学びのしかけ
昨年9月、上條さんと飲んで以来、「学びのしかけ」についてずっと考え続けている。今回のネットワークで30分ほど話す機会をいただいたので、まとまって考える機会になった。結局、「学びのしかけ」の提案は、それ自体が研究としての転換をせまるしかけになっているのだというのが結論である。
「教えやすさ」から「学びやすさ」へという、「学びのしかけ」自体が提案している転換を指しているのではない。それ自体は理念としてはそれほど新しくはないし、いかなる研究的実践家も「学習者の立場」ということは言い続ける。むしろ今回の「学びのしかけプロジェクト」の研究には認知科学的な先行研究の踏まえが弱いのではないかとさえ感じていたほどである。
ぼくが今回「研究としての転換をせまる」というのは、「学びのしかけ」について某かの提案をしようとすると、年度とか中学校3年間とか、そうした長いスパンで何をしていくかということを考えざるを得ない、ということである。毎日の授業において、モジュールでもいいし、授業を機能させるためのシステムでもいいのだが、繰り返し取り組むことによって子どもたちに体感させるというタイプの授業原理について、かなり計画的・意図的に展開する必要にせまられる。
それは決していわゆる「ワークショップ」とか、いわゆる「アイランド型」とか、授業理念とか授業形態を選ぶものではなく、いわゆる「一斉授業」とか、いわゆる「スキル訓練型」とか、こうした従来の授業手法の中にも存在する「授業機能性」の問題である。つまり、その授業で何がどう学習者の中に機能しているかについて、授業者に「もっと自覚せよ」とせまっているわけだ。これはぼくもぼくらの研究会に集う人たちの模擬授業の在り方に日常的に感じることなので、よくわかる。
ただ、この視点で授業の機能度を考え始めたとき、それは単発1時間で考えることはまず無理だということである。数少ない心ある実践家がよく年間指導計画ととともにこの1時間の位置づけを示しながら研究論理を展開するが、あれをもっと学習者目線で、その機能度について長いスパンでの揺れまで視野に入れながら、各々の学びの機能、質を全人的に捉えようということなのだろう。
しかし、こうした研究視点は理念としてはわかるが、こうした試みが長く展開されるとして、実践が集積されデータが収集されたとして、この研究も最終的には最大公約数的な手法として提案されるしかないのではないか。そしてそれが提案されると同時に、ぼくの大嫌いな「一般的な先生方」のつまみ食いが始まり、その理念は形骸化していく。
例えば、初期の「教育技術の法則化運動」や初期の「学び合い」運動(まだ「学び合い」に初期があるという認識は一般的ではないが、そろそろ「学び合い」にも形骸化階層が出始めているように見える)のように、その理念と研究の内部に各々が開発しなければならなくなるようなしかけを内包した運動展開をするのが良いだろうと思う。「何とかワークショップ」とか、「何とか学習」とかいう形でパッケージ化してまとめるべきではない。
しかし、こういう認識自体が稀少であり、「一般的な先生方」がそのイメージに群がって理念も手法も形骸化させていく機運が猛烈な勢いで進み始める時期が来ることをぼくもまたよく知っている。これが「構造的な問題」の根っこなのである。
つまみ食いする盗人たちよ、恥を知れ! そう言いたい自分と、どんどんつまみ食いして、まずは自立を目指せ! そう言いたい自分とがいることを自覚しながら、悩ましい教師生活を送り始めて、もう20年が終わろうとしている。
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