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「教育再生」を問う

もう一つ見つけた。同じく「道集」の機関誌、執筆は2007年8月31日゛てある。

【引用開始】

1.問われない〈再生〉

「教育再生会議」の趣旨は,内閣によって次のように説明されている。

21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し,教育の再生を図っていくため,教育の基本にさかのぼった改革を推進する必要がある。このため,内閣に「教育再生会議」を設置する。

「再び生きる」或いは「再び生まれる」と書いて〈再生〉と言う。「教育再生」と言うからには,かつて教育が「生きていた」時代があり,それに向けて,或いはそれと同等に「生きている」時代にしよう,それを目指そうという趣旨の特設会議であろう。しかし,その「かつて教育が『生きていた』時代」「かつて教育が『生まれた』時代」とはいつのことなのだろうか。

私は「教育再生会議」が内閣に設置されて以来,このことが甚だ疑問である。屁理屈と揶揄されるのを承知で,もう少し検討していくことにしよう。

第1回の「教育再生会議」(以下「会議」)の冒頭,挨拶に立った安倍総理は,教育再生の最終的な大目標を「すべての子どもに高い学力と規範意識を身に付ける機会を保障すること」と規定した上で,その具体的方針として「公教育の再生や,家庭・地域の教育力の再生」が重要だと指摘した。これを踏まえ,「会議」での審議事項について次のような方向性を示した。長い引用になるが,ご了承いただきたい。

具体的には,まず第一に質の高い教育を提供し,学力の向上を図る方策を御検討願いたいと存じます。必要な授業時間数を十分に確保し,基礎的な学力を確実に身に付けさせることが必要であります。/また,教員の質の向上に向けて,教員免許の更新制度を導入するとともに,学校同士が切磋琢磨し,学校運営をより良くするため,外部評価を含めた学校評価制度の導入が必要と考えております。
第二に,規範意識や情操を身に付けた,「美しい人づくり」のための方策を御議論いただきたいと考えております。体験活動や奉仕活動を行ったり,読書に親しんだりすることにより,人間性や社会性を磨くことが必要であると考えております。基本的な生活習慣を身に付け,学校の規律を確立することが求められます。/更に,我が国の伝統や分野(ママ) について学ぶことも重要であります。
第三に,家庭や地域の教育力を高め,だれもが「家族,ふるさと,このすばらしきもの」と思えるよう,地域ぐるみの教育を再生するための方策を御検討いただきたいと考えております。/子どもを育む家庭や地域の大人の在り方,すなわち子育てや働き方,企業の在り方なども含め,政府全体,社会全体として取り組むべき事項についても取り上げていた だきたいと思います。

読者諸氏はこれを読んで,どういった感想を抱かれるだろうか。

2.「教育再生会議」の予定調和

繰り返しになるが,「会議」の趣旨を再掲する。

21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し,教育の再生を図っていくため,教育の基本にさかのぼった改革を推進する(以下略)

ここに見られる認識は,「21世紀の日本にふさわしい教育体制の構築」と「教育の再生を図っていく」ことを目的として,「教育の基本にさかのぼった改革を推進」していくという決意である。「教育体制」とはハードの議論であり,「教育再生」とはソフトの議論を指すのだろう。つまり,「教育の基本」に遡った抜本的な改革によって,「21世紀の日本」(「21世紀」という文言にはいつものことながら意味はない。「今後の日本」と考えて良かろう)にふさわしいハードとソフトを整備していこう,というわけである。

では,今後の日本にふさわしいハードとは何であり,ソフトとは何であるのか。安倍総理の冒頭挨拶が読み取れるのは次の事象群である。

【ハード面の目標】
 ①必要な授業時間数の確保
 ②教員免許の更新制度の導入
 ③外部評価を含めた学校評価制度の導入
 ④体験活動・奉仕活動・読書活動の重視
 ⑤社会全体で取り組む教育体制の確立
【ソフト面の目標】
 ①基礎学力の保障
 ②教員の質の向上
 ③子ども達の人間性・社会性の錬磨
 ④子ども達の基本的生活習慣の確立
 ⑤我が国の伝統・文化の継承
 ⑥地域の教育力の向上

読者諸氏はこれを見て,どういった感想を抱かれるだろうか。私見によれば,ここには三つの問題がある。

第一に,「教育再生会議」の第一次報告,第二次報告の内容が,すべて第1回会議冒頭の安倍総理の挨拶に含まれていた,という点である。これは「会議」設置の意義を根底から問い直さなければならない重要問題である。行政の設置する審議会の類が端緒から予定調和的に設定され,その予定調和に反しない識者が構成員として選任されることが常識だとしても,あまりにもひどすぎはしないか。

第二に,このようなハード・ソフトの11項目がかつて「生きていた時代」もなければ,「生まれた時代」もないのであり,〈再生〉の意味は恣意性を免れない,という点である。おそらく,〈再生〉とは,「ゆとり教育」以前への回帰に過ぎない。それを,「教員免許更新制」や「学校評価」の導入といった学校システムへの管理体制を旗印にして,少々現代的にアレンジした,という程度が本当のところだろう。

