結婚式とお葬式
ネットワーク千歳で言い残したこと、時間が足りなくて詳しく言えなかったことを書いておきたい。
あくまで「たとえ話」ですから、「たとえ話」としてお読みください。
職員室になんとなく好きではない同僚がいるとします。必然的にあまりつきあいもないし、必要以外は会話もしません。呑み会でもその同僚の隣になるとなんとなく落ち着きません。笑顔もつくり笑顔になってしまいます。
A.そんな彼が結婚をすることになりました。結婚式の案内状をもらいました。それほど大きな学校ではありません。いまひとつ苦手な同僚とはいえ、義理で出席することにしました。
B.そんな彼の御母堂が亡くなりました。もちろんお会いしたこともないのですが、同じ町でお葬式が行われるとなると出席しないわけにもいきません。いまひとつ苦手な同僚とはいえ、義理で出席することにしました。
さて、一般にAへの出席とBへの出席とでは、どちらが苦痛に感じられるでしょうか。
普通に考えて、より苦痛が伴うのはBのほうではないでしょうか。そしてそれはなぜかといえば、お葬式が祭壇に向かって黙って座っていなければならないからです。
結婚式ならその同僚との関係がともあれ、多くの場合円卓で、仲の良い同僚とわいわいやりながら参加することができます。そこが結婚式だというだけで、やっていることはふだんの呑み会と変わりません。その同僚の悪口をいうことが厳禁であるほかは、比較的自由です。トイレに行きたくなれば、主賓の入退場と両家挨拶以外なら我慢する必要もありません。
しかしお葬式は違います。ただじっとしていなければなりません。お坊さんのお経も意味がわかるわけでもなく、そこに何か興味を惹かれるようなパフォーマンスがあるわけでもありません。近くには仲の良い同僚がいますが、会話をすることは厳禁です。それどころか、じっと座っていてお尻が痛くなっても、座る位置ちょっと変えるのもはばかられます。最初から最後までトイレに立つこともはばかられます。
実はこのお葬式が授業です。授業を義理で出席しているお葬式と比べるのは何事かと思われる向きもあるかもしれません。しかし、生徒たちは授業に義理で出ているのです。決して自発的にそこにいるわけではありません。もちろんそういう子がまったくいないわけではありませんが、それはごくごく、ごくごくごくごく少数に過ぎません。
たまに、授業づくりにおいて、まるで自分のに親が亡くなったときの葬式のような、子どもが心の底から学んだ、心の底から熱くなったとでもいわんばかりの実践報告を聞くことがありますが、ぼくはそういう実践報告を信用しません。構造的にあり得ないのです。誤解を怖れずに言えば、学校というシステムは所詮「強制収容所」です。もしも心の底からということがあり得たのなら、それは百歩譲っても「洗脳」であって、「教育」ではありません。
さて、この従来の義理で出るお葬式のような授業を、せめて義理で出る結婚式くらいには抵抗を和らげてあげられないだろうか。それがワークショップの導入であり、カウンセリングマインドの導入であり、ファシリテーションの導入であり、また、この構造について深く考えながら授業づくりをしていこうとしているのが「学びのしかけ」論である、とぼくは捉えています。
ぼくはミニネタ系の方々を決して批判しませんし、基本的には嫌いではありません。土作さんも健ちゃんも、そして山田くんなんかぼくはあまりに気に入ってぼくのイベントに呼んだほどです。しかし、いわゆるミニネタ論は、言ってみれば「おもしろいお坊さん」ともいえる実践なのです。とにかくお坊さんがその場を仕切ってものすごく頑張る。そういう実践です。
またお葬式で考えてみましょう。義理でお葬式に行ってみたら、ノリのいい木魚の叩き方をして、ラップのようなお経を唱えるお坊さんでした。あなたはもう、可笑しくてしかたがありません。来て良かったとさえ思います。でも、お経が始まって5分も経つと、そのお坊さんにも飽きてきます。来て良かったという気持ちも薄れてきます。見にネタとはこういうことなのです。
しかし、ラップのお坊さんがお経を唱えて5分が経った頃、今度は長髪のかつらをかぶって髪を振り乱しながら、オーケストラの指揮者のような振る舞いを始めたらどうでしょうか。あなたもこれならまた、最初にこのお坊さんを見たときのテンションにあがれるのではないでしょうか。そのまた5分後には物真似を10連チャンでお経を、更に5分後には手品を交えながらお経を、その5分後には……。そうです。ミニネタ系の人たちがミニネタをたくさん開発するのは、ミニネタという実践の在り方が必然的に〈数〉を必要とする実践構造をもっているからなのです。
だったら、生徒たちを結婚式のように周りとのコミュニケーションによって自力で楽しむ方向に持って行くような原理・原則を開発したほうが楽なのではないか。或いはミニネタはあくまで導入で使うものとして、その後はグループワークをやっていくというような授業構造を打ち立てるほうが息長く続けられるのではないか。ぼくが言いたいのはこういうことです。そしてこういうに考えることが「学びのしかけ」を考えていく第一歩になるのです。
一応、最後に書いておきますが、これが「学びのしかけ」だと主張しているわけではありません。あくまでもこういう考え方をすることが「学びのしかけ」を考えていく〈第一歩〉になる、と言っているのです。誤解のないように……。
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