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「学び合い」ツアー

書きたいこと、書かなければならないことがたくさんあるのですが、何と言ってもまずは昨日まで二泊三日の強行で行ってきた西川研究室のことを書かねばならないでしょう。

【1日目/11日・火】

11日の9時。山ちゃんの車に迎えに来てもらって千歳空港へ。11時の飛行機で新潟へ。新潟に着いたあと、JRで高田へ。16時過ぎにホテルチェックイン。17時から西川先生を囲んで小宴。「学び合い」の理念的なこと、実践的な手法について、また運動としての広がり、学校体制として取り組むことの現実的な難しさについて、ぼくらの質問に次々に応える形で話が進んでいく。この段階では理念的なことについては概ね理解、何の文句もない。ただ、あまりに理念的に純粋すぎて、現実の学校運営と齟齬を来す危険があるとは感じた。

20時過ぎに西川先生退出。入れ替わりに赤坂を呼び出してこの小宴は暴発!ただの呑み会になってしまった……と思いきや、例によって石川晋が赤坂にからみ始め、おもしろいなあと思いながらも石川をいさめる。石川は思い込みが過ぎるので、ある程度セーヴしてあげないと責められる側がつらい。石川晋がショーとして対話しているときはいいのだが、石川晋がまさに石川晋として対話しているときには、対話者が石川晋の思考回路を理解していることが前提となる。赤坂の場合はけんかになる心配はないが、石川晋の本当にぶっとんだところは知らないだろうから、二人の話を基本的にはおもしろがりながら、たまに石川をいさめる。そういう展開が1時間半ほど続く。

11時過ぎに場所を移して二次会。ここはそばに日本酒でじっくり語り合う。1時過ぎにホテルに戻り、10分後にはぐっすり。

【2日目/12日・水】

8時にホテルを出て、学生さんの車で上越教育大学の西川研のゼミ室へ。ここではゼミ生もまじえながら議論。ただ、西川さんばかりが話し、ゼミ生が聴いているだけという雰囲気はちょっと気になった(後に、この夜の呑み会でゼミ生がいろいろなことを考えているということはわかった)。

その後、車で30分ほどのところにある、「学び合い」に全校体制で取り組んでいるという学校に向かう。3段階ある「学び合い」レベルの初期段階にあるという小学校である。学校長の話を30分ほど拝聴したあと、1・2・3年生と4・5・6年生と、全校児童を二つに分けての「学び合い」算数の授業を参観。ぼくは4・5・6年生の授業を見る。

学年毎に設定された3つの算数課題(基本的に教科書に基づいた課題)に各学年が取り組み、課題を終えた者から学年を飛び越えて学び合い、教え合う。理念的には一人も取りこぼしをつくらず、だれもが課題を解決することをめざす。時間は35分。同じ階のどの教室で取り組んでもいいし、時間内の移動も可。当然、立ち歩きも可。最終的には課題解決をはかれなかった児童は3学年で二人。課題を解決できなかった子が泣き出したのが印象的だった。全員が課題解決をという理念が浸透している証拠でもある。正直な感想をいえば、イメージしていたものよりもダイナミックさに欠けるな、というのが印象。おそらく全校児童による「学び合い」の予定を、体育館が寒かったため、下学年と上学年とに分けたことが災いしたものと思われる。

ぼくが特に注目していたのは、授業冒頭の教師の語りと授業最後の教師の言葉。語りは課題について説明することはなく、つまり授業の内容面については語ることなく、基本的には「一人も置いていかない」「他学年とも交流する」という2点を重点的に語っていた。これは「学び合い」の理念を具体的な学校現場に置き換えた言葉だと考えられる。これに対応して、最後に全員を一箇所に集めた場面では、「課題を解決できた人」「解決できなかった人」とそれぞれ挙手させ、「次は全員を目指して」という言葉がけをするのが第一、「他学年とも交流することができたか」を訪ねて挙手させ、「次はもっともっと」という言葉がけをするのが第二。これで終わった。

この時点での授業の感想としては、①子どもたちは割とよく動いている、②遊ぶ子は少なく、活動形態と二つの理念との子どもたちへの定着度は比較的高い、③教師間に意識のズレがあるのがよく見える学習形態である、④教師のカリスマ性が高いほどより効果が高まる学習形態、⑤初期段階の「学び合い」は体のいい習熟度別学習という感は否めない、⑥初期段階の「学び合い」は学力の高い子どもを犠牲にして成り立つ傾向がある、⑦確かに従来型の授業よりは成績下位児童にも目が向いており、最低点をかなり上昇させる効果がある、⑧教師集団が従来の学校システムの思考枠組みからどれだけ外に出られるかがその成否を決める、こんなところである。

次の時間は4年の算数、5年の社会、6年の算数が公開された。今度は学級毎の「学び合い」である。ぼくは5年の社会を参観。課題は「日本の国土の特徴を説明しよう」。まずは資料集で各自が日本の国土を色分け、山地・山脈や平野などをおさえる。次に、日本の国土の特徴をそこから読み取って箇条書きする。終わった者から日本の国土の特徴について説明し合う。こういう流れ。

授業の感想として最も強く感じたことは、「学び合い」が立ち歩き可としているのなら、この活動において教室の戸が閉じているのはなぜか、ということである。図書室やPC室に行かせることがこの先生の頭の中にはない。周りの学級を見に行ってみると、他の学級も同様。これは従来の学校システムの枠組みからこの学校の先生方が抜け出ていないことを示している。

