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「言語技術教育」の究極の目的

「言語技術教育」を実践している教師によく見られるのが、ある技術を一度指導しただけで事足れりとしてしまう例です。言語技術に限らず、「技術」と呼ばれるすべてのものは一度指導した程度で身に付くような簡単なものではありません。習熟するために何度も何度も繰り返し練習して次第にそれが定着していく、そういうものです。野球選手が素振りを繰り返したり、武道で型を重んじたりということを思い浮かべれば、容易にイメージできるはずです。

「言語技術」も同じです。一度指導したくらいで子どもたちに身に付くと考えるのは大間違いで、繰り返し繰り返し、すべての子に定着するまでしつこく指導し続けなければなりません。これが「言語技術教育」の一つの側面です。

実は、「言語技術教育」にはもう一つ、大切な側面があります。それは誤解を怖れずにいうなら、「言語技術」は所詮「技術」である、ということです。「こういう場合はこういうふうに表現するといいよ」「こういう場合にはこんなふうに考えると理解しやすいよ」という言語活動における一般論を、「言語技術」という大仰な言葉で呼んでいるに過ぎません。たかが「技術」、たかが「一般論」ですから、どんな子でも練習を重ねることで身に付けることができます。ただ定着するまでの時間が早いか遅いかがあるだけなのです。

ですから、私たちは教師として、「あの子はいつまでたってもできない」とか「あの子はセンスがない」とか言って諦めてしまってはいけません。言葉が話せて字が書けさえすれば、「言語技術」は必ず身につきます。この観点も「言語技術教育」を考えるうえで大切な大切な要素なのです。

言語技術に限らず、「技術」と呼ばれるものはすべて、その技術を知っていることには何の価値もなく、その技術を使えるようになって初めて価値をもつ、という特質があります。つまり、「言語技術」は「覚えてナンボ」のものではなく、「使えてナンボ」のものなのです。ですから、「言語技術教育」における私たちの目的は、子どもたちが「言語技術」を〈使える〉状態になるまで高めることです。しかも、できれば国語の授業で使えるだけではなく、他教科の授業でも、そして日常生活においても使えるようにすることが目指されなくてはいけません。つまり、すべての「言語技術」をすべての子どもたちがいかなる場面でも使えるようになること、それが「言語技術教育」の究極の目的ということになるでしょう。

しかし、これはもちろん現実的には大変に難しいことです。ほとんど不可能と言ってもいいかもしれません。言うは易く行うは難し。その代表ともいえる、教育の理想像です。しかし、これを目指し、これに挑むことこそが教師の仕事なのであり、これを諦め、これに挑まないところには新しい提案は出てきません。私たち教師はそれがどんなに不可能だと思えても、この理想を捨てるべきではありません。

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