電話と結婚式が嫌いである
電話が嫌いである。
かけるのも受けるのも嫌いである。携帯電話も常にマナーモードにしている。マナーモードにしていれば、気づかないことが多い。どうしても必要な用事なら何度もかけてくるはずである。10回に1回くらいは気づくわけだから、重要な連絡なら通じるはずだ。こういう論理である。
ぼくが電話を通常モードにするのは、電話がかかってくることが予想される場合である。例えば毎年12月30日は森田のお参りに行くので、梶くんや山下くんから電話がかかってくる。そういう日は前の晩から通常モードにしておく。今月28日も門島さんと連絡を取り合うことになるはずだ。関空に降り着いたら通常モードにする。そういう感じで動いている。
もうあまりにもメールに慣れてしまって、電話の必要性を感じない。しかも携帯メールはアドレスももっていない。ぼくがメールを確認できるのは自宅のみ。PCさえあればニフティのHPから確認できるのだが、遠出していてもそういうことはしない。
結婚式が嫌いである。
知り合い関係の葬儀には出席するが、結婚式には出席しない。最後に結婚式に出たのは梶くんの結婚式だと思う。梶くんの結婚式は21世紀の初頭。ぼくが返送葉書の宛先だった。たぶん発起人の一人だったのだと思う。それ以来、完全に出なくなってしまった。めでたい席である。ぼく一人くらいいなくても披露宴に影響はない。そう考えることにしている。
ぼくの中で、出席しなければならない結婚式はもうすべて終わった。森くん、市川くん、對馬くん、山下くん、学生時代の友人の結婚式にもすべて出た。もう独身者はいない。あと一人だけ、高校時代の友人に独身のヤツがいるが、おそらくあいつは一生独身だろう。
その代わり、葬式ははずさない。知り合い本人はもちろん、知り合いの実父・実母である限り、必ず出ることにしている。実はぼくが結婚式に出なくなったのには、このことが関係している。
あるとき、ある学校でそれほど親しかったわけでもない同僚の御母堂が亡くなった。ぼくもその同僚もすでにその学校から転出していたのだが、ぼくは当然と思って出席した。ところがその学校時代の同僚で出席していたのはぼくを含めてたった3人だけだった。50人を超える職場で、たった3人である。村八分でさえ冠婚葬祭だけははずさないといわれるのに、たった3人である。つまり、村八分以下ということではないか。
あるとき、ある学校で、ぼくの学校の校長の御母堂が亡くなったことがあった。その校長が国語の大家だったこともあって、このとき、ぼくは既に退職されたその校長と付き合いのあったかつて「国語人」と呼ばれていた校長たちに連絡をとった。誰一人来なかった。参列したのは現役ばかり。つまり、村八分以下というということではないか。
あるとき、ある学校で職場をともにしていた若者の御尊父が亡くなった。ぼくはそのかつての勤務校に連絡を入れ、彼の御尊父が亡くなったことを報告した。やはりだれ一人来なかった。つまり、村八分以下ということではないか。その職場の人間が近々結婚するという。ぼくにも案内状が来た。ぼくは行かない。きっと自分の結婚式にはぼくに来て欲しいと思いながら、ぼくの両親の葬式に彼は来ないのだ。そんな結婚式になぜ出る必要があるだろう。
ぼくがこんなふうに思うということは、ぼく自身もそういう目で見られているということでもある。不義理を繰り返していることを侘びながら、いまぼくはそう感じている。
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