昼休みを兼ねた授業者との交流タイムにおいて、もっと高次な課題、例えばオープン・エンド課題にはどんなものがあるのかと訊いてみると、研究を進めている教務主任は行事を中心に語り始めた。ということは授業ではまだそこに踏み込んでいないものと理解した。これを突っ込むと失礼なこともいわなければならなくなるので、それ以上はやめた。

次に社会について。①社会科の授業を公開した先生に、子どもたちの箇条書きの書き方が名詞止めで統一されていたり、「~している」で統一されていたりと、よくできていたが、どういった指導があるのかと尋ねた。担任は特に指導しておらず、資料集を参考にしたのかもしれない、と応えた。②石川晋が授業中に担任に話しかけ、「学び合い」活動をしている子どもたちの何を見ているのかと訊いたところ、「かかわり合い」を見ていると応えた。③教室には「学び合いスタート・ブック」が置かれ、かなり頁に折り目がついている。児童がかなりこの本に目を通していることがうかがえる。意図的に置いているのかと訊いたところ、そうだと応える。

この三つを総合すると、この先生には子ども同士の「かかわり合い」に対する意識がかなり高いものの、指導内容に対する意識がきわめてうすい、ということがいえる。もちろん、箇条書きなら箇条書き、関わり方なら関わり方について一斉指導で授業したり、説明したりしろと言っているのではない。「学び合いスタート・ブック」を置くというような環境管理型権力(ぼくの言葉では「環境調整型権力」)に対する意識があるのだから、もっと意図的に教室環境、授業環境を整えてもっともっと高次の学力を身に付けさせてやることができるはずである。これは今後の課題ということか。

この後、大学に戻って議論。更に西川ゼミの新年会を兼ねての宴会。ここで現職として派遣されてきている院生と懇談。かなり深いところまで話し込むことができた。いろいろな話しをしていろいろな感想をもったのだが、これは個人が特定できてしまい、しかも個人情報もかなりあるので書かないことにする。

【3日目/13日・木】

朝7時半にホテルを出て、1時間半ほどかけて「学び合い」に取り組んでいる小規模の小学校へ。昨日の学校が「学び合い」を教務主任を中心としたボトムアップで薦めているのに対して、この学校は学校長からのトップダウンで「学び合い」に取り組み始めた学校。まずは学校長のお話を聴いたが、この方はそれはもう聡明な方で、子どもたちの現実、職員の現実、学校規模の問題、地域の特性、「学び合い」の理念と現実とのギャップの埋め方、「学び合い」活動中の高学年の動き方とその限界などなど、ぼくらの質問にすべて的確な応え方をされる。素晴らしい校長。

全校学び合いの算数を参観。①子どもたちの「学び合い」の雰囲気がとても良い、②しかしそれは、学校規模によるもともとある人間関係によるところが大きい、③教師の意識のズレが昨日の学校よりも更に大きい、④「学び合い」に全校で取り組んでいるというのに、ベテラン教師が「学び合い」を理解していないのが大きくマイナスに機能している、⑤学校規模が小さい分、この学校は教師の意識が変われば大きく機能する可能性がある、⑥教師に時間意識が見られないことが影響し、子どもたちにも時間意識が見られない、といったところ。時間意識については、朝の集会が先生の説教でかなり伸びていた、子どもたちが時間が来て教師から「やめ」の合図があってもなかなか「学び合い」活動をやめなかった、という二つの場面から敷衍されること。

この後、直江津駅まで送ってもらい、赤坂と2時間ほど昼食で談笑した後、新潟へ。新潟空港19時10分の飛行機で帰ってくる。

帰りに考えたことは、①「学び合い」は総じて、教師の影響力を従来型の授業以上に必要とする授業形態であるということ、②冒頭の語りが非常に大切であり、その語りには日常的なコンテクスト、つまりは教師による「ヒドゥン・カリキュラム」が非常に大きく作用すること、③学校体制で取り組んでいる学校にしてこの状態であるから、個人的に「学び合い」を導入しようとすれば、学校内ステイタスが非常に高く、総合的力量が非常に高い教師でないと、子どもたちに「学び合い」を成立させられないばかりでなく、職員室との不必要な摩擦まで生じ、個人による中途半端な導入はその個人を最悪「心の病」にまで追い込む可能性のある、勝負をかけることが求められる授業形態であること、などがよくわかった。反面、④かなり可能性を秘めた学習形態であること、⑤「だれでもみできる学び合いワークブック」の類は絶対に出すべきではなく、時間をかけながら形骸化しない方向で広めていかなければならないこと、⑥力量のない先生が取り組むと、成功しても体のいい習熟度別学習や体のいい自習にしかならないこと、⑦学校体制で取り組むには高度なチーム力をもっているか、全教員を完全に押さえ込めるほどの強権発動をできる推進者を必要とすること、といった推進の目標や条件が理解できた。

意外だろうが、ぼくは「学び合い」に対して、その啓蒙に力を貸すことを厭わない程度には好感をもつことができた。北海道に西川先生をお呼びして、「学び合い」の模擬授業をし、研究協議を行うというイベントはぜひとも実現させたい。高次の「学び合い」の目指すところを提案できるか否かが広めるためのポイントになる。初級程度の「学び合い」を理解させるだけで広めると、「学び合い」は矮小化され、形骸化していく可能性が強い。

※GERRY MULLIGAN QUARTETの「LULLABY OF THE LEAVES」を聴きながら……。

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1952

高校生のときにFMの番組で聴いて以来、強烈にはまっている。

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