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2011年2月

わいせつ目的誘拐未遂教頭

小学教頭、わいせつ目的誘拐未遂…容疑認める

中学2年の女子生徒(14)にモデルガンを突きつけ、軽乗用車内に連れ込もうとしたとして、広島県警安佐北署は27日、同県安芸太田町立修道小教頭・吉原一彦容疑者(53)をわいせつ目的誘拐未遂容疑で逮捕した。/「乱暴するつもりだった」と容疑を認めているという。/発表によると、吉原容疑者は同日午後0時45分頃、広島市安佐北区内で、自転車で帰宅中の生徒に、車の中からモデルガンを突きつけ、「殺すぞ、乗れ」と脅し、誘拐しようとした疑い。生徒は車には乗らず、けがはなかった。/吉原容疑者の様子を不審に思った近くの男性(66)が、車で約10分間追跡し、赤信号で止まった吉原容疑者を取り押さえた。同町教委によると、吉原容疑者は教員歴約25年で、2009年4月から現職。〈読売新聞/2月27日(日)22時42分配信〉

ついさっき、「バッカじゃねえか」と嗤うしかないと、割と簡単に考えていたこの事件。風呂に入っていろいろ考えているうちに、笑い事じゃないかもしれないと思えてきた。

この教頭、乱暴目的だったという。モデルガンを突きつけ、車に乗せようとしたともいう。女子中学生を誘拐して乱暴しようとしたということだ。幸い、地域のおじいちゃんがそれを目撃していて、逃げた教頭を追跡、信号で取り押さえ、警察へ、教頭は容疑を認め、女子中学生にもけがはなし。これは結果論としては良かった。

しかし、よく考えてみよう。乱暴目的、モデルガンを使って誘拐。これがこの教頭の思惑通り首尾良くうまくいったとしよう。もちろん、この教頭は女子中学生に乱暴するわけだ。ここまではわかる。

では、そのあと、この教頭はこの女子中学生をどうするつもりだったのだろう……。

この犯行、ここまで考えていないとできないことなのではないか。同県内とはいえ、地元から離れた犯行現場、テレビニュースの映像で見る限り、あまり人通りはないと思われるような犯行現場である。間違いなく計画性が認められる。とすれば、この誘拐と強制猥褻、その後はどう計画されていたのだろう。

この男、間違いなくいわゆる「馬鹿」ではない。要するに思考能力がないわけではない。53歳の小学校教頭。これだけで、昭和30年代前半生まれの四大卒ということがわかる。この世代の四大進学率は30%を切っている。それなりのはずである。

まさか現役教頭が殺人まで視野に入れていたとは考えたくないが、少なくともその可能性くらいは考えたのではないか。私が笑えないというのはここである。

私は中学校教師を20年もやっている。教え子の女の子が痴漢にあったとか、変質者に遭遇したとかいう事案で、事情聴取したことも一度や二度ではない。多くは女性教諭が当たるのだが、変質者というのは何を考えているかわからないもので、複数の女子生徒に対して変質行為を行うことがある。そういうときには男性教諭も事情聴取に臨むことがあるのだ。その経験からいえば、中学2年生の女の子というのは、ほぼ大人と同じ証言能力がある。間違いなくある。この教頭が覆面をしていたとか目出し帽を被っていたとかいう報道はない。おそらく被っていなかったのだろう。これをどう考えるべきか。

それとも全校児童8名の学校に勤める田舎教師だから、子どもを甘く見たか。だとしたら、それは自らの教え子に対する余罪が疑われる。小学生に対する余罪における体験から敷衍して中学生を甘く見た……という可能性が疑われるのである。

どちらにしても、なんとも言いようのない、ざらっとしたものが残る。

テレビ報道の顔写真で見る限り、人の好さそうな顔をしているのだが……。

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ステージ発表づくりの10箇条

学校祭において教師にもっとも嫌われるのがステージ発表です。「めんどうだ」「どうつくっていいのかわからない」 若手・ベテランを問わず、毎年こういう声が聞こえてきます。今号では、ステージ発表をつくるうえでの留意点です。

第1条 ステージ発表を目立たない生徒・問題傾向生徒の活躍の場として捉える

よくありがちなのが主役級にリーダー生徒をあてるキャスティングである。教師はいいつもりでも、生徒から見ると「できる子によるできる子のためのステージ」と見られる。

第2条 生徒のやりたいことはできるだけ取り上げて実現する

最初にアンケートをとり、「ダンス」「マジック」「アクロバット」など、生徒がやりたがったものはすべてステージ発表に盛り込むという心積もりを教師がもつとよい。

第3条 生徒一人一人の特意技を最大限に利用する

ピアノやダンスといった生徒が校外で習っているもの、物まねやバック転といった生徒の特技などは、〈使えるネタ〉として考えるべきである。

第4条 音響・照明のチーフにこそリーダー生徒を据え、その他の生徒は全員キャ   ストとして出演させる

照れがあるのか、キャストよりもスタッフを希望する生徒が多くなることがよくある。音響・照明はかなり高度な要求をすることを伝えて、スタッフにこそリーダー生徒をあてて、その他は全員キャストとしてステージに立たせると宣言する。全員が登壇ということになれば、意外と生徒たちは納得するものである。

第5条 企画プロジェクトのブレイン・ストーミングにこそ時間をかける

どんな企画にするか、6~8名の企画係と教師で1週間程度、ブレイン・ストーミングを行う。その際、「あの子は○○ができる」という得意技の裏情報をたくさん集める。

第6条 企画会議の内容を意図的にリークして一般生徒のアイディアも取り入れる

企画会議の内容は毎日リークする。そうすれば一般生徒もその話を聞きつけて、「じゃあこうすれば?」と日常会話の中で企画を進言してくるものである。

第7条 個人発表の印象を与えかねない内容はコラボレイトさせる

個人発表は避けるというない気のある学校も多い。そこで個人の特技をコラボレイトする企画を立てるとよい。例えば、私の場合、バレエと新体操と日本舞踊を習っている生徒3人をコラボさせて、雅楽で踊らせるという演出をしたことがある。

第8条 音響・照明・幕を効果的に使って一切の「無駄な間」をつくらない

舞台ソデで演技をしている間や割幕を閉めている間に場面転換をすることで、極力暗転をなくすことを心がけたい。無駄な間は聴衆を飽きさせたるませると心得たい。

第9条 早い段階で全体像を共有化し、少しずつ細部を詰めていく練習日程を組む

最初に全員で全体像を確認しながら練習を進め、細部を詰めていくという練習方法を採りたい。そうしないと、最初ばかりが念入りに練習された「時間切れステージ」になりがちである。

第10条  全体リハーサルは3回以上行う

通しリハを3回はやらなければ、当日うまくいかないと心得るべし。特に場面転換や音響・照明のタイミングの練習を念入りにする必要がある。こうした「できて当然のこと」は実は演技以上に失敗が目立つものである。

※DAN FOGELBERGの「MOUNTAIN PASS」を聴きながら……。

51xsudvm3fl__sl500_aa300_ HIGH COUNTRY SNOW

DAN FOGELBERG/1985

冬になると聴きたくなるアルバム。たぶん1985年以降、このアルバムを聴かなかった冬はない。それどころか10回以下しか聴かなかった冬もないと思う。今年もそろそろ冬が終わろうとしている。今日は冷える一日だった。車の中だけでなく、部屋でもこのアルバムが聴きたくなった。この冬、最後かもしれない。もう何度も紹介しているけれど、このアルバムはほんとうにお勧めです。

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ずいぶんと長く感じられた一日

朝学校に着くと同時に、まずは前任校の学年団に新刊を発送。やつらがいなければ出なかった本である。それだけになんといっても、まずは彼らに渡したかった。これでひと安心である。

授業は4時間。すべて2年生の国語。「走れメロス」の読解。空き時間二つは評定作業。データ入力完了で一応仮評定も出た。あとは提出物を出していない生徒に個人的に声をかけ、提出すれば入力データを変える。今日、インフルエンザの流行で成績小評提出が4日間延びた。まだずいぶん時間がある。気楽になった。

広島の小学校の教頭がモデルガンで女子中学生を脅したという。乱暴目的だったともいう。世も末である。世も末と思いながら、「バッカじゃね~か」と嗤ってしまう事件でもある。職員室でも理解できないと嗤う会話ばかり。数年前の札幌の小学校教頭のときとは雰囲気が異なる。余罪がなければいいのだが……。

放課後は生徒会役員と年度反省の答弁を中心とした全校協議会のあと、送別集会の準備。具体的な作業が始まっている。パワーポイントでメッセージをつくったり、スライド形式で写真を映したり。ひと昔前とはずいぶんと様相の異なる送別集会である。17時に生徒たちを返して、17時10分に退勤。

これといって何があったわけでもないが、ずいぶんと長く感じられた一日だった。まあ、月曜日というのはこういうものである。3年生の公立高校入試を前にした快い緊張感も感じられた一日だった。インフルエンザの流行でずいぶんと欠勤の多い職員室でもあった。

※STINGの「Russians」を聴きながら……。 

41c5gvs1m0l__sl500_aa300_Dream of the Blue Turtles

STING/1985

このアルバムは発売日に買った。浪人中で下宿していて、レコードを聴ける環境がなかったにもかかわらず、発売日に買った。聴けないレコードのジャケットを眺めながら、ただただわくわくしていたのを想い出す。それだけに初めてこのレコードに針を落としたときの感動がいまでも残っている。素敵なアルバムだ。

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カウントダウン

送別集会のビデオをつくった。今年度の3年生を送る映像である。生徒会役員が約1ヶ月かけて選んだ映像や画像を編集したわけである。

今年の3年生は1995年4月2日から1996年4月1日の生まれ。いわゆる1995年度の生まれである。

1995年といえば、何といっても1月17日の阪神・淡路大震災。死者6434人、行方不明者3人、負傷者43792人。3月20日には地下鉄サリン事件も起こっている。こちらは死者13人、負傷者は約6300人。これからこの国はどうなってしまうんだろう……。みんなそう思っていた。そんな年に彼らは生まれたのである。彼らはあの年、この国を覆った不安の中で、確かにだれもが祝福した、この国の希望だった。

実はぼくには勤務校の卒業生と並んで、いや、実はそれ以上に気になっている卒業生がいる。それはぼくが1年間だけ学年主任として受け持った、前任校の3年生である。ぼくが受け持っていた頃は113名だったが、いまは何人かが転出し何人かが転入し、在籍数が変わっているらしい。彼らもかつてぼくが阿吽の呼吸でチームを形成していたあの3人の先生方とともに、来週の公立高校入試の、そして中学校生活のカウントダウンに臨んでいるはずである。

卒業式まであと16日である。

※STARDUST REVUEの「SINGIN' IN THE RAIN」を聴きながら……。

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STARDUST REVUE/1986

当時、家の近くのレコードショップの店長に「おすすめだよ」と勧められて聴いた。何度聴いたかわからないほどに聴いたけれど、いまだに飽きない。ときどき、無性に聴きたくなる。なんというか、達郎と並んでとても80年代的なアカペラである。

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学級づくり3原則

新卒教師時代を生き抜く学級づくり3原則

野中信Profile行/明治図書/2011年3月

「新卒教師時代を生き抜く心得術60-やんちゃを味方にする日々の戦略」(明治図書/2007年3月)に続く、野中先生の「新卒時代を生き抜くシリーズ」である。野中先生から送っていただいた。

これは文句なく良い本である。何が良いかというとひと言でいえば「地上戦」が展開されているのである。初任者指導教諭として3年目、野中先生が初任者二人の学級経営を見ながら、何が問題か、本人が気づいていないことは何か、そして何をどのように指導すれば借り物でない本人の実践になるか、こうしたことを真剣に考えた末に生まれた、若手教師への指南書となっている。

思えば野中先生の処女作が出たのは2004年の1月。私は「困難な現場を生き抜く教師の仕事術」という書名にひかれて購入。著者紹介にあったメールアドレスを見て、すぐに連絡をとったのだった。その年の秋には石川晋といっしょに野中先生に会いに行って、野中先生の盟友原先生と4人でしこたま日本酒を飲んでべろべろになった。あれから6年近くが過ぎようとしているが、まさに隔世の感がある。

野中先生はその後、退職され、いまは初任者指導教諭のお立場である。ご自身の現役時代の実践と初任者指導教諭として再発見した実践のポイントとを見事に融合しての力作。力作というより、野中先生の危機感のあらわれと言ったほうが当たっているかもしれない。

本書でいう3原則は「縦糸・横糸」「3・7・30の原則」「群れから集団へ」である。野中先生をよく知っている方から見れば、どれもこれまで野中先生があちらこちらに書いてきたことばかりに感じられるかもしれない。 しかし、今回はその具体性が違う。特に使用上の注意にあたる〈但し書き〉が非常に多い。更にはSTEP1からSTEP6までの段階がかなり練られている。私も何度かお世話になっている佐保さんの企画だというが、さすが佐保さんというべきか、野中さんの良さをうまく引き出している。野中さんの立ち位置を鮮明に描き出している。

今回の野中本でぼくに響いてきたのは、なんといっても二人の初任者への観察を基盤にして、その弱さを徹底的に分析したところから出発していることである。それが単なる野中実践の報告ではなく、おそらくは同じような失敗をするであろう新卒教師たちのかゆいところに手の届く内容になっている。これは「買い」である。

新卒5年目くらいまでのこのブログの読者さんへ。必読書です。これを読めば、まだまだ間に合います。

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ひと息ついた……

今日は朝からビデオ編集。なんとか午前中に終え、その後、方々へ連絡メール。溜まっていた事務仕事を一気にこなし、更に新刊の謹呈関係の処理。

やっとひと息ついた。

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学級担任の研修10箇条

研修にあなたはどんな印象を抱いていますか。自分を高めるのになくてはならないもの?必要なのはわかるけど面倒なもの?研修する教師としない教師との間には、10年後、埋めることのできない差が生まれます。この夏休みを機に、研修を充実させてみませんか?

第1条 発信の場をつくる
人は〈発信の場〉に立たされたとき、必ず情報を受信しようとするものです。研究授業があたれば、どんな人も本を読み研究会に参加するようになります。研修を充実させるのにまず必要なのは研究授業や研究発表といった〈発信の場〉をつくることです。年に一度、そういう機会があれば、研修は自分にとって日常的なものとなっていきます。

第2条 校内研修会に積極的に取り組む
校内研修会は自分がいまかかわっている生徒たちが素材として扱われています。まずはこの「地に足の着いた研修」に積極的に取り組んでみることです。

第3条 地元の研究会に積極的に取り組む
校内研修だけではどうしても視野が狭くなりがちです。地元の研修会に積極的に参加し、様々な先輩教師の様々な考え方を学ぶ機会を積極的につくりましょう。

第4条 民間研究を差別しない
特に授業研究に多く見られる傾向ですが、公的な研究団体の研究だけが研究だと思っている人が多いようです。民間研究に入れ込む必要はありませんが、どんな研究団体からも貪欲に学ぼうとする態度が必要です。

第5条 研究者に研究にも目を通す
教師の研修では、現場教師の実践研究だけで視野の狭い研究が行われている場合が多く見られます。もっといえば、同業者の実践からしか学ばないという悪弊に陥っている傾向があります。研究者の学術的な研究にも目を通し、視野を広げることをお勧めします。

第6条 学習指導要領は暗記するくらい読む
私たちの仕事はあくまでも学習指導要領に基づいて営まれています。何を措いても、これを読み込むことが必要です。先輩教師の中には学習指導要領に批判的な方もいるかもしれません。そういう方は学習指導要領を熟読されていない場合が多々見られます。肯定するにせよ批判するにせよ、まずは学習指導要領が何を求めているのか、それをしっかりと捉えることが必要です。

第7条 研修の目的を自覚する
何のために研修に取り組むのでしょうか。自分の力量を高めることはもちろんですが、それを自己目的化するとあまり良いことがありません。まずは目の前の生徒たちに力をつける、これを目的として取り組むことです。そうした取り組みが結果として自らの力利用を高めるのです。

第8条 定期的に自分の実践を整理する
年に一度、3月に自分の実践を整理することをお勧めします。実践埋没型教師にならないためにも、自分にとって何が成果であり何が課題なのか、そうしたことを自己分析するためにも、研修はやりっ放しではいけません。

第9条 若いうちは金を惜しまない
ちょっとでも興味をもった研究会には、旅費等で多少お金がかかっても参加すべきです。ちょっとでも興味をもった本は、多少高くても思い切って買うべきです。若いうちしか実は研修にお金をかけることなどできないのです。人や本との出会いのチャンスをつぶさないように心がけましょう。

第10条  ライフワークとなる趣味をもつ
実践に自分の趣味を活かす。この発想が教師としての個性をつくります。趣味と仕事の相関を発見したとき、仕事が更に充実します。

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判断

金曜日の夜は送別集会用のビデオをつくるために映像の見直し。金曜日に学級閉鎖が2学級出て、生徒会役員からもインフルエンザ感染が出ている。ほんとうは生徒がビデオをつくる予定だったのだが、来週からは予断を許さない期間が続く。ぎりぎりになってバタバタするよりは、ぼくがつくってしまった方がいいという判断。生徒主体でとは思うけれども、こういうときは仕方がない。そして早め早めに判断していくのが教師の仕事。

土曜日の朝方まで映像を見直していた。目処がついたので土曜日はゆっくり寝て、たまっていた「相棒」と「悪党」を2週分ずつ見て、そのまま21時に寝る。

今日は9時起床。午前中のうちに送別集会用ビデオ4本(約20分)をつくってしまおうと考えている。

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自主研修を企画しよう?

ここしばらく、毎日1本ずつ、かつて雑誌に連載していた教育コラムをアップしているのですが、以下の文章だけは、当時、ちょっと首をかしげたので書いておきます。

基本的に以下の文章は、編集者の求めに応じて書きました。でも、教育雑誌の2頁を使って掲載する価値があるとは、ぼくにはまったく思えませんでした。そもそもこの文章はなんの役にも立たないからです(笑)。書いているぼくが言うのだから間違いない。「今回は夏休み企画! 自主研修の進め方についてレクチャーします。」なんて書いているけれど、こんなレクチャーを必要とする教師が、いったいこの世に何人いるのでしょうか。この文章が役に立つのは、多く見積もっても教師10000人に一人くらいなんじゃないかなあ。それはつまり、ほとんどなんの役にも立たないということです(笑)。

そもそも「自主研修を企画しよう!」っていうタイトルからして胡散臭いですよね。企画する必要ないもんね。

ぼくは以下に書いているようなことをするのが「良い教師」であるとか、「立派な教師」であるとか、まったく思いません。これは敢えて言ってしまえば、「趣味」の領域に入るものだと思っています。まあそれでも、書けと言われれば書くんですけど……(笑)。でも、久し振りに読んでみて、きっとこのやり方って、こういう活動をしている人たちのなかでもあんまり一般的なものではないような気もしてきました。

正直、ぼくのなかで、最も疑問を抱きながら書いた原稿なので、こんな言い訳めいたことを書いてしまいました。何か感想をいただけたら嬉しいです。

【引用開始】

自主研修を企画しよう!

本を読む。「なるほど」と思って真似したみたけれど、いまひとつうまくいかない。研修会に参加する。確かにすごい実践だけれど、いまひとつ自分の問題意識とはズレている。そんな経験はありませんか。

著者の実践には、本の文面にはあらわれてこないような実践のコツ、実践の呼吸があります。研修会の講師は、一般に受け入れられるような最大公約数的に講演内容をつくるものです。本の内容を真似したつもりでもどこかしっくりこなかったり、講師の話がどこかピンと来なかったり、実はそれは当然のことなのです。

では、どうするか。自分の問題意識に沿った研修会を自分で企画すればよいのです。

今回は夏休み企画! 自主研修の進め方についてレクチャーします。

Ⅰ.自主研修の前提として

1.仲間をつくる

あなたには研修仲間がいるでしょうか。学生時代の友人でもよし。同僚でもよし。初任者研修で知り合った、不安を共有する者同士ならなおよし。

何事も一人で始めるのは不安が伴います。一人で続けるのはとても苦しいものです。しかし、いっしょに研修する仲間がいるなら話は別。学生時代のサークル気分で、或いは目標を明確にして本格的に、いずれにしても自主的に研修しようというのなら、絶対に必要なのが仲間なのです。

2.本を読む/手紙を書く

本を読んでいて「なるほど」と思ったり「あれ?」と感じたり、そういうことはよくあることです。そんなとき、多くの人はその「なるほど」や「あれ?」を放っておくものです。そのうちに時間がたって、「なるほど」も「あれ?」も忘却の彼方……。それではいけません。

本の著者紹介には必ず現在の所属先が記されています。中には連絡先が書かれてあるものもあります。「なるほど」や「あれ?」を感じたら、思い切って手紙を書いてみてはどうでしょうか。私の経験から言って9割以上の確率で返信があるものです。一般に教育関係の実践家・研究者というものは、どれだけ有名であっても、実はそんなに〈遠い人〉ではありません。思い切ってコンタクトをとってみれば、割と簡単に手紙のやりとりをする程度の関係はつくれるものなのです。しかも多くの著者はこちらの感想や疑問に丁寧に応えてくれます。

よく考えてみてください。著者だって自分の書いたものに対する反応を歓迎しないわけがないではありませんか。こうした人間関係を築けるか否かは、手紙を書くという行動力を示せるかどうかだけなのです。

3.研修会に参加する

手紙のやりとりをした講師の研修会はもちろんですが、時間の許す限り、できるだけ多くの研修会に参加してみることをお勧めします。返信をくれた講師には挨拶をします。まず間違いなくあなたのことを覚えていて、親しく話をしてくれます。そしてこの人間関係は一生の宝になっていきます。

もう一つ、研修会参加の意義は、仲間をつくれる可能性があることです。研修会には同じような問題意識を抱いている教師たちが参加者として集います。休憩時間や昼食時間にちょっとだけ話をしてみると、同じ地域の教員だったり、同じ悩みを抱えていたり、意気投合して連絡先を交換し合ったり、こういうことが意外にも多いのです。そしてこの人間関係は一生の宝になっていきます。

Ⅱ.レクチャー型研修会の開催について

1.自主的な研修会を企画する

本を読んで、或いは研修会に参加して、「なるほど」「あれ?」など、要するにもっと深く聞きたいという著者・講師があらわれたら、次の著作を待ったり次の講演会を待ったりするのは時間がもったいないというものです。こういうときは思い切って、自分で研修会(講演会)をセッティングしてみてはいかがでしょうか。仲間が二人、要するに自分も含めて三人集まれば、こうした研修会は思いのほか簡単にセッティングできます。

2.条件を確認する

研修会を開催するにはいくつかの条件を確認しなければなりません。即ち①講師料、②会場費、③宣伝費の3つです。会場は市町村の施設を借りると1日借りても1万円程度でおさまる施設が見つかるはずです。宣伝費は自分の住む地域とその周辺にメール便で郵送すると一通80円(A4判封筒)で送ることができます。例えば、私がよく企画する小さな研修会では、講師料が50,000万円、会場費が3,900円(午前・午後/札幌市内の区民センターの小会議室)、宣伝費が40,000円程度(札幌市内及び札幌市近郊の600校)、というものです。必要経費は締めて10万円。これなら2000円会費なら50人、3000円会費なら35人、4000円会費なら25人の参加者を集めれば赤字は出ない計算になります。

講師が遠くに住んでいて交通費がかかるという場合には、講師料+交通費+宿泊費で150,000円になりますから、必要経費が倍になります。この場合には5000円会費で40人がペイラインになります。

自主的な研修会は、たとえ少額だったとしても一度赤字を出してしまうと、どうしてもいやになってしまってその後が続きません。従って、こうした計算はしっかりと行う必要があります。

3.自分たちの登壇機会をつくる

研修会自体は講師の講演が主となりますから、講師の送迎や受付業務をはじめてとして、その他煩雑な仕事が多々あるとはいえ、内容的には講師におまかせですから大きな失敗ということはまずありません。 むしろ、こうした研修会では、自分たちの登壇機会もつくることをお勧めします。もちろん、講演をするというわけではありません。例えば学級経営の研修会だとしたら、まず自分たちが15分ずつ2本の研究発表をする、それに対して講師からのコメントをいただく、そしてその後に講師の90分講演という流れにするのです。こうすれば、自分たちもまた発表内容を一生懸命に考えることによって成長する。しかも、講師からコメントまでいただいて、自分にはなかった視点を学ぶことができる。これが更なる成長を促す。こうした良いサイクルが生まれるのです。

4.研修会事務局と講師との食事会をセッティングする

研修会のあとには、是非とも事務局と講師との食事会(小宴会)をセッティングしましょう。講師が前泊するのであれば、前日でもかまいません。

研修会を開催した動機は、著者や講師に対して「なるほど」や「あれ?」を感じたことでした。それが聞きたくて研修会を開催したわけです。しかし、研修会での講演や講座というものは不特定多数を相手にしますから、講師としてもなかなか本音を言いづらいものです。また、あまりにも細かいところだけを突っつく研修会はかえってマニアックになってしまって、参加者が集まりにくくなってしまいます。

実は「なるほど」や「あれ?」について、講師から細かく話を聞けるのはこの食事会の場なのです。こういう場でしたら、多くの講師が「これはオフレコですよ」といって、「ここたぜけの話」をしてくれるものです。講師が主張していることのデメリット、或いは注意点や留意点、こうしたことを語ってくれることが多いのがお酒の席なのです。自主的に研修会を企画する目的は、むしろ研修会本番よりもこの食事会にあると言っても過言ではないほどです。だからこそ、あくまでも自分たちで自主的に研修会を企画する必要があるのです。

Ⅲ.クリエイション型研修会の開催について

1.構造的に理解する

レクチャー型の研修会5~10回くらい開催すると、一人の講師から話を聞くだけでは物足りなくなってきます。そこで、二人以上の講師を招き、構造的な実践研究を目指す研修会の開催へと進んでいきます。

この際に大切なのは、一見正反対の主張をしているように見える二人の講師を意図的に招くということです。例えば、伝統的・父性的な生徒指導を主張している実践家とカウンセリング・マインドを旨とした生徒指導を主張している実践家とを同じ場に招きます。主張が真逆のように見えますから、ともすると喧嘩でも始まってしまうのではないかと思われがちですが、講師はこういう場に意外と慣れていて、そんなことは絶対にあり得ません。むしろ、両者共に、「原則として父性的な指導が必要とされるが、○○の場合や××の場合にはカウンセリング・マインド的指導が大切になる」といった主張や、「原則としてカウンセリング・マインドを旨とするが、△△の場合には毅然とした態度が必要になる」といった主張が展開されることになります。

こうした主張の在り方を何度も聴いていると、その議論から「場合分け思考」や「臨機応変の意味」といったものが本質的に理解できてくるものです。これが実践研究における「構造的な理解」です。

2.司会者を目指す

複数の講師を招いて行われるクリエイション型の研修会において、最も難しいのは実は司会者です。各々の主張をよく理解していないとできない仕事だからです。最終的にはこの役割を目指したいものです。

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とうとう出た

とうとう出た。学級閉鎖である。

今日になって、一気に欠席者が増えた。

流行のインフルエンザが3種類。うち一つは42度の熱が出る。何人かそこから生還した生徒の話を聴いたが、ちょっと想像を絶するたいへんさである。

学年末テストが終わり、実技系のテストが始まろうとしているこの時期、4教科の先生方は気が気ではないだろう。評定関係の段取りを延ばすにも限界がある。さて、どうするのだろう。これは5教科教師にはわからない問題である。なにせぼくは既にすべての評定資料を集め終わっている。教師ならなんとかすべきという考え方もあるが、まあ、週に3~4時間ある国語と週に1時間しかない音楽や美術とでは話はいっしょにならない。

さて、授業は3時間。2時間は2年生国語。1時間は1年書写。2年国語は1時間は聞き取りテストと「走れメロス」のグループ音読。1時間は「走れメロス」のワーク。1年書写は小学校4年生の漢字。

放課後は生徒会役員と送別集会の打ち合わせ。その後、学年会。18時過ぎに退勤。

管理職人事も決まり、公立高校入試も来週。そろそろ今年度末とともに来年度をにらみながらの、なんともいえない雰囲気が蔓延しつつある。

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学級リーダー・学年リーダーを育てよう

リーダー性の高い生徒がいない。リーダーが育たない。現在、多くの学校でよく聞かれる言葉です。しかし、そんな時代だからこそ、リーダーをしっかりと育てなければなりません。愚痴を言う前に、まずは生徒の立場に立ったリーダー育成の方向性をもちましょう。

「リーダー性のある生徒が少なくなった」

そんな声をよく聞きます。確かに、そんな気がします。かつては学級や学年を仕切る生徒、いわゆる「仕切り屋」がいました。しかし、そんな「仕切り屋」が教室から消えてしまった……というわけです。

しかし、ここで生徒の立場に立って考えてみましょう。私たちはリーダー生徒について、あまりにも教師の側ばかりに都合良く考えてはいないでしょうか。もっといえば、教師が楽をできるような、「先生のお手伝い係」として使ってはいないでしょうか。委員会活動の仕事の多くは、日常の点検活動だったり、掲示物の整備だったり、図書館の受付や貸し出しだったり、どれもこれも面倒な仕事です。しかも、それは完全なボランティアで、何か代償があるわけでもありません。

こう考えてみましょう。あなたが校長先生に毎日小さな仕事があるような、面倒な仕事を依頼される。その仕事はみんなにあるわけではなく、あなただけにある。しかもそれは校務分掌にも位置づけられていない、完全なボランティアである。あなたはその仕事を快く引き受けるでしょうか。委員会活動は生徒にとって、そういう仕事なのです。

もちろん、ボランティアだからしなくていいと言っているのではありません。ただ、もう少し、私たち教師は、生徒の立場を理解したうえでこうした生徒にあたるべきだと言っているだけです。このことは、学級のPTA役員の選出にもいえることです。生徒だって保護者だって、「ああ、面倒な仕事だったけど、やって良かったな」というやり甲斐を感じれば、次も「やってもいいかな」と思うのです。逆に言えば、教師は学級リーダーやPTA役員をお願いする以上、「やった甲斐」を感じてもらえるようにする責任がある、ということなのです。

第1条 〈No原稿システム〉を定着させる
常に高い理想をもって生徒を育てることが必要です。集会等での登壇機会には、原稿を読ませるのではなく、必ず話す内容を暗記させて臨ませる。学年が上がるにつれて、原稿を書くのではなく、内容メモ程度を書かせるだけで自分の言葉でスピーチを行わせる。これはリーダー生徒のみならず、それを聞く側の一般生徒にも「聞く姿勢」をつくらせます。

第2条 スポットライトを浴びさせる
リーダー生徒には「お得感」をもたせることが必要です。私は学年協議会のプロモーションビデオをつくって学年集会で上映するなどとの試みを続けています。

第3条 取り組みの先頭を切らせる
例えば行事で歌う歌の練習を先んじてさせたり、総合の体験学習の下見に同行させたりと、一般生徒の先頭を切っているという意識をつくることが必要です。

第4条 人前で馬鹿になれる
ときにはユニークな学年集会を開いたり、学校祭で笑いをとる役目をさせたりといったことを体験させ、「人前で馬鹿になれる」構えをもたせると大きく成長します。まじめなだけのリーダーにいまの生徒はついていかない風潮があります。

第5条 PDSCを徹底する
企画して運営するだけでなく、しっかりと反省させて、次への課題を明確にすることに力を注ぎましょう。

こちらもご参照ください。

リーダーのいなくなった最近の学級・1

リーダーのいなくなった最近の学級・2

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大丈夫かなあ…

授業は4つ。2年生国語が3時間、1年生書写が1時間である。2年生はすべての授業が聞き取りテストと「走れメロス」。1年生は小4の漢字プリント。空き時間は放課後の職員会議のために、各部の反省に目を通す。今年はそれほど議論になるような年度反省が上がっていない。早めに職員会議が終わるかも、と思っていたら、ほんとうに1時間半ですべてが終わってしまった。

こういう会議は嫌いではない。これまでの勤務校はずーっとこんなものだった。ただ議論すべきは議論した方がいいわけで、そういうものまで議論の俎上に上がらなかった感がないわけでもない。次年度、大丈夫かなあ……という気がちょっとだけした。

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コンテクスト

ぼくのなかに「還暦を過ぎると右傾化する」というテーゼがある。ほんとうは「還暦を過ぎると」というのは正しくなくて「リタイアすると右傾化する」のほうが良いのかもしれない。ぼくには経験がないので想像にしかならないのだが、たぶん自分の職務上の動的な位置づけから離れ、それでも社会のいろいろなことが気になるというとき、かつて自らの立っていた共同体を絶対視することにしか発言の信憑性を確保できなくなることが原因なのだろう。共同体は職業でもあり、世代でもあり、地域でもある。

もちろんこれはあくまで相対的な問題であって、若くて現役だからといってその呪縛から逃れられるわけではない。しかし、「リタイア」して数年でのそ傾向が顕著になっていく事例が多い。かつて自分の上司として、或いは尊敬すべき先輩として君臨していた彼らが、妙に価値観を固定化し、下の世代を、或いは社会を断罪するのを見ていると哀しくなる。現在の「団塊前記」ともいえるリタイア組は基本的に、それを昭和30年代から40年代に置いている。物心ついた頃から青春期までを人は懐かしむ。それは仕方のないことなのだが、しかしそこに価値判断を伴わせて彼が主張し始めるとき、そしてそれが現代にも通ずるリアリティがあると主張するとき、彼は時代から用済みの烙印を押される。彼らの議論にどうしようもなくコンテクストが欠落してしまうからである。

かつてはこうした昔語りもある程度の尊敬をもって迎えられた時期もあった。それは昔語りが「戦争」であったり「終戦」であったり「戦後復興」であったりした頃である。その手の話について若い世代は聴く価値を見出せた。もちろん当時のその世代も確かに右傾化していたのだが、戦争体験者が自らの戦争体験を、或いは家族の喪失を語りながら、別の場所では右傾発言をするということに、それがこの国のもつジレンマと解釈することができた。昭和ひと桁からぼくらの親世代、つまり昭和十年代生まれ程度にまでは彼らの話を聴いていてその意識を抱くことができた。

しかし、とうとう「団塊」の番が来た。「全共闘」の番といってもいい。彼らは何も語るものをもたない、数だけは多い、上からも下からも蔑まれた世代である。上からは思想のなさを指摘され、赤軍事件の後には暴走族や校内暴力に取って代わられたと揶揄され、ぼくらの世代からは「全共闘などアルマーニのスーツと何も変わらない」と思われている。高度経済成長の終焉を前に、社会構造の変化をあばかず、それ以前の社会構造をただただ延命させようとした。いや、正確に言えば、彼らの上の世代が延命させようとしてきたことをあばかず、それに乗っかった。そしていよいよ自分たちの番だと思った矢先にバブルの崩壊、拓銀や山一、オウムや酒鬼薔薇に象徴されるような時代の流動化のなかで、右往左往した過ぎない。

その彼らがいま、必然というべきか右傾化している。もちろん、右翼思想・左翼思想の右傾化ではない。経験則だけでものをいう馬鹿げた論理を展開しているにもかかわらず、その論理に拘泥し続けるという程度の意味で理解していただくと近い。

彼らは大塚英志を無視し、宮台真司を無視し、東弘紀を無視した。学力論争の一方に与し、教育再生会議に賛同し、「国家の品格」に賛同した。郊外化とヤンキー社会と浜崎あゆみとケータイ小説の構造的関連を無視した。ロングテールを自らのことだと勘違いしながら、大衆的な共同性に洗脳されていることに気づかない。記号化された80年代的ポストモダンをいまだにポストモダンだと理解し、心理主義的なひきこもり社会と社会学的な決断主義を無視し続けている。秋葉原事件をキャリア格差の世論に持って行ったのも彼らだ。農業その他に求人はたくさんあるのに、ネットカフェ難民になるのは甘えだと感じている。ネットカフェに入り浸る金があるならひと部屋くらい借りられるではないかと発想し、ロスジェネを蔑む。もう時代を語る資格を失っているのである。かつてのような「もう我々の時代までは良かった」という論理は通用しないのである。

ケータイ小説や「デス・ノート」や「リアル鬼ごっこ」や「バトル・ロワイヤル」に抵抗があるなら、せめて綿矢りさや平野啓一郎くらいは読んでみるといい。そこにはいま起こってることの萌芽がある。例えば、藤村・花袋・漱石・鴎外からこれらの作品までを等価として並べてみる視座をもったとき、初めて見えてくるものがある。「団塊」が、「全共闘」がアンビバレントな感覚で見つめ続けた近代は、ちょうど中上健次が亡くなった頃、完全に終焉を迎えたのである。

ぼくは教育現場にいるから、必然的にこういうことを追いかけざるを得ない立場にいる。思索とフィールドワークの往還にしか、コンテクストを欠落させない言説は生まれ得ないのである。

「さようなら。団塊よ、全共闘よ。私は所詮、あなたたちとは無縁の存在であった。」とでも、高橋和巳ばりにつぶやいてみようか(笑)。

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これで家庭訪問が気楽になる…?