第三に,これらの11項目の達成を目指して,「教育の基本にさかのぼった改革を推進する」というわけだが,これらの項目の裏に見え隠れする「教育の基本」とはいったい何なのか,という問題である。そもそも,これらの11項目はすべて,「会議」発足以前に「中教審」で取り上げられている項目ではないか。どこにも真新しさがないばかりか,21世紀になって学級崩壊論議・学力低下論争を経た我が国の言論界が声高に主張してきた項目ばかりである。

いったい「会議」を設置する意義がどこにあるのか。

3.「不適格」烙印の恣意性

教員免許更新制の目的が「不適格教員の排除」を目的に語られるようになったことは何を意味するか。更新された10年間の免許を前提に,教員が自信をもって教育活動をできるようにという意図で「中教審」が提言した免許更新制。それが教育バッシングと文科省に対する既得権益バッシングの中で,文教政策のイニシアチブが教育専門家委員会としての「中教審」から,教育素人集団としての「教育再生会議」へと移行していくと同時に,教員免許更新制の目的もまた,「不適格教員の排除」へと移行していった。

「会議」の提言する第二次報告では,学力向上策として,授業時間数の10%増,土曜日授業の可能性を前提として,①時代に合致したカリキュラム(主権者教育,法教育,消費者教育等)の編成,②読書算的学習の反復,③読書指導の充実,④食育の充実,⑤国語教育の充実,⑥英語教育の充実,⑦IT機器の積極的導入,⑧国による到達目標の明示,⑨客観的な絶対評価と並ぶ(「学力向上策」として提示されているわけではないが,この他に「徳育」の教科化の問題もある)が,学校現場にとってこれらの同時達成はきわめて困難を伴う。

「会議」では,渡辺美樹を中心に,教員全体における「不適格教員」の比率の議論があった(現行の1%という文科省報告に対し,20~30%程度を「不適格教員」が占めるのではないかという議論/第2回学校再生分科会)が,実は,非専門家に見られるこうした議論にこそ,学校システム問題の本質がある。

私は「不適格教員」の比率を現場的実感から10%程度と見ている。ただ,ここで声を大にして言いたいのは,10年前ならばこの実感は2%程度だったという点である。10年前なら,「不適格教員」など各学校に一人いるかいないかであったのだ。つまり,この10年間で,「こいつは不適格教員ではないか」と思われる教師が,5倍程度に増えているのである。では,その教師たちの能力が落ちたのかと言えば,決してそうではない。この10年間で,〈教師であること〉が格段に難しくなってきているのである。〈教師であること〉が難しくなると,相対的に他の教師にフォローしてもらわなければならない人間が増えてくる。逆に言えば,心ならずもフォローしなくてはならない教師たちから見れば,「迷惑な人」が増えるわけだ。私は特別優秀な教員ではないが,それでも自分の仕事くらいならそつなくこなす程度の力はもっている。少しくらいなら他の教師のフォローもできなくはない。しかし,その数が多くなってくれば,話は変わってくる。「力のある教師」が支えきれなくなっていくのだ。いったいこの責任はだれにあるのか。

答えは「行政に責任がある」としか言いようがない。学校の環境整備を一切することなく,学校教育に予算措置を講じることもなく,過剰な要求だけはどんどん積み上げていく。たかだか偏差値50~55程度の一般教員に,過剰な要求を突きつけすぎなのである。マスコミでは忙しさに教師が疲弊していくということが取り上げられるが,そうではない。「心の教育」と「学力向上」と「研修の充実」,「国語力に英語力」「食育」「IT活用」……こんなものをだれが同時にできるのか。すべての組織がそうであるように,学校の職員室だって2割の人間に8割の仕事が集中している。性急な教育改革,性急なシステム整備は,この2割の人間をパンクさせてしまうだけなのだ。学校を学校として機能させようとすれば,それほど優秀ではない「普通の教員たち」が「普通に働ける」仕事量にするか,或いは,環境整備と予算措置を大胆に講じて機能度を高めていくかしかない。「不適格教員」が増えているのではない。「不適格教員」は増やされているのである。

   
4.「規範意識」志向の虚妄性

「規範」という言葉が流行している。政治でも,マスコミでもだ。そろそろ学校現場にもそれが浸透し始めている。保護者もそれを求め始めている。教師が担任する学級の子どもたちに規範意識を求める。学校行事に積極的に参加し,みんなで協力しながら何かをつくり上げる……そのためには,子どもたち一人一人が最低限の規範意識をもたなければならない。至極当然のことである。保護者が我が子に規範意識を求める。非行に走らず,他人に迷惑をかけず,人としてあるべき方向に向かって一歩一歩進んで欲しい……そのためには,我が子に最低限の規範意識をもって欲しいと願う。これもまた至極当然のことである。こうした具体的な一つ一つの事象として考えるとき,「規範」という言葉は人間関係をつくる基盤としての,人生を形づくっていく基盤としての「モラル」を指している。そこには一人一人の個人がいて,個人の集合としての学級があり,というふうに,「関係存在」としての人間に対する好意的な,愛情あふれる眼差しが前提されている。

