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2011年1月

藤や

京都「藤や」さんで池田さん、門島さんと食した料理。美人の女将さん、眼鏡をかけた笑顔が愛くるしい若い仲居さん。いい店だった。

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胡散臭い

「明日の教室」の帰り道、晋と二人で小一時間電車に揺られた。二人で話すのは約1年振り。特に深刻な話はしなかったのだが、話題の一つに「胡散臭さの必要性」があった。

今回の「明日の教室」。講師の3人はみんな胡散臭さをもっていた。ぼくや晋はもちろん、門島さんも相当胡散臭い(笑)。別に主張の中身が胡散臭いと言っているのではない。性格というかキャラクターというか、とにかく人間としての存在そのものが胡散臭いのである。

第一に、「聖職」という言葉が絶対的に似合わない。

第二に、いざとなったら身を守ることに徹する。

第三に、不満を不満として口にする。遠慮しない。

第四に、世界は自分を中心に回ってると思っている。

第五に、自分の中に重要なものとそうでないものとの境界線がはっきりとあり、重要でないものはいいかげんでもいいと心から思っている。

第六に、失敗を怖れない。それどころか失敗してもいいと思っている。というより、失敗しても笑っている。

第七に、人間なんてどうしようもないものだと思っているのに、人間が好きである。

第八に、まじめは美徳よりも悪徳に近いと考えている。

第九に、威張って言えることではないが、「子どものために」とか「学校のために」とか「教育のために」とか「この国のために」とかいった、綺麗事を絶対に言わない。そんなことを言うくらいなら嫌われたほうがいいと思っている。

第十に、自分が胡散臭い存在であることを自覚している。しかもそれでいいと思っている。

いま、第一から第十まで書くのに1分少々しかかかっていない。書こうと思えばまだまだ書ける(笑)。

とにかく、堀も石川も門島も相当胡散臭い。ついでにいえば、池田修も胡散臭い。

DNAは全員胡散臭い。中心的な3人はもちろん、鈴木も中野も胡散臭い。兒玉がいちばん胡散臭くないかもしれない。大野も藤原も胡散臭い。山下や對馬はいうまでもない。

でも、だからこそ子どもたちとコミュニケーションをとれるのであり、教師としてそれなりにやっていけているのである。まじめな先生方はそこのところがわかっていない。

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地図をもつ

「明日の教室」の座談会でぼくが何度か議論を整理する場面があった。ちょっとした議論の混乱を整理したわけだが、ある参加者から「なぜ、あんなふうに即座に整理できるんですか?」と訊かれた。酔っていたので「あとでね」と言って、そのまま帰ってきてしまったのでここに書いてみようと思う。答えはごくごく簡単にいえばこういうことである。

それは基本的にぼくの思考が「地図」でできているからです。

ぼくの頭の中にはこれまで学んできた教育理論とか教育実践が地図になっている。地図という比喩がわからなければマトリクスになっているのだ。それも別に複雑なものではない。ごくごく単純なものである。

例えば「教育観」なら、縦軸に「実用」と「教養」、横軸に「経験主義」と「系統主義」、これで四象限ができる。斎藤喜博のAという実践はここ、Bという実践はこのあたり、向山洋一のCはここ、Dはここ、野口芳宏のEはここ、Fはここ、自分の実践のGとHはここ、IとJとKはこのあたり……というふうにドットとして置いてあるのである。もちろん実際に図示しているわけではない。あくまでも頭の中だ。

例えば「教師のキャラクター」なら、縦軸に「学力向上主義」と「人間成長主義」、横軸に「指導主義」と「感化主義」、これで四象限ができる。A先生はここ、B先生はここ、自分はここ……というようにドットとして置いてあるのである。「明日の教室」で長島と王を教師像の比喩として語られるのを聞いて、即座にプレイヤーとしての長島と王で語るよりも、監督としての長島と広岡あたりで語ったほうが現実的だという議論も、このマトリクスに対応させて出てきたものである。これは職場の先生方を分析してチーム力を発揮させるうえでも使っているマトリクスでもある。

この二つはだれでもつくれるようなわかりやすい例なので例示したが、このほかにもマトリクスが6つあって、8つのマトリクスで思考するようにしている。でも8つのうち3つはまだ曖昧なところがある。いつか8つが確かなものになったら発表しようと思っている。でも現在はまだ企業秘密(笑)。

呑み会の二次会でぼくに「質問があるのですが……」と声をかけてきた女性の先生(石川晋と吉川さんのFGをやっていた方だと思う)が、他の人がぼくに話しかけてきて話を遮ってしまい、そのままになったのも気になっている。

また、二日目の午前中の休憩時間にぼくの学年経営案をコピーしてくれと頼んできた先生に、時間がなくてコピーさせてあげられなかったのも気になっている。

お二方、メールをいただければ対応します。メールアドレスはこちらへ。

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帰宅すると同時にソファに倒れ込む

朝から寝不足で眠い目をこすりながら出勤。授業は4時間。1年生の書写2時間は「いろは歌」の清書。2年生の国語2時間は付属語。空き時間に生徒会部の反省、卒業式装飾係会のプリントなどをつくる。10分休みや給食準備時間等を使って、装飾係全員と打ち合わせ。これで放課後の装飾係会をなしにできた。昼休みは漢コンの追試。5時間目の授業が終わり次第年休をとって帰宅。途中、銀行によって今回の京都ツアーの代金を旅行会社に振り込む。

帰宅すると同時にソファに倒れ込む。やはり土日の休みなしはきつい。今度の休日は2月6日(日)。待ち遠しい。

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「明日の教室」ツアー

いよいよ「明日の教室」で京都である。

金曜日。午前中に新千歳を発ち関空へ。関空から「はるか」で京都へ。京都駅に着いてまずはじめに思ったのが、「ああ、ガメラが闘ったところだ……」ということ。確かにガメラが闘って粉々になっていた建物である。と同時に、よく「科捜研の女」に出てくる駅でもあった。船越英一郎がよく訪れている駅でもある(笑)。そんなことを思いながら駅構内を30分ほど見てまわった。

ホテルにチェックインしてひと休みしたあと、門島さんと駅で待ち合わせて居酒屋へ。久し振りの門島節である。寺崎さんの動向などを尋ねながら、時が過ぎていることを実感する。たぶかぼくらがよく寺崎さんに札幌に来ていただいていた頃、寺崎さんはいまのぼくらくらいだったはずである。

19時半に池田さんと合流。山県有朋の庭園や高瀬川、池田屋跡地などを巡りながら、教師の歴史に思いを馳せる。その後、確か「藤や」という店へ。浦霞を飲みながらおいしい料理。京都の料理には品がある。店のおかみさんにも品がある。乗ったタクシーの運転手さんはいかにもという大阪のおっちゃん。あんなによくしゃべる運ちゃんを初めて体験。これもまた楽しかった。

土曜日は朝起きて本能寺へ。その後、湖西線でおごと温泉へ。駅から数キロ、歩いて会場入り。北海道とはまったく異なる街並みがとてもいい。石川講座、ぼくの講座、門島講座と続き、池田さん司会のパネルというかシンポというか座談会というか……。雑談会というのがいちばんぴったり来る。19時から大宴会。22時から二次会。24時からサッカー観戦。大騒ぎ。ぼくはあまりサッカーに興味がないので、煙草を吸いながらずーっと門島さんと話していた。サッカーが終わってからは参加者の一人と文学談義。結局、寝たのは4時半。

日曜日は学級経営に関する雑談会。これは糸井さんが司会。昨日も今日も論点が定まらないまま、話はあっちに行ったりこっちに行ったり。結局、座談会前にそれぞれが提案をしていないので、それぞれが何を主張したいのかというフレームがないままに進んでいく。でも、たまにはこういう好き勝手に話す場もあっていいのかもしれない。みんなけっこう過激なことを言っていたように思う。

これが終わると同時にホテルを発ち、ずーっと快速で関空へ。関空で土産を買い、あとは1時間半ほど読書。飛行機でも読書。千歳に着くと冷たい空気が心地よい。京都ではホテルの暖房が暑くて、しかも温度調節もできなくて、1時間に1回ずつくらい窓を開けたほどだった。やっぱり北海道が自分の住むべき地だなあ、と感じた夜だった。

ものすごく楽しい三日間だったが、結局、何が行われているのかよくわからない会だった(笑)。たぶん企画がぼくと門島さんに合っていなかったのだと思う。ぼくも門島さんも基本的にピン芸人だから、からみだけで主張を述べるのは最初から無理だと、表層的な話に終始したところがある。主宰する池田さんも糸井さんも戸惑っていた感がある。たぶんこの形式にこだわったのは石川だ(笑)。対話型を初めて持ち込むにはかなり打ち合わせが必要なのだが、それがほとんどなかったのだから、考えようによってはよくあの程度のぐだぐだで済んだなという評価もあり得るし、やっぱり遠慮しないで事前打ち合わせをちゃんとやろうと言うべきだったという思いもある(笑)。まあ、ぼくの研究人生にとっては一つの研究会形式を体験したという点で有益だった(笑)。

まあ、こういうのも「あり」である。ただ、ごくごく簡単に整理すれば、講師の話を聴く研究会なのか、参加者もまじえて交流する研究会なのか、コンセプトが揺れていたところがあった。どちらかはっきりさせないと、ぐだぐだになる。そういうことなのだろうと思う。

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研究会案内/1月

私に関係する1月の研究会をご案内させていただきます。札幌市内の研究会は1本だけ、その他は外部団体からの依頼によるツアーです。千歳近郊の皆様、関西にお住まいの皆様、お時間があれば「授業づくりネットワーク千歳」「明日の教室・京都」へお越し下さいませ。

2011年1月8日(土)~9日(日)/授業づくりネットワーク北海道ファイナルin千歳新しい時代に必要な「学びのしかけ」を考える/1日目:千歳市民文化ホール/2日目:ANAクラウンプラザホテル千歳/両日参加11,000円・1日参加6,000円/講師:青山臣吾・石川晋・大谷和明・岡山洋一・上條晴夫・長瀬拓也・中村健一・堀裕嗣/終了しました。

2011年1月11日(火)~13日(木)/「学び合い」先進校視察/上越教育大学西川純先生のお招きで、西川先生がかかわっている新潟県内の「学び合い」先進校を見学させていただきに、再び新潟を訪ねます。北海道から総勢8人でのツアーです。/終了しました。

2011年1月22日(土)/第16回国語科授業づくりセミナーin札幌来年度こそ 国語授業を充実させる 第三弾!基礎の基礎から学ぶ物語の授業づくり・7つの講座/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費:3000円/講師:太田充紀・大谷和明・藤原友和・堀裕嗣・南山潤司・山口淳一・山下幸/定員30名/終了しました。

2011年1月29日(土)~30日(日)/京都・明日の教室 学級経営・国語スペシャル/講師:石川晋・門島伸佳・堀裕嗣/1月29日(土)13:30開始~1月30日(日)11:00終了/場所:滋賀県大津市苗鹿 旅館「木もれび」/参加費:宿泊費・食費・研修費込みで、15000円/申込受付はこちら終了しました。

【その後の予定】

2011年2月5日(土)/第10回教室実践力セミナーin札幌「交流から議論へ」「議論から対話へ」「対話から生産へ」/言語活動を充実させる4つのアイテム/グループ・ディスカッション/ファシリテーション・グラフィック/ファシリテーション/ワールド・カフェ/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費:3000円/講師:岡山洋一・藤原友和・堀裕嗣・山下 幸/定員20名

2011年2月12日(土)/第27回累積科学国語教育研究会in札幌作文指導で両立できてますか?意欲 と 技能~「書くことがない」「書き方がわからない」そんなセリフ、もう言わせない!/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費:3000円/講師:鹿内信善・山寺潤・山口淳一・山田洋一・小林智・大野睦仁・高橋裕章・堀裕嗣・南山潤司・山下幸/定員30名

2011年2月19日(土)/第32回・教師力BRUSH-UPセミナーin札幌さあ年度末!サクサク進める年度末の評価・評定のウラ技/子どもに語れる担任にならなくちゃ~修了式後・卒業式後・最終学活で何を語るか/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費:3000円/講師:大野睦仁・加藤恭子・高橋裕章・水戸ちひろ・細山崇・大谷和明・南山潤司・柏葉恭延・山田洋一・太田充紀・齋藤佳太・小林智・山下幸・堀裕嗣/定員40名

2011年3月26日(土)~27日(日)/第1回・中学校学級づくりセミナーin札幌中学校・学級経営の極意・決定版/札幌市コンベンションセンター2F207研修室/参加費:両日参加6000円・1日参加4000円/講師:池田修・桑原賢・堀裕嗣・桃崎剛寿・山下幸/定員60名

2011年4月2日(土)~3日(日)/第1回・中学校国語科授業づくりの原理・原則in札幌いまどきの生徒を授業にひきこむ~国語科授業づくりAtoZ/札幌市白石区民センター(予定)/参加費:両日参加5000円・1日参加3000円/講師:堀裕嗣・對馬義幸・山下幸・小林智・小木恵子・坂本奈央美・米田真琴/定員30名

2011年4月2日(土)/第1回・学級経営プログレッシヴ・セミナーin札幌/学級開き・授業開き/札幌市白石区民センター(予定)/参加費:3000円/講師:大野睦仁・高橋裕章・堀裕嗣・南山潤司・山口淳一・山下幸・山田洋一/定員40名/近日詳細

2011年4月3日(日)/第33回・教師力BRUSH-UPセミナーin札幌/学級開き・授業開き/札幌市白石区民センター(予定)/参加費:3000円/講師:大野睦仁・兒玉重嘉・高橋裕章・堀裕嗣・水戸ちひろ・南山潤司・山口淳一・山下幸(他交渉中)/定員50名/近日詳細

2011年4月9日(日)~10日(日)/第1回・先生のためのとっておきセミナーin札幌/教師力を根底から学ぶ・教師の一日はこう動く/札幌市白石区民センター(予定)/参加費:1日4000円・両日5000円/講師:赤坂真二・堀裕嗣・山田洋一(他交渉中)/定員40名/近日詳細

2011年4月24日(土)/第2回・学級経営プログレッシヴ・セミナーin札幌/学級開きから1ヶ月・チェックリスト/札幌市白石区民センター(予定)/参加費:3000円/講師:大野睦仁・高橋裕章・堀裕嗣・南山潤司・山口淳一・山下幸・山田洋一/定員50名/近日詳細

2011年5月7日(土)/第28回・累積科学国語教育研究会in札幌/全教科で考える!言語活動の充実/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費:3000円/講師:兒玉重嘉・堀裕嗣・山下幸(他・交渉中)/定員30名/近日詳細

2011年5月14日(土)/第2回・中学校学級づくりセミナーin名古屋中学校・学級経営の極意・決定版講師:石川晋・神崎弘範・長瀬拓也・堀裕嗣・堀川真理・松久一道・桃崎剛寿/定員100名

2011年5月15日(日)/日本文学協会国語教育部会・5月拡大例会シンポジウム/魯迅「故郷」をめぐって/東京都立産業技術高等専門学校/堀裕嗣・田中実(他交渉中)/近日詳細

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孤立無援の唄

森田童子の「孤立無援の唄」を聴いていたら、貸本屋で高橋和巳の「孤立無援の思想」を万引きして、走る自転車の後ろに乗りながら読むなんていう歌詞が出てきた。思わず笑ってしまった。ああ、これが歌になるなんて時代だなって。

ぼくのように学歴も教養も品格もまるでない人間でも、大学生のこの感覚だけはよくわかる。恩師が全共闘世代だったこともあって、高橋和己はぼくも全集を買って読破したほど好きだった。昔ちょっと気に入っていた女の先輩が卒論の題材にしていたので、嫁さんの高橋たか子も好んで読んだものである。

確か5、6年前だったと思うが、「グロテスクな教養」という新書が話題になって、ぼくもおもしろく読んだ記憶があるが、「孤立無援の思想」はこの「グロテスクな教養」を地で行くような本だった。受験エリートが秀才でも優等生でもない自分を証明するために自己否定して見せる……そういう本だ。その行き着くところが「孤立無援」であり、それに気づけばそこに留まり続けなければならない、それを勧める本である。

その後80年代になって、自己証明の手立ては自己否定ではなく、記号化されたバイタリティになって、ぼくらはもろにその影響を受けているわけだけれど、ぼくらが「草食」とか「弁当」とか「おひとりさま」とか言ってる若者の虚無的なメンタリティってのは、森田童子の描くような就職全共闘から葛藤を差し引いたようなものなのかもしれない。

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ゆったりと時間の流れる、おおらかな一日

授業は3時間。2年生の国語2時間は付属語。助詞と助動詞。なんともつまらない授業。入試にさえほとんど出ることがなく、必要感のあまり感じられない指導内容。1年生の書写は「いろは歌」の練習。ずいぶんとうまくなってきて驚いた。空き時間は1時間が教材プリントを印刷したあと、学年の先生と談笑。もう1時間が教務主任と半分談笑の打ち合わせ。昼休みは漢コンの追試。放課後は調査書点検。ミスもなく30分ほどで終わらせる。3学年もいよいよ進路事務が佳境を迎えている。

今日、生徒を帰した直後に放送がかかって職員が集められた。行ってみると公務員弘済会の保険その他の宣伝を聞かされた。管理職の机にスクリーンをセットしての大がかりなものである。これが終わるまで調査書点検が始まらないようなので、ぼくはちょっとした仕事を始めた。生徒会誌の生徒会役員分の校正である。結局、10分程度、職員会議のような体制で職員室に拘束されたわけだ。

さて、ぼくは疑問である。これは勤務時間内にやっていいことなのだろうか。管理職が音頭をとって、全職員を一箇所に集めて行うには少々問題がないのか。聞くところによると、この動きは校長会の申し合わせで進めているらしい。校長会は問題なしと捉えているらしいということだ。しかし、この動きは世論の理解を得られるのだろうか。どうも校長会が進めているということは天下りがらみではないか……などとろ、あらぬ想像までしてしまう。そしてそれは、ほんとうに「あらぬ想像」なのかどうかも疑わしく思えてくる。

いずれにしても、校長会も自分たちの世界観だけで決めないで、世論にはどう見えるかという観点で何事も判断したほうがいい。まあ、今回のことは法的には問題はないだろうけれど。

調査書点検を新卒2年目の期限付きの女の子とペアでやったのだが、頭の回転が速くて感心した。若者のこういう頭の回転を久し振りに見た。

明日は学校をあけるので、月曜日にやるべき仕事を細かく確認したあと、18時ちょっと前に退勤。その後、コートやYシャツなどを買いに紳士服屋へ。たぶん服を買ったのは3年振りである。この3年間は下着と靴下とジャージしか買っていなかった。どうでもいいことだけれど……。

ゆったりと時間の流れる、おおらかな一日。

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吠えた!