教職を何年続けてもいまいち慣れない。どうしても緊張してしまう。そんな声を聞くことの多い家庭訪問。今号では、「家庭訪問の10箇条」をつくってみました。そんなに緊張することなく、まずは原則をしっかりと身に付けることを考えてみてはいかがでしょうか。

家庭訪問には以下の10箇条があります。まずはこれをきちんと意識しましょう。

第1条 明確な目的をもって訪問すべし
家庭訪問の目的が、最低でも、家庭環境を把握することにあるのか、子どもの性行を確認することにあるのか、対応の仕方の話し合いにあるのか、この程度の目的は明確に意識して臨むべきでしょう。

第2条 細かな情報を用意すべし
一年間の行事の見通し、高校入試の情報、学校の基本姿勢といったことは、訊かれたときにすぐに答えられなくてはいけません。わからないことを尋ねられた場合には、即答を避け、明日調べてお電話いたしますと答えましょう。

第3条 時間通りに訪問すべし
若い先生方にはこれが難しいようです。家庭訪問は保護者がわざわざ時間を割いてくれているわけですから、できるだけ時間通りにまわらなくてはいけません。また、時間通りにまわれる日程を立てなくてはなりません。

第4条 できるだけ本人を交えて話すべし
これは家庭訪問の目的によって変わることなので、必ずしも本人がいた方がいいと言えるものではありません。しかし、年度初めの家庭訪問であれば、親子の会話の様子から親子関係をはかることもでき、また、教師と生徒との接し方、関わり方を保護者に見せることもできる、そういう機会になります。

第5条 できるだけ褒めるべし
年度当初の家庭訪問から、注意や説諭が中心では保護者も警戒してしまいます。短い期間で生徒の良いところを見つけ、それを伝えてあげることを心がけましょう。

第6条 できるだけ具体的な話をすべし
生徒を「いい子ですね」「積極性がありますね」と抽象的に褒めるだけでは、どう良いのか、どう積極的なのか、保護者に伝わりません。具体的なエピソードを交えながら、保護者の目に浮かぶように描写的に語ることを旨としましょう。

第7条 メモは訪問後に取るべし
話をしている目の前でこと細かくメモを取られるのは、あまり良い気がするものではありません。聞いた話をメモするというスタンスではなく、あくまでも「対話」をするつもりで訪問すべきです。その場でのメモは大切な数字やデータ、健康に関わることのみとし、必要なメモは辞してからするのが礼儀に適っています。

第8条 プライバシーを口外するべからず
家庭訪問で何軒もまわっていると、先ほど訪問した家で出た話題と同じ話題が出る、ということが多々あります。気をつけないとつい気がゆるんで、「○○さんでも同じことがあったそうですよ」などとやりがちです。これは厳禁です。

第9条 他人を批判するべからず
保護者が子どもの友達の悪口を言ったり、ある教師を中傷したりする場合があります。いっしょになって非難するのは厳禁です。そういう噂は必ず漏れると心得ましょう。

第10条 接待を受けるべからず
さすがに最近は減ってきたようですが、保護者が教師にお菓子や飲み物以上のものでもてなそうとする場合があります。これを受けるのは厳禁です。ある家庭とある家庭とで対応が異なる、これが一番良くないのです。

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引っかかりがとれた一日

授業は3時間。2年生の国語1時間はテスト返却・解答・「走れメロス」のグループ音読。1年生の書写2時間は小学校4年生の漢字。空き時間は生徒会関係の事務仕事。給食からは3組に入って指導。5時間目は学活。生徒会議案審議と1年間の反省。早く終わったので、国語のテスト返却。これで4クラスすべてに返したことになる。

放課後の校内研修会は使用のため年休をいただいて退勤。

どうも寝不足のようで、眠くてしょうがない。帰宅後はソファで本を読んでいるうちに、2時間ほどぐっすり。今日はいろいろな郵便物が届く。これまでちょっと引っかかっていたことが、この郵便物で二つとも解決する。引っかかりがとれた一日。

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「青春の終焉」と「遅れてきた青年」

早速、石川晋から返信が届く。お互いにブログに書いているだから、返信というのもおかしな話なのだが、まあ、返信である。

石川の書いたことはこうだ。

堀とぼくとは、数年来の伴走者であり、堀の指摘は、ぼくの考えている事をよく言い当てている。/藤原は、明るく未来志向の強い青年教師である。ぼくの取り組みが、ぼくのある見通しの上に立った、最終的に「問題解決」されていく提案の始まりなのだと、分析している。少し失礼な書き方になってしまうかもしれないが、問題は必ず全面的に解消していくと、基本的にはそう考えていて、そのための道筋の途上に、ぼくがいると考えているわけである。/で、堀は、その藤原の分析を、多分そうではなく、石川はもう少し「相対的」なバランスの中で、「環境調整的」な方向にシフトさせようとしているわけ(だけ)だよ、と説明している。

そして、これを受けて次のように結論づける。

しかし、ここまで歩いてきて、これは基本的にはバランスの問題の収斂できない、自己崩壊を伴う道筋なのだと思い始めているということなのだ。/ぼくは、パンドラの匣を開けつつあるのだという自覚を持っている。/(中略)そしてにも関わらず、その枠組みの中で、ぼくは今、反戦自衛官のような、自己崩壊の道を行けるところまで進んでみようと思いはじめている。

石川はぼくの文章を誤読している。そんなことはわかっている。敢えてクレームをつければ、ぼくの文章の次の箇所を引用して欲しかった。

「絶対に学べる」などということは学校教育が現在のシステムを敷いている限り、想定できないのである。こんな根本のところをなやましいと考えていては先に進めない。いまよりもっと、いまよりもっとと、進めていくしかないのである。

そう。いまよりもっと、いまよりもっと、なのである。

今世紀に入って、三浦雅士に「青春の終焉」という名著があった。近代は左翼系文学にしても、三島にしても、全学連にしても全共闘にしても、急進的に進む個の心象で形成されてきた。少なくとも美学的にはそう言えるはずである。そうした心象は高度経済成長が終わっても、短いオイルショックをはさんで、何とか80年代まで延命させてきた。もちろんニューアカによるポストモダンの流行がそうした古い美学的知見に疑義を唱えはしたが、その疑義も近代を「向こうにまわして闘うべき相手」として意識していた点で、近代はまだまだ健在だったのである。

簡単に言えば、ぼくらはその微妙な時期を生きてきた。だから、バブル崩壊ととともに成長の飽和が意識され、「まったり」ブームで「終わりなき日常を生きろ」と言われたとき、ぼくらのなかの新しい部分が呼応して「なるほど新たな機運を的確に捉えている」という感慨とともに、ぼくらのなかの古い部分が「理屈はわかるが、そうはいっても、ぼくらはそれに満足できない」という違和感とに引き裂かれたのである。

近代的心象は、或いは三浦雅士流に言えば「青春」は、ある種、絶望を基盤に急進的に破滅へと向かっていく行為である。それはことごとく悲劇に終わる。漱石の主人公がことごとくそうであるように、学生運動がそうであったように、三島が死を賭したように。

ぼくらはいまだに「青春」を生きていて、まだそれを終焉させていない。だから偉い人たちに嫌われるのである(笑)。そんなことはわかりきっている。しかし、公教育に挑戦して、絶望を基盤に急進的に破滅に向かう心象は、ロマンティシズムとしては成立しても、現実としては悲劇に至らざるを得ない。そういうものなのである。

晋が生きているのは「終わりなき日常」などではない。むしろ、「近代」であり「青春」である。自らが全共闘よりも更に「遅れてきた青年」であることを自覚せよ。それは「団塊」以前の心象だよ。本音をいえば、そう言いたいのである。

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〈学校アーキテクチャ〉の抱えるジレンマ

久し振りに藤原くんのプログを見たら、面白い記事が載っていた。「授業参観記」と題された、上士幌の石川学級参観に伴う記事である。「参観記」と記録性を主眼としているがごときタイトルが施されてはいるが、実質的には藤原くんの教育論が語られていると見て良い構成になっている。

藤原くんは石川学級参観に際し、生徒たちの自由度を極端に保障する授業システムを敷きながら、それが石川晋という教師の〈権威性〉によって担保されているとし、そこに〈矛盾〉を見る。もちろんこの〈矛盾〉に対して批判的な態度を示しているわけではないのだが、ファシリテイトの論理からいってまだまだ発展型が想定され、数年の後に生徒たちが〈育ち〉〈慣れる〉ことによって、教師の〈権威性〉が減退し、生徒たちの意欲・意見・意識、総じて表現が溢れ出るような授業が実現されるかもしれない。要約すればこういう論理である。

しかし、これは「ないものねだり」というものである。たとえ生徒たちが〈育ち〉〈慣れ〉たとしても、そこに実現するのはいま現在行われていることの五十歩百歩の実践であって、外から見た学習活動のなめらかさは変わるだろうが、すべての生徒たちの表現が溢れ出るような授業などというものは決して実現しない。

藤原くんは〈矛盾〉だというが、実はこれは〈矛盾〉ではない。石川晋から見れば、その〈矛盾〉は自らが実践しようとしている授業形態において最初から織り込み済みの、織り込み済みというよりは大前提としての、いわば〈必然〉である。

言うまでもなく、学校教育における〈環境〉は無限ではあり得ない。

ここで言う〈環境〉は、東弘紀が〈アーキテクチャ〉を訳すときに、インターネット社会が構築しようとしている〈アーキテクチャ〉と、或いは90年代に登場し00年代になって普及したネット型消費社会やセキュリティー型監視社会等に見られる〈アーキテクチャ〉との親和性を意識して、本来は〈建築〉とか〈建築物〉というような意味である〈アーキテクチャ〉という語を〈環境〉と意訳したのに起因する。当初からインターネットには有限性がなく、ある種の無限性が想定されるのに対し、〈建築〉は実際に〈建築物〉として実現させるとともに「ここまでで完成とする」という〈断絶〉をつくり〈限界〉をつくることによってのみ成立するとの批判が、主に建築家を本業とする言論者たちから東弘紀の意訳に対する批判がなされた。石川も私と同じ〈環境調整型権力〉の語を使う教師である。これを意識しないわけはない。

もとより、教師が一人一人の意欲対象、意見対象、意識対象をすべて取り上げたいと切に願ったとしても、そこにはどうしても「最大公約数」の論理で対応せざるを得ないというジレンマがある。考えてみればいい。例えばアマゾンのごときロングテールを対象とすることが、学校教育にできるだろうか。例えばアマゾンのごとき、ある個人についてどういうワードで検索したかという情報をすべて記録し、そのような嗜好性をもつ別の顧客情報と照合することによって、「あなたにはこれを推薦します」と投げかけたり、「あなたの欲しいものはこれではないですか?」と問いかけたりすることが、学校教育に可能だろうか。それはどだい無理な話である。

図書館の蔵書をすべてデータ化して、オンラインで結ぶように、すべての子どもの情報をデータ化してオンラインで結ぶとか、すべての子どもに一人一台のPCを与え、一つ一つの指導言や学習活動に対してどういう反応を示したかを蓄積していくようなシステムを構築しなければ、〈環境〉は成立しないのである。もちろん、こんなシステムが学校教育の根本をはずしていてナンセンスであることは言うまでもない。

よく〈環境管理型権力〉の象徴として引き合いに出されるものとして、ジョージ・リッツァのマクドナルドのアナロジーがある。バイトの女の子の「いらっしゃいませ」という笑顔、全国どこに行っても同じような味の商品、少ないメニューによる注文時間の縮減、客をそうと意識させずに労働させることによる人件費の削減、固い椅子による回転率の上昇、BGMの音量調整による回転率の上昇などなど。学校教育でもこれと同じことができるのではないかと考える向きもある。

しかし、決して同じことはできないのである。もちろん、似たようなことならできる。だが、同じことはできない。マクドナルドにはそのシステムが気に入らなければ「行かない自由」がある。しかし、学校教育には、原則として「行かない自由」がないのである。「行かない自由」がある〈アーキテクチャ〉たるマクドナルドでは、マクドナルドの想定する「最大公約数」から漏れた者たちは「行かなければよい」のである。しかし、学校には最も基本となる、すべての前提となるこのシステムを施す余地がない。

ファシリテーションも同じである。基本的にファシリテーションはすべての人たちを包摂しているわけでない。交流などしたくないと思いながら付き合いで参加している人が一定程度いる。ファシグラだって参考にする人としない人がいる。そして何より、ファシリテーションは成功すればするほど、〈コンテンツ〉の問題が生じてくる。話し合い、交流するに値しない、くだらないことを交流したとき、そこにはくだらなくないことを交流したい人たちがそっぽを向く可能性を常に内包している。こういうことは常に意識されていなければならない。

そもそも石川晋が提唱しているのは、「教えやすさ」から「学びやすさ」への転換であって、「教えやすさ」から「学べる」への転換ではない。つまり、あくまで相対的な問題であり、これまでの学校教育システムから少しだけ〈環境〉の方向にシフトしてみませんか、という提案に過ぎないのである。「絶対に学べる」などということは学校教育が現在のシステムを敷いている限り、想定できないのである。こんな根本のところをなやましいと考えていては先に進めない。いまよりもっと、いまよりもっとと、進めていくしかないのである。

学校は学校である限りにおいて、教師の権威性を必要とせざるを得ない。その権威性に浅い権威性と深い権威性があり、狭い権威性と広い権威性があるだけなのである。

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あなたの学級にシステムはありますか?

学級経営は最初が肝心。でも、なぜ、「最初が肝心」なのでしようか。それはズバリ!「学級にシステムを敷かなければならないから」なのです。 あなたの学級にシステムはありますか? それはどんなシステムですか? そしてそのシステムは機能していますか?

あなたの学級経営に〈システム〉はありますか? えっ?どんな〈システム〉かって?

それはたとえば、次のようなことが決まっているかどうかということを意味します。チェック欄にチェックしてみてください。

【学級システムチェックリスト】

□あなたの学級では、日直の1日の動きが決まっていますか?

□あなたの学級では、給食当番の配膳の仕方が決まっていますか?

□あなたの学級では、給食のおかわりの仕方にルールがありますか?

□あなたの学級では、清掃当番の役割分担に決められたルールがありますか?

□あなたの学級では、学級委員の選出、班づくり、係組織づくりに決められたルールがありますか?

□あなたの学級では、席替えの仕方に決められたルールがありますか?

□あなたの学級では、座席配置に決められたルールがありますか?

いま、ポイントを7つ挙げましたが、これらのうち、一つでもルールのない項目があったとしたら、それは少々考え物です。

学級づくりは、問題が起こってからそれに対処するという「対症療法的指導」では立ち行きません。起こり得るだろう問題を予測して、それらの問題が起こらないような〈システム〉をあらかじめ敷いておくことが肝心です。ベテランの先生方はみんなそうしています。それでも学級経営は人間相手ですから、予想もしなかった問題が起こるのです。

例えば、給食のおかわりにルールがなく、食べたい者が自由におかわりをしてよいことにしているとします。確かに最初は、だれもがみんなのことを気遣いながらおかわりをするでしょう。しかし、学級開きから数ヶ月が経ち、学級に慣れ始めた頃、少々粗暴な気質のある生徒が「これくれ!」といって他人のものを強引にもらってしまう……なんてことが起こらないでしょうか。

こういうことが起こらないようにするためには、毎日、「いただきます」直後に、食べないもの、いらないものは自分で配膳台に戻す、というシステムを年度当初に敷けば良いのではないでしょうか。いらないという人が戻したものも含めて、余った分を希望者によるじゃんけんで決めたり、曜日によって班の優先順位を決めるなどして、振り分ければ良いのではないでしょうか。

こうしておけば、「これくれ!」はなくなります。〈学級システム〉としてルール化しておけば、それを無視して「これくれ!」とやった者はルール違反になります。ルール違反ならば指導されるのは当然です。本人も納得して指導されることになります。ところがルールとして決めておかなかったら、「これくれ!」はマナー違反に過ぎなくなります。マナー違反ということになると、そのマナーを重用視するか否かという問題が生じます。自分は「いらないというからもらった」といった言い訳を与えることになってしまうのです。これが指導を難しくします。

こうしたことを避けるためにも、〈学級システム〉を敷くことが大切なのです。あとは学級にいかに潤いをもたせるかです。それはそれぞれの教師の個性で決まります。

※STEVIE NICKSの「ROCK A LITTLE」を聴きながら……。

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STEVIE NICKS/1985

STEVIE NICKSのソロ第三弾である。このアルバムとの付き合いも長い。ぼくはどんなSTEVIE NICKSも前面肯定してしまうほど彼女のファンなのだが、理屈抜きの良さである。カントリー調のファーストを経て、第二弾、第三弾とPOPな路線を打ち出していた時期、80年代半ばのアルバムである。もう60歳も過ぎてすっかり老けてしまった感のある彼女だが、この頃は本当に美しかった。少し猫背で歌う、怪しい雰囲気が好きだった。タイトル曲のバラードはとてもいい。

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暇な一日

授業が2時間。両方とも2年生。学年末テストの返却・解答。その後、「走れメロス」のグループ音読。生徒たちは楽しそうにやっていた。ある意味、「走れメロス」という作品の力なのだろうが、グループ音読という手法の力もある程度はあるように思う。

空き時間は3時間。1時間は郵便局と銀行に行って支払い。あとの2時間はまったくやることがない。また顰蹙を買うのを承知で言うが、とにかく暇なのである。完全に時間を持て余し、本を読み始めた。趣味の読書なら問題かもしれないが、教育書だからいいだろう……という解釈である。

放課後は全校協議会の指導。更に生徒会役員とミーティング。送別集会に向けての各仕事の進行状況の確認、そして当日の役割分担。更に読書。

この仕事が時間で規定されている労働というものの在り方にぼくは大きな疑問を抱いている。同じ仕事をするのにも一人一人かかる時間が異なる。ついでに言えば、質も異なる。長い時間をかけて質の低い仕事をする者もいれば、短い時間で質の高い仕事をする者もいる。給料が同じなのだから、他人に与えられた役割に手を出す必要も感じられない。となれば、時間のかからない人間は時間を持て余すのである。

今年はぼくが副担だからというわけではない。ぼくは担任だった頃も暇だった。そしてこんなに服務規程が厳しくない時期には、その余った時間で外の仕事をやっていたのである。そしてその外での仕事は間違いなく公務にも生きてきた。直接的ではないにしても、少なくとも間接的には大いに生きてきた。その自負がある。ぼくがいまもっている能力のほとんどは外の研究活動によって培われたものなのである。

しかし、ここまで服務規程を厳しくされ、公務以外の仕事を勤務時間にしてはいけないという話になると、それができなくなってしまう。ただ時間を持て余すのである。今日のように授業は1・2時間目、3~5時間目が空き時間で、放課後には生徒会の仕事があるなんていう場合、年休を取って帰ることさえできない。仕事と言えば、せいぜい10分休みに生徒と交流する程度なのである。なんとかしてほしい。

本当に馬鹿げている。時間こそ宝と考えるぼくのような人間には、この在り方が馬鹿馬鹿しくてしょうがない。多忙感に苛まれ、大変な毎日を送っている方には申し訳ないが、これがぼくの本音である。

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この1年、学級経営の評価法は?

なんとかいい学級をつくりたい……この1年、頑張ってきました。みなさんの学級、今年の出来映えはいかがですか? 自己評価は高いですか? それとも低いですか? 正直言ってわからない……それが素直な感想かもしれませんね。

年度末、みなさんはこの1年間の自分の学級経営をどのように評価していますか? 自分なりに頑張った。できることはやった。そんな自己評価が多いのではないでしょうか。 でも、そんな評価では自己満足。せめて生徒たちに「先生の通知表」は書いてもらって、この1年間の自分が生徒たちにどう映っていたのかくらいは把握したいものです。ときに厳しいことも書かれてしまうかもしれません。しかし、それはそれで来年度に向けての修正点を改めて考えるきっかけになります。 学級担任として、或いは教師として成長するためには、是非とも取り組んで欲しいことの一つです。

さて、私の場合、「先生の通知表」も書いてもらうのですが、自分の学級経営の評価として、必ず取り組むことがもう一つあります。 それは最後の学活で、学級レクとして、「フルーツ・バスケット」をやることです。「えっ?なんでそんなことが評価なの?」と思われるかもしれません。もう少し詳しく説明しましょう。

私がおこなうのは、通称「なんでもバスケット」と呼ばれる、「フルーツ・バスケット」をちょっと改良したものです。フルーツ名ではおもしろくないので、鬼が「眼鏡をかけている人!」「今日、朝食を食べてこなかった人!」「実はこの1年間、堀先生を怖いと思っていた人!」など、学級にいそうだなと思われる人を考えて、それをきっかけにみんなを動かすというものです。

しかし、このゲーム自体が学級経営の評価につながるわけではありません。実は、このゲームでは、3回鬼になったら罰ゲームというルールを決めるのです。それもあらかじめ決めておきます。例えば、「今度、三回目の鬼になった人は、みんなの前で尻文字で自分の名前を書く」とか「合唱コンクールで歌った曲の自分のパートをワンコーラス歌う」とか、ちょっと抵抗のある罰ゲームです。

実は、こうしたちょっと抵抗のある、恥ずかしい罰ゲームをみんなの前でやれるか否か、ここで学級経営の成否をはかることができるのです。

学級経営がうまくいっていて、学級の仲がいい場合には、女の子でも尻文字くらいは平気でやるものです。歌を歌うくらいはへっちゃらです。ところが、学級がうまくいっていない場合には、尻込みしながらもじもじ……ということになりがちです。

みなさんもちょっと考えてみてください。職場の忘年会とか新年会の余興ゲーム。職場が仲がいい場合には、ちょっとくらい恥ずかしくても、みんなで大笑いするほうを選びます。抵抗なんてあまりもちません。ところが、職場の仲があまりよくない場合には、なんでこんな恥ずかしいことをしなければならないのか……となるものです。

実は、学級も同じなのです。学級経営がうまくいっていて、生徒たちがみんな仲がいい場合には、ちょっとくらい恥ずかしくたってみんなで楽しむほうを選ぶものなのです。いいえ、そんなことを考えなくても、罰ゲームの恥ずかしさなど恥ずかしいとさえ思うことなく、みんなで盛り上がることができてしまうのです。

生徒たちの何気ない動きに目を凝らして、自分の学級経営を評価したいものです。

※沢田研二の「Don't be afraid to LOVE」を聴きながら……。

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沢田研二/1991

沢田研二の才能と吉田健の才能がコラボして、素晴らしいアルバムが出来上がった……。当時、そう感じたものである。このアルバムはとにかく楽曲がいい。はずれがないのはあたりまえ。どれをシングルと言われても不思議はない、そのくらい力の入ったアルバムである。ただ「彼は眠れない」に比べると、アルバム全体としてのコンセプトに勢いが感じられない。ギンギンのジュリーが1曲もない。物足りなさがちょっとだけあるのだ。とはいえ、名盤と言っていいアルバムではある。ぼくはラストの「Don't be afraid to LOVE」というバラードが大好きである。

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通知表所見の10箇条

若い教師はもちろん、ベテラン教師にも意外と多いのが通知表所見を苦手にしている人。この時期になると、職員室に憂鬱そうな顔が並ぶ。なぜそんなにも苦手意識をもってしまうのか。いい文章を書こう?来学期に繋がるような文章を書こう? 要するに、考え過ぎなのである。

学期末、多くの担任教師を悩ませるのが通知表所見である。それも文章を書くことを苦手にしている人ほど、気の利いたフレーズや四文字熟語を使って、何かかっこよくまとめようとする傾向がある。そんな気の利いた文章が30も40も用意できるはずもなく、結局、締切寸前になって、「えいやっ!」と書くことになる。そんなことを毎年毎年繰り返している人が多い。

私は通知表所見に苦労したことがない。なぜなら、書き方の原則をもっているからだ。 例えば、次の二つの所見を読み比べてもらいたい。読者の皆さんは、どちらのほうがいい所見だと感じるだろうか。

【所見A】
体育大会のリレー、修学旅行における委員会での仕事ぶりなど、素晴らしい活躍が見られました。来学期は今学期以上の活躍を期待しています。

【所見B】
体育大会のリレーで両手を掲げながらテープを切り、みんなと抱き合う姿が印象的な1学期でした。2学期からは学級をまとめるような働きを期待しています。

ある国語教師の研究会で同じ質問をしたら、圧倒的にBが支持された。

私もそう思う。

Aは「体育大会」「修学旅行」と所見で取り上げた項目こそBよりも多いが、どんな活躍なのか、来学期に担任が何を期待しているのか、その具体が生徒にも保護者にもまったくわからない。

それに比べてBは、確かに所見項目こそ少ないが、体育大会での活躍の具体がわかり、担任の期待の内容もわかる。そして何より、保護者から見れば、我が子の姿が目に浮かぶ。「素晴らしい」とか「活躍した」とか書かなくても、「印象的でしたよ」と書かれているだけで、担任が我が子を肯定的に評価してくれていることが伝わってくる。保護者が求めているのは、哲学的なメッセージでもなければ、小難しい格言でもない。我が子が担任にどう思われているのか、どんなふうに担任が我が子を見ているのか、それだけである。しかも、決して理知的な分析を求めているわけではない。保護者に担任の温かいまなざしの在り方が伝わりさえすれば、それでいいのである。

通知表所見は、むしろ、保護者に「情」を喚起することがキモだとさえいえるのである。

最後に、通知表所見の書き方10箇条を掲げておく。この10箇条の詳細は拙著『中学生の通知表所見欄の記入文例集』(小学館MOOK)をご参照いただきたい。

第1条 記録として残ることを念頭に置くべし

第2条 1年間の見通しを持つべし

第3条 所見でしか書けないことを書くべし

第4条 担任の目を最大の武器にするべし

第5条 すべての生徒に平等に書くべし

第6条 あくまで本当のことを書くべし

第7条 「エピソード+評価言」を基本とすべし

第8条 100%褒め言葉で構成すべし

第9条 「課題」ではなく「期待」を書くべし

第10条 できれば自己評価をとるべし

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3・7・30・90の法則

学級経営は最初が肝心。でも、「最初」っていつ頃までのこと? あなたは学級開きを3日間とか、1週間とか、そんなごく短い期間で考えていませんか? 数ヶ月たって、最初はあんなに素直だったのに……なんて思っていませんか? そんなあなたにとっておきの法則です。

読者の皆さんは「3・7・30・90の法則」をご存知でしようか。最初の3日間、最初の7日間、最初の30日間、最初の90日間のそれぞれに何をすべきか、学級をどんな状態にまで導かなければならないのか、それを目処として教えてくれる効果的なシステムです。横浜の小学校教師野中信行先生が提案され、私が中学校用に改良したものです。

私は概ね、次のように考えています。

最初の3日間/生徒達との心理的距離を縮める

安全を脅かす事例でない限り、或いは集団の規律から著しく逸脱した事例でない限り、厳しい指導はしない。楽しく学級開きを行う。

最初の7日間/学級のルールを確立する

日直・給食当番・清掃当番・席替えについて、教師主導でルールを決定する。これらについては教師の専権事項とする。生徒の意見を聞いてはいけない。しかもここで決めたルールは1年間,絶対に変更してはいけない。悪しき「ヒドゥン・カリキュラム」となる。

日直には黒板の消し方や朝学活・帰り学活の仕方(声の大きさといった基礎的な事柄から),当番活動ではほうきのかけ方,配膳の仕方に至るまで逐一細かく指導すること。その際,「やって見せて」「やらせて」「ほめる」を心がける。この間は,見本を見せることを旨として,教師がいっしょに給食当番や清掃当番をやることも良い。

最初の30日間/学級のルールを定着させ、システム化する

日直・給食当番・清掃当番について、教師が徹底的にチェックして定着させる。この時期からは担任教師は決していっしょに配膳や清掃をしてはいけない。生徒達がルールどおりに動いているかをチェックすることに専念すべきである。

班・係のポスター、作成物等は、質の高いものをつくらせる。

最初の90日間/授業のルールを定着させ、システム化する

各教科の授業システムを確立する。教科連絡、発言の仕方、ノートの取り方、提出物の提出の仕方等々、細部まで徹底的に指導し定着させる。

このような目処をもっているだけで、学級経営は劇的に変わります。学級開きをなんとなく自己紹介から始め、なんとなく班をつくり、なんとなく日直や当番活動に取り組ませる。4月にはしっかり取り組んでいた生徒たちが、5月、6月と進むにつれて少しずつ少しずつくずれていく。さぼり出す者も出てくる。そうなっていませんか?

最初が肝心!とは言いますが、その「最初を1週間くらいだと思っていませんか? ちゃんとできるまで指導していますか? 私はそう問いかけたいのです。

※ヒドゥン・カリキュラム

学校教育の中で,意識的,自覚的に行われる正規のカリキュラムに対し,主に教師の無意識,無自覚的な言動により,児童や生徒へ伝わっていく知識,文化,規範などのこと。例えば、出席の取り方や指名の順番で男子が女子の先に呼ばれ続けると,男子優先という規範が子供たちに植え付けられていく、といった事例が学校にはたくさんある。

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テンションが低く、つらい一日

月曜日。学年末テストが終わって生徒のテンションは高く、こちらは低く、つらい一日だった。

授業は4時間。すべて2年生。テストの採点が完全には終わっていなかったので、「走れメロス」のグループ読みをさせながらノート・ワーク点検。空き時間はテストの採点が1時間。生徒会部の反省文書を印刷して提出したり、明後日から1年生で行う漢字プリントを印刷したり。

放課後は生徒会役員に指示を出して、明日の全校協議会関係の動きを確認し、送別集会の前提作業を進めさせる。なんとか明日にはけりがつきそう。明日は全協のあとにミーティングを行うと約束して帰宅させる。退勤は17時30分。

今年度の仕事が一つ一つ終わっていく。終焉に向かって走り出している。そんな感慨がある。

※RIC OCASEKの「KEEP ON LAUGHIN'」を聴きながら……。

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RIC OCASEK/1986

このアルバムとの付き合いも長い。調べてみると1986年のリリースというから25年である。1984年にTHE CARSが爆発的に売れて、ぼくも彼らのプログレな感じが大好きになり、それ以来、いまだにRIC OCASEKを聴き続けている。このアルバムは彼のソロアルバムの中では最もTHE CARSのテイストが濃いアルバムである。

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灰皿

書斎にべっこう色の小さな灰皿がある。ぼくが日常的に使っているものだ。

直径12センチ強の円形。三方に火の付いた煙草を置くところがある。学生時代、四研にあった灰皿で、ゼミで議論しているさなか、4年間ずーっとこの灰皿を愛用していた。森田が亡くなり、四研を片付けに行ったとき、記念に持ち帰ったものである。そういえば、梶くんは小さなブリキの灰皿を好んで使っていた。あの時間は決して返らないけれど、あの時間がいまなおぼくに強い影響を与えていることは間違いない。いまもっているぼくの幾ばくかの能力はほとんどあの時間につくられたものだ。

4年間、週2回、本気で議論し続けるなんていう機会は人生に二度とないはずである。おそらくぼくや山下くんが毎週のように行われる、こんなにも過密な研究会日程に平気で取り組んでしまえるのはあの4年間で身についたものだ。「耐性」とか「志」とか、そういった大袈裟なものではない。「慣習」というのが最も近い。こういうふうに頭を使う場があることが、議論の場があることが、生産の場があることが当然なのである。

四研は、いつも煙草の煙で空気がくすんでいた。数メートル先にある本棚の背表紙さえ、煙の向こうにかすんだ。そしてそれが、なんともいえない知的な雰囲気を醸し出していた。

いまなお自分の書斎の机上にあるこのべっこう色の灰皿は、そんなぼくの青春期の象徴であり、物理的にも精神的にもぼくの宝である。

※安全地帯の「アトリエ」を聴きながら……。

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安全地帯Ⅲ/1984

かつてレコードでもっていた。北海道出身、印象的なバンドの印象的なアルバムである。ものすごく久し振りに聴いたのだが、やはり「恋の予感」も「アトリエ」も名曲だった。ぼくはこの頃、ご多分に漏れず洋楽ばかり聴いていたのだが、初期の安全地帯だけは好きだった。ちょうどカラオケが流行り始めた頃で、だれもかれもが安全地帯を歌っていたような記憶がある。四研の想い出よりはもう少し前のことである。

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「第32回教師力BRUSH-UPセミナーin札幌」終わる

身内のご不幸や病気、インフルエンザなどなどの理由で、幾人かの登壇者に穴があいたのだが、たまたま藤原くんが参加してくれたり、たまたま桑原くんが参加してくれていたりしたために、登壇者の抜けた穴を埋めることができた。急遽入れ替えても大過なくやれる講師陣がいるというのは、すごいことだなあ……と感じた。

ぼくの登壇は評価・評定に関する90分にわたるQ&Aの司会と、最後の最終学活の語りに関するコメンテーター。双方ともにまあまあ役割を果たせたのではないかと思う。この日はぼくの新刊が届き、20冊程度がすぐに売れてしまって良かった。10冊程度は売って、残りの10冊は持ち帰って、この本のコンセプトのもとになったスペシャル・サンクスの先生方に贈ろうと思っていたのだが、当てが外れた。もう一度、送ってもらわなければならない。嬉しい誤算である。まさかその場にいる参加者の7割が買ってくれるとは思ってもいなかった。

1項目1項目をかなり具体的に書いたので、それなりの本になっていると思う。これまでぼくが書いた本との違いは、書きたいことを書くのではなく、書くべきこと、必要とされていることを書いた点である。そういう意味では、本を書く者としては一皮むけたかもしれない。

さて、ブラッシュである。32回目を迎える。今回は評価・評定の現実的な対応と最終学活で何を語るかという二本立て。

大野さんと裕章さんの評価・評定の提案のあと、ぼくが司会をして90分間のQ&Aをおこなったのだ20110219が、これがすこぶるおもしろかった。何がおもしろかったのかといえば、参加者から出てくる一つ一つの質問の具体性である。参加者が評価・評定において何を悩んでいるのかということがよくわかる有意義な時間だった。きっとこれをまとめておけば資料的価値をもつと思い、急遽、藤原くんにファシグラをお願いした。詳しくはこの写真を見てもらうことにして、一つ一つの質問の質がぼくにはとても興味深かった。南山さんや山田くんがそうした質問にサクサク応えられたことはあたりまえとしても、水戸さんと細山くんが自らの立ち位置から自分なりの見解を示し続けたことにもけっこう驚かされもした。