しかし現行の文教政策が,つまり政治が「規範」というとき,そこに「愛情あふれる眼差し」はない。「ゆとり教育」を推進した当時の教課審会長三浦朱門は言った。

今まで落ちこぼれのために限りある予算と か教員が手間暇かけすぎて、エリートが育た なかった。/ゆとり教育というのはただでき ない奴をほったらかしにして、できる奴だけ 育てるエリート教育なんだけど、そういうふ うにいうと今の世の中抵抗が多いから、ただ 回りくどく言っただけだ。/エリートは100 人に1人でいい。非才、無才はただ実直な精 神だけを養ってくれればいいんだ。

ここで言う「実直な精神」。それが「規範」である。ここには「愚衆はせめて規範くらいもて」という文教政策の本音がある。「ゆとり教育」は方向転換を強いられているようだが,それは「非才,無才はただ実直な精神と最低限の基礎学力だけを養っていればいいんだ」という程度の方向転換であり,文教政策の質は何ら変わっていない。格差社会とは,ある意味では,これを肯定的に捉えられる少数の人たちと肯定的に捉えられない大多数の人たちとの間に生まれた,何とも言えない断層のことである。

最近,多くの人たちが言い始めているのが,世の中が近景と遠景だけになり,中景がなくなったということである。「これ」と「あれ」だけになり「それ」がなくなったと言い換えてもいい。つまり,毎日,日常生活で接している家族とか友人とかごくごく近接した世界と,国家戦略とか世界戦略とかグローバリゼーションとか,マスコミから溢れ出てくる対岸・彼岸の世界としか存在しない,そういう世の中になってきているというわけだ。しかも間には何もないかのように,直接的に両者を結びつけてしまう,そういう議論が増えている。かつて,その中間には「ムラ」があった。つまり,「地域」である。ご近所があり,町内会があり,町があり,市があり,都道府県があり……国に至るまでには様々な中間項があった。ましてグローバリズムなどという意識は,我々にはまるでなかった。いま我々は,明石家さんまも北野武も,小泉純一郎も安倍晋三も,すぐ隣にいる家族や友人を見るのと同じ感覚で,近接した親しみを込めて見ている。町内会長や区長や市長や知事の顔や名前を知らない。それより総理大臣が心象的に近い。下手をすると,隣のおじさんやおばさんよりも,さんまやたけしにシンパシーを感じる。そういう世の中になってしまったのだ。情報化社会とは,テレビ社会とはそういうものである。

様々な中間項,つまり「地域」は,近景と遠景が直接的に切り結ばれる世の中において,次第に壊されてきた。それも意図的に壊されてきた。例えば町内会費を払わない,町内会のお祭りに手を貸さない,それでいて気に入らないことがあるとクレームをつける……その結果,町内会役員のなり手がいない,リスクを顧みない奇特な人だけがリターンのないその仕事を引き受ける,結果,多くはその地域に長く住むご老人ばかり……そういう構造になった。いま学校が「地域」を代表する最後の砦になっている。多くの学校はもともと,地域の人々の陳情によってやっとお上につくってもらった地域の象徴であった。しかし,次第にその地域に人が増え,その地域に思い入れのない人たちが多くなってくると,学校は「地域の象徴」ではなく,単なる「教育サービスを提供する行政機関」になっていく。その結果,町内会と同じ運命に成り下がっていくことになる。いま学校が,上からも下からも槍を向けられ,上とも下とも小競り合いを繰り返しているのは,「地域」を象徴する最後の砦がその存在価値を主張して,遠景とも近景とも闘っているのだといえる。学校は「愚衆はせめて規範くらいもて」を肯定的に捉える視点と否定的に捉える視点との両方を抱いている。二つの視点を調和する,或いは両立させる,無意識のうちにその役割を担って,なんとか存在意義を示そうとしているのではないか。

「社会総がかりで教育再生を」「地域の教育力の向上を」というスローガンは,だれもが賛成する。しかし,内実はこうである。とすれば,「地域の教育力の向上」は本質的には教育問題ではない。「親学」はお粗末にしても,「親学」的な発想のベクトルは捨てるべきでない。問題はそれをどう具体化し,システム化するかという問題である。総務省や厚労省,少子化担当相を初めとして,ワーク-ライフ・バランスを適切にとるための政策が待たれる。

「道徳教育改革集団」の主張を読んでいて,時に「あれ?」と思うことがある。かつての法則化同様,「できない教師」「ふつうの教師」に厳しい視線を向けすぎなのではないか。普通の人が普通に教壇に立てるシステム,教育哲学を提示しなければ,教育改革など成功しようがないのである。

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