昨日の職員会議で久し振りに吠えた。管理職に向かってである。

事の発端はこうだ。

昨年の年度末反省でのこと。校務上機能していない分掌があったり、仕事量に偏りがあったり、責任の所在がはっきりしないものがあったりしていたので、校務組織をつくり直そうという話が決まった。とは言っても急ごしらえはいけないので、平成22年度一年間をかけて、校務組織をどう改変するか、その原案を立てて職員会議で決めようということになった。そうして4月、「校務組織検討委員会」という特別委員会がつくられた。

個人的にはそんなものは管理職がさっさとつくってしまえばいいと思うのだが、まあ、それはよい。職員会議でそう決まったんだから、ぼくにも不満はない。

しかし、その平成22年度。残りももう2ヶ月だというのに、しかも校務分掌の希望を3月中旬にとることを考えれば、残りは既に1ヶ月半だというのに、この「校務組織検討委員会」がまだ一度も開かれていない。ぼくはこんな馬鹿げた話を聞いたことがない。

そこで昨日、職員会議の最後の校長の話のあとに、「校務組織検討委員会」がいまだに一度も開かれていないことを指摘した。いま年度末反省の集計をおこなっているわけだが、昨年の年度末反省で決められたことが次の年に動いていないということは、年度末に反省をすること自体が無意味だということを示しているのではないか。無駄な年度末反省なら、反省の締め切りに追われて動いている現在の我々はいったい何なのか。どうせ動かない無意味なもののために無意味な動きをしていることになるではないか。年度末反省はただの年中行事ではないのである。早急に対応していただきたい。

まあ、こんな感じの吠え方である。

ぼくもいきなりこんな吠え方をしたわけではない。これまで、夏頃から、教育課程検討委員会が開かれる度ごとに「校務組織検討委員会」が開かれていませんよ、いまに間に合わなくなりますよ、と進言し続けてきたのである。管理職の応えは「そうですね、折を見てやります」とそればかり。いよいよもう2月を迎えようという時期。さすがにキレて、もうヒラ場で言って逃げ道をなくしてやる!というわけである。

今日教務主任から聞いた話によると、来週、急遽開催することが決まったそうである(笑)。最初からヒラ場で言わないとダメということなのだろうか。人事というのはマネジメントの基礎の基礎だと思うのだが……。

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特に不満のない一日

スキー学習で3組担任。授業は4時間。2年生の国語3時間は「夏の葬列」のワークに取り組ませたり、ワークの解答したあと「付属語」に入ったり。1年生の書写1時間は「いろは歌」の練習。昼休みは漢コンの追試。空き時間は卒業式係会のプリントを作成。その他はこまごまとした事務仕事。放課後は生徒会役員ミーティング。2月行事予定が出たので、日程を追いながら送別集会と生徒会反省の二つについて、分担、各自の動き、各自の締め切り、ミーティングの日程、点検の要領、依頼の仕方等々について確認。その後、少しだけ同僚と談笑したあと、17時30分退勤。

帰宅後、この週末の「明日の教室」の資料をつくり始める。何を資料化する必要があるかを決めていない。今日一日勝負である。ただ何度も繰り返しやっている講座になるので、それほど準備はいらない。

特別な生徒指導もなく、学級指導に面倒なこともなく、授業も楽な授業ばかり。おまけに給食はカレーライス。午前中、休み時間のたびに廊下にカレーの匂いがして空腹感を感じたこと以外には、特に不満のない一日。

そうそう。朝、学年の先生が5人欠けていて、学級数と同じ人数しか教師がいなくてちょっと焦った。二人はスキー学習に行く体育科、3人は1~2時間遅れ。学年の先生が学期有数より少なくなった場合にはどうするんだろうなあ……、他学年の先生にお願いするのかなあ……などと思って教頭に訊いてみると、「私が行きます」との応え。立派な教頭である(笑)。まあ、そんなことはあり得ないだろうけれど。

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発信する年

学級経営に関する本づくりが最終段階に入っている。今日は書名が決まり、イラストのラフが上がり、カバーのラフも上がってきた。編集が急ピッチで進められ、来月下旬には上梓できそうである。ありがたいことである。

書名については、基本的に編集者にお任せすることにしている。内容についてのこだわりはあるが、書名となると営業的な問題もあり、販売のセンスをもたないぼくがああだこうだ言っても始まらない。相談の結果、「学級経営10の原理・100の原則~困難な毎日を乗り切る110のメソッド」に決まった。

同じように、イラストもお任せした。イラストレーターもプロである。プロの仕事にぼくがああだこうだ言うつもりはない。ただラフを見ると、ぼくの文章をよく読んでくださっていることだけは伝わってくる。それだけで感謝である。

カバーにいたっては6つの候補を送っていただいたのだが、どれもこれもよく見えて、ぼくには選べない。これもお任せしますと伝えた。

ぼくなりの言語技術の体系をまとめようとの試みも順調に進んでいる。このまま行けばあと1ヶ月くらいで脱稿しそうな勢いである。ぼくの中では3月10日を自主的な締め切りに設定して進めている。いま第1章の「授業づくりの10の原理」のべた打ちがが終わり、その40頁に直しを入れているところである。

これが終わればあとは120の言語技術について、1項目1頁ずつ書いていくだけ。書き始めてみなければわからない面はあるけれど、これはおそらくそれほど時間はかからない。これまで何度も何度も講座で語ってきたことばかりだから。

それにしても、「今年は発信の年にする」と決意し、宣言した途端に、原稿執筆が順調に進むようになった。前にも書いたが、やっと発信のバイオリズムになったということだ。

今年は本当に「発信する年」になりそう……というか、できそうである。

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「乱世」がやって来る

授業は4時間。2時間は1年生の書写、2時間は2年生の国語。書写は「いろは歌」、国語はワーク。午前中四連発。昼休みは漢コンの追試。やっとひと息と思ったら、5時間目は生徒指導の事情聴取。それが会議開始ギリギリまで続き、職員会議。終了し次第、生徒指導の打ち合わせ。担任が休んでいたので電話連絡。退勤は18時半。ずいぶん働いたなあ、という一日(笑)。

職員会議は議題は少ないのだが、なんとなく重たい話ばかり。なにせふだんならあり得ない議題が並ぶ。校舎改築にあたってグラウンドを使えない時期に球技大会をどうするのか、同じ時期に陸上記録会があるが体育の授業ができないのにやる意味があるのか、8月に引っ越し完了して9月末に学校祭ができるのか、校舎改築工事中の教員の駐車スペースを月に数十万払えば確保できるがどうするか、などなど。ぼくは教育課程検討委員会で一度聞いた議論だったが、職員会議で初めて聞いた先生方は目が点になっていた。そりゃそうだろう。

校舎の改築もたいへんである。平成23年度はグラウンドが使えず、平成24年度は校舎の見通しの立たない中での学校運営、しかもこの年は新教育課程の初年度と来ている。

「乱世」がやって来る。ぼくの大好きな「乱世」がやって来る(笑)。即座の判断の連続が求められる2年間がやって来る。ぼくは自分でいうのも何なのだが、こういうときに最も力を発揮するタイプである。平時はつまらない……。やり甲斐がない。

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どこまで行けるか

どこまで行けるか。

こういう発想をもつとき、多くの人は例えば出世の階層段階のどこまで行けるかとか、何か漠然とでも夢を想定してそれにどこまで近づけるかとか、そんな構造で考えている。階層をいかに上がるかという出世競争がドラマになったり、夢を描いて努力する姿が紋切り型の美しさとして映画になったりするのはそのためである。

ぼくもまた、「どこまで行けるか」という発想をもつ者の一人である。

しかし、最近、ぼくの「どこまで行けるか」は普通の人とは異なるのだということが見えてきた。講座で説明しても、飲んで話していても、ぼくのいうことを理解してもらえないのである。

ぼくの「どこまで行けるか」は、自分がどこまで広く高い視座に立てるかを意味している。もちろん、教育理論においてである。ぼくだっていま、教育に関する世界観をそれなりに抱いている。でも、その世界観に対して、もっと広い世界観があるはずだ、もっと高い次元があるはずだ、ということを信じて疑わない。だから、もっと、もっとと、考える。考えるために読む。読んだらまた考える。考えるために人に会う。人に会ったあと、また考える。ある日、世界観が少しだけ広がる。ある日、世界を見る視点が少しだけ高くなる。それを得たら、もっと広い世界観があるはずだ、もっと高い次元があるはずだ、と考え、読み、人に会い、また考える。それを繰り返している。

ぼくの「どこまで行けるか」はどこまで広く高い視座に立てるかを意味している、とはこういうことだ。

ただ、広く高い視座は、ぼくの中で現実と結びついていなければならない。自分の授業の現実と。自分の学級経営の現実と。自分の生徒指導の現実と。

それも、細かいところまで、矛盾なく結びついていることが望ましい。だからどんなに広い視座も、どんなに高い視座も、それが現実と結びついていないものは偽物だと思う。それはもう、その結びつきだけはかなりストイックに見つめ、判断する。絶対に妥協を許さない。そういう決意がある。

ぼくが講座で話す内容も、ぼくが本に書く内容も、いま到達している視座よりも少しだけ狭く、少しだけ低い視座に定めて書いている。いまの自分の視座よりも狭く低い視座はいまの自分の視座によって整理し表現することができるからである。だいたい平均すると、ぼくが語っているのは3年から5年くらい前の視座である。だから、いま各種研究会の講座で語っている内容も、今年書き、今年出版されるであろう本の内容も、基本的には3年から5年くらい前のものだ。もっと具体的にいうなら、上篠路中時代の実践であり理念である。北白石は北白石で少しずつ実験を重ね、来るべき整理され表現される時期を待っているところである。

いま、まだ講座にも本にも語らないけれど、新しい視点、新しい世界観によって形づくられている、より広くより高い視座がある。しかしそれはまだ現実と結びついていない。いまのところ失敗らしい失敗をしていないので、まずまず結びついてはいるのだが、まだまだディテールにいいかげんなところがあるのだ。だから発表しないし、できないわけである。

ぼくの「どこまで行けるか」は、ディテールまで現実と矛盾しないことが自己証明できるという条件付きで、どこまで広く高い視座に立てるかということを意味している。

こんな簡単な論理がなかなか伝わらない。頭では理解してくれるのだが、情では理解してくれていない。ぼくが本気でそう考えていることを信じてもらえない。

ぼくはよく「堀さんはどうしたいと思っているの?」「堀さんは将来何になろうとしているの?」と訊かれる。こういう質問をされるとぼくは心底哀しくなる。この人とは話したくない、と思う。そんなとき、ぼくは「自分自身で自分自身という作品をつくろうとしています」とうそぶくことにしている。それがまた、伝わらないのだけれど……。

人間の世界ってのはほんとはいったいどうなってるんだろう。この問いに対して、ちょっと触ったなと思えるような触手、リアリティ、そういう実存的なものにぼくは常に飢えている。それだけのことなのだ。

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社会的な矛盾を感じる

「ミス日本」の準ミス二人に中学生が選ばれたという。

これまでに中学生がどの程度選ばれているのか知らないのでなんとも言えないのだが、少なくともぼくは「えっ?中学生?」という感覚である。何も中学生を選ばなくても……という気がする。プロフィールを見ると、趣味・特技がクラシック・バレエであったり琴であったり、それなりの品格はあると見なされたのかもしれない。

どうもこういうエンターテインメント的に女性を見る視点が、90年代後半あたりからどんどん対象年齢を下げてきているのではないかということが、ずっと気になっている。スピードに小学生がいたり、モーニング娘に中学1年生がいたりしたときにも驚いた。あまりよく知らないけれど、AKB48にもきっと中学生がいるのだろう。

ちょうどぼく世代のその手のアイドルとして話題になったのはおニャン子クラブだったのだが、彼女たちの多くは高校生であり、それもオーディションに合格したのは3年生が多かった。おニャン子が流行ったのは1985年、ぼくは浪人生だった。つまり19歳である。内海和子とか城之内早苗とか山本スーザン久美子とか、名前を忘れてしまったたが秋元康の嫁さんとか、そのあたりがぼくと同い年だったはずだ。新田恵理とか名越美香とか「わたしリカちゃん」を歌っていたなんとかリカなんかは、ぼくよりも年上だったはずである。つまり、既に成人していたはずなのである。河合その子なんかはだいぶ上だったと記憶している。ピンクレディーは確かデビューが19歳だったはずだ。あの時代、性的なイメージを加味して売り出すのは若くてもそのくらいだろう……という暗黙の了解があったのだと思う。

花の中3トリオは中学生のうちはバラエティでも歌詞でも性的なイメージは付与されていなかったように思う。山口百恵がはどうだったろう……。いまひとつ記憶が定かではない。

確かに、かつてこの国は15歳になればもう子どもを生んでいるというのが当然の国だった。その感覚に戻ったのだというなくもない。戦後の一時期が歴史的には異端だったのだ、と。しかし、一方で児童買春・児童ポルノ処罰法や先般の東京都条例の問題など、政治的には中高生に性的イメージを付与しない方向で動いているというのに、その隙間を縫って、批判されない領域ではどんどん従来の成人前後を基準として動いていたものが低年齢化しているという現実。

どうもここに社会的な矛盾を感じる。

ぼくが中学校教員であることが大きく影響しているのだろうが、あまり女子中学生をそういう世界に巻き込んで欲しくない、というのが本音である。

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なんとなく分単位で動いた一日

先週は雪の渋滞で出勤が遅刻ぎりぎりというのが続いたので、今日はいつもより更に10分早く家を出た。でも、まったく渋滞していない。学校に早く着きすぎて手持ちぶさたの朝。

スキー学習で3組の担任。朝学活・給食・帰り学活、ともに態度良し。トラブルもなし。何の苦労もなし。

授業は2年生の国語が4時間。「夏の葬列」の読解の学級もあれば、ひと通りの授業を終え、ワークに取り組ませる学級もあり。いずれにしても、「夏の葬列」は終わりを迎えつつある。1時間、美術の自習監督が入る。上靴のスケッチとのこと。生徒たちがけっこううまくてびっくり。

空き時間及び自習監督時間は学年協議会のプリント印刷、学年分掌の年度反省記入、冬休みの「学び合い」ツアーの研修報告書の作成・提出、和歌山大学から依頼されている長期研修に関するアンケートの記入。毎週月曜日はコン詰めて事務仕事をする日と決めている。今週中にやらなければならない事務仕事をすべて月曜日にやってしまう。それが1週間を楽に過ごすコツ。昨年の2学期から始めたのだが、なかなかいい感じである。

昼休みは漢コンの追試。今日は15人中5人の合格。やはり満点だけが合格というのは、この人数になってくると苦しそう。10人の不合格者の中に30点満点中20点を超えている者が3名しかいない。補習が必要かもしれない。

放課後は学年協議会で、明日の修学旅行大綱案の説明の仕方を確認。その後、生徒会役員と年度末の各委員会反省用紙の様式を確認。さらに生徒指導案件が一つあって打ち合わせ。17時20分退勤。

忙しいわけではないのだが、なんとなく分単位で動いた一日。

帰宅後は原稿執筆。今日は特にやることもないので、集中して取り組めそうである。

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アンケート結果

第16回国語科授業づくりセミナーのアンケート結果。

【音読/堀裕嗣】

評定平均 4.9

「あびるほど読む」という言葉が印象的でした。それと同時に、教師はその何倍も読むことが大事なんだと思いました。ありがとうございました。

読みの技術を子どもたちに定着させることを強く意識しようと思いました。また、姿勢・口形のような基本的なことにも気づかされました。

普段、自分で気をつけて実践していたことを、理論的に整理してお話していただいたので、これからも自信をもって取り組もうと思いました。

昇調・平調・降調という言葉を初めて聞きました。生徒がシーンと聞き入ったという「夏の葬列」の朗読の一部が聞けてよかったです。生徒が聞き入るというのもよくわかりました。

堀先生は「同じような話を……」とおっしゃいますが、堀先生の講座はむしろ類似の内容を何度も繰り返し聞かせていただきたくなります。今日も新しい気づきをたくさんいただきました。

「衝撃的な場面はゆっくり読むと、余計に場面の緊張感が強調される」という話は、サム=ペキンパーの第二次大戦を描く映画の激しい銃撃シーンを思い起こさせました。その場の効果音は映像に全く反してきれいな音楽。それが悲惨さを際だたせていたのですが、その発想のルーツは音読の技法だったのですね。

教師がモデルとして示せるように範読の技術を高めなければならないと感じました。日々、意識しなければならないことばかりで勉強になりました。

物語(文学)教材だからこその講座内容でよかったです。とりわけ間のテクニックはよかったですね。

【設定/山口淳一】

評定平均 3.9

導入をしっかりやることで、物語の読み取りができるんだと改めて認識しました。「事件設定」を意識した実践を意識していこうと思います。

自分の周囲においても設定は確認程度で、場面ごとの読みで深くしている傾向にある。大枠をとらえるということも大切に扱わなくてはと思いました。

ついつい「気持ちは?」と聞きがちですが、設定(特に人とできごととの関わり)をしっかりとおさえることが大切だとわかりました。

設定の把握が重要なのはわかっているのですが、実際の授業の中でその読み取った設定をどう生かしていくかで悩むことが多いです。とりあえず把握はしたけれど……で終わらないようにするために、その後の授業がどうなっていくのかを教えていただければ……と思いました。

WORKがおもしろく楽しかったです。体験を通して「設定読み」の意義、重要性を体感させていただきました。絵本のWORKが特に参考になりました。

この会に来ると、国語への苦手意識が高いこともあって緊張しまくりなのですが、山口さんのほわっとしたキャラクターはその緊張感をやわらげてくれます。ありがたい存在です。

導入部をあいまいにして進めていました。授業で丁寧に語句を扱いながら寿儀容をしたいと思います。

あんまり講座準備をしていない感じだったなー。「設定」について講釈するなら、「お手紙」よりももっとドラマチックな題材をもって来た方がいいなー。

【構成/藤原友和】

評定平均 4.4

初めて聞く物語のまとめ方で、とても参考になりました。物語のまとめとして、子どもたちに視覚的にわかりやすくするために、とても有効だと思いました。

四つの型の例示がとてもわかりやすかったです。ぜひ取り入れてみたいと思いました。しかし、読み取りをしっかり深くやらなければならないので難しいとも思いました。

研究授業で指導案を作る時、文章構成図をよく作りますが、今日のような外と内で考えてみる構成はとてもわかりやすく、おもしろいと思いました。

全く新しい内容、視点、切り口からの提案で、非常に勉強になりました。教師が教材研究をする上で、知っておいて損はないと思える内容でした。学習指導要領との関わりに言及されていたのもよかったです。

読者論について不勉強な私にとって難しい内容です。それなのに、先生がお話されることはとてもわかりやすかったです。ありがとうございました。

なるほど、このような構成の捉え方があるのですね。その型には4つあると、少なく限定してくれているのが、守備範囲を見通しのあるものにしてくれてありがたいです。類型する決め手がもっとすっきり確定できるとうれしいのですが、ムリなのかなあ。

図の中に3つの領域をつくり、場面の構成を意識させる講座でした。教師の丁寧な説明と、繰り返しをする必要があると感じました。

四つの型に無理に分けるのが困難な感じがしたのだけれど、講座の構成自体は良かったです。

【描写/山下幸】

評定平均 4.5

物語のなかで様々な描写が出てきますが、子どもと描写について理解を深める際、どの描写を取り上げるのか意識しなければならないと思いました。

解釈の難しさは原文が外国のものだからなのでしょうか? 訳に問題が? またはその国の文化が影響しているのか?