午後からは柏葉くんの特別支援教育講座と山田くんの通知表所見講座。柏葉くんの特別支援講座はぼくにはとてもおもしろかった。知らないことばかりで構成されていたという内容的な面が大きい。桑原くんに聞いたところによると、特別支援学校の王道とも言える視点で、かなり研究肌タイプの提案として位置づけられるらしい。まあ、一般教員相手の講座としては講座の構成にもう少し工夫が必要なのかもしれないが、ぼくにとっては新たな視点をかなり得ることができた。山田くんの講座は山田くんらしい講座。参加者の反応を見ると、通知表所見の交流というものをしたことがないという人が多かったようで、かなり有益な時間だったとの感想が多かった。研究会後の呑み会で、若手教師に「教師としての教育活動の中で、通知表所見ってのはどのくらいの率を占めるのか」と訊いたところ、中野くんが2割、佳太くんが1割と応えていたのが印象的だった。そうか、若者にとってはそんなに大きな割合を占めるのだ、という驚きである。ぼくの中では1%にも満たない。文字通り桁が違う。通知表所見がそんなにも高い率を占めると意識されているという現実は、分析に値すると感じた。

最後はおそらく教育史上、これまで行われたことはないだろうと思われる企画、「最終学活で何を語るか」である。なんとも現実的でありながら、しかもだれもがやっていることでありながら、学校というものの構造上、決してお互いに見合うことはあり得ない、ミニマムな部分に焦点をあてた企画である。これは有意義だった。語り口とかプレゼン技術とかいう問題もさることながら、教師の思想的な部分、教育思想とか教育観といったもの以上のもの、月並みな言葉だが「人生観」にあたるものがストレートに出てくるのである。

太田・斎藤・山田・小林・山下の5人が各8分ずつ、最終学活で語ったことを再現し、その裏にある教師としての立ち位置や語りの手法について交流するという時間だったのだが、参加者が実に楽しそうに、実に生き生きと交流しているのである。最終学活というものが教師としての観念・意欲・技能のすべてが集約されている場だということが、5人の提案を聞いているうちに参加者に伝わったのだと思う。いや、参加者にというよりも、企画したぼくらの側も訊いているうちにそれに気づいたという面がある。これが学級開きで何を語るかだったら、もう少し担任としての戦略と戦術の問題に終始する方向に流れたのだろうが、最終学活だけにひと言ひと言にその教師の「観」がにじみ出る、興味深い時間として成立したのである。この場でファシリテーターを務めた藤原くんの仕切りも見事だった。

夜は久し振りに「いづ屋」に行った。例のぼくの教え子の店である。21時過ぎにこれまた教え子の隣のクラスにいた女の子が登場。ぼくが店にいるというのでわざわざ会いに来てくれたのだという。まったく卒業以来一度も会ったことがなかったので、実に17年振りの再会である。柏葉くんとこの子と3人で3時近くまで飲んでべろべろになった。楽しい夜だった。

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優れた形象にザワッとする

数日前から『死刑』(読売新聞社会部/中央公論社/2009.10.10)を読んでいる。2008年秋から2009年初夏にかけて、40回にわたる連載をまとめたものである。かなり多角的に死刑問題を扱っていて圧巻の連載である。並々ならぬ取材の厚みも感じられる。読売新聞社の力を感じさせる本だ。

1994年12月20日、未明のことである。栃木県益子町の牧場で、牧場主の家屋が燃え上がった。焼け跡にはSさん(72歳)と妻Mさん(68歳)の遺体が見つかった。

後日、平野勇が逮捕される。事件の5ヶ月前までこの牧場で働いていたという、勤勉な印象の男だった。この男がまとまった金を得ようと元雇い主の家に侵入し、現金50万円を奪うとともに、Sさんをサバイバルナイフで、Mさんを千枚通しで幾度も突き刺し、犯行を隠すために灯油をまいて火をつけたというのである。

裁判で平野被告は起訴事実を争い、強盗傷害は認めたものの、放火と殺人は否認し続け、裁判は最高裁まで争われた。死刑の確定は2006年9月。事件から実に11年9ヶ月後のことである。

Sさん夫婦には二人の娘と一人の息子がいる。裁判の傍聴において被告をにらみつけたり、両親の遺影を法廷に持ち込んだりして注意を受けたこともあったという。証言台に発ったときには「極刑以外に考えられません。命で償ってください」とも訴えたという。

この平野死刑囚の死刑が執行されたのは2008年9月。死刑確定から2年後のことである。14年近く前の事件を思い起こしながら、息子と娘たちはその報告に両親の墓参りに行ったという。

死刑が執行されたと聞いたとき、どのように感じたかとの記者の問いに、姉妹の姉は良かったという肯定的な気持ちはまったく感じなかったといった。そして感じたのは「何とも言えない生理的な拒否感だった」ともらしたらしい。そしてその「生理的な拒否感」を次のように形容したという。

「まるで手の中で生きた虫を握りつぶしてしまったような、ざらっとした嫌な気持ちだった」

取材の中で出てきた発言をつなげたものなのか、被害者の娘さんから直接的に出てきた言葉なのか、ぼくにはわからない。しかし、あまりにも優れた形象にザワッとし、ある種の感動を覚えた。まるで川端康成や横光利一といった新感覚派を彷彿させるような、見事な形象ではないか。

この回のルポルタージュは、次のように閉じられている。

早月さん(姉妹の姉/筆者注)は、「今回の事件で、父と母が平野死刑囚に殺され、平野死刑囚もまた、国家の手によるものとはいえ、人為的に殺されたのだ」という気がしてならない。/それでは死刑でない方が良かったのか、と聞かれれば、そうではない。「何をやっても死刑にはならない」という国ではいけないとも思っている。/ただ、刑が執行されて初めて知った。死刑というものが、あんなにまで生々しく、自分に迫ってくるということを。〈105頁〉

この末尾の文章が読者に差し迫ったものに感じられるのは、やはり「生理的な拒否感」「ざらっとした嫌な気持ち」のくだりがあるからこそである。新聞の連載とは思えないような散文的な手法を使いながら、ルポルタージュとして鬼気迫る訴えに成功している。新聞の文章にこんなにも感じ入ったことは初めてである。

もちろん、小説の中にこの描写があったとしても、これほどに感じ入ることなどなかっただろう。しかし、新聞文体の中にこういう優れた形象を投げ込まれると、これほどまでに心に突き刺さるものなのだということを初めて知った。死刑問題において、被害者遺族の捉え方についてまた一つ、複雑で深い問いを投げかけられた気がした。

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いよいよ年度末業務である

学年末テスト2日目。

1時間目が英語の、3時間目が技術・家庭の試験監督。2時間目は国語。書く学級をまわったが特に質問は出なかった。あとで、誤植を一箇所発見したが、それほどのミスでもない。4時間目の学活はいよいよ送別集会の装飾作業開始。放課後は生徒会役員との打ち合わせ。その後、各委員会の年度反省の印刷や送別集会準備の指示を出す。採点。8割くらい完了したところで退勤時間になったのでやめる。

かなり記述問題が多く、文法や古典が難しかったにもかかわらず、テストの出来はふだんと変わらない。平均点が落ちると予想していたのだが、そうでもなさそうである。学年末テストということもあり、また2学期にずいぶんと評定の落ちた生徒がいたこともあり、それなりに頑張ったのだろう。よいことである。

その後、同僚と少しだけ談笑したあと退勤。

いよいよ来週からは年度末業務である。

そうそう。昨日のデザイン画の掲示は、単なる美術教師の勘違いだったらしい。「大ボケですいません」と謝っていた。安心した。

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NON POLICY

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沢田研二/1984

なんだか毎日、沢田研二が聴きたくてたまらなくなっている。それもだんだん時代が遡っていくのを感じている。今日も何枚か聴いたのだが、何枚目かにこのアルバムがあった。久し振りに聴いて、いいアルバムだな……と感じた。昔からなんとなく物足りない印象を抱いていたアルバムだったのだが、POPなコンセプトがちゃんと成功しているな、という思いを抱いたのである。南佳孝とか佐野元春とか原田真二とか楽曲提供者にも迫力がある。そしてそのどれもがほんとうに出来がいいのだ。クリス・レアの曲まであるのには驚いた。沢田研二自身の曲は2曲。何度かリピートして聴いたが、聴いていて耳障りのいい曲が多いのが特徴。心地よいアルバムである。

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告白-CONFESSION-

「人生のトップテン」から漏れた名盤を何枚か……。

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沢田研二/1988

先日のブログでは沢田研二のアルバムを「彼は眠れない」にするか「告白」にするかでずいぶんと迷った。「明星」という曲が学生時代から大好きで、その他にも「女びいき」とか「DEAR MY FATHER」とか名曲が目白押し。作詞は全曲沢田研二自身。確か「Co-CoLO」というバンドを率いて2枚目のアルバムだったと思う。

沢田研二には珍しく、少々バラードを基調とした地味目のアルバムだが、それだけに沢田研二のうまさと凄味を感じさせてくれるアルバムである。80年代後半から90年代前半の彼のアルバムはほんとうに完成度が高い。40歳前後、不倫騒動から始まった不遇の時期に入り、歌にそれまでにないソウルが感じられるようになる。

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それだけが救いである

中3男子、交際断られ女子生徒殺そうとした疑い

埼玉県警東入間署は17日、同級生の女子生徒を殺害しようとしたとして、同県富士見市に住む市立中学3年の少年(15)を殺人未遂容疑で逮捕した。/少年は数日前、女子生徒に交際を求めて断られたといい、「将来を悲観し、相手を殺して自分も死のうとした。刃物は15日に買った」と供述しているという。女子生徒にけがはなかった。/発表によると、少年は16日午前9時20分頃、通学する中学校舎内で、同じクラスの女子生徒(15)に果物ナイフ(刃渡り約9・7センチ)を向けて殺害しようとした疑い。/女子生徒は逃げ、少年は担任の男性教諭が取り押さえた。〈読売新聞2011.02.17〉

うーん。存在否定のように受け取ってしまったのだろうねえ。

こういう事件を起こす大人も男女を問わずけっこう報道されているから、中学生がこの無理心中の発想をもつこと自体にはそれほど驚きはしない。中学3年にもなればそのくらい考える生徒はいてあたりまえである。

また心理学者が豊かな少子化社会で育った子は「万能感」を去勢されていないとかなんとか言い出すのだろうが、また秋葉原の加藤智大とか持ち出して恋愛格差とか言い出す者もいるのだろうが、たった一人の男子生徒で全体を語る議論はもうやめて欲しい。一度ふられたくらいで将来を悲観するなよぉ……と笑い飛ばす人の方がまだ健全である。

それよりこの女子生徒は可愛そうだねえ。ナイフを向けられるなんてのは一生経験しない人のほうが多いわけで、相当なショックを受けているだろう。こういう一度ふられたくらいで将来を悲観するような子が殺すほど本気で好きになっちゃう女の子ってのは、たぶん恋愛慣れしているいわゆる「ピンク傾向」の子でもないだろうし。もしかしたら、まだ数日前にこの男子生徒をふったこと自体に罪意識を感じていた可能性さえある。今後まともな精神状態で恋愛問題に対応できるまで回復するかどうか。つまりこれから同じようなことがあったときに、ちゃんと断ることができる精神状態に戻れるかどうか。彼女の精神的な回復を心から祈っている。

おそらくまだ入試が終わっていない生徒が大半だろうから、そちらへの影響も大きいだろう。臨時の保護者説明会も開かねばなるまい。そもそもこの被害女子生徒の入試は終わっているのだろうか。終わっていないとしたら、まともに受験できるのだろうか。しばらく学校はてんやわんやになるはずだ。

さすがにこういう人情沙汰で学校の責任を問う声は上がらないだろうが、被害者も生徒なら加害者も生徒であるからには、双方の板挟みに担任は苦しむことになる。学校は被害者側につけるけれど、担任の心情はそう簡単ではない。

それにしてもこの男子生徒を取り押さえる力のある担任で良かったし、担任に取り押さえられる程度の男子生徒でほんとうに良かった。ナイフをもった中3男子を取り押さえるというのは命がけである。これが「女子生徒は逃げてけがはなかったが、取り押さえようとした担任が刺されて死亡」なんていうことになっていても、まったく不思議のない事件なのである。

まあ、この男子生徒がわざわざ学校でこの事件を起こしたことが救いではある。放課後の帰り道なら、女子生徒は確実に刺されている。そこまで頭がまわらなかったのか、無意識に止めて欲しいと思っていたのか、いずれにせよそれだけが救いである。

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意図的にやるわけがない

今日、すべての書き初め作品を国語科教師5人で見てまわった。書く学級2~3…ずつ入賞作品を選ぶわけだが、8学級のうち1学級だけ、どうしても選ぶべき作品がないという学級があった。5人で悩んだ挙げ句、10分ほどかかってその学級の作品から2作品を選んだ。他の7学級でかかった時間も10分。この学級だけで10分。いかに悩んだかが伝わるだろうか。

その後、3階の美術室に2年生のデザイン画の優秀作品が掲示されてあったので眺めていた。すると、8学級中1学級だけ、一枚も掲示されていない学級がある。他の7学級は最低でも4枚。つまり、1学級だけゼロで、あとは4枚以上なのだ。

うーん。何かの手違いだろうか。

ただデザイン画のうまいへただけを基準に選んだらこうなってしまったのだろうか。それとも、この学級の作品だけどこか別のところに保管していて、他の7学級のだけを選んでこれで終わったと美術教師が勘違いしているのだろうか。どうにも合点がいかない。

どう考えても、教師なら、少なくとも義務教育の教師なら意図的にこれをやるわけがない。その学級に基準を超える作品がなかったとしても、我々の書写作品のように強引にでも選ぶはずである。

その後、年休をとって帰ってきてしまったので、ぼくにはいまだに謎である。明日、訊いてみることにしよう。

※鬼束ちひろの「Cage」を聴きながら……。

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鬼束ちひろ/2001

久し振りに聴いて驚いた。このアルバム2001年か……。リリースと同時に買って、ずいぶん気に入って数年間ずいぶんと聴いていた頃が記憶に新しい。初めて「月光」を聴いて衝撃的だったのもよく覚えている。それが10年も前だったとは。リリースは2001年の3月だから、ほんとうにちょうど10年前なのである。時間が経つのは早いものだと思う。

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そろそろ動き始めなくては……

学年末テスト1日目。

1時間目は空き時間。研修部に提出しなければならない教科の年度反省をつくる。A4判1枚をつくるのに20分ほど。プリントアウトして教科のメンバーに配付。空き時間の後半はワークの見本に目を通す。2時間目数学、3時間目社会の試験監督。昼休みに1時間ほど明日からの送別集会と年度反省の生徒会の動きを確認。午後から教科会。教科反省の検討、ワーク・便覧・入試直前問題集の検討、書き初めの審査。14時10分に年休をとり、久し振りに回転寿司で昼食をとって帰宅。

帰宅後は溜まっているこまごまとした外の仕事をやってしまう予定。ここ1週間ほど、原稿執筆ばかりやっていて、メールの返信もろくにしていない。信用を失わないためにも、そろそろ動き始めなくては……。

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ノイズ

急に「落ち葉が雪に」に聴きたくなった。

でも、CDが車の中にあることに思い至り、わざわざ取りに行くのも面倒と思って、YOU TIBEテで検索。

あった。

そうしたら、音源がレコードらしく、あの懐かしいノイズが……。

ああ。

ぼくの「落ち葉が雪に」も、あまりにも何度も聴いたためにこんなノイズが入っていたっけ。このノイズ聴くの何十年振りだろう……。

落ち葉が雪に

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天国と地獄

三畳ひと間の下宿の窓から見える山上の大邸宅。その邸宅の子を誘拐する。誘拐したのは医者の卵。いわゆるインターンである。共犯者は社会の最下層に位置する夫婦。

しかし、大邸宅の子と思った子はその運転手の子。大邸宅の主はそれでも身代金を払うという決断をする。会社の株を買うための資金として用意した3000万円を運転手の子のために惜しげもなく支払う。医者の卵と夫婦の3人はまんまと身代金を手に入れるわけだ。しかし、医者の卵は身代金を手に入れるとあっさりと夫婦を殺害してしまう。

逮捕された医者の卵は大邸宅の主に、毎日窓から見えるあんたの大邸宅を見ているとあんたが憎くなってきたと告げる。複雑な表情を見せる大邸宅の主。医者の卵は「死刑になる恐怖」におびえる。医者の卵は死刑、夫婦は殺され、大邸宅の主は株を買えずに職を追われる。

こんなストーリーだったように記憶している。

大邸宅の主は実生活で豊かな生活をも送るエリート。医者の卵は現在はインターンではあるものの、将来を約束されたエリート。両者の間に、三畳ひと間と山上の大邸宅という差異がある。

医者の卵は将来を約束されたエリート。夫婦はのし上がるにはこのエリートを頼るしかないと決意して協力したのだが、あっさりと、しかも医者の卵故の方法(毒殺)で殺されてしまう社会の最下層の大衆。両者の間に、殺す者と殺される者との差異がある。

階層間における二重の格差を描き出した黒澤明の名作と呼ばれる映画である。エリート間における搾取と、エリートと大衆の間での搾取、それを同時に描いたところに名作、傑作と呼ばれる所以があるのだろう。

さて、別に映画評論をしたいわけではない。

ぼくも初めてこの映画を見たときには感動もしたし、数年前にテレビで安っぽいリメイク版を見たときには憤りもした。でも、基本的に、こういうエリートによる搾取とか、エリートとエリートとの間にある搾取とかは、我々の世界とは無縁であるだけに実感がわかないのである。初めてみたときの感動は、映画の描き方に感動したのであって、決して物語の描く格差に感動したわけではない。つまり、映画づくりの〈方法〉に感動したのであって〈内容〉に感動したわけではないのだ。

もちろん、教員世界に搾取がないわけではない。管理職昇進目前の人間が下の者が挙げた成果を自分の功績のように搾取して昇進したとか、実践研究において他人の授業のアイディアを搾取して発表したとか、まれに搾取の構造を聴かないわけではない。それどころか、この二点ならぼくはよく搾取されている(笑)。しかし、管理職昇進がナンボのものか、実践研究のちょっとしたアイディアがナンボのものかという意識があるため、腹も立たない。腹も立たないどころか、「ははは。オレはあの人を昇進させてやった」などと、呑み会のネタにして遊ぶほどである。結局、ぼくにとってはどうでもいいことなのである。

そうこう考えを巡らしているうちに、職員室で一番他人から搾取しているのはぼくだな、と思えてきた。

ぼくはいろいろな先生方の学級経営の在り方をずいぶんと観察している。良い実践をしている先生の実践はぼくの講座で紹介することもあるし、本に書くことだってある。しかし、それは極めてまれである。

むしろ、ぼくのアイディアの元になっているのは、ダメな先生のダメな実践である。そういうのを見ていると、自分だったらこうするのにな……というアイディアが浮かんでくる。そのアイディアを実際に試してみる。うまく行くと、それがコンテンツになる。

ダメな先生になぜそれがダメなのかを指導しているうちに、学校教育で当然のように行われていることの構造を発見することもある。のそ発見した構造を他の領域に当て嵌めてみると、ほかのものもその構造で動いていることが論理的に証明できたりもする。それがコンテンツになる。

これはまぎれもなく搾取である。ただ搾取された本人が気付いていないだけだ。

今日、学級経営に悩むある教師の質問に応えているうちに次々に発見が生まれた。帰り道、その発見の数々に高揚しながら、こんなことを考えたのだった。

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第1回学級づくりプログレッシブセミナー

1回学級づくりプログレッシブセミナー

プログレッシブ宣言…。

10回連続講座「学級づくりプログレッシブセミナー」

いよいよスタート。

新しい指導要領が実施される一方、現代は、これまで経験したことがないほどに、変化のスピードが加速し、複雑性が増し、多様性が高まっています。

んな時代を生き残るために、学び、考え続け、常に新しいものに挑戦していく、まさにアグレッシヴな教師のためのセミナーを企画しました。

具体的な場面や課題を想定し、1年間をアグレッシヴに取り組める年間10回の講座を道内屈指の実践家が企画しています。

今、新しいうねりが始まろうとしています。

第1回【学級びらき】

「始業式前夜、今何を考え、何を準備すべきか?」

会場:札幌市白石区民センター(集会室A

参加費:3000円各回参加費3000円。

 ※10回連続のお申し込みは20000円です。

申し込み:札幌市立厚別通小学校大野睦仁

     (メールorFAX)

     hugtheluv@gmail.com

     011-372-2300FAX)

チラシは、以下のサイトから見られます。

http://www.h7.dion.ne.jp/~kirahika/20110402progressive-a.pd

http://www.h7.dion.ne.jp/~kirahika/20110402progressive-b.pdf

09:00-09:10 受付

09:10-09:15 開会セレモニー

09:15-10:05 講座1/北広島市立大曲東小学校 山田洋一

始業式前夜、今何を考え、何を準備すべきか?~学級・学年経営の原理原則

             

10:05-10:15 休憩

10:15-11:15 講座2/札幌市立藻岩北小学校山口淳一/札幌市立藻岩小学校 高橋裕章

「出会いの3日間」はこうする!  

               

11:15-11:25 休憩

11:25-12:05 講座3/札幌市立厚別通小学校 大野睦仁

「組織づくりの7日間」はこう考える! 

              

12:05-12:55 昼食休憩

12:55-13:55 講座4/札幌市立南小学校 南山潤司/札幌市立上篠路中学校 山下 幸

「定着・安定の30日間」はこう見通す!

13:55-14:00 休憩

14:00-14:50 講座5/札幌市立北白石中学校 堀 裕嗣

始業式前夜、今教師に伝えたいこと~教師の「観」と「感」

              

14:50-15:00 休憩

15:00-16:00 講座6「ポスターセッション

3つのキーワード「チャレンジ(実践)」「おススメ(資料)」「気になっている こと(情報)」をもとに、4人の講師がわかれて、同時にプレゼンを始めます。参加者は、それぞれの講師のプレゼンを聞き、質問をします。このセッションを 4回します。/講師 山口淳一 山下 幸 大野睦仁 高橋裕章

16:00-16:10 休憩

16:10-16:55 「学びのシェアリング

1日の学びを小グループで共有化します。それを受けて、2人の指定討論者も交え て全体でも共有化を図ります。/指定討論者 山田洋一 南山潤司

16:55-17:00 閉会セレモニー

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こういう日もある

2組の担任が欠勤。2組の担任。授業は4時間。すべて試験前自習。空き時間は学年末テストの誤植を修正したあと印刷。袋詰め、試験監督者名を記入してロッカーへ。放課後は年度末反省の学年会。特にこれといったこともなく、送別会幹事の打ち合わせへ。その後、生徒指導事案が一件。退勤は19時。

仕事自体は特に忙しくなかったものの、いや、むしろ退屈な時間が長かったにもかかわらず、なんとなく時間に縛られた一日。こういう日もある。

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第32回教師力BRUSH-UPセミナーin札幌

第32回教師力BRUSH-UPセミナーin札幌

さあ年度末!サクサク進める年度末の「評価・評定のウラ技」

子どもに語れる担任にならなくちゃ~修了式後・卒業式後・最終学活で何を語るか

日 時:平成23年2月19日(土)

場 所:札幌市白石区民センター(予定)

後 援:北海道教育委員会/札幌市教育委員会

参加費:3000円

【プログラム】

09:10~09:15 開会セレモニー

09:15~09:45 年度末・評価評定をサクサク進めるウラ技・1/大野睦仁

09:45~10:15 年度末・評価評定をサクサク進めるウラ技・2/加藤恭子

10:15~10:45 年度末・評価評定をサクサク進めるウラ技・3/高橋裕章

11:00~11:45 グループ・ワーク/司会:堀 裕嗣

11:45~12:30 若手教師・超ベテランからのコメント/水戸ちひろ・細山崇・大谷和明・南山潤司

昼食・休憩

13:30~14:15 特別な支援を要する子を見取る手立て/柏葉恭延

14:15~15:00 通知表所見を書くための見取りの手立て/山田洋一

15:00~15:50 子どもに〈語れる〉教師になろう・1(10分×5)

 再現!年度末・最終学活で何を語ったか・1/太田充紀(小学校低学年)

 再現!年度末・最終学活で何を語ったか・2/齋藤佳太(小学校中学年)

 再現!年度末・最終学活で何を語ったか・3/山田洋一(小学校高学年)

 再現!年度末・最終学活で何を語ったか・4/小林 智(中学校1学年)

 再現!年度末・最終学活で何を語ったか・5/山下 幸(中学校卒業学活)

16:00~16:45 グループ・ワーク/司会:大野睦仁

 コメンテーター:大谷和明・南山潤司・堀 裕嗣

【問い合わせ・申し込み先】

札幌市立厚別通小学校 大野睦仁

EメールかFAXにて、学校名とお名前をお伝えください。

011-372-2300

hugtheluv@gmail.com

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公平性の担保された校務組織

今日、職員会議に校務組織検討委員会による校務組織改編原案が議題として出された。先日のブログにも書いたが、昨年度の年度末反省でぼくが提案し、特別委員会で検討された後に出てきたものである。

結論から言えば、ぼくから見てかなり練られた原案が出てきた。見事な提案と言っても良い。ほぼ何も不満がない。

何と言っても、仕事の公平性を担保しようという意志がはっきりと見て取れる。担任をもつ者の分掌と担任外の分掌とがしっかりと分けられている。簡単に言えば、次年度から担任をもつか分掌の部長をやるかという選択になるのである。期限付き採用があった場合のために幾つか部長職でない担任外の仕事も用意されているが、それも生徒会事務局とか庶務部管理係とか、そう楽な仕事なわけではない。

部長職以外の担任外は、教務の年間計画・行事計画係で一人、教務の学習・学籍・教科書・ワーク・副読本で一人、進路指導主事、生徒指導係が各学年に一人ずつ(これも生徒指導主事と特別支援コーディネーターと教護係である)、そして放送係と図書係である。しかもこれらにはPTAの事務局や会計、各部担当がついてくるという念の入れようである。これが実現すれば、おそらくだれからも文句が出ない。少なくとも不公平感に対する文句は一切出ないだろう。

あとはやったことのない仕事が当たった者、病気休職経験者、小さい子どものいるお母さん先生といった人たちに対するフォロー体制をどう組むかである。原則的な校務組織ができていれば、あとは運用の問題であるから、大きなトラブルなく仕事を進めていけるだろう。

正直、こういう仕事の公平性の概念は、これまで経験してきた学校には一切なかった。必ず、「ええ?なんで?」というような楽なポジションの人間がいた。例えば、副担・給食委員会とか副担・研修部サブといったような。それがまともに働く者の精神的ストレスとなっていた側面があった。

次年度の勤務校に、そして校長の校内人事に、大きく期待している(笑)。

※沢田研二の「A.B.C.D.」を聴きながら……。

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沢田研二/1982

全曲井上陽水の提供。先日の「人生のトップテン」には入れられなかったが、かなり完成度の高いアルバム。かなりの楽曲が重なっている陽水の「LION & PELICAN」と聴き比べるとなお良い。陽水のボーカルも味があるけれど、「ああ、沢田研二ってほんとうにうまいんだなあ……」って思える。

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「できる教師」たちのパンク

学年末テストが完成した。あとは組んでいる先生のチェックを受けて、明日には印刷、という流れである。国語のテストは金曜日だから、割と余裕がある。

夕方、同僚と打ち合わせという名の談笑をして18時30分頃に職員室に戻ると、若い先生方が学年末テストをつくっている。若いということは若いというだけで大変である。テスト一つつくるにも時間がかかる。時間をかけてやったのに先輩教師にダメ出しされる。まさに先輩教師にダメ出しをされている真っ最中の若者もいた。

帰り道、ぼくは運転をしながら自分が若かった頃のことを思い浮かべていた。ぼくにはテスト問題で先輩教師にダメ出しをされたという記憶がない。別にぼくが優れていたからではなく、おそらく堀にダメ出しすると反論される……というイメージが先輩教師にあったのだろうと思い当たる。反論されていやな思いをするくらいなら、或いは反論されて面倒なことになるのなら、このまま通して自分の方が対応しよう、先輩教師はそう思ったに違いない。

いま、ぼくはテストづくりにかける時間がたぶん空き時間4時間くらいだ。それも同じ学年を組んでいる国語教師と50点ずつ、半分ずつつくっているからこのくらいかかるのである。まず二人で50点ずつ問題をつくり、それを見合う。テキストファイルでもらい、ぼくが二つの問題を合わせて問題用紙をつくる。組んでいる先生はMACなので、これが少々面倒くさい。問題用紙ができたら、今度は解答用紙である。解答用紙ができたら、今度は模範解答。これが終わるまでにだいたい4時間弱くらいなのである。

上篠路時代、ぼくが一人で一つの学年をもっていたときには、おそらく試験問題づくりは2時間程度だったと思う。もちろん、100点分を一人でつくってである。ぼくと背中合わせで座っていた、英語のあるベテラン女性教師が「堀さん、もうできたの?」と目をまるくしていたことがある。「本当に仕事早いわねえ。」と。「ええ。拙速を信条としていますから。」と笑って応えた記憶がある。2005年のことである。

ぼくはいま、教材データファイルから文書を取り込み、出題範囲を決めた途端、それを眺めているだけで次々に問題が浮かんでくる。すぐにワープロを打ち始める。問1~2は言語事項の問題である。問1は簡単だが、問2はちょっとだけひねる。問3と問4は出題範囲全文を相手にする問題である。構成を問う問題とか登場人物を問う問題とか会話文を仕分ける問題だとか、そういうやつだ。問5と問6は中身を問う。基本的に20字以内で答えられるような書き抜きか、書き抜きに毛の生えたような問題である。指示語などはこの問題の部類として出題する。問7は選択肢問題である。ワークの問題を少しだけひねる。問8は40~60字の記述問題である。これを2問出すこともある。こういう基本形式が既に血肉化されているので、形式的にはまず迷うということがない。こういう基本形式に従って出題すれば、20点配点や30点配点の問題ならすぐにできてしまう。ものの10分である。長くても15分だ。

いつ頃からこういうことができるようになったかといえば、おそらく90年代の後半くらいからである。もしかしたら、半ばだったかもしれない。なぜこういうことができるようになったかといえば、それはもう間違いなく「研究集団ことのは」の例会のおかげである。それも森寛と對馬義幸のおかげである。森は塾講師をやっていた関係でずいぶんと入試問題傾向に明るかった。對馬は周りが驚くような独自のこだわりで1回のテストに2問程度、メンバーが驚くような問題を開発していた。そしてそういう例会がテストの度に行われていたのである。ぼくは二人から出題原理を盗み、自らの血とし肉としてきたのである。そういうことだ。

定期テストの採点も早い。採点基準がぼくの中では既に出来上がってしまっている。そのテストの採点基準がではない。国語のテストというものの採点基準がである。こういう場合にはこう判断する。こういう場合には思い切って割り切る。そういう採点基準がぼくの中に血肉化されている。この原理は森から教わったものだ。正確にいえば、森から教わったものに、少しだけぼくのこだわりをミックスしたものだ。その結果、ぼくの定期テストの採点は4クラスなら空き時間2時間で終わる。

なぜ、こんなことを長々と書くのかといえば、今日、次のような文章を目にしたからだ。

学校もまたしかり。公立学校(小・中・高)の教師の病気休職者の六割以上が「うつ病」をはじめとする「心の病」という調査結果を文部科学省が公表しているが、その背景には、やはり職場の荒廃がある。書類の量が格段に増え、問題児童やモンスター・ペアレンツへの対応に追われる教師たちの窮状は、聞きしに勝る壮絶さだ。忙しさのあまり教師同士が気軽に話し合える環境を作るのも難しく、一方で校長や教頭などの管理職には事なかれ主義が蔓延しているので、困難に立ち向かわねばならない教師はまさに孤立無援の状態である。その結果、八方塞がりの状況に追い込まれた教師たちが「うつ」になって我々精神科医のもとにやってくるのである。〈『無差別殺人の精神分析』片田珠美・新潮選書・2009年5月・196頁〉

非常にわかりやすい議論である。きっと著者の診療を受けた教師がこういうことを言ったのだろう。しかし、現場も知らない、教師の職業意識や教師の職能意識の実態も知らない精神科医が、このように簡単に断定してしまえる社会にも、ある種の病理が宿っているような気がするのである。

ぼくは正直に言うと、現在程度の事務仕事の量で事務仕事が多すぎると言っている教師は、自らの職能を鍛えてこなかった怠惰な教師だと思っている。もちろん、若手教師のことではない。毎年毎年同じことをしてきたベテラン教師が、例えば20年選手が、いまだにテストをつくる度に何日もそれに集中しないとできないというのでは、それは「理解してもらう」よりもまず「批判される」べきではないだろうか。その教師が仕事の遅い分、確実に自らを鍛え、成長し、職能を身に付けている教師がその仕事をかぶっているのである。そしてそうい教師はまず間違いなく若手教師の仕事もかぶり、若手教師の教育係をも担っているのである。ぼくが今後怖れるのは、そういう「できる教師」たちのパンクである。

もちろん、「できない教師」に冷たくしろと言っているわけではない。ただ、現在、学校教育は「できる教師」に対する視点があまりにも欠落している。彼らがパンクし、鬱になるものが増えれば、まず間違いなく学校というシステム自体がパンクしてしまう。そう思えてならないのだ。

マスコミは、社会は「弱者を救え」という。しかし、その一方的な叫びが「強者をも弱者に陥らせる」という構造をだれも指摘しない。そして強者がパンクしたら、それを支える者がいなくなるのだという、そこへの想像力が欠落している。いま、多くの学校が陥っている病の一つであるように思う。

それは優秀な教員に少しばかりの昇給を保障するような、競争を煽るような方向性で進めるべきではない。それはよけいに強者をプレッシャーの中に追い込むだけである。強者にこそ心のゆとりをもたせる必要がある。ぼくは心の底からそう感じている。

誤解されるとまずいのでひと言添えておけば、これは、現在の学校教育事情の中でも笑って仕事をしているようなトップクラスの強者のことではなく、「第二集団に位置する強者」のことである。

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そういうものなのだ

1・2時間目が空き時間。1時間は自習監督。この2時間で学年末テストの問題用紙、解答用紙、模範解答を作成。3~5時間目は試験前自習。ワークのコピーを配布し、生徒たちの質問に答えながらなごやかに。完全下校。放課後は職員会議。進級認定、卒業式、校務組織改編、校舎改築中の行事検討……。議論白熱。よく1時間半で終わったものである。その後、同僚と打ち合わせ。帰宅は19時近く。

2年3組の欠席が落ち着いてきたと思ったら、今度は5組が欠席と早退をあわせて7名。おいおい、明後日テストだぞ。どうなるんだろう……。まあ、なるようになるといえば、なるようになるのだが。

職員会議がすこぶる面白かった。日常的に和気藹々としている同僚たちが何にこだわりをもっているのかがよくわかる会議だった。こういう会議はおもしろい。それでも結果は落ち着くところに落ち着いていく。そういうものなのだ。

※元ちとせの「ワダツミの木」を聴きながら……。

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元ちとせ/Maxi/2002

この曲を聴いても、名盤「コトノハ」を聴いても、元ちとせってすごいなぁと同時に、上田現ってすごいなぁ……と心の底から思う。これだけ元ちとせの長所を完璧に引き出しつつ、こんな名曲に仕上げてしまう。曲も詩も。並みの才能ではない。いつもそう思う。

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発問・指示・説明

古くから教師の指導言の王道は〈発問〉だと言われてきました。素晴らしい発問をつくることが教材研究の王道であり、素晴らしい発問さえつくれば子どもたちは必然的に思考を始めるというわけです。従って、長く発問研究の本がたくさん出されてきましたし、著名な実践家の優れた発問もずいぶんと追試されてきました。

