どこまで行けるか
どこまで行けるか。
こういう発想をもつとき、多くの人は例えば出世の階層段階のどこまで行けるかとか、何か漠然とでも夢を想定してそれにどこまで近づけるかとか、そんな構造で考えている。階層をいかに上がるかという出世競争がドラマになったり、夢を描いて努力する姿が紋切り型の美しさとして映画になったりするのはそのためである。
ぼくもまた、「どこまで行けるか」という発想をもつ者の一人である。
しかし、最近、ぼくの「どこまで行けるか」は普通の人とは異なるのだということが見えてきた。講座で説明しても、飲んで話していても、ぼくのいうことを理解してもらえないのである。
ぼくの「どこまで行けるか」は、自分がどこまで広く高い視座に立てるかを意味している。もちろん、教育理論においてである。ぼくだっていま、教育に関する世界観をそれなりに抱いている。でも、その世界観に対して、もっと広い世界観があるはずだ、もっと高い次元があるはずだ、ということを信じて疑わない。だから、もっと、もっとと、考える。考えるために読む。読んだらまた考える。考えるために人に会う。人に会ったあと、また考える。ある日、世界観が少しだけ広がる。ある日、世界を見る視点が少しだけ高くなる。それを得たら、もっと広い世界観があるはずだ、もっと高い次元があるはずだ、と考え、読み、人に会い、また考える。それを繰り返している。
ぼくの「どこまで行けるか」はどこまで広く高い視座に立てるかを意味している、とはこういうことだ。
ただ、広く高い視座は、ぼくの中で現実と結びついていなければならない。自分の授業の現実と。自分の学級経営の現実と。自分の生徒指導の現実と。
それも、細かいところまで、矛盾なく結びついていることが望ましい。だからどんなに広い視座も、どんなに高い視座も、それが現実と結びついていないものは偽物だと思う。それはもう、その結びつきだけはかなりストイックに見つめ、判断する。絶対に妥協を許さない。そういう決意がある。
ぼくが講座で話す内容も、ぼくが本に書く内容も、いま到達している視座よりも少しだけ狭く、少しだけ低い視座に定めて書いている。いまの自分の視座よりも狭く低い視座はいまの自分の視座によって整理し表現することができるからである。だいたい平均すると、ぼくが語っているのは3年から5年くらい前の視座である。だから、いま各種研究会の講座で語っている内容も、今年書き、今年出版されるであろう本の内容も、基本的には3年から5年くらい前のものだ。もっと具体的にいうなら、上篠路中時代の実践であり理念である。北白石は北白石で少しずつ実験を重ね、来るべき整理され表現される時期を待っているところである。
いま、まだ講座にも本にも語らないけれど、新しい視点、新しい世界観によって形づくられている、より広くより高い視座がある。しかしそれはまだ現実と結びついていない。いまのところ失敗らしい失敗をしていないので、まずまず結びついてはいるのだが、まだまだディテールにいいかげんなところがあるのだ。だから発表しないし、できないわけである。
ぼくの「どこまで行けるか」は、ディテールまで現実と矛盾しないことが自己証明できるという条件付きで、どこまで広く高い視座に立てるかということを意味している。
こんな簡単な論理がなかなか伝わらない。頭では理解してくれるのだが、情では理解してくれていない。ぼくが本気でそう考えていることを信じてもらえない。
ぼくはよく「堀さんはどうしたいと思っているの?」「堀さんは将来何になろうとしているの?」と訊かれる。こういう質問をされるとぼくは心底哀しくなる。この人とは話したくない、と思う。そんなとき、ぼくは「自分自身で自分自身という作品をつくろうとしています」とうそぶくことにしている。それがまた、伝わらないのだけれど……。
人間の世界ってのはほんとはいったいどうなってるんだろう。この問いに対して、ちょっと触ったなと思えるような触手、リアリティ、そういう実存的なものにぼくは常に飢えている。それだけのことなのだ。
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