ミッキーとぼくのどっちの会話文かの検討交流がおもしろかったです。先生方のいろんな視点・見方を聞いて勉強になりました。

文学的な素養が自分にはないので、優れた描写などがよくわかりません。描写がどういうものかはなんとなくわかりました。もっと優れた教材であればよかった(よい表現が味わえた?)なと思いました。使用した教材がよくなかったような……。

「四人目のルームメイト」の問いに考えさせられました。自分は数ある描写の中から、問いに値する部分を選ぶのが苦手だなあ……と感じました。

具体的なイメージをもてる場面から、視点を変えて読み取ることで根拠を探すことができた。

少々扱いずらい教材だったので、少々押しが弱かったかな~。「四番目のルームメイト」のとりあ方をみると、山下さんの教材研究視点が少しわかった。

【類比・対比/大谷和明】

評定平均 5.0

類比・対比を読み取ることで、物語の理解もより深まることがわかりました。ありがとうございました。

視覚的にいろいろな対比や類比の仕方があることを学べました。詩の変換による詩の良さを見つける手法はなるほどと思いました。

対比・類比することによって読み取りが深くなることがわかりました。

対比・類比についてよくわかった以上に、子ども(今日は子ども役)を学習に巻き込んでいくささいな技術や言葉がけが前回同様、とても参考になりました。対比を通して「読者が自己生成する」という言葉が「なるほど!」という言葉でした。

二つのWORK、どちらもおもしろくためになりました。実際に授業の中で生かしてみたいです。

「きつねのおきゃくさま」の対比の学習が、あの有名な安西冬衛の「春」の一行詩の解釈に結びつくとは驚きでした。習得→活用のステップを踏むことで、自分が有能になったような思いがしました。これが累積するということなのでしょうか。

【視点/太田充紀】

評定平均 4.1

「視点」で物語を理解する方法を初めて知りました。新鮮で参考になりました。ありがとうございました。

場面の区切りと視点の区切りで迷いました。ただ大きな見方と小さな見方という考えで納得しました。

視点は難しいと思いました。自分の勉強不足がよくわかりました。

視点を講座で扱うのであれば「○人称」「限定」「客観」「全知」など基本的なことは講座内でもしっかり押さえるべきだったのでは? 自分もよくわからなかったので学びたかった)。模擬授業の部分の活動の意図がよくわからなかったです。できれば視点を扱いそうな高学年の教材の方がよかったと思いました。授業にも生かせそうなので。

「視点読み」が有効だというお話はそのとおりだと感じました。実際に授業に導入する際の注意点が知りたくなりました。

今日知りたかったのは講座がこの視点でした。以前授業でも扱ったことがあるのですが、視点の授業が視点だけで終わってしまっていたことが問題だということがわかりました。もう少し詳しく知りたい部分です。

視点授業の教材としては「お手紙」は合わないなー。話が長いと感じました。私語があったしー。

【主題/南山潤司】

評定平均 4.3

なかなか実践されていない「主題」というテーマで、一度授業してみたいと思います。ありがとうございました。

主題の難しさを感じていましたが、主題をつくるまでの流れがたいへん参考になりました。

主題を考えるのは難しいなあと改めて感じました。

主題読みは新しい教科書ではほとんど扱われない学習活動なのでしょうか。大事なことだと思うのですが……。主題読みがどういうものかは何となくわかりました。考える時間がもう少しあれば……と思います。

主題読みのポイントを体験を通してとてもわかりやすく教えて下さいました。ありがとうございます。

難しいですね。自分で全力で取り組んでようやく形にはできるが、しかし授業化するのは今日はまだできそうにないです。う~む。Q&Aで少しわかってきました。

主題読みのモデル授業ってどこかになかったかな~。それを題材に組み立てて批評するとおもしろかつたと思います。フォーマット自体はいいです。

【その他】

Q&Aの堀先生のお話でかなりスッキリしました。①視点、②主題、③「どんんな気持ち~問いの形をやめればいい」、④指導計画の重点とバランス……等々、とにかくスッキリしました。

今回もたいへんお世話になりました。今年もよろしくお願いいたします。

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電話と結婚式が嫌いである

電話が嫌いである。

かけるのも受けるのも嫌いである。携帯電話も常にマナーモードにしている。マナーモードにしていれば、気づかないことが多い。どうしても必要な用事なら何度もかけてくるはずである。10回に1回くらいは気づくわけだから、重要な連絡なら通じるはずだ。こういう論理である。

ぼくが電話を通常モードにするのは、電話がかかってくることが予想される場合である。例えば毎年12月30日は森田のお参りに行くので、梶くんや山下くんから電話がかかってくる。そういう日は前の晩から通常モードにしておく。今月28日も門島さんと連絡を取り合うことになるはずだ。関空に降り着いたら通常モードにする。そういう感じで動いている。

もうあまりにもメールに慣れてしまって、電話の必要性を感じない。しかも携帯メールはアドレスももっていない。ぼくがメールを確認できるのは自宅のみ。PCさえあればニフティのHPから確認できるのだが、遠出していてもそういうことはしない。

結婚式が嫌いである。

知り合い関係の葬儀には出席するが、結婚式には出席しない。最後に結婚式に出たのは梶くんの結婚式だと思う。梶くんの結婚式は21世紀の初頭。ぼくが返送葉書の宛先だった。たぶん発起人の一人だったのだと思う。それ以来、完全に出なくなってしまった。めでたい席である。ぼく一人くらいいなくても披露宴に影響はない。そう考えることにしている。

ぼくの中で、出席しなければならない結婚式はもうすべて終わった。森くん、市川くん、對馬くん、山下くん、学生時代の友人の結婚式にもすべて出た。もう独身者はいない。あと一人だけ、高校時代の友人に独身のヤツがいるが、おそらくあいつは一生独身だろう。

その代わり、葬式ははずさない。知り合い本人はもちろん、知り合いの実父・実母である限り、必ず出ることにしている。実はぼくが結婚式に出なくなったのには、このことが関係している。

あるとき、ある学校でそれほど親しかったわけでもない同僚の御母堂が亡くなった。ぼくもその同僚もすでにその学校から転出していたのだが、ぼくは当然と思って出席した。ところがその学校時代の同僚で出席していたのはぼくを含めてたった3人だけだった。50人を超える職場で、たった3人である。村八分でさえ冠婚葬祭だけははずさないといわれるのに、たった3人である。つまり、村八分以下ということではないか。

あるとき、ある学校で、ぼくの学校の校長の御母堂が亡くなったことがあった。その校長が国語の大家だったこともあって、このとき、ぼくは既に退職されたその校長と付き合いのあったかつて「国語人」と呼ばれていた校長たちに連絡をとった。誰一人来なかった。参列したのは現役ばかり。つまり、村八分以下というということではないか。

あるとき、ある学校で職場をともにしていた若者の御尊父が亡くなった。ぼくはそのかつての勤務校に連絡を入れ、彼の御尊父が亡くなったことを報告した。やはりだれ一人来なかった。つまり、村八分以下ということではないか。その職場の人間が近々結婚するという。ぼくにも案内状が来た。ぼくは行かない。きっと自分の結婚式にはぼくに来て欲しいと思いながら、ぼくの両親の葬式に彼は来ないのだ。そんな結婚式になぜ出る必要があるだろう。

ぼくがこんなふうに思うということは、ぼく自身もそういう目で見られているということでもある。不義理を繰り返していることを侘びながら、いまぼくはそう感じている。

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空中戦と地上戦をバランスよく展開する

京都の「明日の教室」が近づいてきた。

今日は割と早起きをして、特に仕事をすることもなくテレビを見ていた。録り溜めておいた新春のドラマの第一話を全部見て、どれとどれを連続で見ることにするかを決める、そんな一日である。

心理分析の刑事ものが2本。主演は松下奈緒と船越英一郎。どちらもホップ心理学を出ていなくて見る価値なし。「臨場」第一話を見たときのような、そうか、こういうことなのか、というような現実感もがない。

次に田村正和主演の大規模な法廷もの。これは大作志向なのはよくわかるし、見続ければきっとおもしろいのだろうが、見るのに疲れそう。ぼくには向かない。ぼくは「白い巨塔」とかなんとか一族とか、そういうのが苦手である。ああいう世界は2時間半ほどの映画とか、時間のあるときに小説で読むもの……という意識がある。心理戦というのは伏線が全部頭に入っていないと見られない。それが連続ドラマで10回程度となると疲れてしまう。そういうことだ。その点、「相棒」とか「古畑」は心理戦をきっちり1時間で描いてくれるいいドラマだった。

次いで高橋克典主演の完全なエンターテインメントを志向した無鉄砲な所轄もの。今回見るのはこれに決めた。気楽に見られるし、内山理名も出ているではないか。もうこれに決めた。ぼくは内山理名が大好きである(笑)。たぶん2000年代前半を代表する大女優になると思う。

とまあ、こんな4本のドラマを見ながら、なんとなく「明日の教室」で何をするかを考える……そんな一日だったわけである。その結果、結局、若い人も多いし、国語を専門としない先生も多いようだから、基礎的な国語科授業のつくり方について講座をしようと思い至る。1時間程度の講座で理念的な難しいことを語っても仕方がない。授業技術の講座にしよう、と。そう決意した。

ドラマを見終わり、風呂にはいり、PCに向かうと糸井さんがブログに「明日の教室」のことを書いていた。そうか、「読み解く」っていうテーマを与えられていたっけ。糸井さんはぼくに本格的な講座をやれと言っているわけだ。それじゃあ仕方がない。中1教材の批評の講座をやるしかない。しかも体験的に。それならいつもやっている講座になる。何も準備はいらない。

結論もはっきりしている。「読み解く」っていうことは、結局、どれだけレベルの高い視座に立てるかということにかかっている。有能な人間とそうでない人間との差は、自分の世界観だけものを見ているか、自分の世界観を俯瞰する地点からものを見ているか、その差である。俯瞰すれば自分を相対化できるし、俯瞰できなければ自分の経験を絶対視する。構造的にはそれだけのことである。

あとはどれだけ俯瞰のレベルを上げられるかということ、そして俯瞰すればするほど離れていく地上の物事との関係をどれだけ精緻に結びつけていられるかということ、この2点である。地上の物事と切れてしまったら現実離れした形而上学になり、世の中に不必要な論理になる。あくまでそれだけは避けるというストイックさを見失わない形而上学、そういうことである。

国語科の授業づくりも同じである。どれだけ地上戦を展開しながら上位の視点をもたせるか、空中戦を展開しながらいかに地上との連絡を維持させるか、そこに意識を集中すればいい。理屈としてはこういうことである。

さて、「明日の教室」が準備いらずということになると、次は5日のワールド・カフェだな。これは岡山さんのあとだから、けっこう大変だ(笑)。12日の累積国研と19日のブラッシュはコメンテーターだけだから、ワールド・カフェさえ完成させれば2月は乗り切れるということである。その次のイベントは3月下旬。2ヶ月近く、本の執筆に専念できそうである。有り難い。

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また、教育界の一つの象徴が崩れてしまったなぁ……。

和田中でわいせつかぁ……。いわゆる「夜スペ問題」に別の問題がからんできちゃったなぁ。ぼくも「夜スペ」に賛成だったわけではないけれど、賛否はともかく、教育システムを変えようとする先進校にこの手の問題が起こってしまったことは非常に残念である。和田中の提示した問題の規模はそれなりに大きかったわけだが、これでもう冷静な議論が展開されることはないだろう。

先日の保護者提訴の問題は芸能人のスキャンダルみたい構造だったし、今回の和田中の問題は政治家のスキャンダルみたいな構造だし、いろいろな問題が常に複雑な構造をもち、複合的な問題として目の前に現れてしまう。それが世の中だというのは簡単だけれど、なんとも残念な思いばかりが続く、いまの教育界である。

文部科学省による「上からの改革」も成功しないことは、2002年改訂の教育課程が明らかにしてしまったように思う。官製研もいまひとつ効力を発揮していない。

反対に学校現場からの「下からの改革」も幾つかの先進校が生まれるだけで広まらない。ネット社会では先進校から取りこぼされた教員の不満もなんとなく広まっていくから、成功例さえ純粋な成功例としては受け止められない傾向もある。

民間教育運動にも勢いのある団体、勢いのある運動が見られなくなって既に10年。ぼくらも含めて、みんな小粒である。小粒な者たちが諸派乱立、自己満足的な研究にいそしんでいる……というのが、民間教育の〈いま〉だろう。昔はよく見られた民間教育団体同士の小競り合いさえ潜在してしまっている。

大学の教育研究と現場の教育研究の断絶も、幾つかの例外はあるものの、その溝は従来よりも深くなっているように思う。かつてなら校内研究に大学研究者の提案が引用され、「よし!これに取り組んでみよう」というタイプも多々見られたが、いまではほとんど聞かない。

こう考えるとこの国の教育界は絶望的であるようにさえ思えてくる。少なくとも教育界に「わくわく感」みたいなものが薄れてきている。まあ、ぼくの立場からはやれることを確実にやっていく、ということしかないのだけれど。

それにしても和田中でわいせつかぁ……。都市部を中心とした学力向上派の人たちに与える影響は少なくないだろうなぁ。なんでこんなときにこんな問題が起こってしまうのかなぁ。これもまた、保護者提訴の教諭と同じように、特殊な教員の特殊な事例とは見てもらえないのだろうなぁ。何かが始まろうとしているときに起こるこの手の問題が一番それまでの動きを引っ繰り返してしまうんだよなぁ。なんか複雑だなぁ。

また、教育界の一つの象徴が崩れてしまったなぁ……。

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「第16回・中学校学級経営セミナーin札幌」終わる

16回目を数える国語科授業づくりセミナー。年末の「授業技術」「説明文」に続いて今回は「物語」。音読/設定/構成/描写/対比・類比/視点/主題/QAという8講座。講師は堀・山口・藤原・山下・大谷・太田・南山の7人。参加者は20名。和気藹々のいい会でした。

第一講座はぼくの音読。「夏の葬列」を用いて、授業スタート時の範読・追い読み・斉読・一文交互読みの流れ、16の音朗読技術の紹介、途中に音読交流を少しだけ入れて、講座としてはまずまず。

第二講座は山ちゃん。設定の講座なのだが、設定概念をおさえるのに看図を使っていたのが出色。その後、設定を読み取る例として提示した教材「お手紙」が少々簡単すぎたのが難点か。何をするにしても参加者にある程度の抵抗をもたせて、「必然性」をつくるということが必要なのだが、そのあたりの意識が山ちゃんにはまだ弱いのかもしれない。

第三講座は藤原くん。石原千秋の「読者はどこにいるのか」を下敷きに、物語の4つの構成を紹介、「おにたのぼうし」を使って境界領域にある作品内アイテムについて分類し交流する授業。なかなか練られた講座構成だが、藤原くんが考えているよりも教材内容に曖昧さがあった。出入り口のはっきりしているファンタジー構造を紹介しながらも、もってきた教材がメルヘンだったというズレが参加者を混乱させた原因。ただ提案としては新しい。

第四講座は山下くん。「人物描写」と「情景描写」の概観し、その後、小5の新教材「のどがかわいた」(光村)を用いて人物の関係構造、情景描写と登場人物の関係について描写を関連させながら読み解いていく。教材研究のしっかりした講座。ただ描写の読み取りの一般化に弱さがあつたことは否めない。教材がいい教材ではないのだが、教師の興味を惹くようなおもしろい教材であったことが功を奏した感じの、賛否両論の講座だった。

第五講座は大谷さん。対比・類比を「きつねのおきゃくさま」を使って概念的に整理したあと、安西冬衛の「春」を用いて対比による深層義を読み取る授業を展開。これは45分を肘用に有効に使った出色の講座だった。素人参加者にとっては対比・類比の概念がよくわかり、玄人参加者にとっては対比・類比の目的が伝わった。講座時間があと15分長くて60分だったら、かなり交流時間を確保することができのに……という講座でもあった。

第六講座は太田くんの視点。昨年11月末に急遽依頼したのだが、よく勉強してもってきたな……とある種の凄味を感じさせる講座だった。本人はずいぶんと緊張していたようで、早口になっていたが、視点概念とその読み取り方に関しては概ね良し。短時間でよくここまで整理したなという印象。「お手紙」を用いて視点の転換を扱ったわけだが、参加者もその構造がよく理解できたはずである。学習活動の作り方に工夫があればもっと良かっただろうが、それはかなり高度な要求である。今後に期待。

第七講座は南山さんの主題。「大造じいさんとがん」を用いて主題の読み取り方を練習したあと、「はな」という新美南吉の教材を用いて参加者に個人による主題の読み取りをさせた。時間を勘違いしていて常に時間が足りない状態で進んだのでついていけていない参加者もいたようだが、やろうとしていることはよくわかった。主題の読み取りについては、まずは単純化して練習することの必要性を説いた講座である。

第八講座はいつもながらのQ&A。おもしろい質問というか、的確な質問というか、話題の広がる質問というか、そういうものが多くて、かなり議論としては深く、難しくなってしまったかもしれない。しかし、司会をしていたぼくから見ると、参加者の表情は明るく、しかも集中しながらメモを走らせていた。緊張感と笑いが混在したいい時間だった。

終了後の小宴も楽しかった。兒玉くんは本当におもしろいキャラクターである。新しいネタもたくさん聞いた。裕章さんがいなくて残念だった(笑)。

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獺祭は本当にうまい

2年3組で朝学活・給食・清掃・帰り学活。

授業は4時間。すべて2年生の国語で「夏の葬列」の第4節の読解。空き時間は生徒会関係の文書をつくったり修学旅行の大綱の手直しをしたりプリントの印刷をしたり。放課後は学年会。修学旅行のコースが完全に決定。

夜は同世代同僚と新年会。へべれけ。楽しい時間。獺祭は本当にうまい。

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第16回・国語科授業づくりセミナーin札幌

内容・講師に若干の変更がありましたのでご確認ください。

第16回・国語科授業づくりセミナーin札幌

国語の授業、困ってませんか?
                                       
来年度こそ
国語授業を充実させる
第3弾
基礎の基礎から学ぶ
物語の授業づくり
7つの講座

物語の授業って、どうはじめてどうまとめたらいいの?
設定とか視点とか主題とかってどう教えたらいいの?
こんな 小さいけれども大事な国語科授業のキモ
指導事項と授業技術の基礎の基礎について、
国語を得意とする中堅・ベテランの講師陣から楽しくわかりやすく学べます。

【 日時 】2011年1月22日(土)
          9:15~16:45
【 場所 】札幌白石区民センター
      1F多目的室(予定)
【参加費】3,000円

【 講師 】太田充紀(名寄市・小学校)/大谷和明(札幌市・小学校)/藤原友和(函館市・小学校)/堀 裕嗣(札幌市・中学校)/南山潤司(札幌市・小学校)/山口淳一(札幌市・小学校)/山下 幸(札幌市・中学校)

【プログラム】

9:10~ 9:15  開会セレモニー
9:15~10:00  講座1 音読・朗読/堀 裕嗣
10:00~10:45  講座2 設定/山口淳一
11:00~11:45  講座3 構成/藤原友和
11:45~12:30   講座4 描写/山下 幸
             昼食・休憩
13:30~14:15  講座5 類比・対比/大谷和明
14:15~15:00   講座6 視点/太田充紀
15:15~16:00   講座7 主題/南山潤司
16:00~16:45  講座8 文学的文章の授業なんでもQ&A

【お申し込み方法】

以下の7点をお書きの上,FAXがEメールにて下記まで御連絡ください(24時間OK)。
 1.氏名/2.勤務校/3.郵便番号/4.住所/5.電話番号/6.FAX番号(ない場合には「なし」と明記)/7.メールアドレス(なし場合には「なし」と明記)
小木恵子(こぎ・けいこ) FAX(011)866-6422 E-mail : YFA39060@nifty.com

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これが事実だとしたら……

桑原憂太郎プログ」を読んで驚いた。

ぼくのフォローしていなかった記事を引用している。FNNニュースの18日19時35分の記事である。

【引用開始】

教師に提訴された保護者は、「モンスターペアレンツ的な扱いをされているのは、この時は全然気がつかなくて。結局、裁判が始まって、準備書面で仕立て上げられていた」、「(ホームルームで)手を挙げろと先生が指示して、それで多数決をとって、結局、向こうのがみんな手を挙げているからって、うちの子に『謝れ』と言ってるんですよ、2回ほど、強要して」、「教諭がやっていることに対して、わたしどもは抗議をしていることであって、実際500万円という金額を請求されているわけですから。それについては血圧が上がって、朝まで一睡もできなかったし。不眠症同士の戦いだと、うちが勝っていると思います」などと話した。

【引用終了】

多数決……。

あ~あ、これが事実だとすれば、完全にダメだ。「2回ほど、強要して」がなくてもダメだ。完全にダメ教師であり指導力不足教員であり独善的な不適格教員だとさえいえる。もしもこれが事実なら、早く提訴を取り下げて謝罪して欲しい。こんな指導をしていて裁判など、同業者としてぼくが謝りたいくらいである。