しかし、この発想は基本的に間違っています。

言うまでもなく、教師の指導言には〈発問〉と〈指示〉と〈説明〉の三つがあります(『授業づくり上達法』『発問上達法』大西忠治・民衆社)。原則として、〈発問〉とは子どもの思考に働きかける指導言であり、〈指示〉とは子どもの行動に働きかける指導言であり、〈説明〉とは授業のフレームをつくる指導言です。つまり、〈説明〉は〈発問〉や〈指示〉の前提となる指導言であり、〈説明〉なくしては〈発問〉も〈指示〉もあり得ないのです。

こう考えてみましょう。〈発問〉や〈指示〉のない授業は想像できますが、〈説明〉のない授業は想像できません。例えば、文法の学習において主語と述語の関係を説明することなしに、「この文の主語・述語は何ですか」という発問は成立しません。何をどのように書くのかという説明なしに「ノートに書きなさい」という指示も成立しません。授業において最も大切なのは、〈発問〉でも〈指示〉でもなく、〈説明〉なのです。

よく研究授業を参観したときに、教師の発問が子どもたちによく伝わらず、子どもたちが首をかしげているのを見た教師が何度も言い直しているのを見ます。「どっちがふさわしいと思いますか」と発問したときに、その「どっち」の対象となっているAとBとが子どもたちに把握されていないために、授業に混乱を来しているというような場面です。この場合、混乱の原因は「どっちがふさわしいと思いますか」という〈発問〉の文言にあるのではありません。そうではなく、この〈発問〉をする前段階の指導言、つまりこの〈発問〉の前提となっているAとBとを理解させる〈説明〉が不適切であったために、子どもたちに選択肢が理解されていないことが原因なのです。子どもたちが何を訊かれているのかわからないという表情をするとき、多くの場合、それは前提となっている事柄の共通理解が図られていないことに要因があるのです。教師はそれを何度も言い直しているわけです。

誤解を怖れずに言えば、〈発問〉などというものは「なぜですか?」「どのようにしましたか」「だれですか」「いつですか」「どこですか」「何ですか」といった5W1Hが基本としてできるものに過ぎないのです。〈発問〉とは「問い」を「発する」ことですから、基本的には日本語の問い形を超えて成立することはあり得ません。せいぜい「どっちですか」「いつからいつまでですか」「どこからどこまで移動しましたか」といった、5W1Hの組み合わせのバリエーションがある程度なのです。授業を混乱させないためには、その〈発問〉の前提となっている事柄がきちんと学級全体に共有化された状態になっていることなのです。その事柄の〈説明〉が的確になされたか、子どもたちに落ちているか、そこにこそ〈発問〉の成否、その〈発問〉が機能するか否かのポイントがあるのです。

〈指示〉にも同様のことがいえます。「新学力感」から「ゆとり教育」への活動型授業の隆盛によって、国語科に授業おいても〈指示〉の重要性が意識されるようになりました。「三度読みなさい」「ノートに書きなさい」「指摘しなさい」といった従来型の〈指示〉に加えて、「話し合いなさい」「交流しなさい」「結論を一つにまとめなさい」「グループで調べなさい」「わかりやすく説明しなさい」など、小集団を使っての協働学習に取り組ませる〈指示〉が多くなっているのが近年の特徴といえます。しかし、こうした〈指示〉にも、まず例外なくその方法の説明、つまり「話し合い方」「交流の仕方」「調べ方」「説明の仕方」といったやり方が説明されているはずなのです。この方法の〈説明〉が不的確であった場合、その協働学習は混乱します。この方法の〈説明〉が的確になされたか、子どもたちに落ちているか、そこにこそ〈指示〉の成否、その〈指示〉が機能するか否かのポイントがあるのです。

私たち教師がまずもって身につけなければならないのは的確な〈説明〉の在り方なのです。短く明快に説明できることこそが、授業の成否にとって、子どもたちの学力形成にとって最も重要なポイントなのです。

ある授業において、次のような指導言があったとしましょう。

このとき、アキコは「うれしい」とか「楽しい」とかいう「プラスの感情」を抱いたでしょうか、それとも「悲しい」とか「悔しい」とかいう「マイナスの感情」を抱いたでしょうか、これに対してみんなは両方あるって言うんだね。(子どもたちを見渡して)それじゃあ、もっと突っ込んで訊くよ。「プラスの感情」と「マイナスの感情」では、どちらかというとどちらが大きいだろうか。ノートに「プラス」か「マイナス」とどちらかを書いて、その下に理由を「~だから」という形で一文で書きなさい。

この指導言において、〈発問〉は「『プラスの感情』と『マイナスの感情』では、どちらかというとどちらが大きいだろうか。」という一文だけです。また、「ノートに『プラス』か『マイナス』とどちらかを書いて、その下に理由を『~だから』という形で一文で書きなさい。」というのが〈指示〉に当たります。しかし、この指導言を機能させているのは、決してこの〈発問〉と〈指示〉ではありません。これまでの授業内容をまとめて「プラス」と「マイナス」の両方があるのだという確認、そして「それじゃあ、もっと突っ込んで訊くよ。」という今後の進んでいく授業の展望の確認、この二つこそがこの指導言の核なのです。そしてこの二つは、言うまでもなく、授業のフレームを構築する機能をもっている、即ち〈説明〉なのです。私たち教師は、自分が発している指導言の一つ一つについてこのようにな細かく分析する必要があるのではないでしょうか。

さて、指導言を考える上で、もう一つ注意しなければならないことがあります。それは指導言というものがコンテクストに支配されやすい側面をもっているという点です。コンテクストとはテクスト外という意味ですが、ここでは指導言の文言以外の情報や空気と考えるとわかりやすいでしょう。つまり、その指導言が発せられる教室環境や、その指導言を発する教師と子どもたちとの人間関係の影響を受けやすい、ということです。

読者の皆さんにこういう経験はないでしょうか。四月に新しい学級を受け持ちます。前の学級でしたのと同じ説明をしているはずなのにいま一つ通じない、やたらと細かなことを質問される、それに応えているうちに時間が過ぎてしまう、前の学級よりもこの子たちは理解力が低いのかなあ……と感じる、こんな例です。

こうした現象が起こるのは、決して新しく受け持った子どもたちの理解力が低いからではありません。前の学級の子どもたちはもう一年近くもあなたのものの言い方、考え方、指導言の在り方に慣れてしまっていたために、必要以上に説明しなくてもツーカーで理解してくれていたのです。少々厳しくいえば、あなたの授業はあなたの授業に慣れた子どもたちに甘えることによって成立していたのです。こうした現象を勘違いして、「今年の子どもたちは……」と感じてしまう事例は殊の外多く見られます。ぜひ心構えとして持っておきたい事柄です。

研究会で模擬授業や講座の登壇機会を多くもつ人たちはこの構造を熟知しています。だからだれにでも伝わる、わかりやすい指導言を発することができるのです。皆さんもたまには他学級で授業をしてみて、自分の指導言が通じるか否かを点検してみると良いでしょう。

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全力で取り組む

万引き:女性教諭、容疑で書類送検-江迎署/長崎

江迎署は10日、佐世保市内の公立小学校の女性教諭(51)を窃盗容疑で地検佐世保支部に書類送検した。/送検容疑は1月18日午後6時ごろ、佐々町内の大型量販店で、持参したバッグに衣類など32点(約1万3000円相当)を入れて、精算せずに店外へ出て万引きしたとしている。目撃した警備員に店外で呼び止められた。同署によると、女性教諭は容疑を認め「出来心でやった」と話している。事件当時、万引きした品物を買えるだけの所持金があったという。/中島正大・同市教委学校教育課長は「県教委に『相当の処分』をお願いした。再発防止に全力で取り組む」と話した。市教委は相次ぐ不祥事を受け、先月末、防止マニュアル書などを各校長に配り再発防止を呼び掛けた。〈毎日新聞/長崎版〉

この新聞記事もそうなのだが、公務員の不祥事があるとお役所は必ず「再発防止に全力で取り組む」と言う。いじめ自殺の訴えとか体罰とか、学校の教育活動に直接的に関わることで「再発防止に全力で取り組む」ならわからなくもみないのだが、教諭の万引き事件に対する全力で取り組む再発防止とは、いったいどのようなものなのだろうか。

たぶん学校教育部長とか教育次長が前校長を集めて指導し、それを受けて各学校で服務規程が全職員に再度配布され、臨時の職員会議を開いて校長から指導する、というよくあることを指しているのだろう。しかしそれは果たして「全力で取り組む」なのだろうか。服務規程など毎年配られているものだし、ほとんどの教員は万引きなどしない。21世紀になって万引きで捕まった札幌市内の教師は、ぼくの記憶では一人だけである。捕まっていない事案がもしかしたら1件か2件あるのかもしれないが、おそらく実態としての万引き件数も多くてその程度だろうと思う。

中学生や高校生ならいざ知らず、教員は通常、というよりも少なくともまともに給料をもらっている公務員という太ぢはの人間は通常、万引きなんていう犯罪は犯さないものである。同僚が呑み会で「オレ、万引きしたさ」とか、「あの店は店主の監視が甘いから万引きしやすいぜ」などと言っているのを見たこともないし、そういう噂も聞いたことがない。それは教員のわいせつ事件よりももっと少ない、珍事中の珍事である。

そんな特殊な事案について「再発防止に全力で取り組む」と言う。全力で取り組まなくても、もっといえば放っておいても、そんな事件は再発しない。そもそも万引きできるような安いものなら、公務員は買える。給料日前で財布が軽かったとしても、そんなことで懲戒免職になる可能性を賭けて万引きしたりしない。そんな程度のもので、そんな軽微な犯罪(といっては申し訳ないが)を犯すほど、教員も馬鹿ではない。そういや札幌の万引きで逮捕された教員が盗んだのは、アフリカの珍しいインコとインドネシアの珍しいカメだった。両方あわせて20万円以上だったと記憶している。それでもみんな「馬鹿だなあ……」と言っていた。それなのに、今回は1万3千円である。こんなものはそうそう再発しない。

今回、佐世保市教委は「防止マニュアル書」というものを作って各校に配布したそうである。どのような中身なのか、とっても見てみたい。佐世保市教委のHPを見てみたが、さすがに載っていない。これを後悔して欲しいなあ……。「通達」じゃなくて「マニュアル」ってとこに興味がある。とっても興味がある。

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放課後をゆったりと過ごした

2組の担任が風邪でダウン。職員室にも風邪が流行ってきた。今日は一日、2組の担任である。

1時間目は空き時間。授業で使うプリントの印刷、学年末テストの手直し。2~3時間目は授業。5組で「方言と共通語」の授業をしたほかは試験前自習。5校時の学活も試験前自習。その間、ずっと事務仕事。

放課後はテスト前で完全下校。反省校務部会。他部・他学年から出された反省を検討する校務部会だが、生徒会部には何も出されていないので特になし。校務組織検討委員会から出された改革案の検討。校務部会は10分で終わる。その後、PC準備室にこもって事務仕事。17時からテスト打ち合わせ。テストの完成は明日に持ち越して、17時30分に学校を出る。

先週はインフルエンザと風邪の流行でやばいなと感じていたが、三連休が良かったようで今日は欠席者がそれほどいなかった。

テスト前完全下校で放課後をゆったりと過ごした。

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10年

5日の教室実践力セミナー、12日の累積国研と2週連続で痛飲した。両日ともにべろべろに酔った。双方ともにとても良い会で気分が高揚していたからだろう。おかげで先週も今週も日曜日はすっかり二日酔い。おまけに先週などは風邪までひいてしまった(笑)。

何が気分をよくさせたのかといえば、それはもう間違いなく、5日は藤原くんの講座が、12日は山寺くんの講座が良かったからだ。参加者のみなさんの中には、両講座とも堀さんがいうほどには良くなかったと思われる方がいらっしゃるかもしれない。しかし、ぼくが「良かった」と言っているのは、講座の出来云々のような小さな話ではない。

二つの講座がいわゆる「人真似」ではなく、提案者自身とそのコンテンツとが完全に一体化したものだったからだ。彼らのこれまで学んできたことが一つの形となって結実しようとしている。それが嬉しかったのである。

ぼくは大学を卒業して現場に出るとき、いまは亡き大学時代の師匠から「とにかく10年だ。10年はがむしゃらにやれ。10年がむしゃらにやり続ければお前のやることが形になる」という言葉で現場へと送り出された。1991年のことである。

ぼくの処女作が出たのは2001年の2月。これを書いたのは2000年の夏から秋にかけて。つまり、現場に出て、ちょうど10年後のことだったのである。

実は藤原くんと山寺くんもこういう活動をはじめて10年前後である。10年続けるとそれまでの仕事が形になってくるというのは、どうやら本当らしい。本になるか否かの話ではない。それまでの10年間でばらばらに実践されていたことがその人のなかでつながり始め、その人の核心的な問題意識を伴って具体的にその形状を表し始めるのである。

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学級づくりプログレッシヴセミナーin札幌

山田洋一・大野睦仁・南山潤司・高橋裕章・山口淳一というメンバーで、「学級づくりプログレッシヴセミナー」という10回連続講座を行うことになった。言ってみれば、一昨年の「中学校学級経営セミナセミナー・10回連続講座」の小学校版である。

ぼくと山下くんは1年間、この企画のお手伝いをさせていただくことになっている。

場所は1年間、白石区民センターを使う予定。参加費は各回3000円。10回連続講座をまとめてお申し込みいただくと、20000円である。10回のうち7回は出られるというのであれば、10回連続で申し込んだ方がお得です……というわけだ。

日程は以下の通り。

4/2(土) プログレッシヴ宣言「学級開き」

4/23(土) 運動会指導の技術/学級経営1ヶ月チェックリスト

6/11(土) 授業づくり/小学校英語

7/9(土) 夏休みの研修/学習発表会企画づくり

8/20(土) 夏休みのたるみを向上させる担任のネタ

9/3(土) 評価の技術/学習発表会ネタ

9/23(土) 保護者対応/仕事術

11/5(土) クラスを盛り上げる手品・実験・版画・ファシリテーション

12/10(土) 3学期の授業~年度末を意識した授業づくり

2/18(土) 年度末に語る担任の言葉/学年末評価の技術

お申し込み/問い合わせは大野さんまで。メールはこちら。FAXは011-372-2300。

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山寺提案の作文指導史上の意味

昨日の累積国研。山寺くんの提案を聴いていて、改めて研究とはこういうものだとの認識を深くした。時流に乗ったポッと出の提案ではなく、自らの問題意識に従って一歩一歩階段を昇っていく、そういう提案の在り方である。

こういう研究会は、模擬授業にしても講座にしても、基本的にその日1回きりの参加者でもわかるようにと、〈一話完結型〉とでもいうべきネタ主義、パッケージ化主義に陥りがちである。その日のウケは良いものの、その後につながる研究提案にはなかなかならない、息の長い研究にはなっていかない、そういう傾向がある。

その点、山寺くんはの提案には派手さはないものの、提案内容には今後体系化していく全体像イメージがちゃんとあり、現在の提案がそのどこに位置づけられ、何を明らかにしようとしているのかということがしっかりと意識されている。と同時にこの研究会でもらった感想・意見・批判を次の段階に活かしていこうとする視点もかなり強く意識されている。全体地図を常に意識しながら、一本一本の等高線をしっかり調べながら描いている。そんなイメージである。

ぼくはこの山寺くんの作文指導法研究は数年後にかなり大々的に評価されるものになっていくと確信している。こういう私的な、民間研究会だけでなく、全国大学国語教育学会とか、教育方法学会とか、そういう場にも積極的に提案していくべき研究である。あとは手法の開発だけでなく、実践データを確実に収集し分析していくことだろう。

大谷さんは秋に、山寺提案を目にして「非常にセンスがいい」と評した。しかし、山寺提案は「センスがいい」という類のものではないように思う。もっと山寺くんの問題意識の根幹から出てきた、「豊かな実践手法」というタイプに見えながら、実は「確かな実践手法」というタイプの、作文指導の歴史の一番弱いところを突いた、作文指導の在り方に一石を投じる革命的な大提案である。「センスがいい」というような評価はむしろ、藤原くんの「FG研究」に見られるような時流と本人の資質とを融合した提案に対して評する言葉であろう。

いずれにせよ、山寺くんの研究を促進し、彼が深めていくのと同時に、ぼくらは彼が多視点から広い視野で見られるように発展型を次々に開発して提示することに取り組んでいこうと思う。今回の山寺提案の手法は、作文指導に閉じられるべき手法ではない。みんなこの、無意識のうちに学び合いが起こり、お互いの表現がお互いのモデルとして機能し合う〈発想・着想〉の授業の在り方を模索してきたのである。

もちろんいくつもその成果は発表されてきたが、すべてがあまりにも大きなパッケージとして提案されたたために普及しない実践ばかりだった。この方向の研究は、いかに気軽に、簡単に、だれでも取り組むことができるような、応用範囲が高く汎用性も高いとだれもが実感できるような提案が待たれていたのである。山寺くんの研究にはそれを解決する可能性がある。

ぼくが山寺くんの提案を高く評価するのは、まさにこの点なのである。

山寺くんはある意味頑固である意味難しい男でもあるのだが(笑)、その頑固さと難しさとをつくり出している彼特有の〈こだわり〉が、10年以上の実践経験を得ていままとまろうとしているのであり、花開こうとしている。ぼくにはそう見える。

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「第27回・累積国研」終了

有意義な会だった。31名の参加者。5つの提案。提案者の研究のそれぞれが確実に一歩ずつ前進していることを確かめられた、そんな会だった。

以下、参加者の感想である。

【模擬授業1/山田洋一】

書きやすいワークシートでよかった。すぐ子どもたちとやってみたいと思います。

ワークシートに沿って書くことができるので、とても書きやすかったです。今度違う題材を使って挑戦したいと思いました。

教材も面白く、最初のいじりも参考にしたい思いました。

花言葉をオチにして文章を考えるのは、思ったよりも難しく、それ以上にとても楽しかったです。「理由は?」と訊かれるのではなく、「どんな人だからこの花」とワークシートが導いてくれるので書きやすかったです。

導入の仕方が「え?なんだろう?」という「?」からはじまり、とても楽しい授業だったと思います。花言葉をゴールにするのが面白かったです。

“花言葉に意味があること”と“手紙を書く相手がはっきりしていること”で書く意欲につながると思いました。また、相互評価をすることで、より良い文章を書けるようになりたいと、次へのモチベーションも上がると思いました。

学習活動の説明が明確でわかりやすく、活動時間(10分間)も適切であった。ワークシートも書きやすかった。先生自身の例文もユーモアたっぷりで、楽しく書くことができた。

安心して作業に取り組めました。型があったのと目標がわかりやすかったからだと思います。子ども達は誰に贈るのか、試してみたいと思いました。

「ゴール」のお話、大変納得しました。すごく子どもたちにとって書きやすく楽しい作文指導だと思いました。

テンポがとても良く、楽しく、そして集中することができました。すぐに使えそうなプリントで、実に実用性があります。プライベートでも使いたいとも思いました(笑)。

花と花言葉を組み合わせて書くのが、とても面白いと思いました。相手を選ぶのか、花を選ぶのか、先に選ぶもので中身が変わってくるのかと思いました。

目的がはっきりしていると、作文は書きやすいんだなと体験できる授業でした。手紙ということですが、“手紙の書き方”の指導はこの学習であまり意識していないのでしょうか。

贈りたい相手を決めさせ、花を選択する手順がとても書きやすいです。限定させることが書きやすさにつながることを学びました。

突然当たってしまって緊張しましたが、花言葉から手紙を書くという方法がおもしろかったです。初めの例(奥さんの話)もおもしろかった。

【模擬授業2/小林 智】

書けない子に対するパターンの提示としては、わかりやすかったと思いました。キラッと光るキャッチフレーズをまずは自分が考えたいと思います。

時間をかける、トレーニングが重なれば書きやすいものでした。気になったのは、縦書きの板書に対して横書きのワークシートの形式です。

誰かに自分の好きなものをお勧めする機会というのはなかなかないので、好きな理由を考える機会にもなりました。書き形を決めてもらうと書きやすいと実感しました。

自分の好きなものをおすすめすることで、生徒同士のコミュニケーションにもつながってくるのが良いなと思いました。自分のマッピングを完成させたいと思います。

おすすめの紹介文は、自由度が高く、書きやすかったです。おすすめマップの活用法も、少しでも良かったので実際にやっていただきたかったです。

キャツチコピーを活用したオススメ作文は、子どもの実態に合わせて、色々な題材を発掘できそうだと思った。ex)オススメのおかし、インターネットのニュースのタイトルなど……。

この作文を書く課題感(何を目指して書くの?やってみたいな、できそうだな)がややわかりにくかった。先生のモデルをなぞっていいのか、全く関係ないのか、当初困惑した感じがありました。

私は例文がとても参考になると思いました。楽しく、しかも内容がよく伝わるもので、まねして書く参考になりました。

人に何かをお勧めするための定型文として、模擬授業1のようなシートを作って、繰り返し使っても良いと思いました。

例示してもらった作文のおかげで難なく取り組めました。お勧めの作文は実践してみようと思いました。

「自分のおすすめ」というテーマも、書きやすいテーマで良かったです。ただたくさんあり選出に困るのかなと思いました。それとキャッチコピーと本文、どたらを大切に書けばいいのか、迷った部分がありました。

今回の小林先生の授業も引き込まれました。モデルを提示し、書けない子どもも意識されていました。その後、グループで発信するのもよかったです。

中学生くらいになると、ナンバリングやラベリングを塚つてパパッと書くことができるのでしようね。私は最後まで書けなくて残念でしたが。

【研究協議】

研究協議なので、もっともっと時間が長く設定されていると良かったです。もう少し入りこんだ話しを聞きたかったです。

様々な先生方の、様々な視点からのお話を聞くことができて、勉強になりました。一つの授業をつくるのに、たくさんの技法が使われていて驚きました。

先生方の授業に対する考え方や指定討論者の先生方の感想やアドバイスを聞くことができ、とても勉強になりました。

個人での気付き、それ以外のことも、グループ交流、指定討論者からの助言を通して、より明確な言葉で整理してもらえた。

学びの振り返りとしてよい時間であったと思います。

いろいろな人の考えをいろいろな方向から聞くのは大変勉強になりました。

良い点・悪い点を様々な観点から指定討論者の方々がお話下さり、参考になりました。多様な視点をもつことが大切ですね。

「ゴールを定めてから」というのが非常に納得しました。とにかくゴールを定めるというのを取り入れようと思います。

“ゴールを定める”は作文だけではなく、いろいろな教科で生かしていけると思いました。

指導事項が先か意欲が先かという観点を学ばせてもらいました。花言葉の中に整合性が隠されていて、書きやすさにつながっているのを感じました。

いろいろな方の考え方が聞けて楽しかったです。ゴールが見えていると、確かに書きやすいと思いました。目から鱗が落ちました。

【講座1/山口淳一】

理科の観察について、私も実践したいと思いました。子供にも読み取りからの絵を描かせたいです。

社会科は想像での作文だったのですぐに書けませんでした。理科は面白かったです。

小学校ならではの合科の授業について知ることができ、興味深かったです。与謝野晶子の詩についても初めて知ることばかりでした。

与謝野晶子の詩が、AとBあるのを知らずびっくりしました。そのびっくりから、深く考えることにもつながっていくのだなと実感することができました。

理科では、観察してわかったことを、詳しく、誰が読んでもイメージできるように文章を書くことは、まつに“書く力”だなと思いました。

理科のワークシートを使った学習は、逆転の発想で、とても良い学習だと思った。一度観察文から絵を描かせると、次に観察文を書く際によりよく見ようとすると思う。

“書くこと”が他教科でも考えや意見をまとめることが有効であり、活かすことができるというか、活かそうとという意識をもった方がよいと思いました。

書くことがはっきりして書き方がガイドされていて、楽しく書けました。子どもたちが書けることを意識された楽しい授業でした。

悪い例?を提示することで何が足りないのか、どう書けば良いのか、考えさせることができると思い、実践しようと思います。社会は少し難しいので、学習の最後のまとめに使えるかと。

国語でしっかり作文指導ができていないと、書くこと焦点化したり、「たしかに~しかし~」構文を書いたりすることはできないので、国語の作文指導を意識しようと思います。

他教科でも作文指導を取り入れていけることがわかりました。是非、挑戦してみたいと思います。

社会のワークシートで立場を決めて書かせるので、とても書きやすかったです。アブラムシのワークシートは不足を具体化しなければならないという意欲から書くことができました。

理科と社会から文章を書くことについて工夫をすれば、あんなふうに指導をすることができるのですね。アブラムシを想像するのは……大変難しかったです(笑)。

【講座2/山寺 潤】

プレインライティング、とても面白かったです。ですが、あの単元はこのような意見交換をまとめとするのでしょうか。あの後、何を行うのでしょうか。最後を知りたかったです。

手法としては画期的だったと思いました。今後、自分のモノにしていきたいです。

頑張れば、あと考え方を変えてみれば、多くのアイディアが出せるものとわかりました。面白かったです。

ブレインライティングははじめてでしたが、面白かったです。全てのグループの考えを見ると、自分では思いつかない考えが多くあり、刺激を受けました。

白神山地の自然環境を守るアイディアはとても難しかったのですが、子どもたちにはスラスラ書けるのでしょうか。同じグループの人とペアで分類すると、同じアイディアになってしまうので、違うグループの人とペアになった方が考えが広がると思います。

ブレインライティングは体験する前は「全部埋まらないかも」と思ったが、実際にやると、達成感があった。また、ブロック法で、他グループの成果物を見たときに、自分のものの見方の狭さを実感した。交流は大事。

難しそうと初めは感じたが、やってみると思考する上でグループメンバーの力を上手に借りることができ、アイディアが広がったり深まったりしたと思います。

ブレインライティング 初めて経験しました。やっているうちにどんどんアイディアが出てくるところが面白かったです。

二つの手法、やったことはありましたが、細かなポイント、名称は知りませんでした。単調な作業の繰り返しで意欲を持続させる工夫が必要に感じました。

ブレインライティングを体験できてよかったです。作文以外の集材に使ってみようと思います。

集材と選材の方法がわかりました。この方法は慣れも必要ですね。ただ、ブレインストーミングでも多くの集材ができると思いますが、ブレインライティングの手法を選んだ意図が知りたいです。

自分の発想からなかなか抜けることができずにいましたが、全体シェアリングで様々な考えを知ることができました。

ブレインライティング、ブロック法を体験できておもしろかったです。この方法をどんな場面で、どのように使うのかが大事ですね。

【講座3/鹿内信善】

郡上八幡の作文では、写真を読み解くことの楽しさを知りました。子供の実態に合わせた教材を準備して行ってみたいと思います。

看図作文については、今回初めて知りました。楽しく勉強させてもらいました。

紹介ありがとうございました。とても勉強になりました。

難しかったですが、とても楽しかったです。議論も本当に有意義でした。

飛行機の離陸か着陸かというのは初めてでしたが、やはり看図作文は面白いです! もっともっと勉強したいと思いました。

鹿内先生の講座は、気付くといつも真剣に取り組んでいます。郡上八幡、おすすめされたわけではないのに行きたくなってしまいました。実践したいのですが、難しいんですよね……。

看図作文のおもしろさを十分に体感することができた。鹿内先生のあたたかさが伝わってくる講座で、先生自身も人に何かを伝えるということを楽しんでいるのだと表情を見ながら感じた。自分も子どもたちからそう見えるといいなと思いました。

こんなに興味をかきたてられるものとは想像していませんでした。もっと勉強したいです。

大変楽しく学ばせていただき、得した気分です。来て良かったと思う一日でした。また学ばせていただきたいです。本もぜひ読みたいと思います。

先生の本を購入し読んでいる最中なので、大変参考になりました。早々に読み終え、実践してみたいと思います。

書くことがたくさん集まっても、それらをうまく組み立てたり、構成したりするのが難しかったです。

「見る」ことが言語活動になるということがよく分かりました。鹿内先生はこれからやろうとしてたことをもう何年も先取りしていたのですね。

あいまいな写真から情報を変換して言葉を整理するのが楽しかった。発見する楽しみから文章構成する過程を学ばせていただきました。

看図作文を実際に鹿内先生の講座で体験することができ、よかったです。写真を読み解くのはおもしろいですね。

【その他】

とても勉強になりました。ありがとうございました。

参加させていただいて、本当に勉強になりました。どうもありがとうございました。

参加させていただきまして、本当にありがとうございました。

貴重な機会をいただき、ありがとうございました。

学びの多い講座、ありがとうございます。また、よろしくお願いいたします。

とても勉強になりました。作文指導は本当に大変ですが、今日の講座ではいろいろなヒントが聞けました。ありがとうございました。

学級懇談会についてのテーマがあつたら嬉しいです。

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研究会案内/2月

私に関係する2月の研究会をご案内させていただきます。札幌市内の研究会は3本だけ。しかもぼくがまとまった話をするのは5日(土)の研究会だけです。あとはコメンテーター。でも、どれもお勧めの研究会です。ご参加いただければ嬉しいです。

2011年2月5日(土)/第10回教室実践力セミナーin札幌「交流から議論へ」「議論から対話へ」「対話から生産へ」/言語活動を充実させる4つのアイテム/グループ・ディスカッション/ファシリテーション・グラフィック/ファシリテーション/ワールド・カフェ/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費:3000円/講師:岡山洋一・藤原友和・堀裕嗣・山下 幸/定員20名/終了しました

2011年2月12日(土)/第27回累積科学国語教育研究会in札幌作文指導で両立できてますか?意欲 と 技能~「書くことがない」「書き方がわからない」そんなセリフ、もう言わせない!/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費:3000円/講師:鹿内信善・山寺潤・山口淳一・山田洋一・小林智・大野睦仁・高橋裕章・堀裕嗣・南山潤司・山下幸/定員30名/終了しました

2011年2月19日(土)/第32回・教師力BRUSH-UPセミナーin札幌さあ年度末!サクサク進める年度末の評価・評定のウラ技/子どもに語れる担任にならなくちゃ~修了式後・卒業式後・最終学活で何を語るか/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費:3000円/講師:大野睦仁・加藤恭子・高橋裕章・水戸ちひろ・細山崇・大谷和明・南山潤司・柏葉恭延・山田洋一・太田充紀・齋藤佳太・小林智・山下幸・堀裕嗣/定員40名/終了しました

【その後の予定】

2011年3月26日(土)~27日(日)/第1回・中学校学級づくりセミナーin札幌中学校・学級経営の極意・決定版/札幌市コンベンションセンター2F207研修室/参加費:両日参加6000円・1日参加4000円/講師:池田修・桑原賢・堀裕嗣・桃崎剛寿・山下幸/定員60名

2011年4月2日(土)~3日(日)/第1回・中学校国語科授業づくりの原理・原則in札幌いまどきの生徒を授業にひきこむ~国語科授業づくりAtoZ/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費:両日参加5000円・1日参加3000円/講師:堀裕嗣・對馬義幸・山下幸・小林智・小木恵子・坂本奈央美・米田真琴/定員30名

2011年4月2日(土)/第1回・学級経営プログレッシヴ・セミナーin札幌/学級開き・授業開き/札幌市白石区民センター集会室A/参加費:3000円/講師:大野睦仁・高橋裕章・堀裕嗣・南山潤司・山口淳一・山下幸・山田洋一/定員40名/近日詳細

2011年4月3日(日)/第33回・教師力BRUSH-UPセミナーin札幌さあ新学期、『元気が出る4月!』をつくるには、これだ!~学びやすさ・教えやすさ・仕事のしやすさを考える1日~/札幌市白石区民センター視聴覚室/参加費:3000円/講師:大野睦仁・太田充紀・兒玉重嘉・斎藤佳太・高橋裕章・堀裕嗣・水戸ちひろ・南山潤司・山口淳一・山下幸・山本和彦/定員50名

2011年4月9日(土)/第1回・先生のためのとっておきセミナーin札幌学級担任が楽しくなる!5つのメソッド/札幌市白石区民センター1F多目的室(予定)/参加費:4000円・10日(日)と連日参加は両日で6000円/講師:赤坂真二・大野睦仁・堀裕嗣・山下幸・山田洋一/定員30名

2011年4月10日(日)/第2回・先生のためのとっておきセミナーin札幌できる教師は一日をこう動く!赤坂真二の一日をまるごと体験/札幌市白石区民センター1F多目的室(予定)/参加費:4000円・9日(土)と連日参加は両日で6000円・なお、この日は別途600円がお弁当代としてかかります。/講師:赤坂真二/定員30名

2011年4月24日(土)/第2回・学級経営プログレッシヴ・セミナーin札幌/学級開きから1ヶ月・チェックリスト/札幌市白石区民センター(予定)/参加費:3000円/講師:大野睦仁・高橋裕章・堀裕嗣・南山潤司・山口淳一・山下幸・山田洋一/定員50名/近日詳細

2011年5月7日(土)/第28回・累積科学国語教育研究会in札幌/全教科で考える!言語活動の充実/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費:3000円/講師:兒玉重嘉・堀裕嗣・山下幸(他・交渉中)/定員30名/近日詳細

2011年5月14日(土)/第2回・中学校学級づくりセミナーin名古屋中学校・学級経営の極意・決定版講師:石川晋・伊藤慶孝・神崎弘範・長瀬拓也・堀裕嗣・堀川真理・松久一道・桃崎剛寿/定員100名

2011年5月15日(日)/日本文学協会国語教育部会・5月拡大例会シンポジウム/魯迅「故郷」をめぐって/東京都立産業技術高等専門学校/堀裕嗣・田中実(他交渉中)/近日詳細

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子ども手当てからの天引き

子ども手当ての是非はあるにせよ、旅行的行事代金や教材費、給食費を子ども手当てから天引きできるということになれば、学校現場としてはありがたい。教員が借金取りのように請求の電話をかけ続けたり、まともに支払っている家庭が実質的に損をしたりといった状況はやはりおかしい。

ただ学校側もこれを機会に、ほんとうにその教材が必要なものなのかと一つ一つ検討したほうがいい。もしも全家庭から天引きされ、納入率が100%となったとしたら、すべての予算を0.95掛けで算出している学校予算は、少額ながら余剰金が出るはずである。無駄な支出をおさえ、徴収金を安くしていく検討も同時になされなければならない。

あまり必要感が感じられない教材をカットすることはもちろん、旅行的行事の必要性の議論ももう一度本格的になされるべきではないか。まあ、給食廃止が議論されたときも、給食があるからこそ生まれている産業との関連で論じられたことを思えば、修学旅行の廃止は観光業界にとっては大打撃だろうから、そう簡単な話ではないだろうが。しかし、参加しない生徒が年々増えていくなかで、旅行的行事はそろそろほんとうにその是非が議論されていい。

ぼくは別に修学旅行や宿泊体験学習をくたしてほしいと思ってはいない。しかし、学習指導要領に位置づけ、子ども手当てから天引きしていいという判断をするほどまでに、全国民に強制すべきことなのかどうかは一度議論される必要があると思う。

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明日は我が身だ

おもしろい記事が掲載された。今日の読売新聞の記事だ。

時間オーバーの給食、布に載せ食べさせる

島根県出雲市塩冶(えんや)小の男性教諭(58)が、給食を時間内に食べられなかった1年生児童たちに対し、おかずなどを食器から特製ランチョンマットに載せ替えて食べさせていたことがわかった。/男性教諭は「給食時間を過ぎて食器を返さなければならなかったが、完食させたかった。子どもの気持ちを考えない安易な指導で、後悔している」とし、校長と一緒に児童らに謝罪した。/同校などによると、男性教諭は昨年10月頃から10回以上、担任するクラスの児童25人のうち7人に、「食器を帰す時間だから」などと言って給食をマットに移して食べさせた。汁物は先に汁を飲ませて、具をマットに移させたことも数回あったという。/今月6日、保護者からの苦情で発覚。男性教諭と校長が7日朝、児童たちに謝罪し、8日夜に保護者会を開いて説明、謝罪をした。〈読売新聞/2011.02.11〉

