言語技術教育は普及したけれど……
1990年前後から国語科における「言語技術教育」の必要性が叫ばれ始めました。
いわく「国語科授業は何を学んだのかがわからない」、いわく「国語科授業には効用感がない」、いわく「国語科授業では気持ちが悪くなるほど気持ちが問われる」、いわく「文学作品ばかり追い求め、実用性がない」、などなど。
以来、20年あまり。
いまではほとんどの教科書や資料集・ワークの類に「文章構成」や「問題提起」、「ナンバリング」や「ラベリング」という用語が見られるようになりました。文学的文章を題材とした「読むこと」領域でさえ、「設定」や「視点」などの用語こそ使わないものの、教科書に「言語技術教育」の観点が大きく取り入れられるようにもなりました。
時代は「ゆとり教育」から「学力向上」へ。これは、ある面で「情意の教育」から「実用の教育」へとシフトしたことを物語っています。これが「言語技術教育」への追い風となったことは確かでしょう。21世紀になると同時に始まった「PISA型読解力」の流行も、「言語技術教育」の普及と無縁ではありません。総じて、時代は「言語技術教育」隆盛に向かいつつある、といっても過言ではないかもしれません。
しかし、一つの考え方が普及し定着してくると、なんでもそれで解決できる、これをやっていれば安心だ、と考える人たちが現れます。そうした人たちがその考え方に対する「万能主義」を喧伝します。それが更にその「万能主義」を普及させ、どんなに新しい考え方も、どんなに有効な考え方も形骸化していきます。
「言語技術教育」もこの構造と無縁ではありません。いま、国語科においてはなんでもかんでも「技術」を教えればよいのだと考える人たちが一定程度現れてきています。その風潮に「言語技術教育」を強力に推進してきた研究者・実践家でさえ眉をひそめている現実があります。
国語科の授業に「言語技術教育」の観点が必要であることは言うを待ちません。しかし、勘違いして欲しくないのは、決して「言語技術」がイコール「国語学力」ではない、ということです。
こういうあたりまえのことがあたりまえでないように喧伝されるのが世に中だと、わかってはいるのですが……。
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