これは負ける。全面的に負ける。教師側に何の正当性もない。こんな指導をしていて、よく慰謝料などと言えたものである。ぼくが予想していた指導よりもかなり悪い。ぼくにはこんな指導の仕方は思いつけない。

申し訳ないが、この指導は処分対象である。せめて喧嘩両成敗にしてくれていればいいものを。話にならない。

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ドツボにはまらないようにしよう

2011年20日目。

年が明けると同時にこの20日間、原稿ばかり書いている。去年まで原稿を書くのがいやでいやで仕方なかったのが嘘のように、サクサク書けている。

去年までは講演・講座のPPTなら簡単につくれるのに、或いは講演・講座のPPTならつくろうと思えるのに、原稿を書くとなるともういやでいやで常に後回し。結局、ぼろ原稿ばかり書いていた。これはもう3年くらい続いていたように思う。

しかし、今年は違う。まだ20日しか経っていないからいつまで続くのか怪しいものだが、なんだか原稿を書くことが楽しくなり始めている。こういう気分は怒濤の原稿執筆をこなしていた90年代後半から00年代初頭以来である。

しかし、喜んでばかりもいられない。原稿書きを楽しめるようになると同時に、講座のPPTをつくるとか、講演の準備をするとか、そういうのがいやでいやで仕方ない状態に陥ってしまったのである。結局、明後日の研究会の講座の準備がいま現在ゼロである。去年までのぼくには考えられないことだ。2011年を機に、ぼくの中で何かのバイオリズムが変わったらしい。

もしもこの原稿執筆バイオリズムが今年1年間すーっと続いたとしたら、ぼくはけっこうな量の本を書けるはずだ。いま依頼されている本が3冊、それからこれから書きたいと思っている本が5冊、なんとこのくらいなら書けそうな勢いなのである。

でもぼくもこういう世界に入って15年くらいが経つ。そういうペースで仕事を進めてしまうと絶対に息切れしてしまうことを知っている。一度息切れすると、数年間息切れしっ放しになるという自分の性向もよくわかっている。だから、いま書いている国語本を完成させたら、3ヶ月くらい休もうと思っている。

いま書いている本の脱稿目標は3月15日。だから、そこから6月中旬くらいまでは休もうと思っているわけだ。そこで3ヶ月くらい休むことができて、年度当初の仕事をスムーズに進めていろいろアイディアが浮かんでくれば、夏休みにまた原稿執筆バイオリズムが上向いてくるのではないか。そんなことになったら、また夏休みに2冊くらい書けちゃったりして……。

こういう皮算用ばかりしてドツボにはまってしまったことも一度や二度ではない(笑)。

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淋しい世の中になったものだ

今日は授業が2年生2時間。どちらも「夏の葬列」の音読と読解。昼休みは漢コンの追試。順調に合格していく。今回は問題が少し簡単だったので、満点以外はすべて不合格としている。その割には一度の追試で各学級それぞれ不合格者が2~3名程度にまでなっている。まずまずの結果である。

空き時間が3時間もあったので、絶対に自習監督が入るだろうと予想していたのだが、今日は欠勤者がゼロで自習監督もなし。かなりゆったりした一日を過ごした。放課後は学年協議会で修学旅行のテーマ候補を三つに絞り込む。その後、校務部会。年度反省を含む定例。いよいよ今年度も終わりが見えてきたな、という感じ。

ある同僚に煙草が切れたので1本くれと言われてあげた。その同僚は図々しくて申し訳ない、本当に申し訳ないと謝っていた。ぼくにはその気持ちがよくわからなかったので、なにをそんなかしこまっているのかと訊いてみた。彼は答えた。「だって、1本20円以上するんだよ」と。

そうか。いま、確かに煙草は1本20円以上しているのである。なるほどそれは簡単にやりとりできるものではないかもしれない。

かつて煙草というものは、道ばたで吸っていると、知らない人でも1本ももらえないかと言われる程度のものだった。煙草は知らない人同士でもやりとりできるものだった。しかし、もうそういう時代ではなくなったのかもしれない。同僚でさえ、たった1本の煙草をもらうのにかしこまらなくてはならない……そういう時代になったのだ。

なんとも説明のしようがないのだが、淋しい世の中になったものだと感じる。

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保護者を提訴した女性教諭・補足

昨日の「少なくとも現段階では……」という文章に補足を加えておきたい。

今日、幾人かの方々にメールをいただいた。文面はいろいろだが、要するに「野中先生の主張を批判しているのか」という内容である。

答えは「否」である。

昨日の文章で私は何度も「現役教師が……」という書き方をしている。野中先生は「現役教師」ではない。野中先生があのように主張することはまったくもって構わない。

ちょっと考えてみればわかるはずだ。

野中先生は初任者研修担当教諭である。つまり、「教員」に対して責任を負う仕事である。だから、教員の視点、教員の視座に立って、教員を苦しめている一つの要素である保護者クレームを批判することにはある種の正当性、立場的正当性とでもいうべきものがある。私は野中先生の立場なら提訴した教諭にエールを送ってもいいと思う。

しかし、いま現在、子どもに対して、担任をしたり授業をしたりしている「現役教師」は別だ。「現役教師」はいま現在、この瞬間にも、子どもに対して責任をもつ仕事なのである。もちろん、子どもの後方にいる保護者に対しても。

その「現役教師」が司法の判断も出ていない段階で、報道だけを頼りに、自分の周りの事例とリンクさせて、独善的に提訴した教諭を応援するのはいかがなものか、と指摘しているのである。

昨日も書いたことだが、教師は、少なくとも学校においては「権力者」であり「権威者」である。これは教師個々のキャラクターにかかわらず、制度的に、政治的に、システム的に「権力者」であり「権威者」なのである。少なくとも学校システムにおいて、教師は「強者」なのである。

保護者が強くなり教師はどんどん引かざるを得なくなっているとか、多くの若手教師が保護者によって苦しい立場に追い込まれている事例があるとか、子どもが変容してベテラン教師がかつてのやり方では立ちゆかなくなっているとか、これらはすべて「教師の世界観」に過ぎない。いわば「コップの中の議論」に過ぎない。

しかし、今回の場は「司法」なのである。「教師の世界観」のみを盾に軽はずみな議論を展開すべきではない。

例えば、最近、病院において患者が医者や看護師に度を超えた要求をして困っている状況がある、という報道をよく聞く。それを読んで、ぼくもまた、そういうこともあるのだろうなあ……、お医者さんも可愛そうに……と思う。

しかし、それが医療ミスが問題になって訴訟が起きているとしたらどうか。しかも患者が普段から過大な要求ばかりしていたという報道つきでである。ぼくらはこの件に関して、患者の過大要求があったかなかったかではなく、あくまでも医療ミスがあったかなかったかに関心を寄せるはずである。

この教諭の問題も同じである。司法の問題になれば、実際の指導場面で、或いはその後の指導場面で、この女性教諭が何をし、何を言ったかこそをまず問題としなければならない。保護者が俗に言う「うるさい保護者だったかどうか」という問題はそのあとの問題なのである。

こういう問題について、学校長までが「モンスターペアレンツに学校や教師が負けないようにし、教諭が教員を代表して訴訟を行っていると受け止めている」と、あたかも保護者問題のみが問題であるかのような主張を展開して、それが報道されてしまうという現実。これは大問題だと指摘しているのである。

ぼくの違和感の対象は、実はこの提訴した女性教諭にではなく、この学校の学校長にある。女性教諭は直接の当事者である。彼女を批判してあれこれ言うのは可愛そうだろう。しかし、学校長の立場は異なる。今後のこの問題の見通しはもちろん、この問題が今後、全国の教師、全国の学校教育に与える影響にまで責任をもたねばならないはずだ。

本音をいえば、提訴するのもいい、市教委に文書を提出するのもいい、「でも、本当に裁判に勝てるんでしょうね」と念を押したいのである。「負けたら我々に与える影響は大きいですよ」と言っているのである。

しかも、裁判の勝ち負け以上に問題なのは、マスコミ報道のスタンスが今日のところはまだ五分五分報道をしているけれど、今後どうなるかわかりませんよ……ということだ。こういう問題は、結局、事実はどうでもよく、イメージのみが先行するところがある。麻木久仁子が正しいか大桃美代子が正しいかではない。どちらもものすごいイメージダウン。それがマスコミ報道がもたらす結果として一番多いパターンなのだ。

だから早く収束して欲しいと願っているわけである。以上、この件終わり!(笑)

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週3回の担任業務

担任が体育の先生なので週に3回スキー学習に行く。副担任としてもっている学級に今日から週3回、担任として入ることになる。とは言っても、今日体験してみて、朝学活→給食→帰り学活→教室清掃しかないことに気がついた。スキー学習の日には学活も道徳も総合も入っていないのである。それほど仕事量が増えるわけでもない。

それでも朝学活に入ったり、給食を生徒といっしょに入ったり、清掃点検をしたりというのはいいものである。みんな担任になりたくて教師になるのに、30歳くらいから担任を続けたいという者と、副担任で楽をしたいという者とに分かれていく。そして30代後半から40代になったとき、校務分掌の部長をやりながら、まともな副担になるのは前者である。後者は若いうちから副担任の楽さに味をしめて、結局まともに働けない教師になっていく。正直、そういう人間はクビにしていいとさえ思う。

授業は4時間。2年生間の国語が2時間は漢字コンテストの返却と追試、更に「夏の葬列」の音読。2学期末に中途半端なところで終わったので、音読からやり直しである。1年生の書写2時間は「いろは歌」の練習。空き時間は漢コンの採点、追試の採点など。

放課後は生徒会役員とちょっとだけ打ち合わせをしたあと、教育課程検討委員会と学年会。なんとも会議ばかりの日である。平成24年度の新教育課程ばかりでなく、勤務校ではこの俊、校舎の建て替えが重なっている。しかも、札幌市初の隣の小学校との合築校舎である。現行の行事の中にもできる行事とできない行事がある。今日の教育課程検討委員会はその話。

夕方、パン屋が職員室に来たので、レーズン入りの食パンを買う。これは割と美味で気に入っている。

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少なくとも現段階では……

とうとう起こってしまった。いつかこういう日が来るとは予測していたけれど、とうとうその日が来てしまったようだ。

保護者クレームを受けた教諭が、不眠症に陥ったとして保護者に慰謝料500万円を求める訴えを起こしたのである。報道によると昨年9月のことであるらしい。

毎日新聞

朝日新聞

産経新聞

まずいことが起こったものである。

報道によると、この教諭の勤務する学校の校長が市教委に対して、「モンスターペアレンツに学校や教師が負けないようにし、教諭が教員を代表して訴訟を行っていると受け止めている」という文書を提出したという。これはまずい。

ネット上には、既に、提訴したこの女性教諭へのエールが数々の現役教師から送られている。この状況もまずい。まずすぎる。

その1

報道によると、事の発端は「提訴したのは昨年9月。訴状などによると、教諭は1991年に教員になり、昨年4月からこの女児の学級を担任。同年6月、女児と他の女子児童とのいさかいを仲裁した際、母親から電話で『相手が悪いのに娘に謝らせようとした』と非難された。」ということにあるらしい。

1991年に教員になったというこの女性教諭。私と同じ経験年数である。どんなに若くてもとも40代。高校浪人することなく、就職浪人することもなくすべてストレートで計算しても昨年6月なら42歳にはなっているはずである。

このことは、20年の経験年数をもつ教諭が子ども同士のいさかいの仲裁において、子どもの納得を得ることなく、子どもを落とすことなく、指導を終わらせたことを意味している。予想でしかないが、家庭連絡を怠った可能性さえある。とすれば、教職20年教諭の対応としては未熟だったと見る見方もありえる。

その2

当事者教諭の勤務校の校長が市教委に対して「モンスターペアレンツに学校や教師が負けないようにし、教諭が教員を代表して訴訟を行っていると受け止めている」と意見書を提出したという。

私は教員の一人として、この教諭に教員を代表してほしくないが、百歩譲ってこの教諭が「教員を代表して訴訟を行っている」としよう。しかし、その論理でいけば、この提訴された保護者は全国の「モンスター・ペアレンツ」と呼ばれる保護者を代表して提訴されていることになってしまう。教員側、学校側にはその自覚があるからいいとしても、この保護者にその自覚はあるまい。この校長はこういう構造を考えただろうか。私が思うに、この校長提出文書の論理は根本的に間違っている。

まあ、教諭だけでなく、校長もまた当事者であるから、自らの主張を市教委に提出するのは良い。その権利はあるだろう。しかし、その文書の内容が報道されるのはまずい。どこからリークされたのかはわからないが、これが報道されたことは教員世界にとって大きなマイナスである。ウラをとっていない捏造記事であることを望むけれども、毎日・朝日両紙が同じ文言で報道しているところをみると、その可能性はうすいだろう。

その3

現役教師が報道された内容だけでこの女性教諭にエールを送る動きもまずい。司法の判断はまだ出ていないのである。おそらくまだまだ先だろう。こうしたマスコミ報道によって固定したイメージをつくられた側が最終的に裁判に勝訴する例はいくらでもある。

今回この女性教諭にエールを送った現役教師たちも、事が小沢一郎元幹事長のマスコミ報道に対してなら、まだ判断は早計と冷静に見る者が多いのではないか。鈴木宗男氏の秘書ジョン・ムウェテ・ムルアカのときはどうだったか。よく考えてみたほうがいい。ましてや、林真須美のごとく、死刑判決が確定したあとでさえ「あれは冤罪ではないか」と疑問視する声が識者の間でさえあがるのが司法の世界なのである。

その4

現在、教師にとって、「保護者クレーム」の問題、「モンスター・ペアレンツ」の問題は解決すべき喫緊の課題として意識されている。当事者意識をもって保護者問題の報道を捉える立場にいるのだから、当然の反応といえなくもない。

しかし、これだけ保護者問題が報道されている現在であっても、保護者による教師に対する抑圧と教師による子ども(含・保護者)に対する抑圧とを比べれば、おそらくは99.99999対0.00001くらいの割合だろう(もちろんいいかげんな数字であり、比喩的な数字に過ぎない)。そもそも学校とはその制度自体が子ども・保護者を抑圧する構造をもつシステムなのだから、この構図は致し方ないのである。

今回の件があまり大きく取り上げられることなく、収束に向かっていくことを切に望む。教師が保護者を提訴する可能性を国中に意識させ、この女性教諭の指導における一言一句が明らかにされ、更に言葉狩りのような機能を果たして教師の物の言い方に足枷をはめる、そんな事態にだけはならないで欲しい。

ぼくは保護者と決定的に決裂したという経験をもたない。もちろん保護者に謝罪したこともあるし、じっくりと話し合ったこともある。しかしどの事例も半年もすればその保護者とかえって良い関係を結べていた……そんな事例ばかりである。しかもそんなことは20年の教員生活の中でほんの数件である。他の圧倒的な数の保護者は、ぼくに好意的であり、学校に協力的であり、そしてある程度の不条理は仕方ないものだと我慢してくれていた。いまなお、それがこの国のかたちなのではないか。

今後、保護者が、ちょっと学校に訊いてみよう、担任の指導にちょっと疑問があるから電話をしてみよう、そう思ったとき、「こじれたら教師に訴えられる可能性がある」とまで想定しなくてならなくなる。そんなことはないと思いながら、普通の保護者なら、普通の人間なら、絶対に頭をよぎる。これが大きく報道され続ければ、間違いなくそういう事件、そういう前例になっていくに違いない。それは多くの教師にとって望むところではないし、多くの学級運営にとって良いことではないし、多くの学校経営にとって正常な状態ではない。

そもそも、事が6月に起こって9月には提訴。たった3ヶ月である。こんな早急な判断をぼくは肯定するわけにはいかない。

少なくとも現段階では……。

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「言語技術教育」の究極の目的

「言語技術教育」を実践している教師によく見られるのが、ある技術を一度指導しただけで事足れりとしてしまう例です。言語技術に限らず、「技術」と呼ばれるすべてのものは一度指導した程度で身に付くような簡単なものではありません。習熟するために何度も何度も繰り返し練習して次第にそれが定着していく、そういうものです。野球選手が素振りを繰り返したり、武道で型を重んじたりということを思い浮かべれば、容易にイメージできるはずです。

「言語技術」も同じです。一度指導したくらいで子どもたちに身に付くと考えるのは大間違いで、繰り返し繰り返し、すべての子に定着するまでしつこく指導し続けなければなりません。これが「言語技術教育」の一つの側面です。

実は、「言語技術教育」にはもう一つ、大切な側面があります。それは誤解を怖れずにいうなら、「言語技術」は所詮「技術」である、ということです。「こういう場合はこういうふうに表現するといいよ」「こういう場合にはこんなふうに考えると理解しやすいよ」という言語活動における一般論を、「言語技術」という大仰な言葉で呼んでいるに過ぎません。たかが「技術」、たかが「一般論」ですから、どんな子でも練習を重ねることで身に付けることができます。ただ定着するまでの時間が早いか遅いかがあるだけなのです。

ですから、私たちは教師として、「あの子はいつまでたってもできない」とか「あの子はセンスがない」とか言って諦めてしまってはいけません。言葉が話せて字が書けさえすれば、「言語技術」は必ず身につきます。この観点も「言語技術教育」を考えるうえで大切な大切な要素なのです。

言語技術に限らず、「技術」と呼ばれるものはすべて、その技術を知っていることには何の価値もなく、その技術を使えるようになって初めて価値をもつ、という特質があります。つまり、「言語技術」は「覚えてナンボ」のものではなく、「使えてナンボ」のものなのです。ですから、「言語技術教育」における私たちの目的は、子どもたちが「言語技術」を〈使える〉状態になるまで高めることです。しかも、できれば国語の授業で使えるだけではなく、他教科の授業でも、そして日常生活においても使えるようにすることが目指されなくてはいけません。つまり、すべての「言語技術」をすべての子どもたちがいかなる場面でも使えるようになること、それが「言語技術教育」の究極の目的ということになるでしょう。

しかし、これはもちろん現実的には大変に難しいことです。ほとんど不可能と言ってもいいかもしれません。言うは易く行うは難し。その代表ともいえる、教育の理想像です。しかし、これを目指し、これに挑むことこそが教師の仕事なのであり、これを諦め、これに挑まないところには新しい提案は出てきません。私たち教師はそれがどんなに不可能だと思えても、この理想を捨てるべきではありません。

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ほとんど何もしない一日

漢字コンテストの問題をつくった先生が風でお休み。1時間目の空き時間にプリントアウトして印刷。どこに問題があるのかがわからず手間取ったが、なんとか事なきを得る。50分の空き時間のうち25分をこれに費やしたわけだが、昨日のうちに今週中に使う文書はすべてつくってしまったので、今日は割と余裕がある。残り時間は同僚と談笑。今年もこういう余裕をもって仕事をしたいものである。

授業は3時間。1年生の書写二つは「いろは歌」。2年生の国語は漢コンの学習。これまたものすごく楽。5時間目は空き時間で同僚と打ち合わせ。打ち合わせをしているうちに結局談笑で終わった1時間。放課後は全校協議会で送別集会細案検討、その後学年協議会で修学旅行の大綱案、更に生徒会役員と送別集会関係の打ち合わせ。生徒会を若手教師に頼んで16時10分に年休。

ほとんど何もしない一日。

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ライフワーク

今年の二つ目の大きな仕事、言語技術体系本を書き始めた。

ぼくはこれまでも領域別の言語技術体系をいくつか提案してきているので、これまで書いてきた本の内容と重なる内容もある。でも今回は、安易に前著の内容を確認しながら書いて楽をするのではなく、同じ項目について、いま現在のぼくのことばで書くことにした。つまり、前の本には目を通さずに書くことにしたのである。