もう一つ、昨年10月の産経新聞の記事。

「バカなんじゃないか」 小2担任が学級通信で児童を非難

大阪府箕面市の市立小学校で、2年生の担任の男性教諭(56)が、クラスメートをいじめたとする男児について「バカなんじゃないか」「相当な心の病を抱えているとしか言いようがない」などと、学級通信で非難していたことが25日、学校関係者への取材で分かった。学校側は、学級通信が保護者に渡ってからその内容を把握したといい、校長は「内容は許し難いことで、子供を傷つけ大変申し訳ない」と話している。/問題になっているのは、男性教諭が今月19日にクラスの子供たちに手渡し、自宅に持って帰らせた学級通信。タイトルは「SHORT HOPE」と付けられ、A4用紙4枚分の分量がある。/学校関係者によると、教諭の担当するクラスでは、特定の女児について、十数人が「○○菌」などと呼ぶなどのいじめが起きており、問題になっていた。/男性教諭は、中心になっているのは3人と指摘し、学級通信では「たった3名でクラスが崩壊させられることもある」と“危機感”を表明。今月15日には授業で事実確認を行い、いじめをやめるよう指導したことを紹介した。/しかし、授業から3日後の掃除の時間、このうち1人が女児が持とうとしたモップについて「このモップ持つと菌がつく」とはやしたてたとして、学級通信で「言葉は悪いがバカなんじゃないかと思う。或(あるい)は相当な心の病を抱えているとしか言いようがない」などと非難した。/箕面市教委によると、学校外への配布物については、校長が内容を確認してから配布するよう指導しているが、校長は今回の学級通信の内容について配布前には把握していなかった。/学校によると、男性教諭は「(いじめが)自分としては大変なことだから指導したいと思って書いたが、配布してから、まずい文章だと思った」と反省しているという。男性教諭は現在も担任を続けている。/学校は28日に、このクラスの保護者を対象に説明会を開き、校長と担任が謝罪する予定。〈産経新聞/2010.10.26〉

この二つの記事を読んで、「馬鹿な教師だなあ。もうちょっと考えろよ」と言うのは簡単である。確かに双方ともにぼくの感覚から見ても救いようのない馬鹿なことをやっている。しかし、給食を布に載せて食べさせた先生が58歳、学級通信に「バカなんじゃないか」と書いた先生が56歳であることを考えたとき、ぼくは複雑な気持ちになる。

この二人の先生の指導理念は、ベクトルとして間違っているわけではない。給食を完食させることも、いじめの中心的な加害者を叱るのも、どちらとも指導のベクトルとして間違ってはいない。要するに、その指導の〈目的〉については、細かく見れば例外は多々あろうが、基本的に国民的なコンセンサスのある指導目的である。

しかし、〈方法〉が悪い。悪すぎる。マスコミの餌食にしてくれとも言わんばかりの〈方法〉にら見える。

ところが、教師ならだれでも想像がつくことだが、この二人の先生はおそらく、最初からこの〈方法〉をとったのではあるまい。当初は子どもたちに優しく指導し、注意していたに違いないのである。しかしその指導がままならないとき、彼らの指導は少しずつエスカレートしていったのではないか。そしてそれが度を超える「マスコミの餌食にしてくれとも言わんばかりの〈方法〉」に行き着いたのではないか。ぼくにはそんなふうに想像される。

問題点は3つだ。

一つ目に、おそらくは指導の在り方が少しずつエスカレートしていったであろう期間の中で、まさに少しずつエスカレートしていく〈手法〉そのものに対するたがが、抵抗感が二人の先生の中で範囲が広がり、ゆるくなっていったであろうこと、である。この二人に限らず、人間とはそういうものである。

給食の布載せなんかはほかの子どもたちに対する見せしめ的な指導も兼ねていたであろうから、一度始めるとなかなかやめられない。最初は児童の嫌いな野菜とか、デザートの果物とか、その程度のものだったのだろうが、それがだんだんエスカレートしていく。毎日のことであるから、先生も子どももその状態になれていく。現象的には一般との感覚のズレがどんどん大きくなっていっているのに、当事者はそれに気づかない。勝手な想像に過ぎないが、おそらくそんなところだろう。

いじめ告発学級通信はもっと顕著である。おそらくいじめの報告を掲載した学級通信はこれが初めてではあるまい。これまでだって児童・保護者に考えてもらおうと、また抑止力として機能させようと、学級通信でこのいじめ事案を取り上げたことは何度かあるのに違いない。今回はその流れの中で、あまりにも3人の女子児童の動きがひどかったので、怒りにまかせて筆がすべってしまったのだろう。「言葉は悪いが」という注意書きが施されている点に、この先生の切迫した思いが表れている。勝手な想像に過ぎないが、おそらくそんなところだろう。

結局、人間は「空気」に流されて、判断基準も変わるのであり、時には判断基準が狂ってしまうことさえある、ということをこの二人の先生が熟知していたならば、起きなかった事件ともいえる。そういう意味では、同業者から見れば可愛そうな事例にも見えてくるというものだ。

二つ目に、ではなぜ、ここまでエスカレートしたかということである。二人は58歳と56歳。子どもとはもちろん、保護者ともかなりの年齢差がある。

特に、保護者世代には「完食指導」などというものに意義を認めぬ者がたくさんいるということを、おそらくこの先生は認識しておられなかったのではないか。実はぼくは今月末に上梓する学級経営本の中で、「もうそういう時代ではないのだから、完食指導はほどほどに」という内容に1頁を割いた。44歳のぼくでもこういう認識なのである。ましてや現在の小学校低学年の保護者は、平均すればぼくよりも10歳前後若いはずである。物心ついたときから豊かさの中に育った世代にとって、「完食指導」などというものはその意義を見いだせない古き学校文化に過ぎないのである。

実は「いじめ告発」にも同じ構造がある。個人名をあげて注意されたとき、子どもがよく「なぜ、自分だけが」ということがあるが、これと同じ心象は現在の三十代くらいまでの大人たちももっているのである。それが学級通信で指摘されたとあっては、保護者も黙っていないだろう。

当初は学級の女子児童の多くが荷担していたといういじめ。先生側から見れば、多くの子どもたちは先生の指導に従い、そういう振る舞いをやめたのだろう。だから、この先生にとって、もうその子たちは「許されるべき子どもたち」である。おそらく既にこだわりもない。自分の指導に従った良い子たちなのだから。

しかし、この3人は違った。指導したにもかかわらず、まだ先生の目の前でそういう振る舞いを見せたのである。いじめに荷担したけれど指導に従ったその他大勢は普通の子、この3人は特別に悪い子、そういう一線がこの先生の中でできあがってしまったのである。その結果がこの学級通信だ。

ところが、非難された当事者の女子児童3人、そしてその保護者から見ればそうはいかない。みんなやっていたではないか、なんでその後1回きりのことでここまでやられなくてはならないのか、となる。指導に従ったか否かに大きく太い一線を引いて区別するのは、あくまで先生の視点である。児童・保護者から見れば、その線は決して大きくも太くもないのだ。そこのところをこの先生は理解していなかった。指導に従うか否かという基準は、現在、半分は先生の自己満足、半分は国民的コンセンサス、そんな微妙なところでフラフラしている徳目である。やはり古き学校文化と今日的サービス業的学校評価との過渡期的時代状況で中で起こった事件だとぼくには見える。

三つ目に、五十代後半特有の、というか団塊の世代前後特有の、理念的な正しさは多少の方法的なまずさを包み込んでくれるという、無意識的な世代感覚がありはしないか、ということである。この感覚は新人類が壊し、80年代がすべての理念的正しさを相対化してしまった。ぼくの世代にはもう理念と手法のズレは既にそれだけで悪である。しかし、この二人の先生にはまだその70年代までの感覚が残っていたのだろう。

しかも、この二人の先生は、一人は給食布載せを他の児童にも示すことによって「完食指導」の正当性を理解させようとし、もう一人は学級通信に訴えることによって児童・保護者の賛同を得ようとしていた。ここには「話せばわかる」型の旧型コミュニケーションによって事態を打開しようとする意識が見られる。申し訳ないが、ぼくらの世代は人間同士は分かり合えないと思っているから、学級を集団として高めようとか、自分の教育理念を保護者に理解してもらおうとか、そういった意識が五十代ベテランに比べて極端に低い。もちろんゼロではないし、その方向性に批判的なわけでもない。そうではなく、常にそれが成立しないことをも念頭に置いて仕事をする癖がついているのだ、ということである。

学校の先生などというものは、基本的には左翼思想社会の中で生きてきた井の中の蛙である。この二つの報道が、そういう時代の風を全身に浴びて生きてきた最後の世代に象徴的なつまずきにぼくには見えるのである。

しかし、こんなふうに他人事として語っていられるのもそろそろ限界が近づいてきている。いまぼくは44歳。中学校教師としては、ほぼ保護者と同世代である。しかしこれからは、年々保護者との年齢差が生まれてくる。そのとき、ぼくが当然と思っていることが保護者にとって当然とは思われない、そういう現象が多々見られるようになるだろうし、小さな軋轢も生まれるようになるだろう。ちょっと気を抜いたら、ベテランと呼ばれる年齢になれば、この二人の先生のようになってしまう危険性はだれもがもっているのである。

まさに明日は我が身と捉えねばならない所以である。

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帰納的指導/演繹的指導

「言語技術教育」を標榜する実践家の授業を見ていると、授業構成の在り方に二つのタイプに分かれることに気づかされます。一つは、授業の冒頭である言語技術を教え、それを使って活動させるタイプ。もう一つは、まずは課題を与えて活動させてみて、どんなことに注意して活動したかを子どもたちに尋ね、そこから言語技術をまとめていくタイプ。私は前者を「演繹的な言語技術指導」、後者を「帰納的な言語技術指導」と呼んでいます。
 ここでは、この二つの授業構成の使い分けについて考えてみましょう。

まず第一に、大まかに考えて、この二つの授業構成は領域別に使い分けることが必要である、と言うことができます。「帰納的指導」はある言語技術をこれまで無意識になんとなく使っていた経験の中から、一度ちゃんと言語技術を抽出してみて、それを意識的に使える技術にしよう、という場合に適しています。つまり、日常体験の中にその言語技術があったのだが意識していなかった、そういうものを意識させるというタイプの言語技術指導に向いているわけです。この指導の在り方は基本的に「音声言語」指導に向いている授業形態といえます。

「話すこと・聞くこと」は日常生活の中にあふれています。どうしたら相手に伝わるか、どうしてら相手にわかってもらえるか、どうしたら相手にわかりやすく話せるか、こうした思考を経験したことのない子どもはほとんどいません。小学校一年生は一年生なりに、中学校三年生は三年生なりに、間違いなくそういう経験をもっています。とすれば、わざわざ「○○という言語技術を使いなさい」と先に指示しなくても、多くの子どもたちは学習活動を行わせるだけでそれなりにわかりやすく伝えようという意識をもって活動するのだということです。その学習活動から言語技術を抽出し、教師がそれを取り上げてまとめると、子どもたちはその言語技術を実感的に捉えることができます。

しかし、「文字言語」指導ではそうはいきません。まずは「読むこと」領域を考えてみましょう。文学的文章教材にしても説明的文章教材にしても、作者・筆者がどのような工夫をしながらその文章を書いたのか、どんな論理展開でその文章を書こうとしているのか、こうしたことは日常経験で本格的な文章を書く機会のない子どもたちにはなかなか実感的に捉えられないものです。こうしたとき、教師が最初に「こういう工夫があるんだよ。」と教え、「この作者はそういう工夫をいっぱいしているから探してごらん。」とやるのが理に適っています。

「書くこと」領域においては少し違う要素があります。教師が何も指示せず書かせたとします。その作文ができ上がったあと、「実はこういう言語技術があるんだよ」と伝えて「これを使って書き直してごらん」と言ったとしてら、子どもたちはどう感じるでしょうか。「おいおい、最初からいえよ。せっかく苦労して書いたんだぜ。」ということにならないでしょうか。作文指導は使って欲しい言語技術、教えなければならない指導事項は事前に指導し、その上で「それを使って書いてみよう」という順番で行うのが定石なのです。

原則として、「話すこと・聞くこと」領域の「音声言語」の指導では「帰納的指導」で授業を展開し、「読むこと」「書くこと」領域の「文字言語」の指導においては「演繹的指導」で授業を展開するのが理に適っている、といえるでしょう。

第二に、ある言語技術を初めて教える場合と、既習事項として扱う場合との差を考える必要があります。ある言語技術を教えるという場合に、その言語技術の必要性も理解していないうちに、ただこういう言語技術があると教えてしまうと技術主義に陥ります。それを避けるためには、まずは言語生活においてこういう困ったことが起こることがあるということを実感的に体験させ、ではどうすればいいかと十分に考えさせた上で言語技術を教える、という必要が出てきます。要するに、初めて教える場合には基本的に「帰納的指導」が適しているということです。

逆に、既に既習の言語技術に関してああでもないこうでもないいじくりまわした上で、「実はこういう言語技術があったよね。」では時間の無駄です。上位の子どもたちは「なんだ、前に習ったよ。」となるでしょう。こういう場合には、「前に○○という言語技術を習ったよね。これを使ってみる練習だよ。」と、今日は〈スキル訓練型〉の授業であることを宣言してしまったほうが子どもたちも納得して活動できるわけです。

これも原則として、初めて教える言語技術は「帰納的指導」で授業を展開し、既習の言語技術は「演繹的指導」で〈スキル訓練型〉の授業を展開するのが理に適っている、といえるでしょう。

第三に、〈言語技能〉にまで定着させなければならない言語技術と、〈言語技術〉の段階で良しとする言語技術との指導の差も考えなくてはなりません。〈言語技能〉段階の言語技術には、本人はちゃんとやっているつもりでも端から見るとできていないということが多いからです。

いわゆる「言語技術」には、その言語技術を知っているけれど使えないという〈言語知識〉の段階、その言語技術を意識しながら使えるという〈言語技術〉の段階、その言語技術を使い慣れていて無意識に使えるという〈言語技能〉の段階、という「習熟三段階」があります。〈言語技能〉段階を目指す言語技術の指導は多くの場合、その学習集団を指導するようになった初期段階で終えているのが一般的です。例えば、「みんなに聞こえるような大きな声で発言する」とか、「音読のときに句読点では間をとる」とかいった言語技術がこれにあたります。こうした指導事項について、発言の度に、音読の度に、「さあ、みんなに聞こえるような大きな声で話すんだよ。」とか「今日も句読点でちゃんと間をとって音読するんだよ。」といった演繹的な指導が行われるのはナンセンスです。多くの子どもたちはできているわけですから、学習活動の中でそれができていない子が顕れたときに個別に指導する、というのが理に適っています。いわば個別的な「帰納的指導」です。

また、「話し合い」指導においてはこれが顕著に表れます。「話し合い」指導において司会の手法を教えたり、論点整理の手法を教えたりというのにも、「帰納的指導」が向いています。「話し合い」や「対話型の音声言語指導」(インタビューや面接など)は他の学習活動に比べて展開が予想しづらい〈動的な学習活動〉です。事前に今日の話し合いや対話で留意すべきことを演繹的に確認することが必要ではありますが、より効果が表れるのは活動時間中の〈事中指導〉です。司会が手を挙げて発言しようとしている子がいるのにそれに気づかなかったり、誤った方向に議論を整理しようとしたりした場合には、即座に介入して場に応じた適切な指導を施すことが必要です。話し合いや対話において、何が論点なのかを子どもたちが見失ってしまって、水掛け論のような形になってしまった場合にも、一つ高い次元の論点で整理してあげて、なぜこのような水掛け論に陥ってしまったのかを冷静な視座から助言してあげるのが必要でしょう。こうした指導事項は、学習活動を数多く経験し、失敗と成功を数多く経験することによって、言語感覚的に身についていくところに本質があるからです。「ちゃんと冷静に論点が何なのかを見極めようね」という「演繹指導」など、何も指導していないのと同じなのです。

原則として、〈言語技能〉段階として位置づけられている言語技術や、多くの活動経験の中から言語感覚的に身につけていく指導事項については、事前の「演繹的指導」でもなく事後の「帰納的指導」でもなく、事中に個別的に「帰納的指導」を施すのが理に適っている、といえるでしょう。

指導してから活動させるのか、活動させてから指導するのか、この二つの授業スタイルも指導事項との関連によって決まるのです。教師が指導事項をしっかりと捉えた上で授業しなければならない所以です。

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人生のトップテン/中間まとめ

一昨年の年末に石川晋の今年のアルバムトップテンを見てから、自分の40年以上の人生を通して、好きなといおうか、影響を受けたといおうか、自分の人生の一部になっているといおうか、そんなアルバムトップテンをつくってみよう……なんていう気になった。

去年の1月から1年以上、CDラックから選んだ50枚程度の候補アルバムを、車の中で聴き続けた。当然のようにかなり迷ったわけだが、結局、高校から大学時代にかけてよく聴いていた元春とかレベッカとかパーソンズとかバービーとか、ああいうものは一時の流行としか思えなくなってきた。

結局、以下のようなものに落ち着いた。まずは邦楽編である。

51b1kp7vqol__sl500_aa300_1位 THE 仲井戸麗市 BOOK

仲井戸麗市/1985

トップテンを決めるにあたって、このアルバムの1位だけはまったく動かなかった。このアルバムだけは無人島に行くときにも、天国に行くときも、たとえ地獄に堕ちたとしても、絶対に手放すことなく持って行こうと思っている。アルバムはすべて聴いたし、ライヴもずいぶん行ったけれど、すべてのアルバムの中で、このアルバムが群を抜いている。同じ頃によく聴いていたZELDAやSHOW-YA、大江慎也、そしてあの、清志郎のソロ第一弾でさえ、迷った挙げ句にトップテンから落としてしまったけれど、CHABOのこのアルバムだけは落とす候補にさえなることもなく、どのアルバムよりもぼくを高揚させ、どのアルバムよりもぼくも切なくさせ、どのアルバムよりもぼくをなぐさめてくれる、そういうアルバムだという確信のもとに聴いていた。このアルバムを聴いたことがないという四十代以上の男性を、ぼくは気の毒な人生だとさえ感じる。サウンドも歌詞も、もちろんギターテクも、そして語りも、すべてが完璧である。

  

41iu3v6hzhl__sl500_aa300_2位 静かに水の流れが岸をけずる

山木康世/2000

ぼくにとってのこのアルバムの価値をひと言でいうなら、「癒し」である。1位にあげたCHABOのアルバムはぼくにとって過去を確かに踏み固めながらも前進するイメージであるのに対し、このアルバムはちょっとひと息、立ち止まるイメージである。ここだけの話しだが……、(とブログでいうのもおかしな話なのだが)ぼくは出勤途中、車の中でこのアルバムがかかり始めて聴いているうちに、車を停めて聴き入ってしまったことがある。結局その日はそのまま年休をとって道民の森に行って一日過ごした(笑)。論理矛盾を承知でいえば、そのくらい力のある「癒しアルバム」なのである。このアルバムは2000年リリースだから、ふきのとう関連のアルバムとしては割と新しいアルバムであり、ほんとうは「風来坊」とか「DSダルセーニョ」とか、トップテンに入れたい名盤がたくさんあるのだけれど、迷いに迷った挙げ句、やっぱりこれだな……という結論に至った。今年は札幌の山木さんのライヴはすべて行こうと決意している。

41wa9qfsjxl__sl500_aa300_3位 コトノハ

元ちとせ/2001年

このアルバムはこのブログでも何度も紹介したことがあると思う。もともとは元ちとせのデビュー以前のミニアルバムである。5曲入りのミニアルバム故に、当初、トップテン入りはするだろうが、下位の方だろうなと思っていた。でも、今年、年が明けてからトップテンアルバムを聴き続けているうちに、やっぱりこのアルバムが上位に食い込んできた……という感じである。「わだつみの木」は確かに元ちとせのためにある曲だったけれど、このアルバムに収録されている5曲はどれも元ちとせでなければならない、元ちとせのために生まれてきた楽曲、そういう5曲で構成されているのである。「コトノハ」というタイトル曲が南の国から札幌を想う物語になっていることも、ぼくを捕らえて放さない理由の一つになっている。3曲目の「竜宮の使い」という曲が奏でるメッセージは、教育と成長の本質を突く名曲である。

C83ed0b28fa0624002d09110_l__sl500_a4位 彼は眠れない

沢田研二/1989

ボーカリストとしての沢田研二の能力が頂点に達し、ものすごい作家陣の楽曲をすべてJULIEのオリジナル曲にしてしまっている、すごいアルバムである。作家陣はユーミン、清志郎、徳永、奥居香、その他、新旧入り乱れてのそうそうたる顔ぶれだった。でも、すべてが完全にJULIE節に染められてしまっているのである。この時期の沢田研二はほんとうにうまい。ギンギンのロックが数曲続くと、必ず美しくメロディアスなバラードが配される、そういう繰り返しの感のある、非常に完成度の高いアルバム。。「KI・MA・GU・RE」は清志郎提供の楽曲、かつ清志郎とのデュエットでもあるのだが、これがまた素晴らしく調和している。ただし、ボーカルとしては完全に沢田研二が清志郎を喰ってしまっている。また、「堕天使の羽音」「静かなまぼろし」「ルナ」という3曲のバラードは、沢田研二の数百曲の中でも名曲中の名曲である。80年代後半から90年代前半にかけての沢田研二のバラードはほんとうにいい。ちなみにこの時期のバラードは「AFTERMATH」(1996)というバラードベストとしてリリースされている。なお、このアルバムの先行シングルは冒頭の「ポラロイド・ガール」。これもJULIEらしい曲で、ぼくはいまでもときどき、からカラオケで歌う(笑)。

41dur0nglxl__sl500_aa300_5位 夢みる頃を過ぎても

八神純子/1982

ボーカリストとしての八神純子とソングライターとしての八神純子とが結節点を紡いだのがこのアルバムだと思う。シングルヒットよりもアルバムづくりをという明確な方向転換を見せ、全精力を込めて、渾身の力でつくったアルバムという気がする。1曲だけ、「ナイス・メモリーズ」という原田真二提供の曲が収録されているのも、なんとも八神純子の謙虚さを感じる。タイトル曲「夢みる頃を過ぎても」も美しいのだが、3曲目の「白い花束」という曲が美しい。あの八神純子がおさえながら美しさをつくろうとしているのがよくわかる。さびの部分に自らの声でコーラスを重ねる箇所などは聴いていて泣けてくる。それでいて八神純子のポップな感じを前面に出した曲や、スウィンギーなアレンジを施した曲など、それまでの八神純子らしさも盛り込んでいる。ぼくには「THE 八神純子」というアルバムに思える。

410mwwns3kl__sl500_aa300_6位 ステレオ太陽族

SOUTHERN ALL STARS/1981

デビューからサザンを聴き続けているファンは、1979年に3枚目のシングル「いとしのエリー」によって驚愕とともに桑田の才能を認識させられ、1981年に4枚目のアルバムにあたる「ステレオ太陽族」によって、どこかサザンをコミックバンド扱いしていたサザンファンならぬ多くの人たちを、桑田を認めざるを得ない状況に追い込んだ。そのエポックアルバムは「タイニイ・バブルス」ではないかという人もいるだろうが、ぼくはこのアルバムだと思う。「HELLO MY LOVE」のようないかにもプロローグ的な楽曲から始めて、「MY FOREPLAY MUSIC」と「素顔で踊らせて」という硬軟彩る、それでいてそれまでの日本にはなかったタイプのメロディをたたみかける。この二曲は歌詞のつくりかたも対照的だった。その後、「夜風のオン・ザ・ビーチ」「恋の女のストーリー」とだれが聴いてもいい曲だなあと思わせる楽曲を続けたかと思うと、A面ラストに「我らパープー仲間」なんていう、ああ、やっぱり桑田だ……ってな、めちゃくちゃな曲をもってくる。B面も同様。強烈なピアノで始まる「ラッパとおじさん」から、日本語を完全に壊した「Let's Take a Chance」、曲という概念を壊した「ステレオ太陽族」、この流れを引っ繰り返して美しいメロディラインの「ムクが泣く」をはさんで、「朝方ムーンライト」「Big Star Blues(ビッグスターの悲劇)」「栞のテーマ」と美→狂→美を交互にもってくる。中学生のぼくが聴いてもすごいアルバムだと感じたものである。当時、オリコンのアルバムチャートでもずーっと1位だった。この完成度の高いアルバムのあと、「チャコの海岸物語」で再びシングルヒットも飛ばすようになり、国民的に認知されるバンドになっていったのだ。やっぱり「タイニィ・バブルス」じゃなく、「ステレオ太陽族」なのだ。

27996293ae7c69a3d524264c4869edea17位 egoist:エゴイスト 自己中心主義者

松山千春/2002

高校の先輩である中島みゆきもドリカムも落としてしまったけれど、道民の一人としてこの人だけは入れなくちゃと思う。正直、ファーストの「君のために作った歌」(1977)と「空を飛ぶ鳥のように野を駆ける風のように」(1979)と「ガリレオ」(1999)と「La La La」(2000)とこのアルバムとで、どれを入れようかと迷った。でも、現在につながる松山千春の晩年……といっては何だが、完成に近づいてきている松山千春につながる系譜の最初のアルバムが、ぼくにはこのアルバムだと思えるので、敢えて「egoist」を選ぶことにした。タイトル曲を始めて聴いたとき、「ああ、千春は円熟期に入ったんだ」と強烈な印象を抱いたものである。ぼくの中で千春の曲は7パターンあるように感じているのだが、その7つがすべて揃い、しかも、いまだに「egoist」1曲しかない8つ目のパターンまで収録されているこのアルバム。1枚だけ勧めるとしたら、ぼくはこのアルバムだなと思う。

41pp51r2x8l__sl500_aa300_8位 満ち汐のロマンス

EGO-WRAPPIN'/2001

ぼくの一切の思い入れを排し、純粋にアルバムの完成度だけで比較したら、この10枚の中で最も完成度が高いのはこのアルバムかもしれない。それほどにこのアルバムはすごい。いま見たら、アマゾンでこのアルバムのレビューが20件ついているのだが、すべてが★5つだった。そんなアルバムはそうそうないだろう。演奏は天下一品。ボーカルはこんなにうまい日本人がいるのかと思うくらいうまい。R&Bとジャズとブルースと昭和歌謡の融合と、なんというか歴史性まで感じさせる。すごいバンドである。「サイコアナルシス」のシャウトなんかを聴いていると、あまりの感動に躰に震えが来る。よくもこの国にこんなバンドが生まれたものだと思う。

31t5tpyb9gl__sl500_aa300_9位 NIAGARA TRIANGLE VOL.2

1982

ぼくは45年近く生きてきたけれど、すべてのジャンルにおいてこれほど調和のとれた、かつ創造的なコラボを他に知らない。初めて聴いたときからそれほどにしびれている。ぼくをこんなにも惹きつけたのは、大瀧でも元春でもなく、杉真理の存在だと思う。この3人コラボが杉でなく、伊藤銀次でも山下達郎でもこれほどの調和、これほどの心地よさは創り出せなかったのではないかと思う。それほどに「Nobody」「ガールフレンド」「夢見る渚」「Love Her」という杉真理の4曲は、大瀧詠一と佐野元春というそれぞれの強烈な個性をつないでいる。詳しくは企業秘密なので書かないけれど、実はぼくは、「研究集団ことのは」関係のイベントの作り方も、研究の進め方も、思考の枠組みにおいてさえ、この3人コラボの在り方をモデルにしているところがある。「A LONG VACATION」や「FOR YOU」をはずしてさえ、このアルバムをトップテンに入れる所以である。

41hzagpnall__sl500_aa300_10位 Never Again 許さない

岩崎宏美/1999

10位は決められなくて、11枚の中からどれを選ぶかさんざん迷った挙げ句、結局、ぼくがファンクラブに入っている岩崎宏美を選んだ。要するに、11枚の中で、アルバムは同列、シンガーが好きだから、それもルックスが好きだからという理由で選ばれたのがこのアルバムである。でも、それはこのアルバムの完成度が低いことを意味するわけではない。他の10枚とちゃんと同列に並ぶほどの完成度の高さをもっている。筒美京平提供の楽曲で構成された企画盤なのだが、20世紀を締める目にふさわしい名盤である。かつて「想い出の樹の下で」のB面に収録されていた「わたしの1095日」という名曲があるのだが、それをアラフォーの岩崎宏美が20年以上たってセルフカバーした。これがたまらない仕上がりになっている。岩崎宏美の代名詞的な名曲「月見草」も収録。

10位にするのを迷ったあとの10枚は以下です。

うつろひ/さだまさし/1981

臨月/中島みゆき/1981

LION & PELICAN/井上陽水/1982

WELCOME TO YOKOSUKA/渡辺真知子/1983

夜の底は柔らかな幻/久保田早紀/1984

CHARMING/スターダスト・レビュー/1986

私の中の微風/岡村孝子/1986

ROOKIE TONITE/大江慎也/1987

JAPANESKA/THE BOOM/1990

INSOMNIA/鬼束ちひろ/2001

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第27回・累積科学国語教育研究会in札幌

第27回・累積科学国語教育研究会in札幌

作文指導で両立できてますか?
意欲技能
「書くことがない」「書き方がわからない」そんなセリフ、もう言わせない!

今回の累積国研は、ズバリ!作文指導です。しかも、欲張りにも、意欲の喚起と技能の育成を両立させる作文指導の在り方を追究します。とかく「書くことがない!」「書き方がわからない!」と子どもたちに敬遠されがちな作文。今回は「看図作文」で有名な鹿内信善先生、独自の作文指導を展開する山寺潤先生をお招きして、意欲も!技能も!の作文授業を展開します。どうぞお誘い合わせのうえご参加下さい。

2011年2月12日(土) 9:10~16:50

会 場:札幌市・白石区民センター1F多目的室(予定)

参加費:3,000円/定員:30名

【講師】

Fea34e9d46b8fc9ePhoto鹿内信善(北海道教育大学教授/認知心理学・国語科教育)

山寺 潤(檜山・小学校教諭/教育実践サークルLINKS代表)

山口淳一(札幌・小学校教諭/教育実践サークルDNA)

山田洋一(石狩・小学校教諭/北の教育文化フェスティバル・代表)

小林 智(旭川・中学校教諭/研究集団ことのは)

大野睦仁(札幌・小学校教諭/教師力BRUSH-UPセミナー・事務局長)

高橋裕章(札幌・小学校教諭/教育実践サークルDNA)

堀 裕嗣(札幌・中学校教諭/研究集団ことのは・代表/教師力BRUSH-UPセミナー・代表)

南山潤司(札幌・小学校教諭/教育実践サークルDNA・代表/教師力BRUSH-UPセミナー・顧問)

山下 幸(札幌・中学校教諭/研究集団ことのは・事務局長)

【プログラム】

9:00~  9:10 受付

9:10~  9:15 開会セレモニー

9:15~  9:45 模擬授業1/山田洋一(小学校)

9:45~ 10:15 模擬授業2/小林 智(中学校)

10:30~ 11:30  研究協議/司会:山下 幸
指定討論者:鹿内信善・大野睦仁・高橋裕章・堀 裕嗣・南山潤司

11:45~ 12:30 講座1/山口淳一
国語科作文指導を他教科の授業に活かす

昼食・休憩

13:30~15:00   講座2/山寺 潤
もう「書くことがない」とは言わせない
〈発想・着想〉〈取材・選材〉の授業づくり

15:15~16:45 講座3/鹿内信善
意欲と技能の両立
やる気を育てる看図作文の授業づくり

【お申し込み方法】

以下の7点をお書きの上,FAXがEメールにて下記まで御連絡ください(24時間OK)。
 1.氏名/2.勤務校/3.郵便番号/4.住所/5.電話番号/6.FAX番号(ない場合には「なし」と明記)/7.メールアドレス(なし場合には「なし」と明記)
小木恵子(こぎ・けいこ) FAX(011)866-6422 E-mail : YFA39060@nifty.com

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説明的文章における文種意識

まだまだ一般的には知られていませんが、いわゆる「説明的文章教材」には、三つの下位項目があります。「説明文」「記録文」「論説文」の三つです。一般には、「説明的文章教材」のすべてをまとめて「説明文」と呼ばれることが多いようですが、本来、「説明文」とは「説明的文章教材」の要素である一つの文種の呼び名に過ぎません。「文学的文章教材」が物語・小説・詩・短歌・俳句・随筆等々の文種に分かれるように、「説明的文章教材」もまた「説明文」「記録文」「論説文」に分かれるのです。

おおまかにいえば、次のような違いがあります。

【説明文】 ある題材について知識をもっている筆者が、知識をもたない読者に対して説明する説明的文章。

【記録文】  ある事件や歴史的な出来事について、時系列に並べて説明する説明的文章。

【論説文】  筆者が自らの意見を主張するために、具体例を挙げながら論理的に説得する説明的文章。

小中学校の説明的文章教材の多くは「説明文」です。おそらく、「説明的文章教材」をまとめて一般に「説明文」と呼ばれているのもそのせいなのでしょう。しかし、高学年から中学校にかけては、「論説文」や「記録文」が一定程度の割合で載っています。小学校高学年の説明的文章教材で先生方から「この説明文、難しいな」という感想が聞こえてくるものは、だいたいが「論説文」です。また、中学校の説明的文章教材は「説明文」よりも「論説文」のほうが多くなります。「記録文」は、小学校ではいわゆる「伝記」が、中学校では歴史の謎が明かされるまでの経緯を解説したり、ある人物が苦労をしながら某かの成功をおさめるまでを記録したりした文章がよく載せられています。

「文学的文章教材」の授業において、物語には物語の読み取るべきことがあり詩には詩の読み取るべきことがあるように、「説明的文章教材」においても、「説明文」と「記録文」と「論説文」とではそれぞれ読み取るべきことが異なります。その意味で、この〈文種意識〉は、授業における教師の心構えとしてとても大切になります。

これもおおまかにいえば、次のような違いがあります。

【説明文】 内容的には筆者が説明している〈情報〉を過不足なく捉え、形式的には(表現の仕方としては)いかに素人にもわかりやすく説明しているかを捉える。

【記録文】 内容的には筆者が解説している出来事を〈時系列〉で捉え、形式的には出来事の転換点(成功のきっかけや理由など)をどのように描いているかを捉える。

【論説文】 内容的には筆者の〈主張〉を捉え、形式的にはどのような論理(筋道)でその主張に至っているかという主張と具体例の関係を捉える。

文種の違いは、筆者がその文章を書いた〈目的〉の違いでもあります。新指導要領では〈目的〉に応じて読んだり書いたりすることが求められているわけですから、説明的文章を読むときに筆者の〈目的〉を捉えることは、基礎的な指導として大変有効といえるでしょう。

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第27回累積国研、定員に達する

12日(土)の累積国研が定員の30名に達した。鹿内先生と山寺くん、山ちゃんを講師とする作文をテーマとした会である。テーマが作文だから一般参加者は一桁だと予想していた。嬉しい誤算……といったところ。

累積国研が定員に達するのはいったい何年振りだろうか。おそらく最初の模擬授業12連発以来ではないかと思う。とすれば2007年の秋以来ということになる。3年半振りである。

国語の研究会は、最近はもう研究的にやっても人は集まらないものと諦めていた。授業技術的なテーマや、領域別指導事項すべて教えますみたいなおいしそうなテーマならそれなりに集まるけれど、何か主張をしようというテーマ設定をすると途端に参加者が少なくなる。そんな数年を過ごしてきた。ぼくらは別に参加者が少ないことを嘆いたことはないのだけれど、それでもこうして人が集まってみるとそれなりに感慨というものはある。鹿内先生の力か、それともたまたま企画があたったのか、いずれにしてもいま作文が旬であるということだけはないはずである(笑)。

