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00年代をともに駆けてきた晋へ

石川晋から「授業づくりネットワーク北海道ファイナル2011千歳に人が集まらない」と題された個人通信が送られてきた。ぼくがブログでたいして考えもしないで書いたものを引用しながら、最後には少々泣きが入っている文面も見られる。

このイベントにはぼくも講師の一人として名を連ねている。人が集まればぼくに持ち出しはなかっただろうが、集まらない以上、ぼくに講師料は出ないから、宿泊費と飲み代を30000円ほど用意した。別に人の集まらない集会において、晋から金をもらおうなどとは思わないし、彼がくれると言っても突き返すだろう。まあ、それはどうでもいい。

問題は彼が今回人が集まらないことを、自身の関心の在処と若手教師の関心の在処との乖離にある……と認識していることである。ぼくは今回人が集まらないことの要因は、もっといえば夏のブラッシュに晋が想定したほどの人が集まらなかったことの要因は、もっと別のところにあると思う。教育現場にもっと大きなことが起こっているのだと思う。

ぼくの考えを端的に言えば、教師を志望する若者たちにとって、「教師」が「職業」として捉えられるようになったのである。

少し前の世代まで、「教師」は確かに「職業」でもあるけれど、それは同時に「教師」という「生き方」をも意味していた。だから価値ある教師になるために、スキルアップとか修業とか技とか志とか、そうしたものにニーズがあった。ぼくらは「生き方」として「向上する者だけが人前に立ち、人を導くことができる」というテーゼを、意識的・無意識的に抱いていた。「教師」が「生き方」であったからこそ、スキルアップに自腹を切ることができたのである。

しかし、「教師」が「職業」ということになると、それは生活の糧であり、生活を保障するための仕事に過ぎなくなる。そうなると、「教師」は「目的」ではなく、生活を保障するための「手段」となる。「手段」と化したとき、民間研修はその存在基盤を失ってしまう。「手段」と化した「教師」のスキルアップに金をかけるのは本末転倒、いくらスキルアップしても給料は変わらないだから(最近は教員評価制度によって若干の差はつくものの、その対象外である若者には実感がないだろう。まあ、ベテランにも実感がないだろうが……。)、金と時間をかけて、休日をつぶしてまで民間研修会に参加することなどという思いに及ぶはずもない。そういうことなのではないか。

晋の関心の在処と若者の関心の在処とが乖離していたとしても、10年前なら人は集まったに違いない。それは10年前なら、「なんかよくわからないけれど、参加すれば何かが得られるかも知れない」と発想する階層がある程度存在したからである。そして、民間教育研修とはあくまでそうした階層を基盤にして成り立ってきたものなのである。

ではなぜ、若者たちがそんなふうに変容してしまったのか。「教師」はどのようにして「生き方」から「職業」へと変容したのか。行政の施策のせいか、はたまた若者の変容のせいか。こんな卵が先か鶏が先かの議論をしても始まらない。答えはその両方だとも言えるし、そのどらでもないとも言えるのだから。この議論を突き詰めてみても、やれ消費社会がどうだとか少子化社会がどうだとか、不景気がどうしたとかマスコミ報道がどうしたとか、そんな社会学的議論に陥るだけである。

ぼくは……というかぼくらは……というか、要するにぼくや森くんや對馬くんは、二十代の頃、ずいぶんと札幌市の国語界の中堅教師達にその資質を買われ、ずいぶんと可愛がってもらった。しかし、ぼくらが野口先生が来道したのを機に、野口先生が北海道にいる5年間だけ、野口先生からがっちり学ぼうと思って、期間限定で「鍛える国語教室札幌支部」を立ち上げた。国語界の中堅教師達はこの発想を理解してくれなかった。そこからぼくらの軋轢人生が始まったと言っていい。

ぼくの目から見た、この件の構造はこうである。ぼくらにとって札教研も国語教育連盟も安藤先生主宰の私的な研究会も「ことのは」も、そしてぼくの場合には学生時代の恩師と続けていた「実践研究水輪」も、自分が高まるためにいかなる研究団体からも学ぼうとする意識で参加した、すべてが同列の研究団体の一つに過ぎなかった。だから、ぼくは「鍛国研」を立ち上げるという発想にもなるし、一時期は「文芸研」にも学んでいた。しかし、「ことのは」や「水輪」や「文芸研」は国語界の中堅教師達の目に触れなかったが、「鍛国研」はそうはいかない。雑誌が出たり、言語技術教育学会と親和性が高かったり、何より明治図書という媒体をもっていた。要するに活動自体がどうしても目立ってしまい、目に触れてしまうのである。ぼくらは当時、ずいぶんとその態度を「裏切りである」と言われたものだった。

でも、当時からぼくらの意識は、「鍛国研」の活動はあくまで期間限定のものだったのだし、そもそも「鍛国研」を担ぎながらもぼくらにとってそれはあくまで「ことのは」や「札教研」や「国語教育連盟」や「文芸研」や「ネットワーク」と同列の〈相対化〉された研究として意識されていたのである。だいたい当時のぼくの心象を正直に言うなら、ぼくにとっては「実践研究水輪」だけが絶対的価値をもつものであり、その他の活動はすべて、水輪的研究の糧にするための研究活動に過ぎなかったのである。当時のぼくにとっては「研究集団ことのは」さえ、「実践研究水輪」の活動を充実させるための下位研究に過ぎなかったのである。ぼくが「研究集団ことのは」に研究の軸足を移したのは、恩師森田茂之が亡くなり、「実践研究水輪」が実質的に解散となってからのことである。しかし、この心象はまったくと言ってよいほど、国語界の中堅教師達には理解されなかった。