前に言語技術の体系化を志したのは2001~2002年にかけてである。それから10年近くが経って、いまのぼくは確実に、当時よりわかりやすく表現することができる。あの頃の本をひもといてあの頃の思いを想い出し、あれも載せたいこれも載せたい、あの観点も必要だこの観点も必要だと話を複雑にしたくない。今回の本はあくまで、国語の指導事項が整理されたものが欲しい、しかも研究者が書いたものではなく現場人が書いた、現実的で、授業に直接的に役立つものが欲しい、そう感じている現場実践者に向けて書くつもりである。執筆にあたっての第一義的な観点は「わかりやすさ」だ。

反面、7年振りに国語教育本を書くとなれば、これを上梓した暁には、これまでお世話になった様々な方々に送らねばならない。野口先生や大内先生はもちろん、鶴田先生、俊三先生、小森先生、河野先生、中村先生、阿部先生、市毛先生、大森先生、そして宇佐美先生にだって送らねばなるまい。彼らは間違いなく、一言一句読み落とすことなく読み通すはずである。論理に矛盾があってはならないし、飛躍があってはならない。緊張する仕事である。

これまで挙げた先生方とは別のベクトルをもつ先生方とのおつきあいもある。田中先生、須貝先生、齋藤先生ら、日本文学協会国語教育部会の先生方である。今回の本には「語り手」論もその体系に含んでいる。彼らに堀の文学教育論はこの程度かと思われるわけにもいかない。これまた緊張する仕事である。

でもいいのだ。必要なことは等身大で書くことである。この本はあくまで中締めであって完成版ではない。不備・不足・不十分を指摘されれば、それを修正して再び世に問う機会をさぐるのみである。だってこの仕事はぼくのライフワークなのだから。

今日は第1章の1割、4頁を書いた。慌ただしい一日の慌ただしい仕事を終えたあとの執筆としては、まずまずのものが書けたのではないかと自負している。あと残り180頁である。たいした量ではない、すぐに書けるさと、自らを励ましている。

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言語技術教育は普及したけれど……

1990年前後から国語科における「言語技術教育」の必要性が叫ばれ始めました。

いわく「国語科授業は何を学んだのかがわからない」、いわく「国語科授業には効用感がない」、いわく「国語科授業では気持ちが悪くなるほど気持ちが問われる」、いわく「文学作品ばかり追い求め、実用性がない」、などなど。

以来、20年あまり。

いまではほとんどの教科書や資料集・ワークの類に「文章構成」や「問題提起」、「ナンバリング」や「ラベリング」という用語が見られるようになりました。文学的文章を題材とした「読むこと」領域でさえ、「設定」や「視点」などの用語こそ使わないものの、教科書に「言語技術教育」の観点が大きく取り入れられるようにもなりました。

時代は「ゆとり教育」から「学力向上」へ。これは、ある面で「情意の教育」から「実用の教育」へとシフトしたことを物語っています。これが「言語技術教育」への追い風となったことは確かでしょう。21世紀になると同時に始まった「PISA型読解力」の流行も、「言語技術教育」の普及と無縁ではありません。総じて、時代は「言語技術教育」隆盛に向かいつつある、といっても過言ではないかもしれません。

しかし、一つの考え方が普及し定着してくると、なんでもそれで解決できる、これをやっていれば安心だ、と考える人たちが現れます。そうした人たちがその考え方に対する「万能主義」を喧伝します。それが更にその「万能主義」を普及させ、どんなに新しい考え方も、どんなに有効な考え方も形骸化していきます。

「言語技術教育」もこの構造と無縁ではありません。いま、国語科においてはなんでもかんでも「技術」を教えればよいのだと考える人たちが一定程度現れてきています。その風潮に「言語技術教育」を強力に推進してきた研究者・実践家でさえ眉をひそめている現実があります。

国語科の授業に「言語技術教育」の観点が必要であることは言うを待ちません。しかし、勘違いして欲しくないのは、決して「言語技術」がイコール「国語学力」ではない、ということです。

こういうあたりまえのことがあたりまえでないように喧伝されるのが世に中だと、わかってはいるのですが……。

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慌ただしい一日でもあり密度の濃い一日でもあり

なんとなく慌ただしい一日を過ごした。

生徒が何かしたわけではない。同僚と何かあったわけでもない。そもそも慌ただしいのは学校ではないのだ。

せっかくこの土日に原稿をあげたのだが、著書の企画に関する細かな打ち合わせとか、この連休に送った原稿を修正してほしいとか、講演を依頼したいのだが……とか、日に3本も学校に電話が来る始末。公務とは関係のない電話がたくさんかかってきて、なんとも申し訳ない気持ちになった。おかげで帰宅後、いまのいままでそれらの対応にかかりっきり。現在20時14分。やっと終わった。

ふう。

求められているうちが華と年末に書いたけれど、せっかく3学期が始まったというのに、なんとなく落ち着かない。講演依頼はともかくとして、2本の電話の細かな打ち合わせはぼくの不徳の致すところ。バシッ!と原稿を書いたり企画をつくったりしていればこういう状況にはならなかったわけで……。今後はちゃんとやろう、細かいところまで詰めて書こう、締め切りギリギリにならないようにしよう、と決意したのでありました。

編集者が職場に電話をかけてくるということは、編集者が悪いのではなく、電話ですぐに確認しなければならないような日程でぼくが原稿を提出したからなのである。結局、ギリギリくんは自分の首をしめるということがよくわかった。

今日は授業が3つ。2時間は2年生で、明日の漢字コンテストのプレ……というか練習問題に取り組ませる。1時間は1年生の書写で小筆のいろは歌。どちらも滞りなく進む。

空き時間3時間は、1時間が今月の動きを確認。行事予定表とにらめっこをしながら、生徒会関係、学年関係の自分の動きの計画を確認する。朝の打ち合わせで連絡しなければならないことを手帳のその日の連絡欄に赤でメモしたり、提出文書の締め切りを逐一手帳にメモしたり、そんなこんなで1時間がつぶれる。

あとの残りの2時間と放課後で、修学旅行大綱文書をつくり、冬休み中の研修報告書をつくり、生徒会関係の職員会議提案文書をつくり、漢コン関係のプリントを印しと、なかなか密度の濃い一日だった。

※谷山浩子の「たんぽぽ」を聴きながら……。

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谷山浩子/2000年

好きだぁ。もう理屈なく好きだぁ。これ聴きながらだったから、原稿の修正もすぐにできた。そんな気がする。

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てんぷら★さんらいず

たぶん十指に入るほど好きな曲である。

真夜中に聴くのがいい。きっと初めて聴いたのが真夜中だったからだ。だれもが夜更かしをして、眠い目をこすりながら聴き続けたオールナイトニッポン。木曜第二部、たけしの後である。

大学で記号論にのめり込んだのは、おそらくこの曲の影響である。自分の、自分でもどこかわからない深いところに、こんなにまでコードをズラした言葉群が突き刺さってくるのが何故なのか、それが知りたかった。イコンにもインデックスにもない、シンボルの不思議な本質を味わった。

初めて生で聴いたのは、もう三十になろうかという出張帰りの東京だった。レコードだけで聴いていたせいか、妙に下手に聞こえたのを覚えている。ぼくはそれからこの曲を生で聴きにいこうとは思わなくなった。そういやスタジオ・レコーディングだってこれだけ下手なのだから、生の演奏に堪えうる歌い手ではないのだと思い至った。

初めてこの詩を授業にかけたのは、転勤したての学校だった。たぶん教科書どおりの授業に飽きてきて、1時間遊ぼうと思ってのことだった。生徒たちは割とこの世界を理解し、コードをズラした創作詩をたくさんつくった。もう1時間かけてそれらを読み合った。これが「フォーマット・ポエジー」という実践につながっていった。

初めてこの詩を研究会の講座で取り上げたのは21世紀になったばかりの頃だった。「風になれ~みどりのために~」の言葉とこの詩の言葉を比較する講座だった。いい詩だけどそれだけ……、変な詩だけど何か引っかかる……、両者を比較することで創造性の入り口を示そうとする試みだった。これが「創造性開発教育」という、いまなお続けている研究につながっていった。

たぶん十指に入るほどぼくに影響を与えた曲である。

今日で冬休みが終わりました。始業式のあとに冬休みが終わるというのも変な言い方ですが、まったく、そんな気分です。冬休みにやり残したことはありません。毎年、冬休みは充実しています。「ことのは合宿」がなくても充実させることはできるんだな、と感じる、そんな冬休みでした。

明日からスキー学習。週に3日は担任です。もう寝ることにします。

おやすみなさい。

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20年

年末の研究会で柏葉に会って以来、社会人になってからの20年間に思いを馳せることが多くなった。

言うまでもなく、ぼくはこういう活動を20年間ずーっと続けてきていまがあるわけだが、柏葉もまた自分の領域で20年間ずーっと目的を遂げるために頑張ってきたのである。ああ、言い遅れたが、柏葉はぼくの大学時代の同期であり、遊び仲間であり、盟友であり、畏友である。年末ブラッシュでの彼の講座で紹介された、彼のやってきたことの規模の大きさ、そして彼のやってきたことの純粋さに胸を打たれた。

実は今回は柏葉について語りたいわけではない。柏葉以外の大学同期の人たちについてである。それも梶くんのようなぼくとずっと付き合ってきた、ときにはぼくの研究会に登壇もしているような友人ではなく、ぼくがもう21世紀になって一度も会ったことがないような、そんな同期の人たちについである。

ぼくの大学同期、ここでいう大学同期とは同じ国語教育研究室に所属していた男性6人、女性8人の14人のことをいうわけだが、この男性6人のうちの3人がぼくと柏葉と梶くんである。残りの男性3人は一人は札幌で、一人は空知で、一人は上川で小学校の教員をしている。この3人とはおそらく21世紀になってから会っていない。しかし、札幌と空知の二人は、ときに電話で話したり、ときに噂を聞いたり、かなり地元では優秀な教員として教員生活を送っているらしいことは間違いない。だから、心配もしないし、気にもならない。

問題は上川である。上川の彼は学生当時、浜頓別に実家があり、大学のそばで自炊していた。大学4年間でぼくは彼の家に100泊以上したのではないか。現代文学ゼミのあと、みんんなで麻雀を打つのも彼の部屋だった。麻雀はいつも、堀と柏葉と札幌と上川の4人で打った。たまに空知が参加したり、ゼミの女の子が参加することもあった。午後9時から朝方まで、毎週毎週、飽きることなく続けられた。金も動いたし、麻雀しながら飲む酒をかけたりもしたが、ひと言いって牌を捨て、その場にいる人たちを大笑いさせることが習わしだった。麻雀以上にそのひと言でだれがウケるかのほうが、ずーっと大切な勝負だった。

最後に上川と飲んだのはたぶん空知の結婚式のことだ。たぶんまだぼくが厚別中にいた頃、95年か96年か、そんなひと昔以上前のことである。結婚式のあと、岩見沢の有名な焼鳥屋に行って、学生時代にいつも行っていたカラオケスナックに行って、そんな感じだったと思う。

それから14年か15年、なんの音沙汰もない。噂も聞かない。上川と仲の良かった梶くんでさえ、音信が途絶えているという。最近、彼に会いたいと思う。ぼくらが過ごしてきた20年間と同じ20年間を過ごしたはずの彼が、どんな20年間を過ごし、どんな成長を遂げ、いま何を生き甲斐に何を大切にして生きているのか、それを知りたいと思う。あの4年間をともに過ごした6人の仲間は、だれ一人日常に埋没する教師にはなっていないはずだという確信がある。いま、彼が何をしているのか、とても気になる。

女性8人のうち、7人についてはいまどうなっているのかを把握している。二人は結婚もせずに悠々自適、あとの5人のうち4人も結婚していまなお教職にある。一人は教職を辞し、子育てに専念している。

気になるのは消息のわからない一人である。そして、結婚して教職にはあるのだが、不幸にも心の病で休職を繰り返している一人である。

前者は学生時代からの不登校、卒論時期に糸が切れ、留年したところまでは覚えている。卒業後に結婚し、子供ができ、離婚したところまでは知っている。梶くんと二人で地下鉄に乗っているとき、一度会ったことがあったが、彼女が一人、優先席で寝ていたので「よほど疲れているのだろう」と声をかけなかったことがある。あれ以来、会うことはもちろん、噂も聞かない。

後者はぼくと同い年で、最も親交のあった女子学生。彼女の結婚式にも出席したが、その後いろいろあって、21世紀になって以降、何度か休職を繰り返している。国語科教育ゼミのゼミ長でもあり、大学四年の8月、浜益合宿恒例の最後の集合写真を撮り終えたとき、「ああ、これで夏が終わったな」とつぶやいた文学少女だった。

20年。ひと言でいうことは簡単だが、かつて確かにあの場に存在していた者たちが、ある者は自分の思いを純粋に成し遂げ、ある者は与えられた場で自分の能力を遺憾なく発揮し、ある者は自らの確かな生活を打ち立て、ある者はこの狭い教員世界で噂も聞かないほどに遠くなり、そしてある者は自らの弱さに立ち向かう勇気もないままに、反面、自らの人間らしさに愛惜しさを感じながら生きている……。

感慨深いものがある。

こんなことを考えさせたのは、間違いなく森田童子である。

※森田童子の「雨のクロール」を聴きながら……。

217jtmyzh9l__aa115_ぼくたちの失敗

森田童子/1993

かつて森田童子ばかりをやけに流す深夜のラジオ番組があった。もうDJも忘れてしまったけれど、その番組でなんとなく印象に残っていて、「高校教師」で再ブレイクしたのを機にちゃんと聴くようになって、いまではCD化されたすべてのアルバムをもってるい始末。 「ぼくたちの失敗」も悪くないけれど、そんなレベルではない名曲が彼女にはたくさんある。でも、それを名曲といわせるのは時代なのかもしれない。「団塊の世代」が聴けば、ぼくとは違った感慨をもつに違いなし、いまの若者が聴いたらそれほどでもないのかもしれない。

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バランス

この連休に執筆を予定していた原稿をすべて書き上げた。雑誌原稿4本、うち長めのものが1本あったから、「よくやったな…」という感じである。

これまで何度も思ったことだが、この仕事を終えても次の仕事がある、あるいはこの仕事を早く上げてしまわないと、次の仕事に支障が出る、こういう場合、仕事は早く終わるものである。なぜそうなるかといえば、目の前の仕事にすぐに取りかかるからだ。仕事というものは取りかかれば終わる。仕事が滞り締め切りを過ぎてもだらだらと時間を過ごすのは、取り組まないからである。どんなに難しいと思われる仕事も、取り組み始めさえすれば、それなりに終わっていく。そういうものである。

人はこんな簡単なことになかなか気づかない。ぼくも最初にこの構造に気づいたときには愕然としたものである。こんな簡単なことだったのだ、と。それをああでもない、こうでもない、考えたこともないからだとか、やりたいことではないからだ、まだ構想が固まっていないからだと、無駄に過ごした時間がどれだけあったことだろう。それを思うと、これまでの人生で無駄にした時間はどれくらいあるのかとある種の否定的感慨に陥る。

しかし、そういう無駄な時間も含めて、自分の人生のなんと愛惜しいことか。

無駄な時間を削ることだけを考えて生きることは、淡泊な仕事を積み重ねていくことに某かの意味があったとしても、その道を選ぼうとは思わない。ああでもないこうでもないと、時間を無駄にすることこそ人間らしい。

その証拠に、連休で予定していた原稿を仕上げてみると、次の仕事に向かう意欲以上に、仕事以外のおもしろいこと、楽しいことへと思考が向かっていく。生理的といおうか本能的といおうか、人間の思考も人間の嗜好もそういうベクトルへと向かっていく。バランスをとることこそが何より大事なのだ。

『義務教育で〈習熟〉させたい国語学力~授業づくりの10の原則/120の言語技術』(明治図書)を明日から書き始める。プロットは既に完璧に仕上がっている。書く内容も既にもっている。あとは書くだけ。むしろ、読みやすくするためにすべての内容を紙幅におさめる、そう割り切れるか否かが一番の闘いになるだろう。自分の特性から見て、それが最もストレスの溜まるところになるはずだ。

この本にぼくの20年間の国語教育研究、国語教育実践を凝縮させるつもりである。そしてそういうものになるはずである。教員生活の中締めといったところである。

さあ、ゆっくりと風呂にはいり、明日からの5日間の英気を養おう。

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京都・明日の教室

残席5を切りました

京都・明日の教室のご案内です。

現在、定員までもう少し余裕があるようです。関西方面の方、いっしょに明日の国語科授業、明日の学級経営について語り合いませんか。

参加費は宿泊等込み込みとはいえ、15,000円と少々高めに感じられると思いますが、主催者糸井先生、池田先生お勧めの温泉、講座だけでなく交流時間も満載の企画立て、間違いなく損のない研究会になるはずです。

申込受付はこちら

ご参加をお待ちしております。

1月「明日の教室」一泊二日スケジュール

13:00    チェックイン

13:30~13:40 開会の挨拶(糸井)

13:45~14:45 講座1 石川先生「国語:読む指導について」

14:45~15:00  休憩

15:00~16:00 講座2 堀先生 「国語:読解指導について」

16:00~16:15  休憩

16:15~17:15 講座3 門島先生「国語:書く学習について」

17:15~17:30  休憩

17:30~18:50 講座4 「座談会:国語科における読む、書く、解く、について」

 司会 池田修 門島、石川、堀先生を囲んで

18:50~19:00   移動

19:00~20:30   夕食

20:30~22:00   自由(お風呂タイム)

22:00~      自由な学びの時間(いくつかの部屋を使って自由に語り合う)

7:00~      朝食(自由な時間に)

9:30~10:50    講座5 「座談会 中学校教師から学ぶ学級経営のあり方」

            司会 糸井登  門島、石川、堀、池田先生を囲んで

10:50~11:00   休憩

11:00~11:30   感想交流

11:30~11:40   閉会の挨拶(池田)

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少しずつ書きためていく

少々分量の多い原稿がやっと終わった。これが終わればかなり楽になる。

今日は4本の原稿のうち2本を書き上げることができた。朝には4本とも仕上げてしまおうなんて無理なことを言っていたわけだが、一番重たい原稿を仕上げたので、ほとんど終わったような気分になっている。こういうときは、明日一日テレビばかり見て遊んでしまうことが多いので、気をつけよう。

さて、今日書いたのは金子書房の「児童心理」4月臨時増刊。24字×21行を11枚と、いつもながら骨の折れる枚数である。

今回はぼくの映像実践と空気更新との関係について、少しまとまった内容を書くことができた。ぼくの映像実践をただぼくがおもしろがってつくっていると思っている向きも多いようだが、ぼくの中では明確な意図と目的がある。それを提案していくうえでの基本的な原稿が出来上がったことになり、とても嬉しい。時間切れの言葉足らずでちゃんとしゃべれなかった講座などで、最後にこの原稿のコピーを配付することでこれからは乗り切れる。

こうやって少しずつ書きためていくことの大切さを、最近は忘れていたなあ……と感じた。

※中島美嘉の「一番綺麗な私を」を聴きながら……。

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中島美嘉/2010 Maxi

今日はシングルづいている。前にも書いたが、この曲が気に入っている。「一番綺麗な私を抱いたのはあなたでしょう」というフレーズは、文学的なメタファとして質が高いと感じている。

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月末の「明日の教室」に人が集まっている

今月末の「明日の教室」がどうやら満員御礼になりそうである。

当日まで2週間を残して、残席は今日の23時現在でたったの4。この調子なら来週中には埋まりそうな勢いである。

参加費15,000円、一泊二日の研究会、講師は全国的には無名の3人、しかも中学校の国語科教育に中学校の学級経営と守備範囲のせまいプログラム。なぜこんなに集まるのか、ぼくには正直まったくわからない。

糸井さんと池田さんがこの企画を立てたとき、どんなに集めても20人と感じた。お呼ばれしてそんなことを主催者に申し上げるのも気が引けるので黙っていた。しかし、ぼくの予想に反して、なぜか集まってしまった。不思議でならない。