とても気分よく土曜日を迎えられそうだ。

今回は模擬授業に山田くんと智さん、研究協議には鹿内・大野・高橋・堀・南山の指定討論者に司会は山下くん、山ちゃんのミニ講座のあと、午後は山寺くんと鹿内先生のそれぞれ90分講座である。

鹿内先生の講座は言うまでもないが、今回は何といっても山寺くんの講座に注目である。彼の「夏の陣」での講座構成を見て、更に「秋の陣」の模擬授業を参観して、彼のやろうとしている今日的な作文教育の提案性に心の底から感動を覚えた。お世辞ではない。ぼくはたぶん道内で最も山寺潤という教師の感性と研究姿勢を買っている人間だと思うが、それを差し引いても最近の彼には高い提案性がある。かなり高度なことをちゃんと地上戦で展開しようというところに、ある種の凄味を感じさせる。「秋の陣」では、あの大谷さんがべた褒めしたほどである。

山寺くんには実践的提案性だけでなく、研究的な提案性があるのだ。ぼくは、近いうちに山寺くんの提案を大内善一先生に紹介しなければと強く思っている。大内先生ならひと目でその価値を理解してくれるはずである。

もう一人、今回の会でぼくが皆さんに紹介したいのは、山ちゃんの教科横断的な「言語活動の充実」を見据えた地道な作文実践研究である。この研究には、失礼ながら山寺くんのような凄味はないが、「ああ、作文での言語活動の充実ってこういうことなんだな」とひざを打つ実践になっている。それも流行の〈PISA型読解力〉をしっかりと踏まえている。参加したみなさんが「ああ、これなら自分にもできる。しかも、子どもたちにしっかりと学力を身に付けさせることもできる」と感じるであろうことを請け負える。必ず、「ああ、現場の研究ってこういうものだよな」と納得するはずである。

間違いなく、楽しく充実した会になるはずである。

定員を満たしはしたが、会場にはあと5席くらいなら机椅子がある。申し込みはあと5人程度まで可能なので、どうぞお申し込み下さい。ご案内はこちら

※Die Singphonikerの「THE BOXER」を聴きながら……。

418q0fhec4l__sl500_aa300_A Tribute to SIMON & GARFUNKEL

Die Singphoniker/2004

アマゾンがなければ絶対に知ることはなかっただろうアルバム。ちょこっとだけ視聴して購入。先日届き、今日、初めて聴いた。ちょっとクラシックっぽくて、ちょっとカントリーっぽくて、ちょっと民族音楽っぽくて、トラッドのにおいが充満している。ドイツのコーラスグループである。たまらなくいい。「ボクサー」と「フィーリング・グルーヴィ」が最高である。すべてのS&Gファンに聴かせたい。

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じょっぴんかる

スキー学習で3組担任。9人欠席。風邪調査開始。今日でスキー学習も終了。来週からまた、気楽な副担生活が始まる。

授業は4時間。自習監督が一つ。1時間目から5時間目まで5連発である。国語は1クラスが「方言と共通語」、2クラスが付属語のプリント、1クラスが試験範囲のプリント復習。自習監督1時間+空き時間1時間で、学年末テストの問題完成。昼休みはプリント印刷1500枚。放課後は生徒会役員とのミーティングのあと、卒業式関係の打ち合わせ、職員会議プリントの印刷、3年生二人に頼まれて推薦入試の面接練習。18時退勤。

授業が詰まっていたとはいうものの、プリント学習が多く楽な一日。

北海道方言の理解語彙調査をしたところ、「じょっぴんかる」を知っている者が151名中2名。「ごしょいも」「ほっちゃれ」「あめる」はゼロ。死語になったということだ。ちなみに使用語彙調査をしたところ、「おばんです」を使うものが151名中3名、「ゆるくない」は17名、「はんかくさい」は19名、「しばれる」は21名、「こわい」(疲れたという意味)は31名、「めっぱ」が53名、「はっちゃきになる」が71名、「めんこい」が79名、「ゴミをなげる」「手袋をはく」は双方とも130名超え。

あたりまえのことだが、15年前に実践したときと比べて、北海道方言の認知度は著しく落ちている。パーセンテージとしては15年前と比べて2割にまで落ち込んでいる語が多数ある。子どもたちがどうこうというよりも、親世代が使わなくなったということである。ある書物によると、方言を恥じるだけでなく、忌み嫌う世代の登場が現在の50歳前後であるらしい。そういうことなのだろうと、妙に納得してしまった。

差別用語について同じような調査をしたら、そろそろ、驚くような数値が出るに違いない。方言の方は社会学的な言葉狩りだったわけだが、差部用語の方は言うなれば意図的な言葉狩りだった。国語教師としては少々複雑である。

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満寿泉 大吟醸「寿」

病み上がりだから酒はしばらく飲まないつもりだったのだが、気になる酒があって、たまたま夕飯が煮染めで、しかも疲れがとれて元気になってしまっているものだから、我慢できずに飲んでしまった。

門島さんが贈ってくれた富山の酒である。

Photoその名も満寿泉 大吟醸「寿」

「ますいずみ ことぶき」と読みます。

グラスに注いで驚いた。なんという香りの豊かさ。大吟醸なんだからあたりまえだろと言うなかれ。そんじょそこらの大吟醸の香りとはわけがちがう。飲む前に香りで完全にノックアウトされてしまった。すぐに妻に「香り香り」と勧め、まずは二人でじっくりと香りを楽しむ。

一口なめてびっくり。芳醇、華やか、柔らか、まろやか、フルーティ、コク、旨み、優しさ、キレ……日本酒を褒めることばは多々あれど、「フルーティ」と「キレ」をここまで調和させた酒を初めて飲んだ。ぼくの「フルーティ観」が変わった。

HPで調べてみると、蔵元は相当な時間をかけて最高級酒をつくろうと研究を重ねたらしい。白ワイン樽に寝かせたともいう。これねもったいなくて飲めないなあ。

岡山さん、これ、ほんとにすごいよ。もらいものだから、門島さんにお世辞言ってるんじゃないんだよ。買ってみて。四合瓶で5250円だからちょっと高めだけど、その倍の価値はありますよ。西田酒造に失礼だけど、善知鳥よりうまいかもしれない。少なくとも互角の勝負にはなります。

それにしても酒も飲めない門島伸佳がなんでこんな蔵元の近くに住んでるんだ。犯罪的だ。

門島さん、例のもの、三連休で必ず送るからね。

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気の抜けた炭酸のような本

土・日・月の3日間、まるで仕事をしないで寝てばかりいた。さすがに疲れがとれたようで、帰宅後にPCに向かって原稿を書いていても、調子よくキーボードの音が響く。

いま、書いているのは『義務教育で〈習熟〉させたい国語学力~授業づくりの10の原理/120の言語技術』という200頁弱の本である。堀流言語技術体系を示すとともに、現場で指導事項のハンドブックとして機能するようにと構想した本である。自分としては、15年間にわたる言語技術研究の集大成と位置づけている。完成するのが割と楽しみな本だ。

1月中に「第1章 授業づくりの10の原理」という40頁ほどのベタ打ちが終わり、2月に入って「話すこと・聞くこと」領域の44頁分のべた打ちも終わったところである。ほぼ半分の執筆が終わったことになる。あと100頁ほどを残すのみとなった。しかも今後は1項目1頁の原稿を重ねていくだけだから、1日に10項目書けば8日、1日に5項目書けば16日、こんなふうに目処を立てることができる。

「話すこと・聞くこと」領域を書いた感じでは、1項目あたり平均15分程度の執筆時間だから、目標の3月10日脱稿はまず間違いなく達成できそうな感じになってきた。ただし、これからは文字言語の領域に入るので、「話すこと・聞くこと」のように簡単ではない。これからはいかに1項目を1頁におさめるかという闘いになるに違いない。具体例を入れ出すと絶対に1頁におさまらなくなる。しかし、一度例外をつくってしまうと例外の嵐になる。その葛藤との闘いになる。

今回は絶対に1項目1頁の配分をくずさないつもりである。ページ数を減らして、できるだけ本の値段を安くしたい。売れるようにというのではなく、それくらいの価値しかないという自覚があるからである。教育書は高すぎる。もちろん読者層の限られる専門書扱いだから、一般書のように安く提供できないのは確かである。しかし、それにしてもスカスカの内容でページ数を稼ぎ、ものすごい値段がつけられているのを見るとがっかりしてしまう。もうバブル時代とは違うのである。気の抜けた炭酸のような本は出すべきでない。

編集者から連絡があって、『学級経営10の原理・100の原則~困難な毎日を乗り切る110のメソッド』が18日に刷り上がるらしい。

それはいいとして、この本の値段は定価で1400円である。なんとかできるだけ安くしてくれとお願いした。このくらいが妥当だと思う。2000円を超える教育書など本当に研究的に価値がある場合にしか出してはいけないのだ。

※DON FRIEDMAN VIP TRIOの「You'd Be So Nice to Come Home to」を聴きながら……。

31yphgs3i6l__sl500_aa300_Scarborough Fair

THE DON FRIEDMAN VIP TRIO/2005

肩肘張っていないピアノ演奏が心地よい。21世紀になってからのドン・フリードマンにすっかりはまっている。このアルバムも「スカボロー・フェア」がジャズかぁ……と思って、どんなものかと購入したアルバムだったのだが、いまや「スカボロー・フェア」などどうでもよくなってしまっている。収録されている楽曲自体はスタンダードナンバーばかりなのだが、とにかく軽快に気持ちよく……ということだけ考えて弾かれているピアノという感じがとてもいい。

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教材を教えるのか、教材で教えるのか

かつて「教材教えるのか、教材教えるのか」という論争がありました。例えば、国語の授業で「ごんぎつね」を扱うということは、「『ごんぎつね』という作品自体を読ませることなのか、それとも『ごんぎつね』を用いて作品外にある指導事項を教えることなのか」という議論です。前者であれば『ごんぎつね』という作品が小学校4年生に読ませるべきかけがえのない作品であるということになりますし、後者であればたまたま『ごんぎつね』が教科書に掲載されているだけで、同じ指導事項を扱うことができるのなら教材は代替可能ということになります。

この問題には既にほとんど決着がついていて、「教材で教える」派がかなり優勢になったと見て良いでしょう。教材によって教えるべき指導事項を「言語技術」だと主張する人もいれば、「豊かな情操」だと主張する人もいますが、どちらにしても教材を読むこと自体が目的ではないとしている点で構造的には共通しています。

さて、こうした動きと同時進行で発展してきたのが、90年代の「新学力観」や00年代の「ゆとり教育」を背景として流行してきた「関心・意欲・態度」の教育です。学校教育の目的は何より子どもたちの「関心・意欲」を喚起して「主体的に学ぶ態度」を育成していくことである、それさえ身に付けさせればあとは子どもたちが主体的に学んでいくようになるはずだ、というわけです。

もちろん、こうした主張には一理も二理もあるのですが、私はそれが限度を超えて、先に述べた「教材で教える」論と相俟って、あまりにも教材内容を軽視する風潮につながっているように感じています。「教材内容よりも言語技術」「教材内容よりも関心・意欲・態度」といった感覚が強くなりすぎているのです。

例えば、私はある研究授業において、「天国のごんに手紙を書こう」という授業を見たことがあります。終末の感想を書きやすくするために手紙形式にしようとするのはいいとして、そこで手紙の書き方まで教えようとしているのはいかがなものかと思いました。子どもたちが「拝啓 日に日にあたたかくなる今日この頃、天国でも……」などと書いているわけです。その授業を参観している大勢の先生がたの中で、この「拝啓 ごん様」実践に違和感を感じたのは決して私だけではなかったと思います。授業者の中で、なぜ手紙の書き方、手紙の形式を教える場面が「ごんぎつね」なのか、或いは「ごんぎつね」でなければならないのか、というようなことが全く検討されていないのです。

例えば、私はある研究授業で、「メロすごろく」という「走れメロス」の授業を見たことがあります。「走れメロス」の人物や出来事などの設定を確認していくために、「走れメロス」の内容になぞらえたすごろく形式で授業が進んでいくわけですが、正直、「そんな小さなことにこんな大規模な仕掛けをつくって、長い時間をかけるなんて……。そんなことは15分くらいで片付けてしまって、もっとほかに学習効果を高められるような授業計画を建てた方がよいのではないか」と感じざるを得ませんでした。

この二つは極端な例にしても、21世紀に入って教材を軽視するといいますか、教材内容をちゃんと読まない実践が増える傾向にあります。特に文学的文章においては、90年代末の「文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導の在り方を改め」というあまりにも有名なフレーズがその傾向を強めました。これはあくまで「偏り」を改めよと指摘したのであって、決して「詳細な読解」をしなくていいという意味ではなかったのですが、現場の多くに文学軽視、教材内容軽視の機運が広がってしまったのです。この傾向は「教材で教える」という立場から見ても、明らかによくない傾向だったといえるでしょう。

例えば、教材を用いて教えるべきが「言語技術」だとしましょう。「言語技術」をしつかりと身に付けようと思えば、教材を本気で読む必要があります。本気で読もうとするからこそ、そこで習った「言語技術」の効果が実感できるのです。教材を用いて培うべきが「関心・意欲・態度」だとしても同様です。教材内容を本気で理解しようとし、本気で格闘する経験を積むことなしに、ことばに対する「関心・意欲・態度」を育成することができるはずもありません。教材内容に正面から向かい合うからこそ、そこで教えられる「言語技術」や「関心・意欲・態度」も培われるのです。これが、私が基本的には授業の牽引力は教材・題材に求められなければならないと考える所以です。

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病み上がりの一日

倒れるぞ倒れるぞと思っていたら、やっぱり倒れた。高熱で二日間の欠勤。インフルエンザでなかったのがせめてもの救い。学校に行くと、まわりの先生方も生徒たちも妙に優しい。学年の生徒も欠席者多数。そろそろうちの学校も怪しくなってきている。来週末は学年末テストなのだが、大丈夫だろうか。

スキー学習で3組の担任。欠席7人。「オレ、今日は弱ってるから、指導させるなよ」が第一声。「はーい」と生徒たち。

授業は5時間。2年生の国語が4時間、1年生書写が1時間である。書写は図書室読書。国語は付属語の解説が1時間、方言と共通語が1時間、残りの2クラスはワークである。病み上がりだったので、楽な授業ばかりで助かった。放課後は生徒会役員と年度反省の打ち合わせ。そして送別集会ビデオの写真選び。17時30分に退勤。

病み上がりの一日。

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第2回・先生のためのとっておきセミナーin札幌

第12回・教室実践力セミナーin札幌~教師力編・1
第2回・先生のためのとっておきセミナーin札幌

Akasaka_2できる教師は一日をこう動く!

その1/赤坂真二の一日をまるごと体験

「できる教師」と呼ばれる人たちは学校で毎日、どんなふうに過ごしているのでしょうか。何時に出勤し、まず最初に何をし、いつどんなふうに動くことを習慣としているのでしょうか。毎日、多忙感にさいなまれているあなた、それを知りたいとは思いませんか? それを知ったら仕事のスタイルが変わる……そうは思いませんか?

今回は赤坂真二先生をお迎えし、授業はもちろん、朝・帰りの学活も、給食も清掃も、まるごと担任されている子どもになって体験しちゃいましょうという研究会です。

あなたの授業力が、仕事術が、そして何より教師力が高まる一日になるはずです!

講 師:赤坂真二

日 時:2011年4月10日(日) 9:10~16:20

会 場:札幌市白石区民センター1F多目的室(予定)

参加費:4,000円(この他に昼食代600円がかかります)
※前日の「教室実践力セミナー」にも参加の方は両日で6000円

休み時間の過ごし方や昼休みの過ごし方まで含めて講座です。しかも何気ないやりとりの一つ一つの意味まで赤坂先生ご自身から解説されます。昼休みは赤坂先生に給食指導を受けながら参加者全員でお弁当を食べます。清掃時間にはみんなで会場を掃除してみます。学校生活の一日をまるごとロールプレイする一日です。

【 日 程 】

9:00~ 9:10 受 付

9:10~ 9:15 開会セレモニー

オリエンテーション「赤坂流学級づくり」の思想/9:15~9:30

朝の学活/9:30~9:45

1時間目・国語/9:45~10:30

2時間目・算数/10:40~11:25

3時間目・道徳/11:35~12:20

給食指導・昼休み/12:20~13:10

4時間目・学活/13:10~13:55

帰りの学活/14:00~14:15

清掃指導/14:15~14:30

ファシリテーション型Q&A/ファシリテーター:堀 裕嗣/14:45~16:15

閉会セレモニー/16:15~16:20

【お申し込み】

必ず4/10(土)の研究会に参加と明示したうえで、
以下の4点をお書きの上,FAXがEメールにて下記まで御連絡ください。
1.氏名/2.勤務校/3.FAX番号(ない場合には「なし」と明記)
4.メールアドレス(なし場合には「なし」と明記)

小木恵子(こぎ・けいこ)

FAX (011)866-6422

E-mail : YFA39060@nifty.com

【講師紹介】

B7a806886df0fe20赤坂真二(あかさか・しんじ/上越教育大学・准教授)
学校心理士。19年間の小学校勤務では,アドラー心理学的アプローチの学級経営に取り組み、子どものやる気と自信を高める学級づくりについて実証的な研究を進める。そのユニークな取り組みはNHK新潟「きらっと新潟」(2007年3月)で特集が組まれたほどである。2008年4月から、より多くの子どもたちがやる気と元気を持てるようにと、情熱と意欲溢れる教員を育てるため現職に就任する。主著:『教室に安心感を育てる 勇気づけの学級づくり2』、『先生のためのアドラー心理学 勇気づけの学級づくり』(以上ほんの森出版)『“気になる子”がいるクラスがまとまる指導』(3月刊行予定/学陽書房)他。

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第1回・先生のためのとっておきセミナーin札幌

第11回・教室実践力セミナーin札幌~学級経営編・1
先生のためのとっておきセミナーin札幌

学級担任が楽しくなる!

5つのメソッド!

学び合う学級づくり/赤坂真二

人間関係を醸成するアクティビティ/大野睦仁

楽しい空気をつくる原理/堀 裕嗣

中学校生徒指導から学ぶやんちゃ対応術/山下 幸

学級に潤いをつくる対話術/山田洋一

学級担任が難しい時代といわれています。やんちゃな子に悩む、特別な支援を要する子に悩む、保護者クレームに悩む、そして職場の多忙に悩む、みんなそんな毎日を送っています。でも、世の中にはそんな時代でも笑顔で仕事に取り組み、学級担任を楽しみ仕事を楽しんでいる人たちがいます。今回はそんな人たちから学級づくりのメソッド、そして仕事術を学んでしまおうという、ぜいたくな一日です。

講師:赤坂真二・大野睦仁・堀 裕嗣・山下 幸・山田洋一

日時:2011年4月9日(土) 9:10~16:50

会場:札幌市白石区民センター1F多目的室(予定)

定員:30人

参加費:4,000円 (翌日の「教室実践力セミナー」にも参加する方は両日で6000円に値引きします。)

【日程】

9:00~ 9:10 受 付

9:10~ 9:15 開会セレモニー
                                                
講座1 学級に潤いをつくる対話術
9:15~10:45/山田洋一

講座2 子どもたちの人間関係を醸成するアクティビティ
11:00~11:45/大野睦仁

講座3 中学校生徒指導から学ぶやんちゃ対応術
11:45~12:30/山下 幸

講座4 学級に楽しい空気をつくる原理
13:30~15:00/堀 裕嗣

講座5 赤坂流!学び合う学級づくり
15:15~16:45/赤坂真二

16:45~16:50 閉会セレモニー

【お申し込み】

必ず4/9(土)の研究会に参加と明示したうえで、
以下の4点をお書きの上,FAXがEメールにて下記まで御連絡ください。
1.氏名/2.勤務校/3.FAX番号(ない場合には「なし」と明記)/4.メールアドレス(なし場合には「なし」と明記)

小木恵子(こぎ・けいこ)

FAX (011)866-6422

E-mail : YFA39060@nifty.com

【講師紹介】

Akasaka赤坂真二(あかさか・しんじ/上越教育大学・准教授)
学校心理士。19年間の小学校勤務では,アドラー心理学的アプローチの学級経営に取り組み、子どものやる気と自信を高める学級づくりについて実証的な研究を進める。そのユニークな取り組みはNHK新潟「きらっと新潟」(2007年3月)で特集が組まれたほどである。2008年4月から、より多くの子どもたちがやる気と元気を持てるようにと、情熱と意欲溢れる教員を育てるため現職に就任する。主著:『教室に安心感を育てる 勇気づけの学級づくり2』、『先生のためのアドラー心理学 勇気づけの学級づくり』(以上ほんの森出版)『“気になる子”がいるクラスがまとまる指導』(3月刊行予定/学陽書房)他。

Ohno大野睦仁(おおの・むつひと/札幌市立厚別通小学校・教諭)
北海道教育大学岩見沢校卒。札幌市近郊教育サークル「GO-AHEAD」代表。「教師力BRUSH-UPセミナー」事務局長。「いのちの授業」をライフワークとして取り組む。また、野外活動にも長年に渡って携り、集団づくりのアプローチとしてアクティビティの経験も積む。『クラスに安心感が生まれるペア・グループ学習』(学事出版)『学級経営力・高学年学級担任の責任』(明治図書)「イラスト版からだに障害のある人へのサポート 子どもとマスターする40のボランティア」(合同出版)など共著多数。

Face堀 裕嗣(ほり・ひろつぐ/札幌市立北白石中学校・教諭)
北海道教育大学札幌・岩見沢校修士課程・国語科教育専修修了。「教師力BRUSH-UPセミナー」代表・「研究集団ことのは」代表・「実践研究水倫」研究担当・「日本文学協会」常任委員・全国大学国語教育学会・日本言語技術教育学会など。学生時代、森田茂之に師事し文学教育に傾倒。1991年、「実践研究水輪」入会。1992年、「研究集団ことのは」設立。主著:『学級経営10の原理・100の原則-困難な毎日を乗り切る110のメソッド』(3月刊行予定/学事出版)、『中学校通知表所見文例集』(小学館)、『全員参加を保障する授業技術』『学級経営力を高める』(以上明治図書)など著書・編著多数。

Yamashita山下 幸(やました・みゆき/札幌市立上篠路中学校・教諭)
北海道教育大学岩見沢校卒。「実践研究水輪」・「研究集団ことのは」「教師力BRUSH-UPセミナー」等、様々な研究団体に所属。学生時代、森田茂之に師事し、1950年代の文学教育実践研究とともに、作文教育の研究に傾倒。1992年、「実践研究水輪」入会。1995年、「研究集団ことのは」入会。「教師力BRUSH-UPセミナー」には設立から参加している。『中学校・学級活動ワークシート』(学事出版)、『学校五日制・教師の仕事術』『失敗事例を活かす学級経営力』(ともに明治図書)等著書多数。

Img_40491山田洋一(やまだ・よういち/北広島市立大曲東小学校・教諭)
北海道教育大学旭川校卒。幼稚園に2年間勤務後、小学校教員に。教育研修サークル 北の教育文化フェスティバル代表。その実践は、朝日新聞夕刊be「花まる先生 公開授業」でも紹介され、『いちばん受けたい授業』(朝日新聞出版)に収録されている。『発問・説明・指示を超える対話術』(さくら社)『学級経営力・中学年学級担任の責任』(明治図書)、『とっておきの道徳授業VI~VIII』(日本標準)、『お笑いに学ぶ教育技術』(学事出版)ほか共著多数。

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第33回教師力BRUSH-UPセミナーin札幌

申込先は高橋裕章

nanazou32@gmail.com

FAX  011-591-0529

第33回教師力BRUSH-UPセミナーin札幌

さあ新学期、『元気が出る4月!』をつくるには、これだ!!
~学びやすさ・教えやすさ・仕事のしやすさを考える1日~


新学期は期待と不安が入り交じる季節です。不安の理由は……

・今年こそは!…とはいうものの、子どもの崩れやいじめはやっぱり心配……。

・学級開きの準備がしたいけど、ほかの仕事もたくさんあって手が回らない……。

・国語や算数の最初の授業って、どうやって始めよう……。

・学級のシステムづくりは、どうしたらいいんだろう……。

・最初の懇談会は何を話したらいいのかなぁ……。

こんなことではありませんか?4月のブラッシュアップセミナーでは、1年間を見通して、4月の学級に必要なことを提案いたします。やる気が出ます。元気が出ます!一緒に春の不安を解消しましょう!どうぞお誘い合わせのうえ、ご参加下さい。

9:20~9:25  開会セレモニー /大野睦仁

9:25~9:55  講座1 使える学級開きゲーム/太田充紀(名寄市立智恵文小学校)
子どもたちの様子が把握でき、明日からの意欲も感じてもらえる楽しいゲームの数々を紹介します。

9:55~10:25  講座2 見通しをもたせる当番活動と係活動/斎藤佳太(登別市立青葉小学校)
始業式の次の日から、さっそく始まる給食に掃除当番。教師はどのようなことを考えながら、活動させるのか。係活動の見通しと共に紹介します。

10:25~10:35 休憩

10:35~11:05  講座3 こうして与えたい家庭学習・宿題/兒玉重嘉(札幌市立藻岩北小学校)
基礎力の定着にかかせない家庭学習や宿題の分量や意欲づけについての具体が見えてきます。

11:05~11:35  講座4 忙しさに負けない仕事術/山下幸(札幌市立上篠路中学校)
やらなきゃいけないことがいっぱいで、学級のことは後回し。結果、家に持ち帰る…こんな悪循環からぬけ出す仕事の仕方について、ヒントがいっぱいです。

11:35~11:45 休憩

11:45~12:15  講座5 子どもの心に寄り添う特別支援/大野睦仁(札幌市立厚別通小学校)
気になるあの子、やんちゃなあの子に効果的な対応は?学級の中での居場所をつくってあげるには…?など、教師の力になる講座です。

12:15~13:15 昼食休憩

13:15~14:00  講座6 学級崩壊への道とその対策/堀裕嗣(札幌市立北白石中学校)
学級を崩壊に導く様々な事例をもとに、逆説的に崩壊の対策を明らかにします。我々教師が気をつけなければならないことが、見えてきます。

14:00~14:10  休憩

14:10~14:40 模擬授業1 授業スタイルを決める最初の授業…国語/水戸ちひろ(洞爺湖町立とうや小学校)

14:40~15:10 模擬授業2 授業スタイルを決める最初の授業…算数/山口淳一(札幌市立藻岩北小学校)
授業のルールと授業の進め方を模擬授業を通して具体的に提案します。

15:10~15:20 休憩

15:20~15:50  講座7 最初の懇談会はこれだ!/山本和彦(石狩市立双葉小学校)
保護者とだって、最初の出会いが肝心。どんな話題をどのように?大切なことは何?を具体例をもとに明らかにします。

15:55~16:40 新学期学級づくり全体シェアリング/司会 高橋裕章(札幌市立藻岩小学校)
4月から実践する上で、実際にやってみようと思うことを具体化し、グループに分かれ検討したり、質問したりしてみましょう。

16:40~16:45  閉会セレモニー/大野睦仁

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運がいいということだ

朝8時前に起きる。コンビニに行ってウコンの力を買って飲む。今日はばりばり仕事をしようと思ったのだが、どうにも疲れている。そりゃそうだ。3週間ほど休みなしで働いている。それも朝から夜寝るまで。躰のあちこちがだるい。酒のせいというのでもない感じ。今日は休まなきゃダメだと決意する。

犬と遊んだり、風呂に入ったり、録りためておいたドラマを見たり、昼寝をしたり。そんな感じで一日を過ごしたが、まったくリフレッシュにはなっていない。まったく疲れが癒される様子もない。相当疲れているということだ(笑)。

これはこのままだと倒れるかもしれない。しばらく、せめて3日間くらいは仕事をしないことにしよう。幸い「教師のチカラ」の1頁原稿さえ書けば、急ぎの仕事はない。運がいい、ということだ。

さて、もう一度、風呂にでも入るか……。

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教師のいらない授業

藤原くんが昨日のぼくの講座を次のように評価してくれている。

このあと,堀さんのワールド・カフェの講座。正確には「ワールド・カフェ+ギャラリートーク」。
これはすごい。学習活動をシステム化させたら堀さんの右に出る者はいないだろう。
完全に「場」がホールドされ,学習が自動化されてしまう。
教師の活動量が0になり,参加者の活動量(思考量)が100になる。
自動化された学習活動の間,堀さんは何をしていたか!? ……それは参加者のみが知る。正確に言うと,参加者以外の講師陣のみが知る。だってみんな100の力で学習しているからね。


ぼくは最近、教師がいらなくなる授業はどんな形だろう……とずーっと考えている。基本的に2011年のぼくのテーマはこれでいこうと思っている。中学校が義務教育の終了時に位置づいており、基本的に「自立」を促すことを目標に据えているとすれば、中学校教育の究極の形は教師がいらない授業へとシフトしていくことだ。

ぼくはいま、そういったシステムをいくつかもっている。

一つは2000年に開発したPCS。「パネル・チャット・システム」の略称である。教師がいくつかのポイントに従って短い指示を出すだけで、生徒たちはずーっと動き続ける。

二つ目にマイクロ・ディベート。教師はタイムキーパーに徹すればいい。要するに、教師は機械でもできるし生徒でもできるようなことしかしない。ゲーム性もあって生徒たちは1時間いっぱい楽しむことができる。

三つ目にギャラリー・トーク型ワールド・カフェ。これもタイムキーパーに徹すればいい。ただ状況を見ながら時間を短くしたり延ばしたりという判断が伴うので、生徒にはできるかもしれないが、機械にはちょっと難しいかもしれない。

あと5つ開発したら本が出せるかなと思っている。あと5つくらいなら、たぶん年内に行けるだろう。教師のいらない全員参加型システムをつくるには、いくつかのコツがある。意見が溢れ出すにはどういう環境が必要か、それ以前にどういう思考経緯があればワッと溢れ出すのか、そのあたりがぼくにはわかる。

そのコツは第一に〈当事者意識〉を醸成すること、第二に事前に〈沈黙思考〉を保障すること、第三に〈喚起された意欲〉を持続させる仕掛けを施すこと、この三つである。第二のコツには〈葛藤〉があるとなおいい。要するにしゃべりたくなるには強制的に黙っている時間をつくっておくことが早道なのである。第三のコツはちょうど飽きが来るような時間帯に別の刺激を与えて触発させることを意味する。

この三つをシステムの中に取り込んでおけば、だいたい例外なく全員参加型の対話システム、創造システムはできあがる。あとは対話するだけの価値があり、創造ベクトルを必然的に生み出すような題材を用意するだけである。まあ、これが難しいのだけれど……。

結局、環境調整型権力の要素分析と、教材研究能力というか教材解釈能力が必要だということに行き着く。

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「第10回教室実践力セミナー」終了

なごやかな良い会でした。とにかく最初から最後までなごやかに進み、最後までなごやかに進みました。

ちらしのプログラムからかなり構成を変えて会を進めました。題材を統一するために、会の冒頭に模擬授業を入れることにしました。変更後のプログラムは以下の通り。

1.模擬授業「おにたのぼうし」水戸ちひろ/9:15~9:45

2.講座「グループ・ディスカッション」山下幸/10:00~11:15

3.講座「ファシリテーション・グラフィック」藤原友和/11:30~12:00

4.講座「ファシリテーション」岡山洋一/13:00~14:15

5.講座「ワールド・カフェ」堀裕嗣/14:30~15:45

6.講座「ファシリテーション・グラフィック」藤原友和/16:00~16:45

【模擬授業/水戸ちひろ】

一人で読み考えるよりもディスカッションを通じて広まり、深まりが出ることを体験できてよかったです。

とても緊張している様子が最初伝わってきましたが、つねに笑顔で寿儀容をされている姿がよかったです。途中、フリップが出てから落ち着いたようですが、フリップには何と書いてあったのでしょう?

