えらい人たちよ、勉強せよ。
あまり読んでいて気持ちの良くない、ぼくの性格の悪さが際だつ話を一つ。
先日、校長に呼ばれて教員評価の面談があった。面談があったといっても、賞与を前に教員評価の結果通知があったわけである。その結果を書くのはどうかと思うので書かない。
さて、その後、「40周年記念事業を仕切ってくれて大変ありがとう」とお礼を言われた。ぼくが仕切ったことは間違いないので、ここまではよい。問題はそのあとである。
「いやあ、あの式典はたいへん評判がいいんですよ。ほんとうにありがとう。」とのこと。
もちろん校長が言っているのは来賓クラスの市教委や近隣中学校の校長から聞いた評判のことなのだろう。
しかし、ぼくはここで「んっ?」と思う。外部の人が周年行事をやった学校の校長に「あの式典はいまいちでしたね」などということが、この世の中にあり得るのだろうか。どんな式典だって、その学校の校長には「評判のいいもの」としかなり得ないのではないか。
まあ、校長が機嫌良くそう感じているのであるから、それはそれでいい。
でも、あの式典はぼくに言わせれば「超手抜き」である。新たにつくったものが実は何ひとつない。そりゃあ式典用のビデオこそ新たにつくったけれど、そのほかは勤務校にもともとあるものを並べただけである。吹奏楽のマーチング、合唱コンクール優勝学級の発表、校歌斉唱、そして吹奏楽部の演奏。ビデオや式辞、祝辞を除けばプログラムを構成しているのはそれだけである。これは実はいつでもできるような式典に過ぎなかった。
ぼくの演出力として完成度を高めたのは、いつも言っているように式典に一切の間を排したこと。前の発表が終わると間髪を入れずに次の発表が始まる。教頭が「これより札幌市立北白石中学校、40周年記念式典を執り行います」と言い終わった瞬間、間髪を入れずに指揮をする先生の「ワン・トゥー・スリー・フォー」という合図とともに、吹奏楽部のマーチングが始まる。マーチングが終わった瞬間、これまた間髪を入れずに照明がすべて消え、40周年記念ビデオが始まる。こんな具合だ。それが参加者の中に、一種の驚嘆の連続となり、心のリズムを形成していく。そういうことである。演劇理論の基礎の基礎、イロハのイだ。
しかし、こんなことはちょっとした工夫でいくらでもできることである。一般の式典が間延びしすぎているだけである。口が悪いと叱られそうだが、あんな式典くらい毎年できる。毎年どころか、12ヶ月連続で毎月やれといわれれば決してできなくはない。だって新たに何かをつくるということがないのだから……。
問題は……というか、ぼくが問題にしたいのは、ぼくにはこうとしか見えない代物が、あの式典を良かったと言ってくれる人にはなぜ良いものに映ってしまうのか、ということである。ぼくにはどうしても、「勉強不足」としか思えないのである。何十年も教育界に籍を置いているものであれば当然知っているであろうことを知らない。そんなことで指導主事や管理職をやっていて恥ずかしくないのだろうか。そう言いたいのである。
儀式的行事であろうと生徒会行事であろうと、とにかく演出の核は、一つ一つのアトラクションをどうつなげるか、にある。直前のアトラクションと次のアトラクションとは質的に差異のあるものを配し、雰囲気をがらりと変える。その間に1秒たりとも間をつくらない。式辞・祝辞・祝電披露など入れなければならないものの直前にはそうした雰囲気をつくるアトラクションから一律の流れをつくり、粛々と進める。あたりまえの、オーソドックスな演出なのである。
えらい人たちよ、勉強せよ。この演劇理論の基礎の基礎はぼくに言わせれば、マネジメントと同じ原理なのである。
あたりまえのことをあたりまえに知る人間たれ。
※TOM PETTY and THE HEARTBREAKERSの「candy」を聴きながら……。
TOM PETTY and THE HEARTBREAKERS/2010
素晴らしくすぎる。かっこよすぎる。「candy」の次の曲、「NO REASON TO CRY」というバラードもたまらない。 久し振りに、本当に買って良かったと思えるアルバムである。
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