まあ、楽しくなりそうなのでぼくらにとっては嬉しいことなのだが……。

ついでに言うと、今日はこのブログが開設以来2回目の1,000ヒット超え。なんだ?と驚いたあと、「ああ、『学び合い』関連か」と思って検索ワードを調べてみるが、「学び合い」での検索はゼロ。これまた不思議でならない。

※平原綾香の「ケロパック」を聴きながら……。

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平原綾香/2010 Maxi

PVで踊る平原綾香を見て、なんとも言えず惹かれてしまい購入。ところがいっしょに買ったアルバムにも同じバージョンで収録されていてがっかり。今日はこの曲の楽しい雰囲気に浸りながら原稿を書こうと、午後からずっと聴いていた。 いい曲……というか、味わいのある曲である。

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近況報告

12時に起きた。疲れていたからぐっすりとよく眠れた。頭はまだボーッとしているが、それなりの連休が過ごせそうな予感はある。

年が明けてからイベントが続いていたため、この連休は原稿が4本溜まっている。まずは1頁原稿の取り組みやすいところから始めて、いま、1本仕上げて送ったところ。なにせこの原稿は今日が締め切り日なのだが、編集の方から土曜日だというのに「今日が締め切りですよ」とメールが入っていた。さすが小学館である。あと3本。なんとか今日中に仕上げられないものか……なんてことを考えているが、まあ無理だろう(笑)。

久し振りに明治図書から国語の本を出すのだが、この企画の詰めの段階に入った。原稿の詰めに入ったわけではない。企画立ての詰めに入ったのである。あとは書くだけ。2月から3月中旬にかけてはどこにも出掛けることなく、ずっと札幌にいることになる。この期間でなんとか完成させることになるだろう。春に原稿が完成すれば、なんとか夏には上梓できる。この企画は間違いなく、これだけでは終わらないはずである。出版社の商売がかかるのでここには書けないけれど、その後、続々と体系づくりが始まる。いま、教職20年を機に、かなり大きな視点で細部を詰めていく仕事を始めている。これらを世に問うことになる。

学級経営本は春の教育書フェアに間に合うように、編集の仕事が進められているらしい。イラストレーターが決まり、レイアウトも決まり、一気に動き始めている。中学校・学級づくりセミナー全国縦断の第1回にも充分に間に合いそうである。

ネットワーク大会で長瀬くんと知り合ったおかげで、いろいろな人たちと知り合い始めている。それもいろいな意味で発展しそうな勢いでである。力量の高い中学校実践家と知り合えるのは何より嬉しい。もうどうなっていくのか、まったく予測がつかないくらいに動き始めている。まったく長瀬くんの行動力には舌を巻く。ネットワーク大会から1週間しか経っていないのに、見えている地図はずいぶんと広がった。すごいことである。出会えて良かったと心から思える若者に出会った。楽しくなりそうである。

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「学び合い」ツアー・2

石川晋の感想がブログに上がったので、これを受けてもう少し書いてみようと思う。

石川晋の記事

.『学び合い』はたしかに、異学年交流を楽々と実現する。

このことは確かである。ただ一方で、「学び合い」を実践しようとする中学・高校の先生方に失敗事例が多くあることも確かである。少なくとも現時点で、中学校・高校での異学年交流の実現を見ていないし、その噂も聞いたことがない。「楽々と」というのは少々言が過ぎるのではないか。いまのところ、小学校では……という注釈をつけるのが妥当だろう。

ただし、石川晋の学校のような地方の、純朴な生徒たちなら(こういう言い方をしているが、生徒たちの特性というよりは、その他の環境的・条件的な難問をクリアしやすい学校なら、という言い方のほうが正しいのだが)、おそらく異学年交流も楽々とできてしまうに違いない。しかし、都市型の大規模な学校で、保護者の理解を得られづらく、一人も置いていかないという理念が浸透しづらい(要するに、受験競争を主として考えているような地域)では、「楽々と」とは行かないことが容易に想像できる。事実、それを嘆いている「学び合い」実践者に会ったこともある。

2.しかし、一方で、では、子どもたちが本気で一人も置いていかないと考えているかというと、これは、私には、???だった。その最大の原因は、私は、この時点で、「課題」が本気で解決しなければならない、汗をかくものになっていないからでは、と考えていた。このことは私は重要なポイントだと思う。課題づくりは実は、教師の技量がはっきりと表れる難しいポイントだと考える。

これは重要なポイントである。ぼくも、「学び合い」は実はちょっとやそっとの力量の教師にはできない実践であるということを、実感したのが実はこの点だった。それも各校に一人いる程度の力量ではない。大都市の各教科に一人いるかいないかというレベルの力量を必要とするのである。課題が高次になってくると、ものすごく力利用の高いの教科プロパーにしか課題をつくることができない。

視察した二つの学校で設定されていた課題は、ともに「学び合い」実践と呼ぶには魅力の小さいものに過ぎなかった。それはともに答えがあり、しかも市販のテストを解ける程度の課題に過ぎなかったからである。前のブログで成績上位者を犠牲にして成り立っている習熟度別学習と書いたが、そういう状況に陥るのも課題のレベルが低いからなのである。レベルの低い課題を教えたとしても、成績譲位者にとっては自己が向上していることは実感しにくい。教えることによって確かになるとか、教えることによって成績下位者がなぜ理解できないのか、どう説明すれば理解できるのかを学ぶことはできる。しかし、そこには成績上位者にとっての必要感がない。

この構造をどう打破するか。成績下位者の向上をはかりながら、成績上位者にも当事者意識をもっての「更に上」を機能させる、二つの同時達成を目指す課題設定が必要になる。こうなると、各教科の授業においては、大都市に角きようか一人ずつしかいないような教科プロパークラスの力量が必要となるのである。「~説明することができる」といった課題のフォーマットである程度はクリアできると西川先生は力説されていたが、それは具体的内容を抽象的にラベル化したり、具体例を一つ見つけてわかりやすさを実感させるといった、単線的な課題解決に限られるだろう。こうした課題設定では成績上位者はまず間違いなく3ヶ月で飽きる。

しかし、このことは「学び合い」の可能性を否定するものではない。こういう反論が、むしろ西川理論の理論的正しさを証明しているところがある。しかしこの構造こそが「学び合い」の難しさであり、多くの教師が本気で取り組んでも挫折する要因にもなっており、なかなか現実と折り合いがつかないところでもある。

.『学び合い』がはじめてうまく行きはじめたと感じたエピソードを話していただいた時のある先生のお話しである。その先生は、1時間取り組んだ後、全員を見捨てない取り組みができたかを聞くと、ほとんど数人しか出来ていない事がわかり、そこで、はじめて本気で、説諭し、もう一時間取り組ませたところ、圧倒的にうまくいったという、興味深いエピソードを話してくださった。しかし、そこで、一つ抜け落ちている視点は、それが、当初の予定を壊して、二時間続きでやれる環境、つまり小学校の「制度」下だかr出来ているということだった。もし中学校だったら、ひょっとすると『学び合い』が続けられないほど致命的な結末を生む場合すらあるだろう。

これも大きな問題である。石川はこれが小学校の実践エピソードであることから、中学・高校ではできないことだとの論理で批判しているが、教育課程のシステムを崩壊させているという点ではこの実践も構造的には中学・高校と何も変わらない。小学校だから許される……というものでもないだろう。要するに、小学校が慣習としてこの「反則」を受け入れやすい体制にある、というだけのことである。

ということは、「学び合い」は立ち歩き可とか、先生が教えなくていいのかとかいうようなよく言われる教師の意識の問題だけではなく、学校のシステム、学校の制度自体を改変させることをも求める授業理念であるということなのだ。学校で個人が導入したときに起こる軋轢は基本的にこの問題である。周りの先生の意識が古いとか、意識改革によって乗り越えられるとか、そういうレベルの問題ではない。より高次に「学び合い」を成立させようとすれば、必ず学校制度の在り方と軋轢を生じる。かなり政治的な問題とも軋轢を生じる。そういう理論・実践であるということがいえる。

4.しかし、特に年配の先生方を中心に、子どもの中を「分断」して、教え続ける姿は、直視できないほどであった。また、先生方の多くは、異学年交流の場にありながら、わずか数人しかいない自分の学級の生徒しか見ていないのである。

学校制度と軋轢を生じるという問題に比べれば、この問題はむしろ小さな問題である。むしろこれは、子どもの能力を教師がどこまで信用できるかが勝負という、西川先生の理論的正しさを証明しているエピソードに過ぎない。あの学校に勤務しているベテラン教師の、個別的な、具体的な問題に過ぎない。それを超えるとしても、校長の指導力とか、職員室のチーム力とか、その程度の問題にしかならない。

いずれにしてもここに西川先生の苦しさがある。西川先生は自分で「学び合いはこうするのだよ」と見せることができない。研究者であって実践者ではない。このことが「学び合い」の現実的機能度を低くしている。子どもの力をとことん信じる姿を、そのオーラとともにモデルとして参観すれば、この事態はかなり避けられるのではないかとも思える。2年間しかいない院生では無理である。ここにもやはり、構造的な問題が横たわっている。

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眠るのだ…

始業式。いよいよ3学期が始まった。

あいにくの大雪。遅刻する生徒、遅刻する先生。中には家から3時間かかったという先生も。どうしようもない。人智の届く範囲ではない。ぼくもたった2キロちょっとの距離に35分かかった。煙草ばかりが増える、イライラした渋滞が続く。カーステレオで森田童子。大雪の渋滞には森田童子がよく似合う。すべてが仕方ないと思え、イライラが静まっていく。先日から、ぼくの必須のアイテムになった。

始業式、表彰、職員室で談笑、清掃指導、職員打ち合わせ、学年会。学年会は年度反省である。その後、学年団でうどんを食べに行く。家からすぐ近くの讃岐うどん屋。うどんがあまり好きではないぼくでも、それなりに食べられる、うまいうどんだった。

今日は午後からリフレッシュ休暇。帰宅してソファに横になり、録画しておいた「相棒」を見ながら、いつのまにか眠っていた。当然である。ネットワーク、新潟と寝不足が続いていた。いま必要なのは眠ることだ。

「いまは眠るのだ。いまはただ何も考えずに眠るのだ……」

そうつぶやきながらベンチに横たわる伊達直人が思い浮かんできた。いつかテレビで見たシーンである。同僚とうどんを食べながら、例の伊達直人名の寄付の話題からタイガーマスクの話で盛り上がったから、こんなシーンが思い浮かんだのだと思う。

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「学び合い」ツアー

書きたいこと、書かなければならないことがたくさんあるのですが、何と言ってもまずは昨日まで二泊三日の強行で行ってきた西川研究室のことを書かねばならないでしょう。

【1日目/11日・火】

11日の9時。山ちゃんの車に迎えに来てもらって千歳空港へ。11時の飛行機で新潟へ。新潟に着いたあと、JRで高田へ。16時過ぎにホテルチェックイン。17時から西川先生を囲んで小宴。「学び合い」の理念的なこと、実践的な手法について、また運動としての広がり、学校体制として取り組むことの現実的な難しさについて、ぼくらの質問に次々に応える形で話が進んでいく。この段階では理念的なことについては概ね理解、何の文句もない。ただ、あまりに理念的に純粋すぎて、現実の学校運営と齟齬を来す危険があるとは感じた。

20時過ぎに西川先生退出。入れ替わりに赤坂を呼び出してこの小宴は暴発!ただの呑み会になってしまった……と思いきや、例によって石川晋が赤坂にからみ始め、おもしろいなあと思いながらも石川をいさめる。石川は思い込みが過ぎるので、ある程度セーヴしてあげないと責められる側がつらい。石川晋がショーとして対話しているときはいいのだが、石川晋がまさに石川晋として対話しているときには、対話者が石川晋の思考回路を理解していることが前提となる。赤坂の場合はけんかになる心配はないが、石川晋の本当にぶっとんだところは知らないだろうから、二人の話を基本的にはおもしろがりながら、たまに石川をいさめる。そういう展開が1時間半ほど続く。

11時過ぎに場所を移して二次会。ここはそばに日本酒でじっくり語り合う。1時過ぎにホテルに戻り、10分後にはぐっすり。

【2日目/12日・水】

8時にホテルを出て、学生さんの車で上越教育大学の西川研のゼミ室へ。ここではゼミ生もまじえながら議論。ただ、西川さんばかりが話し、ゼミ生が聴いているだけという雰囲気はちょっと気になった(後に、この夜の呑み会でゼミ生がいろいろなことを考えているということはわかった)。

その後、車で30分ほどのところにある、「学び合い」に全校体制で取り組んでいるという学校に向かう。3段階ある「学び合い」レベルの初期段階にあるという小学校である。学校長の話を30分ほど拝聴したあと、1・2・3年生と4・5・6年生と、全校児童を二つに分けての「学び合い」算数の授業を参観。ぼくは4・5・6年生の授業を見る。

学年毎に設定された3つの算数課題(基本的に教科書に基づいた課題)に各学年が取り組み、課題を終えた者から学年を飛び越えて学び合い、教え合う。理念的には一人も取りこぼしをつくらず、だれもが課題を解決することをめざす。時間は35分。同じ階のどの教室で取り組んでもいいし、時間内の移動も可。当然、立ち歩きも可。最終的には課題解決をはかれなかった児童は3学年で二人。課題を解決できなかった子が泣き出したのが印象的だった。全員が課題解決をという理念が浸透している証拠でもある。正直な感想をいえば、イメージしていたものよりもダイナミックさに欠けるな、というのが印象。おそらく全校児童による「学び合い」の予定を、体育館が寒かったため、下学年と上学年とに分けたことが災いしたものと思われる。

ぼくが特に注目していたのは、授業冒頭の教師の語りと授業最後の教師の言葉。語りは課題について説明することはなく、つまり授業の内容面については語ることなく、基本的には「一人も置いていかない」「他学年とも交流する」という2点を重点的に語っていた。これは「学び合い」の理念を具体的な学校現場に置き換えた言葉だと考えられる。これに対応して、最後に全員を一箇所に集めた場面では、「課題を解決できた人」「解決できなかった人」とそれぞれ挙手させ、「次は全員を目指して」という言葉がけをするのが第一、「他学年とも交流することができたか」を訪ねて挙手させ、「次はもっともっと」という言葉がけをするのが第二。これで終わった。

この時点での授業の感想としては、①子どもたちは割とよく動いている、②遊ぶ子は少なく、活動形態と二つの理念との子どもたちへの定着度は比較的高い、③教師間に意識のズレがあるのがよく見える学習形態である、④教師のカリスマ性が高いほどより効果が高まる学習形態、⑤初期段階の「学び合い」は体のいい習熟度別学習という感は否めない、⑥初期段階の「学び合い」は学力の高い子どもを犠牲にして成り立つ傾向がある、⑦確かに従来型の授業よりは成績下位児童にも目が向いており、最低点をかなり上昇させる効果がある、⑧教師集団が従来の学校システムの思考枠組みからどれだけ外に出られるかがその成否を決める、こんなところである。

次の時間は4年の算数、5年の社会、6年の算数が公開された。今度は学級毎の「学び合い」である。ぼくは5年の社会を参観。課題は「日本の国土の特徴を説明しよう」。まずは資料集で各自が日本の国土を色分け、山地・山脈や平野などをおさえる。次に、日本の国土の特徴をそこから読み取って箇条書きする。終わった者から日本の国土の特徴について説明し合う。こういう流れ。

授業の感想として最も強く感じたことは、「学び合い」が立ち歩き可としているのなら、この活動において教室の戸が閉じているのはなぜか、ということである。図書室やPC室に行かせることがこの先生の頭の中にはない。周りの学級を見に行ってみると、他の学級も同様。これは従来の学校システムの枠組みからこの学校の先生方が抜け出ていないことを示している。

昼休みを兼ねた授業者との交流タイムにおいて、もっと高次な課題、例えばオープン・エンド課題にはどんなものがあるのかと訊いてみると、研究を進めている教務主任は行事を中心に語り始めた。ということは授業ではまだそこに踏み込んでいないものと理解した。これを突っ込むと失礼なこともいわなければならなくなるので、それ以上はやめた。

次に社会について。①社会科の授業を公開した先生に、子どもたちの箇条書きの書き方が名詞止めで統一されていたり、「~している」で統一されていたりと、よくできていたが、どういった指導があるのかと尋ねた。担任は特に指導しておらず、資料集を参考にしたのかもしれない、と応えた。②石川晋が授業中に担任に話しかけ、「学び合い」活動をしている子どもたちの何を見ているのかと訊いたところ、「かかわり合い」を見ていると応えた。③教室には「学び合いスタート・ブック」が置かれ、かなり頁に折り目がついている。児童がかなりこの本に目を通していることがうかがえる。意図的に置いているのかと訊いたところ、そうだと応える。

この三つを総合すると、この先生には子ども同士の「かかわり合い」に対する意識がかなり高いものの、指導内容に対する意識がきわめてうすい、ということがいえる。もちろん、箇条書きなら箇条書き、関わり方なら関わり方について一斉指導で授業したり、説明したりしろと言っているのではない。「学び合いスタート・ブック」を置くというような環境管理型権力(ぼくの言葉では「環境調整型権力」)に対する意識があるのだから、もっと意図的に教室環境、授業環境を整えてもっともっと高次の学力を身に付けさせてやることができるはずである。これは今後の課題ということか。

この後、大学に戻って議論。更に西川ゼミの新年会を兼ねての宴会。ここで現職として派遣されてきている院生と懇談。かなり深いところまで話し込むことができた。いろいろな話しをしていろいろな感想をもったのだが、これは個人が特定できてしまい、しかも個人情報もかなりあるので書かないことにする。

【3日目/13日・木】

朝7時半にホテルを出て、1時間半ほどかけて「学び合い」に取り組んでいる小規模の小学校へ。昨日の学校が「学び合い」を教務主任を中心としたボトムアップで薦めているのに対して、この学校は学校長からのトップダウンで「学び合い」に取り組み始めた学校。まずは学校長のお話を聴いたが、この方はそれはもう聡明な方で、子どもたちの現実、職員の現実、学校規模の問題、地域の特性、「学び合い」の理念と現実とのギャップの埋め方、「学び合い」活動中の高学年の動き方とその限界などなど、ぼくらの質問にすべて的確な応え方をされる。素晴らしい校長。

全校学び合いの算数を参観。①子どもたちの「学び合い」の雰囲気がとても良い、②しかしそれは、学校規模によるもともとある人間関係によるところが大きい、③教師の意識のズレが昨日の学校よりも更に大きい、④「学び合い」に全校で取り組んでいるというのに、ベテラン教師が「学び合い」を理解していないのが大きくマイナスに機能している、⑤学校規模が小さい分、この学校は教師の意識が変われば大きく機能する可能性がある、⑥教師に時間意識が見られないことが影響し、子どもたちにも時間意識が見られない、といったところ。時間意識については、朝の集会が先生の説教でかなり伸びていた、子どもたちが時間が来て教師から「やめ」の合図があってもなかなか「学び合い」活動をやめなかった、という二つの場面から敷衍されること。