水戸さんのガッツにちょっと心ゆさぶられました。緊張と迷いに満ちた前回の模擬授業からほんのわずかな時間をはさんでリベンジには頭が下がりました。確実に前進していることもわかりました。ありがとうございました。

「おにたのぼうし」を読み取る上での、よいオリエンテーションになりました。

「おにたのぼうし」をしっかり読んで、作品の深さを感じました。小学校の教材、楽しいですね。

「女の子の様子を見ているのはどこからどこまで?」というのはおもしろいと思いました。発問のことばのえらび方がポイントだなと感じました。「思ったことをセリフで考え出し合う」という活動自体は一斉授業でも一般的だけれど、それをちょっと交流させるだけでおもしろさが増すなと思いました。

授業の視点が面白かったです。「ああ、自分間違ってた……」とわかりました。山下先生がおっしゃった「ここからが……」が気になります。

【講座/山下 幸】

結論と根拠を常に理論づけしていくことに感心しました。

いろいろな手法がとりあげられていて、話し合わせる方法の参考になりました。以前に行った「形」の絵コンテの生徒作品が見られて、それをどう書かせているか参考になりました。

たいへんおもしろく、またためになりました。主題に迫るための布石となる活動もなるほどという感じでとても納得。前回の感想を空欄にしたのはささやかな抵抗ではなく、自分があまりにも不勉強なために全くついていけなかったせいです。いろいろ気を遣わせてしまい、すみませんでした。

役に立つお話でした。

主題を考えるまでのきめ細かな読み取りの必要性を感じました。絵コンテはぜひやってみたいと思います。

話すこと、対話によって、気づかなかったことに気づくという場面が何度もありました。

発問一つをとってもかなり作りこむべきなんだよなーと考えさせられました(三の発問)。「今日の流れ」を最初に提示してもらうと、やっぱり安心して学びの場に入っていけるなあと感じました。緊張しにくい。特に特別支援を要する子は特に。

水戸先生の授業を受けてからのディスカッション。こきざみに交流があり、多様な考えを知り、楽しかったです。三つのステップに分けること、絵コンテを作るところでも交流があり、人に聞いてもらえて満足でした。

【講座/藤原友和】

思考を可視化する方法として素敵だと思いました。授業での「活用」「探究」場面のみならず、部活や学級経営でも使ってみたいですネ。

ファシリテーション・グラフィックはなかなか自分にはできないと思っていましたが、実際に書いてみるとけっこう楽しく書くことができて、おもしろく行うことができました。

ファシリテーショングラフィックのお話はとても聞きたかったことの一つでした。ここはまだほんのさわりだと思うのですが、まだまだ聞きたいです。藤原さんの著作がファシグラで出版されるのがたいへん嬉しいです。

自分もこれから取り組んでみたいと感じました。帰りに「ゲルマーカー」買って帰ろうと思います。

深化型がたて、拡散型がよこなど、「そんな風に聞けていないなー」と思い、今後意識して聞こうと思います。話し合いの構造というか、展開というか……。

すばらしいファシグラ。自分でできるようになるためには何度も経験が必要だなと感じました。

講座1・2の途中でちらちら見ていたのですが……すごいなあと、ただただ思いました。初めて目にしたのですが、そのグラフィックの内わけを知ることが出来て良かったです。活用できるかどうか……。

【講座/岡山洋一】

様々な方法を教えていただきました。具体化させるために、あえて逆説のテーマで考えさせる方法など、たいへん参考になりました。また受講したいです。

マネジメントの定義から始まって、問いの立て方や場のつくり方など参考になる部分がたくさんありました。参加意欲の低い相手の対応などもありがとうございました。

夏のBRUSH-UPの時もそうでしたが、これまで考えたこともなかったことがやわらかく現れてきて、岡山ワールドに呑み込まれる感じがしました。岡山さんのお話はまだまだ聞きたい気がします。

緊張しましたが、有意義な時間でした。

教職しか知りませんので、企業研修という世界にほんの少し触れられた気がして嬉しかったです。アイスブレイクにも触れてみたかったです。

夢中で学ぶことができました。すごく勉強になり、またおもしろかったです。

またまた「おにた」を用いてダイアログの感覚をつかませていたのが、すごいなーと思いました。さっと思いつかれたことなんでしょうか?すごい……。

「ONITA」「BOUSI」 どれにするか迷いました。「場」に関する話が「なるほどなあ」と身をもって知ることが出来ました。現在、うちのクラスは「場」を作っても「会話」ができるかどうか……チャレンジします。

【講座/堀裕嗣】

いつもながら素材の扱いが新鮮ですよネ。ALL「谷山浩子」だとは思いませんでした。目からウロコです!今度はぜひ「演歌」シリーズでお願いいたします。

「ギャラリートーク型」という型でしたが、ワールド・カフェの手法を経験して勉強になりました。また、ギャラリートークもたいへん有効な方法だと感じました。

堀ワールドにはまりました。数年前にさっ補ベロのライヴハウスに谷山浩子が来た時に行くかどうか迷ったことを思い出しました。「カントリーガール」が当時好きでしたが、数年後に4番があるのを初めて知り、曲の世界全く変わって感動したのを新鮮に覚えています。ワールド・カフェと何の関係もありませんが。

日常の授業で活用できそうです。

詩の授業にヒントを得たような気がします。人間関係と話し合いの関係は切っても切れないだろうなー、なんて思いました。

4つの班をまわることによって深まり、広がりがあり、おもしろいと思いました。

ワールド・カフェとジグソー学習がまざったようなのがギャラリートークって感じかなと思いました。他のグループに行った子がもう一回集まって交流、一緒に移動する雰囲気は参加者の心もちを変える場づくりの一つだと思った。

残される適度な緊張感がありました。ワールド・カフェを初めて体験しました。講座3からの流れで、皆さん、マッピングも上手だなあ、と。情報収集として今後も活用したいです。

【講座/藤原友和】

様々な手法、色の使い方など、たいへんわかり易かったです。本も購入してみたくなりました。

ポストイットをつかっての相互交流など、おもしろく体験することができました。交流のための手法として使うにはとてもいいと感じました。児童に書かせることはあるのでしょうか。

とてもおもしろかったです。いよいよ新刊本を買いたくなりました。質問によって講座の一部を構成するのは今回特に良かったです。自分の聞きたい話がまさに密度濃くまとめて聞くことができたからです。私も研究部の話し合いでいつもFGをやっています。しかしいつまでたってもうまくなりません。ブログで勉強させていただきます。

グラフィックの違いは個性だ!がステキでした。

すばらしい!ありがとうございました。練習してみようと思います。(ノート上で)

話しながら書くコツを聞きたかったです。機能のまとめ方、わかりやすかったです。

最後まで活動参加型で楽しかったです。やってみようと思いました。

【その他】

詩(歌詞)シリーズは続編を受講してみたいと思いました。一人の歌手の年齢別の作品や、同タイトルの歌手当てとか楽しそうです。またお願いいたします。

交流の手法をたくさん体験し、ふれる機会になりました。ありがとうございます。今回はほとんどの講座が「おにたのぼうし」にかかわっていたのが新しいと感じました。

今回も貴重な機会を作っていただき本当にありがとうございました。毎回疲れ切るほど頭を使っていますが、楽しくてやめられないという感じになっております。またよろしくお願いします。次回は4月にまいります。

大変勉強になる場をありがとうございました。

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学級経営10の原理・100の原則

「学級経営10の原理・100の原則~困難な毎日を乗り切る110のメソッド」(学事出版)の校正が終わりました。今回のコンセプトは若手・中堅の教師にまずは「成功する学級経営」ではなく、「失敗しない学級経営」の在り方を学んでもらおうというものです。あと数週間で書店に並ぶわけですが、ぼくがどういう思いでこの本を書いたのか、あとがきをもってお知らせしたいと思います。

【あとがき】

2005年のことですから、新卒から15年目のことです。

私は札幌市の小さな学校の学年主任になりました。そこで3学級101名の生徒たちを受け持って3年間を過ごしました。この3年間、私の学年には新卒教師が毎年配属されました。特に1年目は担任3人が30代半ばから後半。副担任は大学出たての新卒が2人。こういう学年団でした。

中学校教師ならわかると思いますが、4月、学年の仕事のすべてを担任3人でしなければならない状況に追い込まれたのです。新卒2人に何かをやってくれと頼んでも、一つ一つどうすればいいのかと尋ねられるに決まっています。年度当初、それに丁寧に応えている時間はありません。正直、これはかなわんなあ……と思いました。

しかし、年度当初をなんとか乗り切ると、このままではいけないと思えてきます。この2人を育てないことには仕事が立ちゆかない。当然のことです。私はこの2人を毎日観察しながら、どう育てるか、何を伝えればいいかということを考え続けました。

2年目にはこの2人のうちの一人が二組の担任となり、2年・3年といっしょに持ち上がっていきました。私はこの2年間も、彼がどんなことに失敗し、何に困っているのかを観察し続けました。それと同時にかなり厳しく指導もしました。生半可な新卒なら耐えられなかったかもしれません。しかし、その結果、彼は3年目にはもうそのへんの中堅よりも学年全体のことを考えて動ける教師になっていました。年度当初の学活計画とか、総合の校外学習の計画くらいなら、もう彼は3年目で大過なくやっていました。学級経営も安定し始め、次第に私が厳しく指導することもなくなっていきました。

本書はこの若者を筆頭に、この3年間に新卒教師4人に指導した内容をもとに構成しました。 本書を上梓するにあたって、いまはもう一本立ちしたと言って過言ではないこの4人の若者、高村克徳先生、齋藤大先生、佐藤恵輔先生、仙臺直子先生に感謝の意を伝えたいと思います。また、この学年を3年間、ともに運営し支えてくれた高橋美智子先生にも感謝申し上げます。この5人がいなければ、本書の基本コンセプト自体があり得ませんでした。

もう一つ、本書の内容にあたる原理・原則が固まるまでには様々な紆余曲折もありました。当然のことながらすべてが成功したわけではありません。その意味で、あの3年間に受け持った生徒たちにも感謝を申し上げたいと思います。

最後になりましたが、わがままな私と本書完成までお付き合いいただいた編集の戸田幸子さん、そして味のあるイラストで彩りを添えていただいたイクタケマコトさんに感謝申し上げます。

2011年元日 自宅書斎にて 堀 裕嗣

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学年団の構成

職員室が浮き足立ってきている。

別に仲が悪くなったとか、生徒が荒れてきたとか、そういうことではない。年度末が近くなって、そろそろ来年度の人事が視野に入っての発言や、来年度はだれだれがうちの学年に来てくれないかなあなんていう発言がちらほら見え始めているのである。

ぼくが学年主任をしていた頃、だれが欲しいとか、あの人がいてくれては困るとかということはあまり思ったことがない。基本的にメンバーはだれでもいいと思っていた。力量が高いとか生徒指導ができるとか、そういうことよりはぼくといっしょに楽しく飲んでくれる人がいいなあ……ということのほうが重要だった。

仕事については、小さい学校だったからどうせ3ヶ月も経てばツーカーになる。仕事のできない人が学年に入ってきたとしても教えればいい。新卒さんや臨採さんも育てればいい。そんなスタンスだった。

でも、大規模校であるいまの職場を見ていると、学年に数人は力量の高い教師がいないとまわらないという事情はよくわかる。

例えば、学年8クラスなら、1組・4組5組・8組に力量の高い担任がどうしても必要である。そしてもう一人、副担任に全体を見通す生徒指導をする人間がどうしても必要である。1組担任と4組担任で1~4組の生徒指導を進め、5組担任と8組担任で5~8組の生徒指導を進める。全体を見るのが副担任の生徒指導係。これが最も機能するやり方である。これが機能しないと学年主任がパンクする。

例えば、学年7クラスなら、1組・4組・7組に力量の高い担任が必要である。しかも4組担任には体育や技術といった7クラス全クラスに授業に行っている生徒指導畑の担任がいい。基本的に4組は楽な学級にし、4組担任に全体の生徒指導係をまかせる。要するにフル回転だ。1組担任は基本的に前半学級に責任をもち、7組担任は基本的に後半学級に責任をもつ。こういう体制がいいだろう。副担任にフットワークの軽い人間が一人いれば、なんとかまわせるに違いない。

たぶんいまの勤務校でぼくが学年主任なら、生徒指導についてはこの体制を組むだろう。それ以外の担任は新卒でもいいし、期限付きでせもなんとかまわせるはずだ。とにかく、担任が学級に対してなんでもかんでも責任をもつという体制だけはとってはいけない。そんなことをしたら、チームとして機能しなくなり、だんだん不信感が生まれ、仲が悪くなっていく。そういうことだ。

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第10回教室実践力セミナーin札幌

残席5を切りました

講師を除いて、限定16名で行う予定です。4人グループ4つを考えているので、16名ぴったりで受付を締め切ります。「ことのは」や「ブラッシュ」のメンバーも含めて、参加ご希望の方はお早めにお申し込みください。

第10回・教室実践力セミナーin札幌

~コミュニケーション編・1~

「交流から議論へ」「議論から対話へ」「対話から創造へ」
言語活動を充実させる4つのアイテム

1.グループ・ディスカッション

2.ファシリテーション・グラフィック

3.ファシリテーション

4.ワールド・カフェ

いよいよ新学習指導要領の実施が直前に迫りました。それぞれの教科で「習得」「活用」「探究」の授業モデルがかなり具体化してきました。今回の改訂で注目されている「言語活動の充実」についても、様々な研究成果が見られるようになりました。

さて、こうした取り組みにおいて欠かせないのが子どもたち同士の意見交流・情報交流です。しかし、交流学習をしようとすると、一部の子どもの活躍ばかりが目立ってしまう……。理念はわかるがなかなかいい方法がない……。そんな現実はありませんか。

今回の教室実践力セミナーは「言語活動を充実させる4つのアイテム」と題して、教科横断的に用いることのできる4つの手法を体験的に学びます。

どうぞお誘い合わせの上ご参加下さい。

講師:岡山洋一・藤原友和・堀 裕嗣・山下 幸

日時:2011年2月5日(土) 9:10~16:50

会場:札幌市白石区民センター

定員:20人/参加費:3,000円

【プログラム】

9:00~ 9:10 受 付

9:10~ 9:15 開会セレモニー

講座1 小集団による話し合い
グループ・ディスカッション
9:15~10:45/山下 幸

講座2 言語活動の充実に必須のアイテム
ファシリテーション・グラフィック
11:00~12:30/藤原友和

昼食・休憩
                                             
講座3 議論から対話へ
ファシリテーション
13:30~15:00/岡山洋一
                                             
講座4 対話から創造へ
ワールド・カフェ
15:15~16:45/堀 裕嗣
                                                
16:45~16:50 閉会セレモニー

【お申し込み方法】

以下の7点をお書きの上,FAXがEメールにて下記まで御連絡ください(24時間OK)。
 1.氏名/2.勤務校/3.郵便番号/4.住所/5.電話番号/6.FAX番号(ない場合には「なし」と明記)/7.メールアドレス(なし場合には「なし」と明記)
小木恵子(こぎ・けいこ) FAX(011)866-6422 E-mail : YFA39060@nifty.com

【講師紹介】

Okayama 岡山洋一(おかやま・よういち/札幌大学・SDI札幌ディベート研究所)

札幌大学外国語学部英語学科卒業。「SDI札幌ディベート研究所」代表。「ディベートアゴラ」主宰。「NECO塾」主宰。学生時代から英語ディベートをはじめ、全国教室ディベート連盟の立ち上げとともに北海道支部副支部長に就任。現在は研修内容、ディベート、プレゼンテーション、ファシリテーション、ライティング、問題解決、マネジメント等を中心に研修講師を務める忙しい日々。官公庁、全国の地方自治体、民間企業での研修、コンサルティングで全国を飛び回る。全国教室ディベート連盟北海道支部副支部長。

Hori 堀 裕嗣(ほり・ひろつぐ/札幌市立北白石中学校・教諭)

北海道教育大学札幌・岩見沢校修士課程・国語科教育専修修了。「教師力BRUSH-UPセミナー」代表・「研究集団ことのは」代表・「実践研究水倫」研究担当・「日本文学協会」常任委員・全国大学国語教育学会・日本言語技術教育学会など。学生時代、森田茂之に師事し文学教育に傾倒。1991年、「実践研究水輪」入会。1992年、「研究集団ことのは」設立。主著:『全員参加を保障する授業技術』『発信型授業で「伝え合う力」を育てる』『絶対評価の国語科テスト改革・20の提案』『(以上明治図書)など著書・編著多数。

Yamashita_2 山下 幸(やました・みゆき/札幌市立上篠路中学校・教諭)

北海道教育大学岩見沢校卒。「実践研究水輪」・「研究集団ことのは」「教師力BRUSH-UPセミナー」等、様々な研究団体に所属。学生時代、森田茂之に師事し、1950年代の文学教育実践研究とともに、作文教育の研究に傾倒。1992年、「実践研究水輪」入会。1995年、「研究集団ことのは」入会。「教師力BRUSH-UPセミナー」には設立から参加している。『全員参加を保障する授業技術』『教室プレゼンテーション20の技術』『聞き方スキルを鍛える授業づくり』(ともに明治図書)等著書多数。

Fujiwara_2 藤原友和(ふじわら・ともかず/函館市立戸井西小学校・教諭)

北海道教育大学函館校卒。「研究集団ことのは」「教師力BRUSH-UPセミナー」「道南教育サークルLINKS」「学びの輪 サークルはこだて」等,様々な研究団体に所属。4年間の中学校勤務を経て小学校に異動。それとともに,ワークショップなどに代表される体験を中心とする授業へと興味が移ってゆく。1999年,「研究集団ことのは」入会。「教師力BRUSH-UPセミナー」には設立から参加している。『全員参加を保障する授業技術』『教室プレゼンテーション20の技術』『聞き方スキルを鍛える授業づくり』(ともに明治図書)等著書多数。

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ブロディが見たいなあ

Image5今朝のこと。起きるほんの少し前だと思う。夢にブルーザー・ブロディが出てきた。ぼくはブロディとタッグを組んで闘っている。相手はよく覚えていないのだが、たぶんグレート小鹿と渕正信だったように思う。

ぼくはリングの陰でブロディに怒られていた。

お前なんかやめてまえ!あほか!ようやらんわぁ。

ブロディはなぜか関西風の日本語を使っていた。いま考えると明らかにおかしいのに、夢の中ではちっともおかしくない。それが当然なのである。

結局、ブロディが怒っているのはこういうことだ。グレート小鹿にぼくがパイルドライバーをかけられてスリーカウントをとられる打ち合わせになっていたのに、ぼくがそれを跳ね返してしまったというのである。それではショーにならない、というわけである。これを延々、夢の中では何分も叱られている。いいか次のラウンドでは必ずやられて来い、と。いまマネージャー同士の打ち合わせが済んで、次はラリアートになったと。そしてゴングが鳴る。夢の中でのプロレスは不思議なことにボクシングルールになっていて、3分ずつの15ラウンドで闘うことになっていた。

その後、淵正信とにらみ合ったところまでは覚えているのだが、その後がどうなったのかは記憶が曖昧である。

こんな夢を見たのは、おそらく相撲の八百長問題のせいだ。相撲の八百長から、八百長といえばプロレスということになり、プロレスといえばぼくの中では圧倒的にブロディだから、そんなふうにつながってこんな夢になったのに違いない。寝る直前に読んだ大野さんのブログも少なからず影響していることは間違いない。

わけのわからない夢だったけれど、すべて打ち合わせ済みの八百長ショーで構わないから、もう一度ブロディの試合を見たい。できればハンセンとのタッグで馬場・鶴田組とかザ・ファンクスと闘うのを見たい。マスカラス・ドスカラスの空中殺法に目を回しながらよろけるブロディも見たい。シン・上田組の反則に怒りを顕わにするブロディも見たい。

なんでもいいから、ブロディが見たいなあ。

八百長がいいとは言わないけれど、八百長ショーだってエンターテインメントとしては価値が高い場合もある。全日本プロレスなんて、だれがどう見ても打ち合わせ済みの八百長にしか見えなかったけれど、それでも毎週毎週チャンネルを合わせて、オヤジと二人で夢中になって見ていた。

馬場やドリー・ファンク・ジュニアなら、本気でやれば俺たちでも勝てるんじゃないか……なんて馬鹿げた会話を楽しみながら(笑)。

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WHATとHOW

国語の授業がもうそろそろ新しい教材に入ります。

あなたは教材研究をしなければなりません。

一度、自分で教材を読んでみます。そのとき、あなたは頭の中でどんなことを考えるでしょうか。

多くの人がまず例外なく、「この教材、どうやって授業しようかなあ……」と考えるのではないでしょうか。実は意外かも知れませんが、この思考法、この発想法こそが、多くの教師が子どもたちの学力を向上させられない一番の要因になっているのです。

教材研究をするときにまずしなければならないことは、指導事項を決めることです。思考法でいうなら「この教材で何を教えようかなあ」とか「この教材で何を扱おうかなあ」と考えることを指します。

授業というものは、まず指導事項(WHAT=何を教えるか)を明確に設定し、その指導事項を扱うためのふさわしい学習活動(HOW=どのように教えるか)が何かという順で構想されるべきものなのです。算数・数学や理科ならこういう発想で当然のように授業が行われているのですが、なぜか国語の授業だけはそうなっていません。

その結果、「天国のごんに手紙を書く」という学習活動がまずあって、その活動でどんな国語学力がつくのかが曖昧なままに授業が行われる、「○○に関する説明を考えて、交流し合う」という学習活動が先にあって、その活動で身に付けるべき指導事項が曖昧なままに授業が進められる、そんな本末転倒の現実があります。

本来、学習活動というものは指導事項によってその意味・意義が変わるものです。同じ〈方法〉であってもその〈目的〉によって意味・意義が変わる、と言い換えても構いません。

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授業以外は何もできなかった一日

スキー学習で2年3組の担任。授業は5時間。1年の書写2時間は学力テストの試験監督。2年生の国語3時間は文法の復習が1時間、付属語の解説が1時間、付属語のワークが1時間。たった4クラスしかないのに、進度に差がつき始めている。こういうことは国語では滅多にないことなので、ちょっとやりづらい。

空き時間はゲラを発送しにセブンイレブンへ。その後、教材プリントの印刷。昼休みは昼清掃だったのでなし。放課後は生徒会役員と少しだけ打ち合わせをしたあと、校務用PCのバージョンアップ。ほとんど授業以外は何もできなかった一日。

そろそろ受験を考える時期だからか、2年生に落ち着きが見られ始めている。テストも近いので、授業への集中力も高まっている。

今日はゲーム的な要素を加えた文法の復習に、そのクラスの担任が参加。教師を含めて、お互いに勝った負けたでいじりあっている光景は微笑ましい。こういう風景が学校という場所だったはずなのだが……。

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もう終わったのである

石川晋が今日行われたらしい十勝教育研究所教育研究大会の在り方を嘆いている。12月の6日だからほぼ2ヶ月前に、ぼくも札幌市の教育課程研究協議会の在り方を嘆いたことがあるので、その気持ちはよくわかる。

それでも今日の十勝の会には100人の参加者がいる。教科を問わないのだろうから比較にはならないけれど、ぼくの参加した札幌市教育課程研の国語は10人を少し超えた程度の参加人数だった。札幌市の中学国語教師が400人いることを思えば、ものすごく小さな参加率だと思う。ぼくが若い頃は少ないときで50人程度、多いときには80人近くが参加していたように思う。それだけこういう会はマイナーになったのだと感じる。たぶん参加した十数人のうち、動員されたものが9割を占めていたと思う。ぼくも含めて、多くの参加者は学校に割り当てられた動員に従って、参加したくもないのに参加している、そういう雰囲気がありありと感じられた。

たぶんぼくらが思っているより、学校現場も教委も研究所も進んではいないのである。進んでいないどころか、多くの教育施設のなかで実践研究は優先順位を落としているのである。危機感はそれなりに抱いているのだろうが、ぼくらの危機感とは比べものにならないような甘い認識のなかで、なんとかその日その日を暮らし、こうしたイベントもなんとか消化試合的なこなしているのである。それが見える。

昨日、「月刊国語教育」の廃刊を嘆いたけれど、こうした教育雑誌が下降線をたどるのと同じ構造が公的研究会開催の在り方にも見て取れる。もう終わったのである。おそらくぼくらが新しい工夫のつもりで取り組んでいる現在の実践研究の在り方も、すでに終わったものを、すでに終わった世界観の延長線上で考えている悪あがきに過ぎないのだ。

たぶんいま、坂口安吾ばりに堕ちたり、ジャック・デリダばりに壊したり、そういうふうにやらないと立ちゆかない状況になっているのだ。ぼくらはそれに気づいているが故にもがき、一般にはそれに気づかぬ故に従来のやり方を踏襲している。しかし、結局、行き着くところは五十歩百歩だったという嘆きに過ぎないのではないか。最近、そんな気がしてならない。

「学びのしかけ」も、「ファシリテーション」や「ワールド・カフェ」も、結局、箱の中で教師がリードするという点で従来の延長線上にある。誤解を怖れずにいえば、提案されているものはちょっとした工夫に過ぎない。しかし、この「ちょっとした工夫」ではダメなのだ。もう「ちょっとした工夫」でなんとかなる現実は眼前にないのである。

たぶんいまぼくらが取り組んでいることは、ほんとうは90年代に行われているべきことだったはずだ。ぼくらがやっていることさえ、きっと20年近く遅れているのである。そう考えるとぼくらの世代の責任も大きいように思えてくる。

最近、考えることが多すぎて、しかもパラダイム・シフトや認知レベルのメタ化のスピードが早すぎて、乱世が大好きなぼくでさえ気が狂いそうである(笑)。思えば、2002年の教育課程改変は人事だったが、現在の教育現状の崩壊は天意であるように思う。人事による馬鹿げた小改革に行政は躍起になっているけれど、いま、教育界の現状は決してそのレベルで動いているのではない。そういうことなのだと思う。

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「教育再生」を問う

もう一つ見つけた。同じく「道集」の機関誌、執筆は2007年8月31日゛てある。

【引用開始】

1.問われない〈再生〉

「教育再生会議」の趣旨は,内閣によって次のように説明されている。

21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し,教育の再生を図っていくため,教育の基本にさかのぼった改革を推進する必要がある。このため,内閣に「教育再生会議」を設置する。

「再び生きる」或いは「再び生まれる」と書いて〈再生〉と言う。「教育再生」と言うからには,かつて教育が「生きていた」時代があり,それに向けて,或いはそれと同等に「生きている」時代にしよう,それを目指そうという趣旨の特設会議であろう。しかし,その「かつて教育が『生きていた』時代」「かつて教育が『生まれた』時代」とはいつのことなのだろうか。

私は「教育再生会議」が内閣に設置されて以来,このことが甚だ疑問である。屁理屈と揶揄されるのを承知で,もう少し検討していくことにしよう。

第1回の「教育再生会議」(以下「会議」)の冒頭,挨拶に立った安倍総理は,教育再生の最終的な大目標を「すべての子どもに高い学力と規範意識を身に付ける機会を保障すること」と規定した上で,その具体的方針として「公教育の再生や,家庭・地域の教育力の再生」が重要だと指摘した。これを踏まえ,「会議」での審議事項について次のような方向性を示した。長い引用になるが,ご了承いただきたい。

具体的には,まず第一に質の高い教育を提供し,学力の向上を図る方策を御検討願いたいと存じます。必要な授業時間数を十分に確保し,基礎的な学力を確実に身に付けさせることが必要であります。/また,教員の質の向上に向けて,教員免許の更新制度を導入するとともに,学校同士が切磋琢磨し,学校運営をより良くするため,外部評価を含めた学校評価制度の導入が必要と考えております。
第二に,規範意識や情操を身に付けた,「美しい人づくり」のための方策を御議論いただきたいと考えております。体験活動や奉仕活動を行ったり,読書に親しんだりすることにより,人間性や社会性を磨くことが必要であると考えております。基本的な生活習慣を身に付け,学校の規律を確立することが求められます。/更に,我が国の伝統や分野(ママ) について学ぶことも重要であります。
第三に,家庭や地域の教育力を高め,だれもが「家族,ふるさと,このすばらしきもの」と思えるよう,地域ぐるみの教育を再生するための方策を御検討いただきたいと考えております。/子どもを育む家庭や地域の大人の在り方,すなわち子育てや働き方,企業の在り方なども含め,政府全体,社会全体として取り組むべき事項についても取り上げていた だきたいと思います。

読者諸氏はこれを読んで,どういった感想を抱かれるだろうか。

2.「教育再生会議」の予定調和

繰り返しになるが,「会議」の趣旨を再掲する。

21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し,教育の再生を図っていくため,教育の基本にさかのぼった改革を推進する(以下略)

ここに見られる認識は,「21世紀の日本にふさわしい教育体制の構築」と「教育の再生を図っていく」ことを目的として,「教育の基本にさかのぼった改革を推進」していくという決意である。「教育体制」とはハードの議論であり,「教育再生」とはソフトの議論を指すのだろう。つまり,「教育の基本」に遡った抜本的な改革によって,「21世紀の日本」(「21世紀」という文言にはいつものことながら意味はない。「今後の日本」と考えて良かろう)にふさわしいハードとソフトを整備していこう,というわけである。

では,今後の日本にふさわしいハードとは何であり,ソフトとは何であるのか。安倍総理の冒頭挨拶が読み取れるのは次の事象群である。

【ハード面の目標】
 ①必要な授業時間数の確保
 ②教員免許の更新制度の導入
 ③外部評価を含めた学校評価制度の導入
 ④体験活動・奉仕活動・読書活動の重視
 ⑤社会全体で取り組む教育体制の確立
【ソフト面の目標】
 ①基礎学力の保障
 ②教員の質の向上
 ③子ども達の人間性・社会性の錬磨
 ④子ども達の基本的生活習慣の確立
 ⑤我が国の伝統・文化の継承
 ⑥地域の教育力の向上

読者諸氏はこれを見て,どういった感想を抱かれるだろうか。私見によれば,ここには三つの問題がある。

第一に,「教育再生会議」の第一次報告,第二次報告の内容が,すべて第1回会議冒頭の安倍総理の挨拶に含まれていた,という点である。これは「会議」設置の意義を根底から問い直さなければならない重要問題である。行政の設置する審議会の類が端緒から予定調和的に設定され,その予定調和に反しない識者が構成員として選任されることが常識だとしても,あまりにもひどすぎはしないか。

第二に,このようなハード・ソフトの11項目がかつて「生きていた時代」もなければ,「生まれた時代」もないのであり,〈再生〉の意味は恣意性を免れない,という点である。おそらく,〈再生〉とは,「ゆとり教育」以前への回帰に過ぎない。それを,「教員免許更新制」や「学校評価」の導入といった学校システムへの管理体制を旗印にして,少々現代的にアレンジした,という程度が本当のところだろう。

第三に,これらの11項目の達成を目指して,「教育の基本にさかのぼった改革を推進する」というわけだが,これらの項目の裏に見え隠れする「教育の基本」とはいったい何なのか,という問題である。そもそも,これらの11項目はすべて,「会議」発足以前に「中教審」で取り上げられている項目ではないか。どこにも真新しさがないばかりか,21世紀になって学級崩壊論議・学力低下論争を経た我が国の言論界が声高に主張してきた項目ばかりである。

いったい「会議」を設置する意義がどこにあるのか。

3.「不適格」烙印の恣意性

教員免許更新制の目的が「不適格教員の排除」を目的に語られるようになったことは何を意味するか。更新された10年間の免許を前提に,教員が自信をもって教育活動をできるようにという意図で「中教審」が提言した免許更新制。それが教育バッシングと文科省に対する既得権益バッシングの中で,文教政策のイニシアチブが教育専門家委員会としての「中教審」から,教育素人集団としての「教育再生会議」へと移行していくと同時に,教員免許更新制の目的もまた,「不適格教員の排除」へと移行していった。

「会議」の提言する第二次報告では,学力向上策として,授業時間数の10%増,土曜日授業の可能性を前提として,①時代に合致したカリキュラム(主権者教育,法教育,消費者教育等)の編成,②読書算的学習の反復,③読書指導の充実,④食育の充実,⑤国語教育の充実,⑥英語教育の充実,⑦IT機器の積極的導入,⑧国による到達目標の明示,⑨客観的な絶対評価と並ぶ(「学力向上策」として提示されているわけではないが,この他に「徳育」の教科化の問題もある)が,学校現場にとってこれらの同時達成はきわめて困難を伴う。

「会議」では,渡辺美樹を中心に,教員全体における「不適格教員」の比率の議論があった(現行の1%という文科省報告に対し,20~30%程度を「不適格教員」が占めるのではないかという議論/第2回学校再生分科会)が,実は,非専門家に見られるこうした議論にこそ,学校システム問題の本質がある。

私は「不適格教員」の比率を現場的実感から10%程度と見ている。ただ,ここで声を大にして言いたいのは,10年前ならばこの実感は2%程度だったという点である。10年前なら,「不適格教員」など各学校に一人いるかいないかであったのだ。つまり,この10年間で,「こいつは不適格教員ではないか」と思われる教師が,5倍程度に増えているのである。では,その教師たちの能力が落ちたのかと言えば,決してそうではない。この10年間で,〈教師であること〉が格段に難しくなってきているのである。〈教師であること〉が難しくなると,相対的に他の教師にフォローしてもらわなければならない人間が増えてくる。逆に言えば,心ならずもフォローしなくてはならない教師たちから見れば,「迷惑な人」が増えるわけだ。私は特別優秀な教員ではないが,それでも自分の仕事くらいならそつなくこなす程度の力はもっている。少しくらいなら他の教師のフォローもできなくはない。しかし,その数が多くなってくれば,話は変わってくる。「力のある教師」が支えきれなくなっていくのだ。いったいこの責任はだれにあるのか。

答えは「行政に責任がある」としか言いようがない。学校の環境整備を一切することなく,学校教育に予算措置を講じることもなく,過剰な要求だけはどんどん積み上げていく。たかだか偏差値50~55程度の一般教員に,過剰な要求を突きつけすぎなのである。マスコミでは忙しさに教師が疲弊していくということが取り上げられるが,そうではない。「心の教育」と「学力向上」と「研修の充実」,「国語力に英語力」「食育」「IT活用」……こんなものをだれが同時にできるのか。すべての組織がそうであるように,学校の職員室だって2割の人間に8割の仕事が集中している。性急な教育改革,性急なシステム整備は,この2割の人間をパンクさせてしまうだけなのだ。学校を学校として機能させようとすれば,それほど優秀ではない「普通の教員たち」が「普通に働ける」仕事量にするか,或いは,環境整備と予算措置を大胆に講じて機能度を高めていくかしかない。「不適格教員」が増えているのではない。「不適格教員」は増やされているのである。

   
4.「規範意識」志向の虚妄性

「規範」という言葉が流行している。政治でも,マスコミでもだ。そろそろ学校現場にもそれが浸透し始めている。保護者もそれを求め始めている。教師が担任する学級の子どもたちに規範意識を求める。学校行事に積極的に参加し,みんなで協力しながら何かをつくり上げる……そのためには,子どもたち一人一人が最低限の規範意識をもたなければならない。至極当然のことである。保護者が我が子に規範意識を求める。非行に走らず,他人に迷惑をかけず,人としてあるべき方向に向かって一歩一歩進んで欲しい……そのためには,我が子に最低限の規範意識をもって欲しいと願う。これもまた至極当然のことである。こうした具体的な一つ一つの事象として考えるとき,「規範」という言葉は人間関係をつくる基盤としての,人生を形づくっていく基盤としての「モラル」を指している。そこには一人一人の個人がいて,個人の集合としての学級があり,というふうに,「関係存在」としての人間に対する好意的な,愛情あふれる眼差しが前提されている。

しかし現行の文教政策が,つまり政治が「規範」というとき,そこに「愛情あふれる眼差し」はない。「ゆとり教育」を推進した当時の教課審会長三浦朱門は言った。

今まで落ちこぼれのために限りある予算と か教員が手間暇かけすぎて、エリートが育た なかった。/ゆとり教育というのはただでき ない奴をほったらかしにして、できる奴だけ 育てるエリート教育なんだけど、そういうふ うにいうと今の世の中抵抗が多いから、ただ 回りくどく言っただけだ。/エリートは100 人に1人でいい。非才、無才はただ実直な精 神だけを養ってくれればいいんだ。

ここで言う「実直な精神」。それが「規範」である。ここには「愚衆はせめて規範くらいもて」という文教政策の本音がある。「ゆとり教育」は方向転換を強いられているようだが,それは「非才,無才はただ実直な精神と最低限の基礎学力だけを養っていればいいんだ」という程度の方向転換であり,文教政策の質は何ら変わっていない。格差社会とは,ある意味では,これを肯定的に捉えられる少数の人たちと肯定的に捉えられない大多数の人たちとの間に生まれた,何とも言えない断層のことである。

最近,多くの人たちが言い始めているのが,世の中が近景と遠景だけになり,中景がなくなったということである。「これ」と「あれ」だけになり「それ」がなくなったと言い換えてもいい。つまり,毎日,日常生活で接している家族とか友人とかごくごく近接した世界と,国家戦略とか世界戦略とかグローバリゼーションとか,マスコミから溢れ出てくる対岸・彼岸の世界としか存在しない,そういう世の中になってきているというわけだ。しかも間には何もないかのように,直接的に両者を結びつけてしまう,そういう議論が増えている。かつて,その中間には「ムラ」があった。つまり,「地域」である。ご近所があり,町内会があり,町があり,市があり,都道府県があり……国に至るまでには様々な中間項があった。ましてグローバリズムなどという意識は,我々にはまるでなかった。いま我々は,明石家さんまも北野武も,小泉純一郎も安倍晋三も,すぐ隣にいる家族や友人を見るのと同じ感覚で,近接した親しみを込めて見ている。町内会長や区長や市長や知事の顔や名前を知らない。それより総理大臣が心象的に近い。下手をすると,隣のおじさんやおばさんよりも,さんまやたけしにシンパシーを感じる。そういう世の中になってしまったのだ。情報化社会とは,テレビ社会とはそういうものである。

様々な中間項,つまり「地域」は,近景と遠景が直接的に切り結ばれる世の中において,次第に壊されてきた。それも意図的に壊されてきた。例えば町内会費を払わない,町内会のお祭りに手を貸さない,それでいて気に入らないことがあるとクレームをつける……その結果,町内会役員のなり手がいない,リスクを顧みない奇特な人だけがリターンのないその仕事を引き受ける,結果,多くはその地域に長く住むご老人ばかり……そういう構造になった。いま学校が「地域」を代表する最後の砦になっている。多くの学校はもともと,地域の人々の陳情によってやっとお上につくってもらった地域の象徴であった。しかし,次第にその地域に人が増え,その地域に思い入れのない人たちが多くなってくると,学校は「地域の象徴」ではなく,単なる「教育サービスを提供する行政機関」になっていく。その結果,町内会と同じ運命に成り下がっていくことになる。いま学校が,上からも下からも槍を向けられ,上とも下とも小競り合いを繰り返しているのは,「地域」を象徴する最後の砦がその存在価値を主張して,遠景とも近景とも闘っているのだといえる。学校は「愚衆はせめて規範くらいもて」を肯定的に捉える視点と否定的に捉える視点との両方を抱いている。二つの視点を調和する,或いは両立させる,無意識のうちにその役割を担って,なんとか存在意義を示そうとしているのではないか。

「社会総がかりで教育再生を」「地域の教育力の向上を」というスローガンは,だれもが賛成する。しかし,内実はこうである。とすれば,「地域の教育力の向上」は本質的には教育問題ではない。「親学」はお粗末にしても,「親学」的な発想のベクトルは捨てるべきでない。問題はそれをどう具体化し,システム化するかという問題である。総務省や厚労省,少子化担当相を初めとして,ワーク-ライフ・バランスを適切にとるための政策が待たれる。

