕面市の市立小学校で、2年生の担任の男性教諭(56)が、クラスメートをいじめたとする男児について「バカなんじゃないか」「相当な心の病を抱えているとしか言いようがない」などと、学級通信で非難していたことが25日、学校関係者への取材で分かった。学校側は、学級通信が保護者に渡ってからその内容を把握したといい、校長は「内容は許し難いことで、子供を傷つけ大変申し訳ない」と話している。/問題になっているのは、男性教諭が今月19日にクラスの子供たちに手渡し、自宅に持って帰らせた学級通信。タイトルは「SHORT HOPE」と付けられ、A4用紙4枚分の分量がある。/学校関係者によると、教諭の担当するクラスでは、特定の女児について、十数人が「○○菌」などと呼ぶなどのいじめが起きており、問題になっていた。/男性教諭は、中心になっているのは3人と指摘し、学級通信では「たった3名でクラスが崩壊させられることもある」と“危機感”を表明。今月15日には授業で事実確認を行い、いじめをやめるよう指導したことを紹介した。/しかし、授業から3日後の掃除の時間、このうち1人が女児が持とうとしたモップについて「このモップ持つと菌がつく」とはやしたてたとして、学級通信で「言葉は悪いがバカなんじゃないかと思う。或(あるい)は相当な心の病を抱えているとしか言いようがない」などと非難した。/箕面市教委によると、学校外への配布物については、校長が内容を確認してから配布するよう指導しているが、校長は今回の学級通信の内容について配布前には把握していなかった。/学校によると、男性教諭は「(いじめが)自分としては大変なことだから指導したいと思って書いたが、配布してから、まずい文章だと思った」と反省しているという。男性教諭は現在も担任を続けている。/学校は28日に、このクラスの保護者を対象に説明会を開き、校長と担任が謝罪する予定。〈産経新聞/2010.10.26〉
この二つの記事を読んで、「馬鹿な教師だなあ。もうちょっと考えろよ」と言うのは簡単である。確かに双方ともにぼくの感覚から見ても救いようのない馬鹿なことをやっている。しかし、給食を布に載せて食べさせた先生が58歳、学級通信に「バカなんじゃないか」と書いた先生が56歳であることを考えたとき、ぼくは複雑な気持ちになる。
この二人の先生の指導理念は、ベクトルとして間違っているわけではない。給食を完食させることも、いじめの中心的な加害者を叱るのも、どちらとも指導のベクトルとして間違ってはいない。要するに、その指導の〈目的〉については、細かく見れば例外は多々あろうが、基本的に国民的なコンセンサスのある指導目的である。
しかし、〈方法〉が悪い。悪すぎる。マスコミの餌食にしてくれとも言わんばかりの〈方法〉にら見える。
ところが、教師ならだれでも想像がつくことだが、この二人の先生はおそらく、最初からこの〈方法〉をとったのではあるまい。当初は子どもたちに優しく指導し、注意していたに違いないのである。しかしその指導がままならないとき、彼らの指導は少しずつエスカレートしていったのではないか。そしてそれが度を超える「マスコミの餌食にしてくれとも言わんばかりの〈方法〉」に行き着いたのではないか。ぼくにはそんなふうに想像される。
問題点は3つだ。
一つ目に、おそらくは指導の在り方が少しずつエスカレートしていったであろう期間の中で、まさに少しずつエスカレートしていく〈手法〉そのものに対するたがが、抵抗感が二人の先生の中で範囲が広がり、ゆるくなっていったであろうこと、である。この二人に限らず、人間とはそういうものである。
給食の布載せなんかはほかの子どもたちに対する見せしめ的な指導も兼ねていたであろうから、一度始めるとなかなかやめられない。最初は児童の嫌いな野菜とか、デザートの果物とか、その程度のものだったのだろうが、それがだんだんエスカレートしていく。毎日のことであるから、先生も子どももその状態になれていく。現象的には一般との感覚のズレがどんどん大きくなっていっているのに、当事者はそれに気づかない。勝手な想像に過ぎないが、おそらくそんなところだろう。
いじめ告発学級通信はもっと顕著である。おそらくいじめの報告を掲載した学級通信はこれが初めてではあるまい。これまでだって児童・保護者に考えてもらおうと、また抑止力として機能させようと、学級通信でこのいじめ事案を取り上げたことは何度かあるのに違いない。今回はその流れの中で、あまりにも3人の女子児童の動きがひどかったので、怒りにまかせて筆がすべってしまったのだろう。「言葉は悪いが」という注意書きが施されている点に、この先生の切迫した思いが表れている。勝手な想像に過ぎないが、おそらくそんなところだろう。
