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「学び合い」ツアー・2

石川晋の感想がブログに上がったので、これを受けてもう少し書いてみようと思う。

石川晋の記事

.『学び合い』はたしかに、異学年交流を楽々と実現する。

このことは確かである。ただ一方で、「学び合い」を実践しようとする中学・高校の先生方に失敗事例が多くあることも確かである。少なくとも現時点で、中学校・高校での異学年交流の実現を見ていないし、その噂も聞いたことがない。「楽々と」というのは少々言が過ぎるのではないか。いまのところ、小学校では……という注釈をつけるのが妥当だろう。

ただし、石川晋の学校のような地方の、純朴な生徒たちなら(こういう言い方をしているが、生徒たちの特性というよりは、その他の環境的・条件的な難問をクリアしやすい学校なら、という言い方のほうが正しいのだが)、おそらく異学年交流も楽々とできてしまうに違いない。しかし、都市型の大規模な学校で、保護者の理解を得られづらく、一人も置いていかないという理念が浸透しづらい(要するに、受験競争を主として考えているような地域)では、「楽々と」とは行かないことが容易に想像できる。事実、それを嘆いている「学び合い」実践者に会ったこともある。

2.しかし、一方で、では、子どもたちが本気で一人も置いていかないと考えているかというと、これは、私には、???だった。その最大の原因は、私は、この時点で、「課題」が本気で解決しなければならない、汗をかくものになっていないからでは、と考えていた。このことは私は重要なポイントだと思う。課題づくりは実は、教師の技量がはっきりと表れる難しいポイントだと考える。

これは重要なポイントである。ぼくも、「学び合い」は実はちょっとやそっとの力量の教師にはできない実践であるということを、実感したのが実はこの点だった。それも各校に一人いる程度の力量ではない。大都市の各教科に一人いるかいないかというレベルの力量を必要とするのである。課題が高次になってくると、ものすごく力利用の高いの教科プロパーにしか課題をつくることができない。

視察した二つの学校で設定されていた課題は、ともに「学び合い」実践と呼ぶには魅力の小さいものに過ぎなかった。それはともに答えがあり、しかも市販のテストを解ける程度の課題に過ぎなかったからである。前のブログで成績上位者を犠牲にして成り立っている習熟度別学習と書いたが、そういう状況に陥るのも課題のレベルが低いからなのである。レベルの低い課題を教えたとしても、成績譲位者にとっては自己が向上していることは実感しにくい。教えることによって確かになるとか、教えることによって成績下位者がなぜ理解できないのか、どう説明すれば理解できるのかを学ぶことはできる。しかし、そこには成績上位者にとっての必要感がない。

この構造をどう打破するか。成績下位者の向上をはかりながら、成績上位者にも当事者意識をもっての「更に上」を機能させる、二つの同時達成を目指す課題設定が必要になる。こうなると、各教科の授業においては、大都市に角きようか一人ずつしかいないような教科プロパークラスの力量が必要となるのである。「~説明することができる」といった課題のフォーマットである程度はクリアできると西川先生は力説されていたが、それは具体的内容を抽象的にラベル化したり、具体例を一つ見つけてわかりやすさを実感させるといった、単線的な課題解決に限られるだろう。こうした課題設定では成績上位者はまず間違いなく3ヶ月で飽きる。

しかし、このことは「学び合い」の可能性を否定するものではない。こういう反論が、むしろ西川理論の理論的正しさを証明しているところがある。しかしこの構造こそが「学び合い」の難しさであり、多くの教師が本気で取り組んでも挫折する要因にもなっており、なかなか現実と折り合いがつかないところでもある。

.『学び合い』がはじめてうまく行きはじめたと感じたエピソードを話していただいた時のある先生のお話しである。その先生は、1時間取り組んだ後、全員を見捨てない取り組みができたかを聞くと、ほとんど数人しか出来ていない事がわかり、そこで、はじめて本気で、説諭し、もう一時間取り組ませたところ、圧倒的にうまくいったという、興味深いエピソードを話してくださった。しかし、そこで、一つ抜け落ちている視点は、それが、当初の予定を壊して、二時間続きでやれる環境、つまり小学校の「制度」下だかr出来ているということだった。もし中学校だったら、ひょっとすると『学び合い』が続けられないほど致命的な結末を生む場合すらあるだろう。

これも大きな問題である。石川はこれが小学校の実践エピソードであることから、中学・高校ではできないことだとの論理で批判しているが、教育課程のシステムを崩壊させているという点ではこの実践も構造的には中学・高校と何も変わらない。小学校だから許される……というものでもないだろう。要するに、小学校が慣習としてこの「反則」を受け入れやすい体制にある、というだけのことである。

ということは、「学び合い」は立ち歩き可とか、先生が教えなくていいのかとかいうようなよく言われる教師の意識の問題だけではなく、学校のシステム、学校の制度自体を改変させることをも求める授業理念であるということなのだ。学校で個人が導入したときに起こる軋轢は基本的にこの問題である。周りの先生の意識が古いとか、意識改革によって乗り越えられるとか、そういうレベルの問題ではない。より高次に「学び合い」を成立させようとすれば、必ず学校制度の在り方と軋轢を生じる。かなり政治的な問題とも軋轢を生じる。そういう理論・実践であるということがいえる。

4.しかし、特に年配の先生方を中心に、子どもの中を「分断」して、教え続ける姿は、直視できないほどであった。また、先生方の多くは、異学年交流の場にありながら、わずか数人しかいない自分の学級の生徒しか見ていないのである。

学校制度と軋轢を生じるという問題に比べれば、この問題はむしろ小さな問題である。むしろこれは、子どもの能力を教師がどこまで信用できるかが勝負という、西川先生の理論的正しさを証明しているエピソードに過ぎない。あの学校に勤務しているベテラン教師の、個別的な、具体的な問題に過ぎない。それを超えるとしても、校長の指導力とか、職員室のチーム力とか、その程度の問題にしかならない。

いずれにしてもここに西川先生の苦しさがある。西川先生は自分で「学び合いはこうするのだよ」と見せることができない。研究者であって実践者ではない。このことが「学び合い」の現実的機能度を低くしている。子どもの力をとことん信じる姿を、そのオーラとともにモデルとして参観すれば、この事態はかなり避けられるのではないかとも思える。2年間しかいない院生では無理である。ここにもやはり、構造的な問題が横たわっている。

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コメント

読み応えのある報告をありがとうございます。『学び合い』に関する批判と可能性の両面を、書き出していてとても刺激的でした。

1月の明日の教室でも、あれこれ教えて下さい。
お待ちしております。

投稿: 池田修 | 2011年1月15日 (土) 13時12分

そうですね。言われなくても、「学び合い」を議論の対象とする熱が冷めないままに、堀も石川も京都入りすることになると思います。
では、お会いできるのを楽しみにしております。

投稿: 堀裕嗣 | 2011年1月15日 (土) 13時59分

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