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「できる教師」たちのパンク

学年末テストが完成した。あとは組んでいる先生のチェックを受けて、明日には印刷、という流れである。国語のテストは金曜日だから、割と余裕がある。

夕方、同僚と打ち合わせという名の談笑をして18時30分頃に職員室に戻ると、若い先生方が学年末テストをつくっている。若いということは若いというだけで大変である。テスト一つつくるにも時間がかかる。時間をかけてやったのに先輩教師にダメ出しされる。まさに先輩教師にダメ出しをされている真っ最中の若者もいた。

帰り道、ぼくは運転をしながら自分が若かった頃のことを思い浮かべていた。ぼくにはテスト問題で先輩教師にダメ出しをされたという記憶がない。別にぼくが優れていたからではなく、おそらく堀にダメ出しすると反論される……というイメージが先輩教師にあったのだろうと思い当たる。反論されていやな思いをするくらいなら、或いは反論されて面倒なことになるのなら、このまま通して自分の方が対応しよう、先輩教師はそう思ったに違いない。

いま、ぼくはテストづくりにかける時間がたぶん空き時間4時間くらいだ。それも同じ学年を組んでいる国語教師と50点ずつ、半分ずつつくっているからこのくらいかかるのである。まず二人で50点ずつ問題をつくり、それを見合う。テキストファイルでもらい、ぼくが二つの問題を合わせて問題用紙をつくる。組んでいる先生はMACなので、これが少々面倒くさい。問題用紙ができたら、今度は解答用紙である。解答用紙ができたら、今度は模範解答。これが終わるまでにだいたい4時間弱くらいなのである。

上篠路時代、ぼくが一人で一つの学年をもっていたときには、おそらく試験問題づくりは2時間程度だったと思う。もちろん、100点分を一人でつくってである。ぼくと背中合わせで座っていた、英語のあるベテラン女性教師が「堀さん、もうできたの?」と目をまるくしていたことがある。「本当に仕事早いわねえ。」と。「ええ。拙速を信条としていますから。」と笑って応えた記憶がある。2005年のことである。

ぼくはいま、教材データファイルから文書を取り込み、出題範囲を決めた途端、それを眺めているだけで次々に問題が浮かんでくる。すぐにワープロを打ち始める。問1~2は言語事項の問題である。問1は簡単だが、問2はちょっとだけひねる。問3と問4は出題範囲全文を相手にする問題である。構成を問う問題とか登場人物を問う問題とか会話文を仕分ける問題だとか、そういうやつだ。問5と問6は中身を問う。基本的に20字以内で答えられるような書き抜きか、書き抜きに毛の生えたような問題である。指示語などはこの問題の部類として出題する。問7は選択肢問題である。ワークの問題を少しだけひねる。問8は40~60字の記述問題である。これを2問出すこともある。こういう基本形式が既に血肉化されているので、形式的にはまず迷うということがない。こういう基本形式に従って出題すれば、20点配点や30点配点の問題ならすぐにできてしまう。ものの10分である。長くても15分だ。

いつ頃からこういうことができるようになったかといえば、おそらく90年代の後半くらいからである。もしかしたら、半ばだったかもしれない。なぜこういうことができるようになったかといえば、それはもう間違いなく「研究集団ことのは」の例会のおかげである。それも森寛と對馬義幸のおかげである。森は塾講師をやっていた関係でずいぶんと入試問題傾向に明るかった。對馬は周りが驚くような独自のこだわりで1回のテストに2問程度、メンバーが驚くような問題を開発していた。そしてそういう例会がテストの度に行われていたのである。ぼくは二人から出題原理を盗み、自らの血とし肉としてきたのである。そういうことだ。

定期テストの採点も早い。採点基準がぼくの中では既に出来上がってしまっている。そのテストの採点基準がではない。国語のテストというものの採点基準がである。こういう場合にはこう判断する。こういう場合には思い切って割り切る。そういう採点基準がぼくの中に血肉化されている。この原理は森から教わったものだ。正確にいえば、森から教わったものに、少しだけぼくのこだわりをミックスしたものだ。その結果、ぼくの定期テストの採点は4クラスなら空き時間2時間で終わる。

なぜ、こんなことを長々と書くのかといえば、今日、次のような文章を目にしたからだ。

学校もまたしかり。公立学校(小・中・高)の教師の病気休職者の六割以上が「うつ病」をはじめとする「心の病」という調査結果を文部科学省が公表しているが、その背景には、やはり職場の荒廃がある。書類の量が格段に増え、問題児童やモンスター・ペアレンツへの対応に追われる教師たちの窮状は、聞きしに勝る壮絶さだ。忙しさのあまり教師同士が気軽に話し合える環境を作るのも難しく、一方で校長や教頭などの管理職には事なかれ主義が蔓延しているので、困難に立ち向かわねばならない教師はまさに孤立無援の状態である。その結果、八方塞がりの状況に追い込まれた教師たちが「うつ」になって我々精神科医のもとにやってくるのである。〈『無差別殺人の精神分析』片田珠美・新潮選書・2009年5月・196頁〉

非常にわかりやすい議論である。きっと著者の診療を受けた教師がこういうことを言ったのだろう。しかし、現場も知らない、教師の職業意識や教師の職能意識の実態も知らない精神科医が、このように簡単に断定してしまえる社会にも、ある種の病理が宿っているような気がするのである。

ぼくは正直に言うと、現在程度の事務仕事の量で事務仕事が多すぎると言っている教師は、自らの職能を鍛えてこなかった怠惰な教師だと思っている。もちろん、若手教師のことではない。毎年毎年同じことをしてきたベテラン教師が、例えば20年選手が、いまだにテストをつくる度に何日もそれに集中しないとできないというのでは、それは「理解してもらう」よりもまず「批判される」べきではないだろうか。その教師が仕事の遅い分、確実に自らを鍛え、成長し、職能を身に付けている教師がその仕事をかぶっているのである。そしてそうい教師はまず間違いなく若手教師の仕事もかぶり、若手教師の教育係をも担っているのである。ぼくが今後怖れるのは、そういう「できる教師」たちのパンクである。

もちろん、「できない教師」に冷たくしろと言っているわけではない。ただ、現在、学校教育は「できる教師」に対する視点があまりにも欠落している。彼らがパンクし、鬱になるものが増えれば、まず間違いなく学校というシステム自体がパンクしてしまう。そう思えてならないのだ。

マスコミは、社会は「弱者を救え」という。しかし、その一方的な叫びが「強者をも弱者に陥らせる」という構造をだれも指摘しない。そして強者がパンクしたら、それを支える者がいなくなるのだという、そこへの想像力が欠落している。いま、多くの学校が陥っている病の一つであるように思う。

それは優秀な教員に少しばかりの昇給を保障するような、競争を煽るような方向性で進めるべきではない。それはよけいに強者をプレッシャーの中に追い込むだけである。強者にこそ心のゆとりをもたせる必要がある。ぼくは心の底からそう感じている。

誤解されるとまずいのでひと言添えておけば、これは、現在の学校教育事情の中でも笑って仕事をしているようなトップクラスの強者のことではなく、「第二集団に位置する強者」のことである。

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