結局、人間は「空気」に流されて、判断基準も変わるのであり、時には判断基準が狂ってしまうことさえある、ということをこの二人の先生が熟知していたならば、起きなかった事件ともいえる。そういう意味では、同業者から見れば可愛そうな事例にも見えてくるというものだ。
二つ目に、ではなぜ、ここまでエスカレートしたかということである。二人は58歳と56歳。子どもとはもちろん、保護者ともかなりの年齢差がある。
特に、保護者世代には「完食指導」などというものに意義を認めぬ者がたくさんいるということを、おそらくこの先生は認識しておられなかったのではないか。実はぼくは今月末に上梓する学級経営本の中で、「もうそういう時代ではないのだから、完食指導はほどほどに」という内容に1頁を割いた。44歳のぼくでもこういう認識なのである。ましてや現在の小学校低学年の保護者は、平均すればぼくよりも10歳前後若いはずである。物心ついたときから豊かさの中に育った世代にとって、「完食指導」などというものはその意義を見いだせない古き学校文化に過ぎないのである。
実は「いじめ告発」にも同じ構造がある。個人名をあげて注意されたとき、子どもがよく「なぜ、自分だけが」ということがあるが、これと同じ心象は現在の三十代くらいまでの大人たちももっているのである。それが学級通信で指摘されたとあっては、保護者も黙っていないだろう。
当初は学級の女子児童の多くが荷担していたといういじめ。先生側から見れば、多くの子どもたちは先生の指導に従い、そういう振る舞いをやめたのだろう。だから、この先生にとって、もうその子たちは「許されるべき子どもたち」である。おそらく既にこだわりもない。自分の指導に従った良い子たちなのだから。
しかし、この3人は違った。指導したにもかかわらず、まだ先生の目の前でそういう振る舞いを見せたのである。いじめに荷担したけれど指導に従ったその他大勢は普通の子、この3人は特別に悪い子、そういう一線がこの先生の中でできあがってしまったのである。その結果がこの学級通信だ。
ところが、非難された当事者の女子児童3人、そしてその保護者から見ればそうはいかない。みんなやっていたではないか、なんでその後1回きりのことでここまでやられなくてはならないのか、となる。指導に従ったか否かに大きく太い一線を引いて区別するのは、あくまで先生の視点である。児童・保護者から見れば、その線は決して大きくも太くもないのだ。そこのところをこの先生は理解していなかった。指導に従うか否かという基準は、現在、半分は先生の自己満足、半分は国民的コンセンサス、そんな微妙なところでフラフラしている徳目である。やはり古き学校文化と今日的サービス業的学校評価との過渡期的時代状況で中で起こった事件だとぼくには見える。
三つ目に、五十代後半特有の、というか団塊の世代前後特有の、理念的な正しさは多少の方法的なまずさを包み込んでくれるという、無意識的な世代感覚がありはしないか、ということである。この感覚は新人類が壊し、80年代がすべての理念的正しさを相対化してしまった。ぼくの世代にはもう理念と手法のズレは既にそれだけで悪である。しかし、この二人の先生にはまだその70年代までの感覚が残っていたのだろう。
しかも、この二人の先生は、一人は給食布載せを他の児童にも示すことによって「完食指導」の正当性を理解させようとし、もう一人は学級通信に訴えることによって児童・保護者の賛同を得ようとしていた。ここには「話せばわかる」型の旧型コミュニケーションによって事態を打開しようとする意識が見られる。申し訳ないが、ぼくらの世代は人間同士は分かり合えないと思っているから、学級を集団として高めようとか、自分の教育理念を保護者に理解してもらおうとか、そういった意識が五十代ベテランに比べて極端に低い。もちろんゼロではないし、その方向性に批判的なわけでもない。そうではなく、常にそれが成立しないことをも念頭に置いて仕事をする癖がついているのだ、ということである。
学校の先生などというものは、基本的には左翼思想社会の中で生きてきた井の中の蛙である。この二つの報道が、そういう時代の風を全身に浴びて生きてきた最後の世代に象徴的なつまずきにぼくには見えるのである。
しかし、こんなふうに他人事として語っていられるのもそろそろ限界が近づいてきている。いまぼくは44歳。中学校教師としては、ほぼ保護者と同世代である。しかしこれからは、年々保護者との年齢差が生まれてくる。そのとき、ぼくが当然と思っていることが保護者にとって当然とは思われない、そういう現象が多々見られるようになるだろうし、小さな軋轢も生まれるようになるだろう。ちょっと気を抜いたら、ベテランと呼ばれる年齢になれば、この二人の先生のようになってしまう危険性はだれもがもっているのである。
まさに明日は我が身と捉えねばならない所以である。
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