この後、直江津駅まで送ってもらい、赤坂と2時間ほど昼食で談笑した後、新潟へ。新潟空港19時10分の飛行機で帰ってくる。

帰りに考えたことは、①「学び合い」は総じて、教師の影響力を従来型の授業以上に必要とする授業形態であるということ、②冒頭の語りが非常に大切であり、その語りには日常的なコンテクスト、つまりは教師による「ヒドゥン・カリキュラム」が非常に大きく作用すること、③学校体制で取り組んでいる学校にしてこの状態であるから、個人的に「学び合い」を導入しようとすれば、学校内ステイタスが非常に高く、総合的力量が非常に高い教師でないと、子どもたちに「学び合い」を成立させられないばかりでなく、職員室との不必要な摩擦まで生じ、個人による中途半端な導入はその個人を最悪「心の病」にまで追い込む可能性のある、勝負をかけることが求められる授業形態であること、などがよくわかった。反面、④かなり可能性を秘めた学習形態であること、⑤「だれでもみできる学び合いワークブック」の類は絶対に出すべきではなく、時間をかけながら形骸化しない方向で広めていかなければならないこと、⑥力量のない先生が取り組むと、成功しても体のいい習熟度別学習や体のいい自習にしかならないこと、⑦学校体制で取り組むには高度なチーム力をもっているか、全教員を完全に押さえ込めるほどの強権発動をできる推進者を必要とすること、といった推進の目標や条件が理解できた。

意外だろうが、ぼくは「学び合い」に対して、その啓蒙に力を貸すことを厭わない程度には好感をもつことができた。北海道に西川先生をお呼びして、「学び合い」の模擬授業をし、研究協議を行うというイベントはぜひとも実現させたい。高次の「学び合い」の目指すところを提案できるか否かが広めるためのポイントになる。初級程度の「学び合い」を理解させるだけで広めると、「学び合い」は矮小化され、形骸化していく可能性が強い。

※GERRY MULLIGAN QUARTETの「LULLABY OF THE LEAVES」を聴きながら……。

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1952

高校生のときにFMの番組で聴いて以来、強烈にはまっている。

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交流学習を導入する効果

ネットワーク千歳で言い残したことの二つ目。

「授業をワークショップ型に転換しよう」とか「授業に交流を導入しよう」とか言う場合、よくされる誤解の例が、「すべての授業をそんなふうに変えられるわけがない」というものです。これをぼくは〈全か無か発想〉とか〈To be or not to be 発想〉とか呼んでいますが、こうした批判は「現在のすべてが一斉授業で進められている授業をこれからはすべてをワークショップでやれというのか」という考え方です。

もちろん、そうではありません。

ネットワーク大会2日目のコメントでも言いましたが、例えば全授業時間の3割くらいをワークショップ型を基本とした授業構成にする。残り7割は一斉授業。一斉授業はなんだかんだ言っても必要ですから。なんとしても日本国民として身に付けさせなければならない指導事項というのはあります。

ただし、この7割の一斉授業にも、8~10分程度のグループ交流の時間を必ず入れると決意するわけです。少なくとも1回。できれば2回。

そうすると何が起こるか。

一つは、一般に、子どもたちに交流学習に取り組ませることによって身につくとされるコミュニケーション力に良い傾向が生まれます。これはもう説明の必要はないでしょう。

しかし、もう一つ。実は一斉授業にもいい影響が出るのです。三つあります。

第一に、一斉授業時間が短くなることによる子どもたちの集中力が持続すること。これは交流は最後に入れるものだという固定観念をもっている方にはわかりづらいかもしれませんが、1時間の授業において交流は最初に入れてもいいし、真ん中に入れてもいいのです。また、2回入れる場合なら最初と最後とか、最初と真ん中とか、真ん中と最後とか、中間に二連チャンとか、いろいろバリエーションはあるわけです。そうすると、授業が基本的に2分割になったり3分割になったり4分割になったり5分割になったりするわけですね。必然的に一つ一つのパーツ(たとえ講義式であっても)に対する集中力を高めることができます。

第二に、子どもたちの中に交流するためにはこの説明を理解しなければならない、という意欲が生まれること。某かの前提的な説明や講義なしに交流ということはあり得ません。そうすると、このやり方を繰り返していると、必然的にその構造に気づいた子どもたちが説明や講義のハーツにも、交流における情報収集という意識をもつようになります。

第三に、教師の一斉授業の指導技術が上がること。交流を一度入れると10分、交流を二度入れると20分、教師がしゃべっていい時間が減ります。最後に全体シェアを入れるようにするともっと減ります。そうすると、発問・指示・説明を何度も言い直したり、要領を得ない説明をしていたのでは、時間が足りなくなるわけです。リズムやテンポも身に付けざるを得なくなります。授業技術のない人の一番の要因は実は時間意識がないことです。どんなのんべんだらりとした人であっても、時間が少なくなれば短い時間で適格にポイントをおさえなければ……と考えるようになります。授業技術の向上はまずこの意識に立てるか否かがその成否を決めるのです。

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結婚式とお葬式

ネットワーク千歳で言い残したこと、時間が足りなくて詳しく言えなかったことを書いておきたい。

あくまで「たとえ話」ですから、「たとえ話」としてお読みください。

職員室になんとなく好きではない同僚がいるとします。必然的にあまりつきあいもないし、必要以外は会話もしません。呑み会でもその同僚の隣になるとなんとなく落ち着きません。笑顔もつくり笑顔になってしまいます。

A.そんな彼が結婚をすることになりました。結婚式の案内状をもらいました。それほど大きな学校ではありません。いまひとつ苦手な同僚とはいえ、義理で出席することにしました。

B.そんな彼の御母堂が亡くなりました。もちろんお会いしたこともないのですが、同じ町でお葬式が行われるとなると出席しないわけにもいきません。いまひとつ苦手な同僚とはいえ、義理で出席することにしました。

さて、一般にAへの出席とBへの出席とでは、どちらが苦痛に感じられるでしょうか。

普通に考えて、より苦痛が伴うのはBのほうではないでしょうか。そしてそれはなぜかといえば、お葬式が祭壇に向かって黙って座っていなければならないからです。

結婚式ならその同僚との関係がともあれ、多くの場合円卓で、仲の良い同僚とわいわいやりながら参加することができます。そこが結婚式だというだけで、やっていることはふだんの呑み会と変わりません。その同僚の悪口をいうことが厳禁であるほかは、比較的自由です。トイレに行きたくなれば、主賓の入退場と両家挨拶以外なら我慢する必要もありません。

しかしお葬式は違います。ただじっとしていなければなりません。お坊さんのお経も意味がわかるわけでもなく、そこに何か興味を惹かれるようなパフォーマンスがあるわけでもありません。近くには仲の良い同僚がいますが、会話をすることは厳禁です。それどころか、じっと座っていてお尻が痛くなっても、座る位置ちょっと変えるのもはばかられます。最初から最後までトイレに立つこともはばかられます。

実はこのお葬式が授業です。授業を義理で出席しているお葬式と比べるのは何事かと思われる向きもあるかもしれません。しかし、生徒たちは授業に義理で出ているのです。決して自発的にそこにいるわけではありません。もちろんそういう子がまったくいないわけではありませんが、それはごくごく、ごくごくごくごく少数に過ぎません。

たまに、授業づくりにおいて、まるで自分のに親が亡くなったときの葬式のような、子どもが心の底から学んだ、心の底から熱くなったとでもいわんばかりの実践報告を聞くことがありますが、ぼくはそういう実践報告を信用しません。構造的にあり得ないのです。誤解を怖れずに言えば、学校というシステムは所詮「強制収容所」です。もしも心の底からということがあり得たのなら、それは百歩譲っても「洗脳」であって、「教育」ではありません。

さて、この従来の義理で出るお葬式のような授業を、せめて義理で出る結婚式くらいには抵抗を和らげてあげられないだろうか。それがワークショップの導入であり、カウンセリングマインドの導入であり、ファシリテーションの導入であり、また、この構造について深く考えながら授業づくりをしていこうとしているのが「学びのしかけ」論である、とぼくは捉えています。

ぼくはミニネタ系の方々を決して批判しませんし、基本的には嫌いではありません。土作さんも健ちゃんも、そして山田くんなんかぼくはあまりに気に入ってぼくのイベントに呼んだほどです。しかし、いわゆるミニネタ論は、言ってみれば「おもしろいお坊さん」ともいえる実践なのです。とにかくお坊さんがその場を仕切ってものすごく頑張る。そういう実践です。

またお葬式で考えてみましょう。義理でお葬式に行ってみたら、ノリのいい木魚の叩き方をして、ラップのようなお経を唱えるお坊さんでした。あなたはもう、可笑しくてしかたがありません。来て良かったとさえ思います。でも、お経が始まって5分も経つと、そのお坊さんにも飽きてきます。来て良かったという気持ちも薄れてきます。見にネタとはこういうことなのです。

しかし、ラップのお坊さんがお経を唱えて5分が経った頃、今度は長髪のかつらをかぶって髪を振り乱しながら、オーケストラの指揮者のような振る舞いを始めたらどうでしょうか。あなたもこれならまた、最初にこのお坊さんを見たときのテンションにあがれるのではないでしょうか。そのまた5分後には物真似を10連チャンでお経を、更に5分後には手品を交えながらお経を、その5分後には……。そうです。ミニネタ系の人たちがミニネタをたくさん開発するのは、ミニネタという実践の在り方が必然的に〈数〉を必要とする実践構造をもっているからなのです。

だったら、生徒たちを結婚式のように周りとのコミュニケーションによって自力で楽しむ方向に持って行くような原理・原則を開発したほうが楽なのではないか。或いはミニネタはあくまで導入で使うものとして、その後はグループワークをやっていくというような授業構造を打ち立てるほうが息長く続けられるのではないか。ぼくが言いたいのはこういうことです。そしてこういうに考えることが「学びのしかけ」を考えていく第一歩になるのです。

一応、最後に書いておきますが、これが「学びのしかけ」だと主張しているわけではありません。あくまでもこういう考え方をすることが「学びのしかけ」を考えていく〈第一歩〉になる、と言っているのです。誤解のないように……。

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授業づくりネットワーク2011冬in千歳

ひと言でいって「いい会」だった。

いろんなことがなごやかに進んだ。青山・中村・長瀬という講師陣は想像をはるかに超えて味のある人たちだった。最後の岡山さんのファシリテーションもうまく機能した。二日間を通して「学びのしかけ」という概念がある程度は参加者に落ちた、そういう会になった。まさに新時代を切り開く第一歩と呼んでいい、そういう会にもなった。長くネットワーク北海道に携わってきた乙部くんの感無量の声と表情も印象的だった。総じて、とても温かいイベントになった。

参加者は例年よりも30人くらい少なかっただろうか、90名である。テーマが難しかったこと、冬休み中とはいえ日程が3連休だったこと、講師陣の研究テーマが提案性が高いものの、それだけにピンポイント的で一般化できるイメージにないこと、理由はいろいろある。ただ参加者が120名とか150名とかだった場合に、この雰囲気で会を進められたかどうか……、それは少々怪しい。今回のイベントはこの人数がよかったのかもしれない。もう少し少なければ、もっと双方向的ないいイベントになったかもしれない、との思いもある。

馬鹿げた飲み会も延々と続いた。何も生産せず、何も創造せず、延々と馬鹿話が続く。人間関係だけを紡ぐような飲み会である。しかし、飲み会のあるべき姿……ぼくは昔からそう思っている。二日連続でブレストの部屋を提供した平山くんが、日に日に元気を失っていくのが印象的だった。平嶋くんも常に最後まで付き合い、だんだん元気を失っていった。太田くんも同様。ただ細山くんだけは最後までテンションが下がらなかった。水戸も元気だった。

さて、ぼくは……。すべての講座が二日酔い。それも重い二日酔い。特に午前中の講座はぼろぼろといおうかめろめろといおうか(笑)。二日目の講座などは、講座開始3分前にトイレで吐いている始末。ふだんなら、PPTを朝確認し、内容を頭に入れてから臨むのだが、PCを入れた鞄をブレストで平山くんの部屋に忘れてきたためにそれもできない。というわけで、年末につくった講座内容を何も確認せずに本番へ。同じ講座が2回あったのだが、1回目は自分でも笑っちゃうくらいダメだった。何せ、次にどんなスライドが出てきて、次にどんなビデオがかかるかを、参加者と同じように、しゃべっているぼく自身がわからないのである(笑)。これでは講座にならない。2回目はさすがに内容がわかったので時間配分も意識的にすることができて、ある程度は修正できたが、久し振りに戸惑った講座だった。普通なら頭がまっしろなら緊張するのだろうが、なにせ二日酔いで緊張さえできないのである。こういう経験は初めてだった。二日連続で朝イチに講座を入れてくれた晋に感謝である。まあ、こうなることは初めからわかっていたのだけれど……。

青山新吾先生、中村健一先生、長瀬拓也先生、ともに素晴らしい講師だった。講師としてばかりでなく、素晴らしい人たちだった。それぞれが自分のいる場、自分の特性、自分の理想をしっかりと意識しながら、ちゃんと現実に向き合っている。そういう人たちだった。きっとまた、お会いする機会がある。そう確信した2日間でもあった。

ぼくは長瀬くんの悩める若手教師像にずいぶんと感銘を受けた。悩める教師若手像……というよりも、等身大を自覚するとか自己キャラクターを自覚するとか、そうした土台のうえでどう理想の授業像、学級経営像に近づけていくか……そういう若手・ベテランを問わず多くの教師が気づかない、気づけない地点に、29歳にして既に真摯に向き合っている。そういう若者だった。行動力も高いし、咀嚼力も高い。しかもそれをすぐに使える。1日目の模擬授業コメントでぼくが話した話を、彼は2日目の講座で既に的確な使い方をしていた。話の内容を真似たのではない。ちゃんとその構図を理解し、マップの中に位置づけ、関連する話の中でエピソードとして使っていたのである。これはやってみなければわからないことだが、そうそうできることではないのだ。すごいものである。

中村健ちゃんは、研究的にはというか実践的にはというか、ぼくとはまったく正反対のベクトルをもつ実践家である。そういう意味では、ぼくと彼は研究的には合わないだろうと思う。しかし、好きか嫌いかでいえば、ぼくはヤツが大いに気に入った。ヤツは徹底的におもしろい。徹底的に「ただおもしろい」のである。それがある種の潔さを感じさせる。でもきっと今回の千歳で、彼は「理屈も必要なのかもな」と感じて帰ったはずである。まあ、今回がきっかけにならなくても、年齢を重ねれば人は誰しも理屈を語り始める。もう少し時間が経って、彼が年齢を重ね、それ相応に理屈を語ろうとし始めたとき、一般的で何のおもしろみもない、説教じみた理屈を展開する人間にだけはなってほしくない。彼には彼のライフヒストリーに基づいた、彼にしか語れない理屈を生み出してほしい。そう切に願う。

青山さんは意外や意外、ぼくと同い年だった。おだやかな語り口の中に、ふと強調するフレーズに感じる熱さ。それがよく伝わる講座でありコメントだった。青山さんの立場を考えると、ぼくがネット上に感想を書くことが思いがけないご迷惑をかける可能性があるので、これ以上は控える。もう一度会って、二人でじっくりと語り合いたい、そういう人だった。日程を見ながら、もう一度、今度はブラッシュの特別支援グループ総出でお迎えしたい。必ず新しいものが生まれるだろう。

大会が終わって、最後のファシリテーションをやってくれた岡山さん夫妻と丸山くん、藤原、水戸と6人、すすきので飲んだ。次々に企画が出てきて、いや企画の芽が出てきて、おもしろい呑み会になった。この内容はたぶん春くらいには具体化してくるだろうと思う。2月5日の研究会をどう進めていくかということも明らかになった。ここでも、「虎の穴」にはまった〈あさはかな素敵さ〉をもった女の子が再び活躍することになった(笑)。藤原のひと言ひと言に彼の成長を感じさせる、そういう呑み会でもあった。ひと言でいうなら、とうとうぼくらが教員世界を相対化して見る、そういう視座を展開する萌芽の見られた呑み会になったように思う。ほろ酔い気分で代行タクシーの運転手さんとも会話のはずむ帰路だった。帰宅してメールチェックもせずにバタンキュー。

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学びのしかけ

昨年9月、上條さんと飲んで以来、「学びのしかけ」についてずっと考え続けている。今回のネットワークで30分ほど話す機会をいただいたので、まとまって考える機会になった。結局、「学びのしかけ」の提案は、それ自体が研究としての転換をせまるしかけになっているのだというのが結論である。

「教えやすさ」から「学びやすさ」へという、「学びのしかけ」自体が提案している転換を指しているのではない。それ自体は理念としてはそれほど新しくはないし、いかなる研究的実践家も「学習者の立場」ということは言い続ける。むしろ今回の「学びのしかけプロジェクト」の研究には認知科学的な先行研究の踏まえが弱いのではないかとさえ感じていたほどである。

ぼくが今回「研究としての転換をせまる」というのは、「学びのしかけ」について某かの提案をしようとすると、年度とか中学校3年間とか、そうした長いスパンで何をしていくかということを考えざるを得ない、ということである。毎日の授業において、モジュールでもいいし、授業を機能させるためのシステムでもいいのだが、繰り返し取り組むことによって子どもたちに体感させるというタイプの授業原理について、かなり計画的・意図的に展開する必要にせまられる。

それは決していわゆる「ワークショップ」とか、いわゆる「アイランド型」とか、授業理念とか授業形態を選ぶものではなく、いわゆる「一斉授業」とか、いわゆる「スキル訓練型」とか、こうした従来の授業手法の中にも存在する「授業機能性」の問題である。つまり、その授業で何がどう学習者の中に機能しているかについて、授業者に「もっと自覚せよ」とせまっているわけだ。これはぼくもぼくらの研究会に集う人たちの模擬授業の在り方に日常的に感じることなので、よくわかる。

ただ、この視点で授業の機能度を考え始めたとき、それは単発1時間で考えることはまず無理だということである。数少ない心ある実践家がよく年間指導計画ととともにこの1時間の位置づけを示しながら研究論理を展開するが、あれをもっと学習者目線で、その機能度について長いスパンでの揺れまで視野に入れながら、各々の学びの機能、質を全人的に捉えようということなのだろう。

しかし、こうした研究視点は理念としてはわかるが、こうした試みが長く展開されるとして、実践が集積されデータが収集されたとして、この研究も最終的には最大公約数的な手法として提案されるしかないのではないか。そしてそれが提案されると同時に、ぼくの大嫌いな「一般的な先生方」のつまみ食いが始まり、その理念は形骸化していく。

例えば、初期の「教育技術の法則化運動」や初期の「学び合い」運動(まだ「学び合い」に初期があるという認識は一般的ではないが、そろそろ「学び合い」にも形骸化階層が出始めているように見える)のように、その理念と研究の内部に各々が開発しなければならなくなるようなしかけを内包した運動展開をするのが良いだろうと思う。「何とかワークショップ」とか、「何とか学習」とかいう形でパッケージ化してまとめるべきではない。

しかし、こういう認識自体が稀少であり、「一般的な先生方」がそのイメージに群がって理念も手法も形骸化させていく機運が猛烈な勢いで進み始める時期が来ることをぼくもまたよく知っている。これが「構造的な問題」の根っこなのである。

つまみ食いする盗人たちよ、恥を知れ! そう言いたい自分と、どんどんつまみ食いして、まずは自立を目指せ! そう言いたい自分とがいることを自覚しながら、悩ましい教師生活を送り始めて、もう20年が終わろうとしている。

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大雪の日

大雪。

水気を含んでいない、かろやかな雪がしんしんと降り積もる。

世界中が真っ白。

叔母が亡くなり忌引き。

床屋に行き、

身なりを整えてお通夜へ。

静かで、おだやかで、和やかな、

大雪の日。

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繋がりがもたらす萌芽

今日、とある用事があって、学校に行った。滞在時間は45分ほどだったのだが、柄にもなく「ああ、ここがオレの居場所だな……」という感慨を抱いた。「こんにちは」と礼儀正しく挨拶をしてくれる生徒たち。「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」のあと、「でもどうしてんですか?堀さんが来るなんて……。」とぼくのことをよくわかっている同僚たち。飾る必要もないし、軽口を叩いてもいい、いかなるプレッシャーもない、素でいられる場所である。その後、銀行→ダイエー→郵便局とまわり、学校に行くことになる原因ともなった書類を完成させて発送する。