ぼくは恨み言としてこれを書いているのではない。ぼくが書きたいのは、このぼくらの世代と当時三十代半ばから後半であった国語界の中堅教師達との間にあった、埋めようのない意識の溝についてである。

ぼくらはいまだに管理職試験を受けることもなく、毎日、ただ研究活動を楽しんでいる。四十代も半ばになるというのに、そのスタンスは二十代の頃とさほど変わっていない。しかし、ここで大切なのは、こういう意識でいるのは何も「研究集団ことのは」に集った我々だけではない、ということなのである。ぼくには学生時代の、ともに実践研究を志した仲間が大勢いる。その仲間のすべてが、ぼくとほぼ同い年でありながら、やはりぼくらと同じように管理職試験や日常実践のみに埋没するのではなく、某かの研究活動を行いながらぼくと同じような教員生活の楽しみ方をしているのである。

ここからは完全に独断と偏見による私見になるけれど、現在の五十歳前後を機に、大きな世代的乖離があるような気がする。

団塊の世代は間違いなく、優秀な人間がいわゆる出世をしている。ぼくが若い頃に可愛がってもらった、当時の国語界の中堅達よりも少しだけ上の世代、つまり現在60歳前後の方々は、いま教育長をやっていたり指導室から教職大学院に移ったり、中央区の伝統校で校長をしていたりする。当時の国語界の中堅達、つまり当時は三十代半ばから後半だった世代も、いまは五十代となって指導室や教育センター、管理職になっている。

しかし、である。どうも現在の四十代後半あたりから、その世代で最も優秀だった世代はいわゆる出世を望む生き方をしていないように見えるのだ。現在のその世代の指導主事や管理職は、ぼくから見ると、どうもその世代で最も優秀だった階層ではなく、第二階層のように見える。その世代でぼくにとって最も優秀に見えた人たちは、定時制高校にこそやり甲斐があるような気がすると中学国語を離れたり、道教大に大学院が設置されると同時に「もっと勉強したい」とあっさりと辞職してしまった。彼らがいまどうなっているのかぼくは知らないけれど、こうしたメンタリティは間違いなく、先ほどから言っている当時の国語界の中堅達とは異なっていた。

そしてこうした新しいメンタリティのある種の世代的完成形がぼくらの世代、つまり、「研究集団ことのは」に集っていたのであり、ぼくの学生時代の仲間たちのような生き方を志向していたのではなかったか。そしてその構造は、当時、国語界の中堅達にもどうすることもできなかったし、ぼくらにもどうすることもできなかったのではなかったか。つまり、世界観が違ったのではなかったか。おそらくだれにも正義はなく、だれも悪くはなかったのである。最近ぼくはそんなふうに考えている。

さて、話を元に戻そう。

かつてのぼくらと国語界の中堅教師達との間にあった、このどうにも「埋めようのない意識の溝」と同じような質のものが、ぼくらの世代と現在の若者世代との間に歴然として現れ始めたのである。それは晋が言うような研究意識、研究的関心の在処に関する溝などではなく、もっと大きな、「世界観の溝」なのだ。

ぼくがこんなことを考えるようになったのは、ぼくが四十になりかけた頃、学年主任として4人の新卒を指導したときだった。ぼくは彼らをとても可愛がったが、しかしどこかで人間としての根幹的差異を感じていて、どこか本気で付き合おう、これからも付き合っていこうという意識にはならない自分を感じながら彼らに接していた。それはかつて、山下くんはもちろん、藤原くんや山寺くんに接した可愛がり方とは現象的には同じでも、本質的には異なった接し方だった。ぼくには間違いなく、その新卒たちと数年後にもいっしょに酒を酌み交わしている自分は想像できなかった。ある種の温かさと同時に、ぼくはそういうある種の冷たさをもって彼らと接していたように思う。

そしていま、晋が感じている世代間ギャップもそういうことなのだと思う。自意識の強い彼には、それが自分の研究的関心の在処に見えているようだが、おそらく本質的な構造はそんなところにはない。晋が「2年間登壇しない」と宣言する理由はいま一つぼくにはわからないけれど、そう宣言しなければならないと自分を追い込もうとする心象の〈質〉はよく理解できる。いかにも月並みな比喩を使うなら、ぼくにも同じ〈質〉の血が流れているからだ。それは同じような時代に生き、同じようなものを見てきたぼくらのコモンセンスのようなものだ。

ぼくは、若者の中にも少数だけ存在する、まだぼくらのような心象を抱いている者たちだけを集めて、小さくて、多様な研究会を多数開催していく道を選んだ。おそらくぼくのようなやり方もあと数年で破綻し、滅びていくだろう。でもそれでもいいのである。ぼくにとって、「教師」も「研究」も「職業」ではなく「生き方」なのであり「存在」それ自体なのだから、ぼく自身が楽しむことのできない活動など、まったくする必要がないのである。

石川晋の個人通信を読んで、ぼくが考えたことはこんなことである。

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