「道徳教育改革集団」の主張を読んでいて,時に「あれ?」と思うことがある。かつての法則化同様,「できない教師」「ふつうの教師」に厳しい視線を向けすぎなのではないか。普通の人が普通に教壇に立てるシステム,教育哲学を提示しなければ,教育改革など成功しようがないのである。

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第二世代に向けて

たぶんネット上にはあげていないと思われる「法則化運動」論をファイルの中に見つけた。かつて「道徳授業改革集団」の機関誌に掲載されたもの、執筆は2008年9月22日である。

【引用開始】

第二世代に向けて

「教育技術の法則化運動」は〈物語消費〉論(大塚英志・角川文庫・1989年)の教育運動としての具現化であったというのが、ここ数年来の私の持論である。

今日の消費社会において人は使用価値を持った物理的存在としての〈物〉ではなく、記号としての〈モノ〉を消費しているのだというボードリヤールの主張は、80年代末の日本を生きるぼくたちにとっては明らかに生活実感となっている。ぼくたちは目の前に存在する〈モノ〉が記号としてのみ存在し、それ以外の価値を持つことがありえないという事態に対し充分自覚的であり、むしろ〈モノ〉に使用価値を求めることの方が奇異な行動でさえあるという感覚を抱きつつある。

大塚はこうした時代認識から、かの「ビックリマンチョコレート」を時代のエポックとして捉え、自身の1980年代論の象徴的題材として論述する。1987年から88年にかけて子どもたちの間で爆発的に大流行し、市場を席巻した「ビックリマンチョコレート」は、それまでの菓子商品の常識を覆した。それは一言でいえば、チョコレートという商品本体とシールというおまけが逆転しているからである。それまでも、グリコのキャラメルをはじめとして、おまけつきの菓子商品は決して少なくはなかった。しかし、「ビックリマンチョコ」は二つの意味において、それまでのおまけ付き菓子商品と一線を画していた。

第一に、先にも述べたように、商品とおまけとの逆転である。グリコのキャラメルは、「一粒三百メートル」というキャッチコピーに象徴されるように、あくまでも商品本体はキャラメルであった。もしも商品本体がおまけならば、キャッチコピーはおまけに関するフレーズで構成されていたはずである。また、キョロちゃんでお馴染みの「チョコボール」は、「金のエンゼル」「銀のエンゼル」によって「おもちゃの缶詰」が当たるという、特典によって商品本体たるチョコレートを売ろうとする企業戦略であった。このように、それまでの菓子メーカーは、あくまでも「おまけ」を付属品の特典として考えていたのである。しかし、「ビックリマンチョコ」は異なる。商品本体は、あくまでもシールである。メーカーはあくまでシールで売り上げの拡大を図ったのである。たまたまこれを商品化したメーカーがお菓子メーカーであったために、お菓子の流通ルートに載せざるを得なかったに過ぎない。その結果、「ビックリマンチョコ」を購入した子どもたちは、意識としてはあくまでもシールを買っていたのであり、付属品のチョコレートは惜しげもなく捨てられるという逆転現象が起こったのである。

第二に、「ビックリマンシール」が既成のキャラクター商品によって付加価値を付けるのではなく、メーカーが開発したオリジナルのキャラクターであった、という点である。それまでにも、商品たるお菓子が捨てられ、おまけだけが必要とされた商品は確かにあった。例えば、「仮面ライダースナック」や「プロ野球スナック」である。あの「仮面ライダーカード」や「プロ野球カード」を付けたヒット商品である。しかし、これらは「仮面ライダー」にしても「プロ野球選手」にしても、あくまでも既成のキャラクターをパッケージにあしらい、付属品のおまけとしてカードをつけたものである。それがスナック菓子の付加価値として機能したに過ぎない。しかし、「ビックリマンシール」は違う。完全にメーカーの開発したオリジナルキャラクターなのである。それまでこうした例は、せいぜいサンリオのキティちゃんがあった程度であり、少なくとも男の子向けの商品としては皆無だったのである。つまり、「ビックリマンシール」は、原作なきキャラクターであったわけだ。

以上、二つの意味で、八○年代後半に大ヒットした「ビックリマンチョコレート」は、時代のエポックたるにふさわしい商品だったわけである。加えて、この商品が時代のエポックとして象徴的であるのは、次のような商品の構造を持つ点にある

①シールには一枚につき一人のキャラクターが描かれ、その裏面には表に描かれたキャラクターについての「悪魔界のうわさ」と題される短い情報が記入されている。
②この情報は一つでは単なるノイズでしかないが、いくつかを集め組み合わせてみると、漠然とした〈小さな物語〉─キャラクターAとBの抗争、CのDに対する裏切りといった類の─が見えてくる。
③予想だにしなかった〈物語〉の出現をきっかけに子供たちのコレクションは加速する。
④さらに、これらの〈小さな物語〉を積分していくと、神話的叙事詩を連想させる〈大きな物語〉が出現する。
⑤消費者である子供たちは、この〈大きな物語〉に魅了され、チョコレートを買い続けることで、これにさらにアクセスしようとする。

こうしたキャラクターシールは、大塚によれば全部で772枚あったそうである。子どもたちはコレクションが一枚増えていくごとに、これまでのコレクションによって見えていた〈大きな物語〉を適宜修正し、「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)に近づいていく。そしてまた一歩近づきたいがために、また新たに「ビックリマンチョコ」を幾つも買う。さらに購買意欲がそそられる。「ビックリマンチョコレート」には、まさにこうした構造があったのである。子どもたちがこぞって買っていたのは、チョコレートでもなければキャラクターシールでもない。実はキャラクター解説が少しずつ明らかにしていく〈大きな物語〉であった。こうした構造を大塚英志は、「物語消費論」と名付けたのである。  この「物語消費論」の構造は、アニメ業界で既に80年代前半に大ヒットを飛ばしていた。例えば、「北斗の拳」や「機動戦士ガンダム」である。

「北斗の拳」は、拳が敵を倒すたびに新たな敵(拳の使い手)を紹介され、その敵に挑むという構成を取り続ける。しかも、新たな強い敵になればなるほど、拳の知りたがっている謎(=世界観)により近づいていく、という構造をもっている。子ども達、いや、大人までもが「北斗の拳」に熱狂したのは、キャラクターの美しさや拳のヒロイズムばかりではない。謎だった世界観が少しずつ明らかになっていく、その構造こそが牽引力として機能していたのである。

一方の「機動戦士ガンダム」はもう少し複雑である。私は「機動戦士ガンダム」を見たことがないので、詳しいことがわからないのだが、大塚によれば、「ガンダム」の一話ないし一シリーズのアニメは、「ビックリマンチョコ」のシールに相当する、断片的な商品に過ぎない。

この一話ないしは一シリーズでは、アムロなりシャアなりのキャラクターを主人公とした表向きの物語が描かれている。一般の視聴者はこの〈表向きの物語〉のみを見ている。ところがアニメの作り手は、こうした一回性の物語のみを作っているわけではない。「ガンダム」なら主人公たちの生きている時代、場所、国家間の関係、歴史、生活風俗、登場人物それぞれの個人史、彼らの人間関係の秩序、あるいはロボットにしても、そのデザインなり機能をこの時代の科学力にてらしあわせた場合の整合性、といった一話分のエピソードの中では直接的に描かれない細かな〈設定〉が無数に用意されているのが常なのだ。この〈設定〉が多ければ多いほど、一話分のドラマは受け手にとってリアルなものとして感知される。そしてこれらの一つ一つの〈設定〉は全体として大きな秩序、統一体を作り上げていることが理想であり、〈設定〉が積分された一つの全体を〈世界観〉とアニメメーションの分野では呼びならわしている。

これが明らかに、「ビックリマンチョコ」と同じ構造をもっていることはおわかりだろう。「機動戦士ガンダム」は、当時の子ども達にとって、〈表向きの物語〉のみならず、その裏に隠されている「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)を統合していこうとする意欲こそが、アニメーションに熱狂する牽引力となっていたのである。

しかし、これだけのことならば、さして特筆すべきことではない。近代日本に成立した「私小説」の伝統は、個人体験の一つ一つから「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)を見ようとしたのであり、無数の「私小説」を読み続けた読者達は、新たな作品を読むことによって、また一つ〈世界観〉に近づくことができたという満足感を得ていたはずである。日本の近代文学はこの構造を基本としていたのであり、むしろ、「私小説」的手法に対抗して、ただ一つの〈世界観〉を捏造し、そのバリエーションとして作品を描き、読み続けた「団塊の世代」こそが特異な存在であったのだとも言える。

しかし、「ビックリマンチョコ」や「機動戦士ガンダム」は、この「私小説」的伝統とも一線を画す。読者のみなさんは想い出さないだろうか。「ビックリマンチョコ」のキャラクターを模したオリジナルのキャラクターを、教室で脇目もふらずにデザインする男の子達の姿を。また、「機動戦士ガンダム」のキャラクターを模したオリジナルのキャラクターを熱狂的にデザインし続ける、「おたく」と呼ばれた同級生達を。彼らは決して、単にオリジナルのキャラクターを創造していたわけではない。「ビックリマンシール」から、或いは「機動戦士ガンダム」から〈世界観〉を読み取った者達が、自らその〈世界観〉を構成する新たなキャラクターを模倣的に創造していたのだ。

それはこういうことだ。「ビックリマンシール」の772のキャラクターすべてを集めてしまった子ども達は、「ビックリマン」が提供する「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)をすべて把握してしまう。その〈世界観〉を手に入れてしまった子ども達にとって、772枚に及ぶ個々の「ビックリマンシール」は、〈世界観〉と整合する772の小さな小さなドラマに過ぎなくなる。つまり、〈世界観〉を構成する極々小規模な要素に過ぎなくなり、「〈大きな物語〉の全体像」即ち〈世界観〉を追い求めて、次々とシールを購入していた時代と比べて、その価値は相対的に低くなってしまうわけだ。相対的に低くなるというよりは、もはやどん底に近づくといった方が当たっているかも知れない。

そうした場合、新たな〈世界観〉を提供する「ビックリマンシールⅡ」が出れば良いのだが、772ものキャラクターが、一つの〈世界観〉をもって、ネットワークを結んでいる商品を、メーカーもそう簡単にはつくることができない。そこで、この「ビックリマン」の〈世界観〉を手に入れてしまった子ども達が始めたことが、その〈世界観〉に整合する773人目のキャラクターを自ら創造することだったのである。そして、その773人目のキャラクターが774人目のキャラクターを呼び、そこにキャラクター相互の関係(抗争だの裏切りだの)が生まれていく。また、その関係を解決すべきキャラクターとして775人目のキャォラクターが必要となる。そうすると、ここに新たな「小さな物語」が出来上がる。しかもそれは、「ビックリマンシール」が提供した「〈大きな物語〉の全体像」(=世界観)と密接な関係性を保持するとともに、完全な整合を得ている。こうなると、これらの模倣的創造品が「偽物」とは言い切れなくなりはしないか。あの子ども達や同級生達の熱狂ぶりは、まさに商品開発に参画しているという主体意識だったのである。

さて、ここで、かつての「教育技術の法則化運動」の運動方針を見てみよう。

1 この運動は、二十世紀教育技術・方法の集大成を目的とする。「集める」「検討する」「追試する」「修正する」「広める」(以上まとめて法則化とよぶ)ための諸活動を行う。
2 運動の基本理念は次の四つである。 
①教育技術はさまざまである。できるだけ多くの方法をとりあげる。(多様性の原則)
②完成された教育技術は存在しない。常に検討・修正の対象とされる。(連続性の原則)
③主張は教材・発問・指示・留意点・結果を明示した記録を根拠とする。(実証性の原則)
④多くの技術から、自分の学級に適した方法を選択するのは教師自身である。(主体性の原則)
3 目的・理念に賛成する人は、事務局に連絡して支部・サークルを結成できる。支部・サークルは定期的な研究会などの活動を行う。
4 事務局は、支部・サークルに対して「定期的な情報」「企画の優先案内」「資料等の斡旋」等の活動をする。活動資金は、事務局の諸活動の中からつくり出す。当分の間、京浜教育サークルが事務局を担当する。
5 事務局と支部とは対等の関係にある。支部はその責任においていかなる企画を実施することもできる。また諸活動に対する賛成・反対・拒否・無視は何人も自由である。
6 この運動は次のとき解散する。
①目的を達成したとき。(日本教育技術・方法体系の完成、コンピュータ検索システムの完成、追加・修正システムの完成等)
②事務局を担当する支部・サークルがなくなったとき。
③21世紀になったとき。

注目していただきたいのは、この運動方針の1と2である。

「教育技術の法則化運動」に参加する教師は、まず運動内部の実践報告を「集める」。それを次々に「追試する」ことによって、自らの実践として位置づけていく。こうした中で、それぞれの実践報告同士の関連について思考し、場合によっては「修正する」。こうした営みを続けながら、全国で次々に開発されていく新たな実践報告の集積・追試・修正を繰り返していく。これら一つ一つが、強大なネットワークを形成していく。

おそらくこの営みの原動力となったのは、当初は〈大きな物語〉(=〈世界観〉)に到達したいとの欲望であり、自らが実践を開発するようになってからは、〈大きな物語〉(=〈世界観〉)と密接な関係性をもつとともに完全なる整合を示している、自分自身の〈小さな物語〉の創作だったのである。「法則化運動」に参加する教師たちのメンタリティは、独自のキャラクターデザインに熱狂するあの子ども達と同様のものである。

おそらく深澤久の「命の授業」も、そして「マル道」も、若き「法則化戦士」のこうしたメンタリティの中から生まれてきた。言わば、「法則化亜種」である。

私は批判的に言っているのではない。彼らよりもひと世代若い世代で構成され、私が代表を務める「教師力BRUSH-UPセミナー」も、同様のメンタリティにおいて、好むと好まざるとに関わらず「法則化亜種」として存在していることを自覚している。

しかし、「道徳改革集団」が、或いは我々「教師力BRUSH-UPセミナー」が、「法則化亜種」から脱却し、新たな教育理念と新たな運動理念のもと、新たな志をもって活動していこうと考えるならば、かつてグーグルがマイクロソフトを食い破って情報世界を席巻したような、ドラスティックなシステム転換が必要である。

「道徳改革集団」と「教師力BRUSH-UPセミナー」の協力関係を模索したい。

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仮眠と風呂

疲れが溜まっているのか、朝起きるのがつらかった。それでもなんとか躰を起こして学校へ。5週連続の週末研究会の3週目。しかも間に京都ツアーあり。きっと京都行きの疲れが出始めているのだろう。ゲラや原稿、研究会準備の目白押しも今週をきつくしている。学校が平和なのが救いといえば救い。

授業は4時間。しかも午前中4連発。1時間目は1年生の書写。図書室読書。3~4時間目は2年生の国語。1時間は付属語の解説。2時間はこれまで習った文法の復習。給食を食べ、昼休みに漢コンの追試をやったところで、家庭の事情の帰宅。半日、リフレッシュ休暇をとった。

夜に帰宅後、まずは仮眠。そして風呂。これでかなり生き返った。21時から5日(土)のワールド・カフェ講座の準備。教材をつくった。これができればあとは体験させるだけ。それなりの時間になるだろう。夜の呑み会も予約完了。ブラッシュ関係のメールが多数入っている。次年度のブラッシュは10~11月に集中する。この時期、また苦しそう。ただし、1学期にはほとんどブラッシュ関係がない。ここで英気を養えるだろう。

いずれにしても、「仮眠」と「風呂」のセットの大きさを実感した。

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SCARBOROUGH FAIR/MARIANNE FAITHFULL

51n3bgnizl__sl500_aa300_THE BEST HITS 100」という5枚組の企画盤シリーズがある。いろいろな企画ものがあって、ぼくも何セットか購入して聴いている。その中に「FEMALE VOCAL」という企画があって、買ったままずっと封を開けることもなくCDラックに眠らせていた。昨日あと目がとまって、1枚目から聴き始めた。初めて聴く曲、懐かしい曲、どこか聞き覚えのある曲、ちゃんとアルバムをもっていていつも聴いている曲、いろいろあるわけだが、2枚目の12曲目に聞き慣れた曲なのになんとも新しい世界観を垣間見せてくれる、そんな曲があった。

SCARBOROUGH FAIR/MARIANNE FAITHFULL

1966年というから、ぼくの生まれた年のリリースである。こんな美しい「スカボロー・フェア」をぼくはいまのいままで知らなかったのかと、公開とも懺悔ともつかない不可思議な感慨を覚えた。遅ればせながら出会えて良かったとも感じた。

マリアンヌ・フェイスフルといえば、一時期、ミック・ジャガーの恋人だったか嫁さんだったかした人だ。その程度の知識というか、認識しかなかった。女優かモデルだと思っていたのだが、シンガーだったのか……。そもそも顔も知らないのだから、そんなことを知るはずもない。

それにしても、それまで知らなかった新たな歌を聴いてこんなにも感動したのは久し振りのことである。もういつ以来のことなのか思い出せないほどに久し振りだ。

今夜はこれ1曲を何度も何度もリピートしながら、ゲラと向かい合った。ぼくの場合、美しいボーカルは仕事の集中力を高める。アイディアも出るし、原稿執筆も進む。今日もそのジンクスが証明された。何度か聴き入ってしまうことはあったけれど、校正を今日中に終わらせることができたのはこの曲のおかげである。

美しい曲に出逢うと、それもずいぶんと前からこの世に存在していたそれなりに古い曲に出逢うと、これまでその曲を知らなかった自分の人生が急に色褪せて見えてくる。あのときこの曲を知っていれば異なった選択がなされたのではないか、あのときこの曲を知っていればもっと早く哀しみは癒えたのではないか、そんなふうに思えてくるのだ。

逆に、いまこのタイミングでこの曲に出逢えたことには何か意味があるのではないか、この曲との出逢いがこれからの人生を充実させる契機になるのではないか、そんなあり得ない妄想も抱いてしまう。ぼくにとって美しい音楽はそれほどに重要なものである。

マリアンヌ・フェイスフルの「カスボロー・フェア」はそれほどに美しい。

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月刊国語教育/東京法令

東京法令の「月刊国語教育」が廃刊となるようだ。ぼくにとって唯一、新卒から購読してきた雑誌である。長く購読してきた者の一人として、とても残念に思う。

思えば、ぼくが初めて執筆させていただいた商業誌がこの「月刊国語教育」だった。古典教育に関するたった1頁の原稿だったが、ない知恵をしぼって一生懸命に書いた記憶がある。掲載誌が送られてきたときには、なんとも照れくさい、そして誇らしい気持ちに包まれたものだ。

その後、もう何度書いたか覚えていないほどに原稿を書いたし、ぼくの著書は編集長の青木さんが必ず書評を載せてくれた。いくら感謝しても感謝しきれないくらいにお世話になった雑誌である。

10年ほど前から教育雑誌が次々に廃刊、休刊に追い込まれている。明治図書の連合雑誌の合併、学事の「月刊HR」と「月刊生徒指導」との合併、そして「授業づくりネットワーク」の季刊化、「教師のチカラ」だけがまずまずの売り上げを誇っているようだが、ぼくも何度か書かせていただいているというのに編集を担当している方々には申し訳ないのだが、そう長続きするようには思えない。いよいよ時代が目に見えて終わろうとしているようだ。

正直にいえば、時代は既に10年近く前から終わっていた。そのことにだれもが気がついていた。なのになんとか延命策を模索して努力を続けてきた。それも限界になりつつある。そういうことなのだ。

間違いなく、ぼくらが育ってきた環境が終焉を迎えつつある。ぼくらを育ててくれた環境が終焉を迎えつつある。

いずれにせよ、一つの出版モデルが終焉を迎えつつあることは確かである。それをマスの終焉と呼ぶこともできるだろうし、一人の編集者が読者の関心をリサーチして刊行する雑誌モデルの終焉と呼ぶこともできるだろう。数人の編集チームをつくったところで同様。これだけ分離分割した人々の興味関心を把握できるはずもない。要するに世の中を「最大公約数ではかる時代」のマーケティングが終焉を迎えているのである。

おそらくぼくがいま書いている原理・原則をまとめるタイプの提示の仕方も賞味期限はそう長くはないだろう。長くて数年、短ければ1年程度かもしれない。いや、実はもう終わっている可能性さえある。そう考えれば、このタイプの中間まとめはやはり今年こそものにしなければならないということなのだ。

これからどんな時代がやってくるのか少しだけ楽しみでもあり、しかし自分は自分であってどうでもいいことのような気がしているところもあり。とにかく今年は、自分のこの20年間の仕事に中締めを施す年と決めたのだから、それに全力を注ごうと思う。

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批判こそ礼儀

帰宅してからゲラの読み直しに取り組んでいる。昨夜、一応ひと通り目を通したのだが、そのときは誤字脱字、不的確な表現のチェックに終始した。今夜は読者を想定しての表現のチェックである。

ああ、これは○○という考え方をしている人からは批判を浴びるだろうなあ……とか、ああ、これは○○派には誤解される表現だなあ……とか、ああ、これは○○的な人たちには通じないだろうなあ……とか、いろいろなことが浮かんでくる。何度か表現を改めようかとも考えたけれど、表現を改めるとぼくの意図が伝わらくなると思い返す。結局、そのまま……ということが多い。

批判を浴びても誤解されても通じなくても、それは仕方ないことなのである。いや、仕方ないというよりも、むしろそれは歓迎すべきことなのである。本を書くということは、いや、もう少し広く某かのことを主張するということは、批判されることと同義である。批判されたくない人間は表現などすべきではないのだ。そんな自分の世界観を主張して褒めてもらおうなどと考える表現者に、実は表現する資格などない。

表現するということは、或いは主張するということは、表現する者同士、主張する者同士で批判・検討し合い、世界を一歩でも二歩でも前に進めるための、世界をひとまわりでもふたまわりでも広く捉えるための、その過程に参加することなのである。

自分の表現に価値があると思い込んでいる人は、自分の主張にこそ真ありと思い込んでいる人は、自分の頑張りを認めてもらいたいために表現している人は、この構造を理解していないことが多い。そういう人間は表現することから降りなければならない。資格がないのだ。

表現し主張することは格闘である。だからぼくも、批判や誤解や誤読が予想されるとしても直さない。かかってくるならかかって来い、である。それも全力でかかって来い、である。ぼくも全力で応対する。そしてそれが新しい何かを生み出す。そこに価値がある。そういうことだ。

いいじゃないか。批判されてこそ意義、批判されてこそ成長、批判されない主張に価値などないのである。

批判こそ礼儀。

師匠森田茂之の言である。

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金返せ/初任研講師みたい

なんとも手一杯である。学級経営本のゲラ校正、5日(土)の教室実践力セミナーの講座準備、言語技術本の執筆、雑誌原稿の執筆、溜まっている録画ドラマの視聴、全部やりたいのだがこれだけ溜まると優先順位をつけて取り組まねばならない。

ドラマの視聴以外は締め切り日があるのだから、それに従って優先順位をつければいいのだが、そうは考えないのが面白いところである。まず絶対に遅れられないのはゲラ校正である。これがずれ込むと編集日程が狂ってしまう。だからこれが優先順位の一番なのは揺るがない……かと思いきや、まずはドラマの視聴がプライオリティの一番である(笑)。だって早く見てしまったほうが、ドラマ内容を気にせずに仕事に打ち込めるもの。

とまあこういう発想でこれまで何度も痛い目にあっているのだが、この性格だけは改まることがない。結局、1本見ては仕事を一つ、1本見ては仕事を一つ、ということになる。それでも仕事はなんとなく終わっていくから不思議だ。これは経験則でわかる。確率100パーセントである。いままで終わらなかった仕事は一つもない。仕事というものは多少遅れたとしても、結局は終わるものなのである。

ちなみに、こういう理屈が胡散臭い……。

しかし、遊び感覚のない人の仕事と、精神的に余裕のない人の仕事ほど見ていて楽しくないものはない。そういうのは講座なんかをやらせるとてきめんに出る。参加者に「金返せ」と言われたり、「初任研講師みたい」と言われたりするから、その講座に参加していなくてもわかる。そういうものだ。

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時間をもてあました一日

授業は4時間。2年生の国語が2時間、1年生の書写が2時間。

国語は文法の復習が1時間。若手の英語の先生(ハジョウの人)が参加し、彼をいじりながら進めていく。明らかに生徒より理解していなくて(笑)楽しかった。もう1時間は付属語の解説。なんともおもしろくない授業。でも、この1時間で助詞・助動詞を終わらせることで時間を生み出すことができる。

書写は1時間が「いろは歌」の清書。もう1時間は図書室で読書。「いろは歌」はずいぶんとうまくなっていてびっくりした。

空き時間は「いろは歌」の清書が出揃ったので、1時間は書写作品の評価。もう1時間は事務仕事。放課後は3年生の女子生徒が一人、推薦面接の指導をしてくれと頼みに来たので20分ほど対応。その後、生徒会役員と談笑。勤務時間終了と同時に退勤。

スキー学習で2年3組の担任だったのだが、特にトラブルなし。平和な一日。平和だとかえって一日が長く感じられる。時間をもてあました一日。こういう日は、勤務時間内に外の仕事もできればいいのに……と感じる。

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音読テスト

既に周知のように、新学習指導要領国語科に「伝統的な言語文化」が位置づけられました。中でも古典の音朗読、つまり「声に出して読むこと」が強調されています。さて、みなさんは古典を音読させる場合、どのような学習活動を組むでしょうか。おそらく、範読の後に追い読み、一斉音読を繰り返し、グループごとに朗読させたり群読させたりといったところが一般的なところではないかと思います。

しかし、ここで考えてみていただきたいのです。古典の音読が重視されるのはなぜなのでしょうか。古典を音読することによって、言い換えるなら、古典を音読させることによって何をねらっているのでしょうか。古典の音読にはどのような効果があるのでしょうか。

私は古典を音読することの最大の効果は、日本語特有のリズムにあると考えています。七五調や五七調はもちろん、七七を繰り返して韻律を整えたり漢文調のリズムをもっていたり、古典の文体はその作品によってまず間違いなくリズムが整えられています。一方、現代でも読みやすい文章、なんとなく面白く読める文章には、共通してリズムが意識されているという特徴があります。スピーチでもテンポのいいリズミカルな話にはひきつけられます。講演の中にちょっとした標語風の五七五が入っていると、聞いている側はなんとなく楽しい気分になります。読者のみなさんにも経験があるのではないでしょうか。綾小路きみまろの話芸などはその典型といえるでしょう。

リズムの整った文章、リズミカルな話には、表現された内容に加えて、日本語としてのある種の美意識が付与されています。これはかつて、「言語教育・文学教育論争」において西尾実先生が強調された点でもあります。そうした日本語の美的感覚を体感しつつ、その美意識についも考える、古典の音朗読を通して「伝統的な言語文化」について学ぶということは、おそらくそういうことなのです。

だとすれば、古典の音朗読にとって最も大切なのは、グループで朗読の仕方を考えたりどんな読み方が楽しいかということを考えること以上に、あくまでも個人で、古典作品を何度も何度も声に出して読むことです。声に出して繰り返し読むことによってしか、古典のリズムを〈体感〉することなどできないからです。従って、古典を音読する授業において何よりも大切なのは、数多く読ませるということになるわけです。

私は古典教材の授業を行うたびに、「平家物語」冒頭や「春はあけぼの」など暗唱する価値のある教材については暗唱テストを、暗唱する価値のない教材については音読テストを実施しています。暗唱テストにしても音読テストにしても、一人ずつ教卓に出て古典教材をテストを受けます。双方とも読み間違えてはダメ、一秒以上野間を明けてもダメ、文節以外のところで間をおいてもダメ、読み間違えたり詰まったりしてもダメという厳しさです。

特に音読テストの対象となる教材は、例えば「平家物語」であれば「扇の的」や「敦盛の最期」(教育出版教科書の場合)になるわけですから、教科書で2~4頁のかなり長い文章です。これを一度も読み間違わず、詰まらず、一定のスピードで読み切ることを強いるわけです。子どもたちは何度も何度も練習してきます。休み時間に練習している子も少なくありません。しかし、読みの練習を繰り返すと、どの子も必ず最後まで読み切れるようになります。

この音読テストの良さは、子どもたちが少なくとも五十回程度は音読を繰り返すことにあります。それも子どもたちの練習の仕方を見ていると、最初から声に出して読み始めて、一度詰まっては最初に戻り一度詰まっては最初に戻り、という練習の仕方をしています。これが古典のリズムに必然的に慣れさせるという効果をもっています。私の受け持っている子どもたちは、中学2年生くらいになると、どの子もほぼ例外なく初めて読む古典作品であっても古典のリズムで読むようになります。「古典のリズムを〈体感〉する」とは、このレベルのことを言うのです。

もちろんグループ朗読や群読を否定しているのではありません。そういう指導以上に、あくまで子どもたち個々がリズムを〈体感〉することのほうが優先順位が高いはずだと言っているだけです。指導時数に余裕があるならば、朗読や群読を取り入れて、豊かな表現活動をも志向すべきでしょう。

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教師のための成長術/長瀬拓也

『失敗・苦労を成功に変える教師のための成長術-「観」と「技」を身につける-』
長瀬拓也・黎明書房・2011.02.10

若手教師の〈人間〉がよく出ている書として、大変好感をもって読んだ。圧倒的に優れた教師による圧倒的に優れた成長術ではないところに、本書の価値がある。しかもその点に著者が自覚的なのもいい。

しかし、違和感を抱いたのも事実である。最も大きな違和感は本書のコンセプトともいえる「『観』と『技』の二項」のみによって著者が自らの失敗を分析している点である。「観」は理想・思想、「技」は技術・技能とすれば、明らかに第三項が必要である。それはぼくの言葉でいえば「自己キャラクター」である。

ごくごくシンプルに定義つければ、「観」は頭の中にある思想である。頭の中の思想は本や研究会で得た情報と自らの生活経験、実践経験から形成される。つまり、「観」は〈情報〉と〈体験〉の融合として現出する。学べば学ぶほどに、経験すれば経験するほどに「観」は修正され、基本的には「大きく」「広く」という拡大ベクトルと、「深く」「細かく」という深化ベクトルとが螺旋状に関連し合って高まっていく。そういう構造をもっている。

「技」は自らの外にあるデータベースである。決して自分だけのものではない。「観」が究極的には分かち伝えることができないのに対し、「技」は軽薄短小から重厚長大へと相対的な差はあるものの、基本的には分かち伝えることのできるものである。また、「技」には、ほぼ自分のものにしていていつでもどこでも使える技、ある程度自分のものにしているが条件がそろっていないと使えない技、一応訓練はしているけれどまだまだ使うのが下手な技、その技があることを知ってはいるけれど自分には使えない技、といった様々なレベルもある。データベースにはこうしたレベルの違いも整理されている必要がある。こうしたレベルが意識されていないデータベースは、技術的・技能的データベースとしては不完全であり、機能しない。

さて、頭の中の「観」と自らの外にある「技」、教育実践においてこの二つと同等の重みをもって条件として位置づいているのが「自己キャラクター」である。教師の持つ「キャラクター」に応じて、使うにふさわしい「技」とふさわしくない「技」がある。これを多くの若者が、そして多くの実践研究をする教師が理解していない。

野口芳宏氏に子どもたちを追い込むタイプの授業技術がある。「裁きの場に立たせる」とか「論破させる」といった方向性の授業技術である。これをだれでも追試していい授業技術だと思ったら大間違いである。

例えば、これを菅原文太先生が使ったとしよう。子どもたちは必要以上に緊張感を強いられ、授業技術が機能不全を起こす。「裁きの場に立たせる」「論破させる」といった授業技術は、野口氏のユーモラスな語りで包み込むことのできる「キャラクター」とセットであるからこそ機能するのである。野口流授業技術の多くが、実は怖すぎるキャラの教師には危険性をもつという特徴がある。

例えば、これをアンガールズ先生が使ったとしよう。子どもたちは教師の強制に不満を抱くかもしれない。少し子どもだれている雰囲気を感じたアンガールズ先生は、野口実践の追試だから野口氏よろしく子どもたちにすごむ。はっきり自分の意見を主張しろ、と。しかし、それが子どもたちの不満に更に火をつける。なぜそこまで強要されなくてはならないのか、と。アンガールズ先生が野口氏に習ったとおり一歩も引いてはいけないとすごみ続ければ保護者クレームへ、自分には無理だと引いてしまえば教師とその子のカーストが逆転する。いずれにしても学級崩壊へつなりかねないマイナス要素となる。

若手教師にとって、「観」をもつこと、「技」を学ぶことと同等に大切なのは、「己」を知ることである。自分は子どもたちにどういう印象を与えるのか、保護者にはどうか、職場でのステイタスはどうか、性格的に楽観的か悲観的か、他人と協調することに喜びを感じるタイプか否か、などなど。そして何と言っても大切なのが「見かけ」であり「ルックス」である。教師にはいわゆるイケメンや美女である必要性はない。しかし、菅原文太とアンガールズ、小沢一郎と鳩山由紀夫、キムタクとシンゴ、ビートたけしと明石家さんま、なんでもいい。こういう組み合わせで考えたとき、同じ教育活動をおこなって同じ効果がでるはずがない。まったくキャラクターが異なるからである。

「キャラクター」は見かけやルックスだけで構成されるわけではない。ちょっとした表情、ちょっとした仕草、子どもがトラブルを起こしたときにどういう態度で接したか、周りの先生にどういう態度で接しているか、服装はどうか、運動能力はどうか、恋愛経験が豊富そうに見えるか、頭の回転が速いか、そうした多種多様な物事の総合的なイメージによって決まる。

これらのすべてが野暮ったく、ある種の威厳、オーラをもっていない教師は、それらをもっている教師よりも、基本的に「教師-生徒」関係を築くのが難しい。一応断っておくが、これは子どもを怖がらせるような威厳とは限らない。周知のように、石川晋や中村健一には怖がらせるような威厳はない。しかし、頭の回転の速さや圧倒的なユーモア力といった核となるイメージに種々のキャラクター要素を総合的にもっているが故に、ある種の威厳、オーラを感じさせるのである。これは自分ではわからない。あくまでも他人にどう見えるか、ということがすべてである。

若者に最も欠けているのはこれなのである。これが欠けている自覚がなく、なのに自分の頭の中の「観」や頭の中のセルフイメージだけで変に過信し、それに依拠して教育活動を行おうとするところに、子どもたちに見透かされる要因がある。

ぼくらの年代の教師から見れば、「できる教師」は新卒4月から〈目〉でわかる。それは学級開きで「できる生徒」(勉強ができる、という意味ではない)が瞬時にわかってしまうのと同じである。

「できない教師」にとって必要なのは、まず「己」を知り、自分の「キャラクター」を生徒や同僚との関係からよく分析して、自らの「観」を実現するために、双方をつなぐような「技」を選んで用いることなのである。

今日はここまで。

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どうせやらなければならないことだから。

朝から大雪。大渋滞。なんとか出勤時間にぎりぎり間に合う。1時間目は自習監督。生徒会反省を修正したあと、長瀬くんの新刊を読む。この1時間で読み終わる。その後は授業が3連発。すべて2年生の国語。文法の復習が2クラス。付属語のノートのまとめが1クラス。昼休みに漢コンの追試。5時間目の空き時間は事務仕事。放課後は全校協議会のあと、生徒会役員と打ち合わせ、更に校務部会。少し早めに退勤して家の除雪。朝からロードヒーティングを入れていたので、けっこう楽。おそるべし、ヒーティング!灯油の値段が落ちればもっといいのだが……。

家に帰ると、今月末に上梓する学級経営本のゲラが届いている。今日は校正の日になるようだ。言語技術本の原稿をコン詰めて書こうと思っていたのだが。まあ、それもよい。どうせやらなければならないことだから。

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