水戸さんからネットワークの名簿が届いた。ぼくが予定していた講座を既に聞いたことがあるという参加しがぼくの講座を選んでいる。こりゃやっぱりつくり直したほうがいいな、と思う。名簿なんて最後まで送ってくれなければいいのに……。そうすれば、これまでの焼き直しで堂々と登壇しただろう(笑)。でも、こう考えるのは今日だけ。つくり直したものが完成すれば、つくり直してよかった……になるに決まっている。そういうものである。でも、本当につくり直せるかどうかはわからない。一応、つくり直しを始めているところ。

「明日の教室」の日程がやっと届いた。まだ手をつけていないし、場所が京都だから新たにつくる必要もないだろうと思って、焦りは感じなかった。どうやら準備は国語の提案を60分やればいいようである。あとはその場の臨機応変。これなら準備はおそらくゼロでいける。たぶんPPTのタイトルを変える程度。これまで道内で何度もやっている十八番をもっていくこと決める。学級経営の講座がなかったのは少々残念だが、まあ、ぼくの学級経営講座はDVDにはしてほしくない感じがあったので、これでよいと思い直す。

とここまで決意がかたまったところで、門島さんから講座順番を入れ替えてほしい旨のメールが届く。まったく構わないのだが、「こんなに講座順番を入れ替えてほしい」と思うのは、本当のところどういう事情なのだろう……としばらく考える。国語の60分講座が三つ、並列的に並べられている講座に、あまり何番目に登壇するかは関係ないような気がする。ぼくにはちょっと想像ができない。M-1みたいに勝負がかかっているのなら順番ってのは大切だけど。というわけで、ぼくは三番目から二番目に移動した。これはラッキーである。三本並んだ「トリ」というのは失敗できない。「トリ」が失敗すると、参加者にはなんとなく重い空気が流れるものである。

そう考えると、順番ってのも考えるのに値するのかもしれない。ちなみに一番目は交流を多くとった体験型で軽めのほうがいいだろう。アイスブレイキングの機能が必要になるからだ。その反対に「トリ」は、イメージ的に少し重厚さが求められるかもしれない。二番目は一番目が砕いてくれた雰囲気に乗って、やりたいことをやるだけでいい。失敗しても次の人がいるから持ち替えしてくれる可能性がある。そういう意味では、いい順番になったな、という感じである。でも、理屈でいえばこういうことだが、これからこんなことを考えて講座をするかといえば、そんなことはないだろう。まあ、京都を楽しんでこよう。

とまあ、こんなことを考えた一日だったわけだが、どれも自分一人だったら考えないようなことばかりを考えた一日である。人と繋がっていると、こういう小さいけれど、今後なにがしかを生み出してくれそうな「芽」と出逢うことができる。最終的にそんなことを考えた。

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無駄な決意

省三さんが無駄な決意をしている。今年から「意味なく飲む」のをやめるそうだ。だいたい「意味のある飲み方」と「意味のない飲み方」はどう違うのだろう。よくわからない。いずれにしても、ぼくは省三さんよりは禁酒できる可能性が高いと思う。躰でも壊したのならともかく、「意味なく飲むのをやめる」などと「意味ない決意はやめる」ほうがいい(笑)。

だいたい省三さんが酒を控えたら、北九州大震災が起こるよ……(笑)。

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謎解き

夕方から録画しておいたドラマを1本見て、その後、仕事を始めた。「授業づくりネットワーク」講座のPPTづくりである。「私の考える学びのしかけ」というミニ講座だ。

いつも思うことだが、30分講座を体験型にするのは大変である。これは一方的に語ることを想定しての時間設定なのだろうか。いや、そんなことはあるまい。それじゃあ「学びのしかけ」の講座にならない。名が体を表すのと同様、講座内容が体験交流型を志向しているときには講座の仕立て方も体験的であらねばならない。それがこの世界の常識である。

しかし、そうなるとやたらと難しい。30分で全体をおさめるということは、ネタ自体は10分、長くても15分が限界である。ぼくは重厚長大志向の人間なので、そういうネタを持ち合わせていない。

いや、音読とか暗唱とかちょっとしたゲームとか、そんなネタならあるにはあるが、そんな提案はだれも聞きたくはないだろう。だれも聞きたくないというより、正直に言えばぼく自身がやりたくないのだ。そういうネタにはオリジナリティがない。修正追試か構想追試、せいぜいそれらの追試の組み合わせに過ぎない。ぼくはプライドが高いのか、追試実践を提案しようと考えたことがない。そんなものをするくらいなら、本を紹介したり先達を紹介したりしたほうがいい。

それでもなんとか形にして、完成させることができた。話の内容を割と流動的にできるように構成した。この講座は4人が30分ずつ並列的に提案することになるので、前の提案を受けてしゃべらなければならないことが生じてくる。これはまず間違いない。

それにしてもこの冬休みは、仕事がやってもやっても終わらない(笑)。なんでこんなに集中したんだろう。自分でもよくわからない。珍しく焦りがある。雑誌原稿がたまたま4本集中したことも大きいことだし、冬休みの後半がネットワーク大会と新潟視察で当てにできないという事情もある。

いつもなら「ことのは合宿」の準備だけをじっくりとするのが習わしなのだが、今年は合宿がない分、予定を積み込みすぎたのがいけなかったのだろう。もう一つ、毎年冬休みはじっくりと落ち着いて取り組むタイプの仕事をしていたのだが、今年の冬はサクサクっと仕上げて「はい、終わり!」という仕事の連続である。これがぼくの冬の波長に合わない。

背中に電気ストーヴを浴びながら、好きな音楽を流しながらPCに向かっているスタイル自体は例年と同じなのだが、いつものような「この提案に須貝さんはなんと言うだろう……」とか「この論理に田中さんは反対のはずだから議論しよう……」とか、そういうことを考える楽しみがないのだということに、いま気がついた。「ことのは合宿」って、やっぱりぼくの波長に合っていたんだなあ……と改めて認識させられた。

おまけに今年は難解教材に取り組むという、なんというか、「発見の楽しみ」とでもいうべきものがない。ぼくという人間はどうしても、難解なものを読み解くことに興味をそそられるタイプのようだ。新しい授業方法を開発するとか、新しい交流方法を開発するとか、新しいシステムをつくるとか、そういうことにはどうしても夢中になれないタチのようである。「だいたい、その程度のことならぼくが開発しなくてもネット上に転がってるだろう……」という思いが、どこかにある。

そうだ。ぼくは何より「謎解き」が好きなのである。

夕方から見たドラマは「赤い指」。東野圭吾の加賀恭一郎ものである。これがなかなかの出来。先日は南果歩に感動したが、今回は何と言っても佐々木すみ江である。目がいい。さすが大ベテランで、ドキッとさせる目を随所で見せる。本当に演技なのかと思わせる目である。杉本哲太もよかった。なんとも元銀蝿一家とは思えないような充実振り。いい役者になったものである。このドラマもまた回想シーンの使い方が非常にうまくて感心させられた。山崎努・西田尚美・富田靖子・松重豊と、名優が脇を固めていたのも嬉しかった。主役の阿部寛や溝端淳平もまずまず。ぼくの嫌いな女優黒木メイサが邪魔だった。つい先日会ったばかりだというのに、母に会いたくなった。いずれにしてもよくできたドラマだった。ただ内容的にはベタが過ぎていたけれど……。

このドラマも「謎解き」だったわけだが、少々、その「謎解き」の設定に無理があった。東野圭吾の原作を読んでいないので、原作どおりの設定なのかどうかがぼくにはわからない。まあ、いずれにしてもそれらのまずさを佐々木すみ江の演技が帳消しにしていた。すごい女優である。

※CHET BAKERの「MY IDEAL」を聴きながら……。

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1954

高校時代にジェリー・マリガン・カルテットをFMで聴き、アルバムを買った。それと同時にカルテットのトランペッターとしてチェット・ベイカーを知った。ところが、彼がボーカリストでもあることを知って、このアルバムを買ってみた。よく言われる中世的なボーカル。いまもときどき聴く。今日も夜の仕事のBGMにずっと聴いている。いま、4度目のリピートである。

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交流のバリエーション

今日は朝から「小集団交流」のバリエーションを整理する一日。

授業においても特活においても互いに対話を成立させるような交流の在り方の必要に迫られている。

学級全体で話し合ったり交流したりという仕方は、古くから教師が捌くものと無指名のものに分けてかなり具体化されてきた。ぼく自身はそれらをどのように成り立たせていくかについて、若い頃からずいぶんと考えてきたし、ずいぶんと実践を重ねてもきた。

しかし、「全員参加」の保障を謳うぼくとしては、どうしても一人残らず全員の意見を吸い上げるシステムづくりに興味を抱くわけで、そうしたシステムの構築には「小集団交流」が欠かせない。しかも、それはバリエーションがたくさんあったほうがいい。

こうした目的意識を胸に、ここ5~6年、ずいぶんと研究と実践を進めてきた。これをまとめようとする一日だったわけである。いずれ国語科授業における交流のバリエーションの本としてまとめたいとの思いもある。こうした取り組みは多くの国語教室、いや国語教室のみならずすべての学校教育の場において必要とされるようになるはずである。

※PRINCE AND THE REVOLUTIONの「POP LIFE」を聴きながら……。

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PRINCE AND THE REVOLUTION/1985

昔から大好きなアルバムである。これほど実験的でありながら、POPな感覚を保つことに成功しているアルバムを、ぼくは他に知らない。次作に「PARADE」というこれまた傑作があるのだが、こちらは実験のほうが先行している。前作の「PURPLE RAIN」はPOPのほうが先行している。どちらも映画とのタイアップである種の縛りを受けていたのだと思う。一説にはこのアルバムは「PURPLE RAIN」と同時期にレコーディングされ、「1999」から「PARADE」へと至る過程を戦略的につくりあげた、わざとバランスをとった作品ともいわれている。真偽のほどはわからない。いずれにしても、「PURPLE RAIN」のわざとらしさを払拭して、PRINCEの評価を不動のものにしたのがこのアルバムだったことは間違いない。

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いま23時30分である

今日はまず、桃崎さんに頼まれていた「とっておき…」の直し。これが30分ほど。30分でできるならもっと早く送れよ……と桃崎さんは言うだろうが、気分が乗り、集中力が高まるときじゃないと30分では終わらないのです(笑)。今朝はそういう時間だったわけですね。

次に、国語本のプロットがどうもしっくり来ないので作り直す。Aという観点でつくった場合とBという観点でつくった場合とでは、意味合いが変わってしまう。これまでAという観点でつくろうと思っていたのだが、Bの要素を取り入れたCというつくり方を思いついたのである。今日の時点ではこれがベストだ、というプロットが出来上がった。よかった、よかった。

第三に、授業づくりネットワークの選択講座のPPTをつくり始める。スライドを1枚つくったところでやめる。申し訳ないのだが、このテーマには飽きているのだ。なかなか乗り気にならない。結局、一つ一つのパーツは完成しているわけだから、どうつなげるかという話である。まあ、その気になれば1時間もあれば完成するだろう。後回し。

そこで、冬休み中に書かなければならない雑誌原稿4本のうち、1本を執筆。1頁原稿だからすぐにできた。ものの15分である。こんな仕事振りで原稿料をいただいていいのかしら……と思ってしまうくらいに簡単にできた。

すると、ネットワーク講座。時間はまだ12時をまわっていない。結局、これに舞い戻る。よし!新ネタをつくってみるか……と取り組み始める。ところが新ネタをつくり出すと、進まない。教師像の変遷をドラマに描かれた教師で……などと考えたのが敗因。ネットで画像を検索しながら、次々にPPTに取り込んでいるうちに、それだけで膨大な量に。90分講座でドラマの教師像に30分使うわけにもいかない。結局これは「テレビドラマに見る教師像」というタイトルで保存。いつか日の目を見ることもあるだろう。ここで15時。

妻が出かける。実家に何かを取りに行くという。これはチャンス!とばかりに居間に下りる。「相棒」の元旦スペシャルを見る。2回目である。秀作ばかりを連続して発表している古沢良太の脚本。なにせ「三丁目の夕日」「キサラギ」の脚本家である。1回見ただけでは気づかなかった布石が散りばめられているに違いない。しかもゲストがぼくの大好きな南果歩。もう何度でも見たい。しかし、妻は同じものを2度見ることに良い顔をしない。従って、彼女のいないときにしか見られないのである。

2度目を見終わると、やっぱりすごい。脚本にいくつも布石を見つけたのも確かだし、南果歩の演技力を堪能したのも確かだし、白石美帆の演技力が向上したなと感心したのも確かである。しかし、何より2度目の収穫はカメラワークのすごさに気づいたことだ。こりゃすごい。特に劇中何度も出てくる回想シーンのカメラワークが凝っている。モンタージュも見事である。久し振りに感動的な映像技術である。しかもアナログな映像技術……。職人的である。こういうのに感動させられるのは久し振りである。

ちょうど「相棒」を見終わったところで妻が帰宅。すぐに二階へ。ネットワーク講座のPPTを三たびつくり始める。途中夕食と風呂。日本酒は小さな猪口に一杯だけ。風呂は長め。お笑い番組をちょっとだけ見て、二階へ。ネットワーク講座のPPTが完成。同じ会のもう一つのPPTをつくり始める。これがやっかいだ。というわけで、いま23時30分である。

※LIONEL RICHIEの「SAY YOU SAY ME」を聴きながら……。

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LIONEL RICHIE/1997

もういつ買ったのかさえ忘れてしまったのだが、CDラックに見つけた。DIANA ROSSとのデュエット「ENDLESS LOVE」とか、「HELLO」「STUCK ON YOU」といったNo.1ヒットが目白押し。久し振りにLIONEL RICHIEを堪能した思いがする。「SAY YOU SAY ME」は想い出深い曲。映画「WHITE NIGHTS」(1985)も傑作というほどではないにしても、まずまずいい映画だった。

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サクサク進む

昨日は24時前に就寝。起きたのは11時過ぎ。なんと11時間以上の睡眠。

すぐに原稿執筆を始める。どんどん進む。サクサク進む。夕方にはすべてが完成してしまった。ここ数日、不調だったのは寝不足だったのかもしれない。寝ると頭が働く。気力が続く。こんな当然のことに気づかない自分を嘲笑した。

買い物へ。いつも行っているスーパーは休み。ラルズ系列のスーパーも休み。そこでイオン系列のスーパーへ。ここはあいている。恐るべしイオン。こんな田舎の小さなスーパーまで、ちゃんとイオンイズムが浸透している。一人勝ちするのもわかる。とにかく便利なのである。ただし、イオンで働いている複数の人たちから「あまりにたいへんだ」「ものすごいプレッシャーをかけられる」という話はよく聞くけれど。

中に厳しく外に甘い。どの世界もそういう傾向のようである。かつての日本的な価値観で仕事をしていては、サービス業は成り立たない、ということなのだろう。ぼくだって、自分の仕事以外のところでは、ただただ便利さを求めるもの……。

豚しゃぶで「まんさくの花」。たぶん3合くらいしか飲んでいないのにべろべろ。そのまま寝てしまった。

※ALAN PARSONSの「No Future In The Past」を聴きながら……。

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ALAN PARSONS/1999

かなりの傑作。参加ミュージシャンもすごい。お気に入りの一枚。

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元旦の出来事

元旦は朝の7時頃まで原稿執筆。5時間ほど寝て、また原稿執筆。夕方から録画しておいた「朝まで生テレビ」を見て、その後「相棒」。23時半に就寝。こういう一日だった。

原稿のBGMはTHE STYLE COUNCILの「CAFE BLEU」。今年初めて聴いた音楽はPaul Wellerだった。原稿がひと段落つくたびに、耳を傾けるのだが、どうにもカッコよくてたまらない。十代の頃にカッコいいとすり込まれてしまったものは、四十代になってもその心象を持ち続けてしまう……その代表のようなバンド(バンドというよりはユニットかな……)である。その後もカッコいいバンドというものはいろいろ出逢ったけれど、それらとは違う、圧倒的なものを感じてしまう。

ぼくらの世代はTHE JAMをリアルタイムで聴くことはなく、Paul WellerといえばTHE STYLE COUNCIL。ピンク・フロイドやイエスではなく、プログレといえばこのバンドに思えてしまう。80年代の音楽シーンにおいてはこのユニットこそが間違いなくプログレッシヴだった。

今年の「相棒」の正月スペシャルはなかなか良かった。脚本もとても良かったが、最後がやけにベタ。でもこういう脚本はそれでいい。ベタを入れないと追われないようなところがある(笑)。それにしても南果歩はすごい女優になったものだ。全編、南果歩の演技力に支えられていた感じがある。ああいう狂気をもった女性をわざとらしくなく演じられる、数少ない女優の一人になった。

ただ南果歩とは同世代。若い頃から彼女を見てきたぼくには、南果歩が就職期の息子を亡くしてから12年も経つお母さんにどうしても見えなくて、なかなか入り込めなかった。かなりメイクで誤魔化そうとはしていたけれど、どうしてもあの設定には若々しすぎる。10年後の南果歩に演じてもらいたかった設定である。

去年の正月スペシャルがチカラを入れている割には空回りしていたので、今年のものには満足感はあった。年末最後の「相棒」といい、映画の宣伝も兼ねてチカラが入ってるなあ……という感想である。ファンとしては嬉しいことである。

冬休みになって読み続けてきた小野俊哉の「プロ野球 最強のベストナイン」(PHP新書)を読み終えた。トイレに行くたびに打順一つずつ読み進めてきたのだが、半分を過ぎた頃から続きがどうしても読みたくなって、最後まで書斎で読んでしまった。

プロ野球ファンの一人として、非常に読み応えのある新書だった。小学生の頃から求め続けてきたものが現れた……という感じである。コンピュータを駆使したデータベース時代だからこそできる分析、書ける本。少年時代の夢を具現化してくれる本だった。

※THE STYLE COUNCILの「A Gospel」を聴きながら……。

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THE STYLE COUNCIL/1984

このアルバムを聴くと、想い出す顔がたくさんある。高校時代に通学のバスの中で音楽談義に花を咲かせていた顔たちである。1980年代の日本の高校生の半分が、アイドルブームに嫌気がさして英国ロックに思いを馳せていたなあ……という気がする。

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明けましておめでとうございます!

明けましておめでとうございます。

昨日の16時に家を出て、カニを買い、酒と刺身を買って、岩見沢の実家へ。高砂酒造の「一夜雫」を堪能。少し甘めといえば甘めだが、本当に旨い酒。紅白で久し振りの「天城越え」に感動。「トイレの神様」はぼくにはねらいすぎに思えた。桑田佳祐の元気な姿に安心。和田アキ子は痛々しかった。吉田美和のジャンプは見ていて楽しかった。

24時に実家を出て1時前に帰宅。原稿執筆。……というか、本の最終チェックである。幾つか空いたままになっていたコラム8箇所を埋める。目次をつくって全体を一望してみると、「まずまず」ともいえるし、「まだまだ一貫性に欠ける」ともいえる。音楽は相も変わらずTHE BOOM。いまも「釣りに行こう」がかかっている。

これから7日から始まるネットワーク大会関連の動きまで、学級経営本の直しを完了させ、「とっておきの道徳授業」の原稿を修正し、国語本のプロットを細かいところまで完成させ、雑誌原稿を4本書き、講座3本の準備をする予定。少しバタバタしそうである。

でも、今年の週末は研究会関係で原稿執筆の時間がとれそうにないので、時間のあるときにどんどん原稿執筆を進めなければならない。今回は雑誌原稿が一気に重なっているのがちょっとだけ痛いが、これも求められるうちが華。月末、安心して京都に行くためにも、いま頑張らねばならぬ。

こう自分に言い聞かせねば、やってられない(笑)。いま、PC画面に7時50分と表示されている。そろそろダウンしそうである。おやすみなさい。

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