サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ
昼過ぎに起きた。朝方まで起きていたので頭が重い。
昨日、学校長から自宅研修に関する話があった。長期休業は勤務日である、自宅で仕事をしなければならない必然性を申告せよ、自宅で研修をしたという成果物を出せ、という動きは札幌でも10年近く前からあったのだが、それがこの冬休みから強化されたらしい。長期休業中の動向を巡る通達の文言が変更になり、「場所を問わない」旨の文言が削除されたという。
自宅での研修を認めない、学校に来て仕事をせよということは、要するに仕事を「質」ではなく「量」で評価する方向へと大きく舵を切ることを意味する。つまり仕事がなくても、学校にいることが仕事である、という見方である。とにかく8時から5時まで職場にいたまえ、そうすればあにたの生活を保障しましょう、そういう施策である。
ぼくのように夏休み・冬休みには自宅で一日に15時間平均で、調べ物をしたりPCに向かって資料を作成したりという生活を送る者にしてみれば納得できない施策である。ぼくの書斎には教育関係だけで約3000冊の書籍と20000万点以上の資料がある。これを繙きながら、複数の資料から共通点と相違点を見出し、某かのアイディアを創出して教材や指導法を開発していく、これがぼくの研究である。学校でなどできるわけがない。
いや、ぼくに学校のひと部屋をくれるのなら話は別だ。家にある資料をすべて学校に運び、夏は涼しく、冬は温かい環境を整備し、心地よいベッドを用意してくれるのなら、ぼくは学校に住んでもいい(笑)。そう。住むことが大切なのだ。だって勤務時間などにかかわらず、朝起きてから夜寝るまでずーっと研修しているのだから、勤務時間は学校、夜から朝までは自宅などと通いで取り組むことが成立しない。
しかもぼくの3000冊の書籍は決して公費で購入したのではなく、あくまでぼくの給料から、小遣いから購入したものであって、そもそも学校に置いておくべき理由が何もない。20000点の資料こそ、生徒の作文のコピーや公私にわたる様々な研究会資料の蓄積ではあるが、これをぼくのように20年分ほとんどとってあるという人間も希なはずである。そもそも多くの人たちにとっては必要のないものだから捨てられるのだが、ぼくにとっては必要と感じられたからとってあるのである。これはぼくという人間の個人的な目的のために取り置かれたものに過ぎない。これを蓄積しているのはぼくの個人的資質によるものであって、決して公人としての「堀裕嗣」という札幌市に雇用された教師に起因するのではない。
おそらく長期休業の自宅研修が認められないとすれば、ぼくは年休を取って自宅で研修をするようになるだろう。年休をとって研修した成果は、論理的に公務に還元する必要がなくなる。つまり、ぼくは、ぼくが外部で身に付けたスキルについては学校に還元する必要がないという理屈が成立してしまう。ぼくは普通の先生ができる程度のことしかしなくていいことになる。仕事を「質」ではなく「量」で、「時間」で評価するということは、ウラを返せばそう言うことである。
研修は学校でできるはずだ……行政は言う。嗤わせちゃいけない。それは学習指導要領と日常に埋没した経験則とだけを結びつけて、浅く、思慮の足りない、自己欺瞞的な、自己満足的な、浅はかな結論が称揚されるだけの研修にしかならないのは目に見えている。そういう研修しかしない教師だけで、学校教育が成立すると本気で思っているのだろうか。
確かにかつては、組合派が夏休み・冬休みを自宅研修として遊んでいた現実もあろう。その意味で、行政がこのような施策に打って出る心象もわからないでもない。しかし、そうした現実は21世紀になってかなり払拭されてきているはずである。ぼくは少なくともこの数年、長期休業を年休もとらずに遊び回っている教師がいるという話を聞いたことがない。そろそろもう充分なのではないか。グレーゾーンのすべてに白黒をはっきりつけ、厳密に対処するには、そろそろ弊害のほうが大きくなってきてはいまいか。そろそろ自宅研修中に外で目撃されたという情報が見られた場合には厳正に処分する、その程度でいいのではないか。そういう人間は職務専念義務違反なのだから、法的には本来懲戒免職の対象なのである。免職は行きすぎにしても、戒告くらいを数人に出せば一気に引き締まるはずである。それでいいではないか。
時間だけを職場で過ごせばいい、「質」より「量」で仕事を評価するという慣習が染みついてしまえば、次第に平日にも時間外勤務のモチベーションが下がってしまうはずである。それは勤務時間だけを評価の対象とすることを意味するのだから。
教員評価とも相俟って、「職員室の共同性」をより崩壊させていく方向に向かいはしないか。教員評価でCのついた教師たちにも、同じ論理が働くからである。つまり、「自分はCなのだから、AやBの人よりも働きが悪くてもいいというお墨付きをもらった……」という解釈が充分にあり得るのである。C評価教員たちが本音ではこう思いながらもこれを公言しないのは、教員評価かぜねらっているような「よし!今度はAやBを目指そう」などというモチベーションの高まりなどではなく、「職員室の共同性」がいまでも少しだけ生きているからである。「あの先生に迷惑をかけたくない」「先生方の目がこわい」といった意識が、かろうじてそうした自暴自棄な態度を抑えているのである。
しかし、こうしたギリギリで精神の均衡を保つ在り方は、自らの学級が崩壊したり、職場の人間関係がバランスを欠いたりしたときに、いわゆる「心の病」やいわゆる「不適格教員」的な動向として顕在化していくことになる。この悪循環を止めねばならない。
サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ……。
この世界観に教師を追い込んではいけない。そして間違いなく、このグレーゾーンの払拭という施策は、その方向に舵を切っている。
※岩代太郎の「蝉しぐれ」のサントラを聴きながら……。
蝉しぐれ/Original Motion Pictures Soundtrack
岩代太郎/2005
今年のこのアルバムを勤務校の40周年記念式典ビデオのBGMに使った。たいへん評判が良かった。正直、自分でもとても満足のいく出来だった。音楽の力である。この音楽がなんということもない普通の学校の歴史をなんだか崇高なものに感じさせてくれた。こういう楽曲は希である。映画もとてもいい映画だった。
| 固定リンク
「書斎日記」カテゴリの記事
- なぜ、堀先生はそんなに本をたくさん書けるんですか?(2015.11.22)
- 出会い(2015.10.28)
- 神は細部に宿る(2015.08.20)
- スクールカースト(2015.05.05)
- リーダー生徒がいない(2015.05.04)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
富山県では「自宅研修」という用語そのものが死語になっています。25年間の教師生活で一度もありませんし、同僚で「自宅研修」をとった方も皆無です。休業中の勤務表にそもそも「自宅研修」の記号がありませんから。
池田さんの最近のblogでも教師の仕事の範疇にいて話題になっていましたが、現場教師の「善意」にのみ頼った日本の教育はどうなるのか、心配になります。
どこの県でも同じだとは思いますが、富山県では今年から勤務時間が7時間45分に短縮され、給与も引き下げになっています。16時10分に帰りの会が終わって、16時40分勤務終了です。6時間連続授業の日は、30分間ですべての仕事をしなさいということです。
しかも、夏場の部活動終了時刻は18時30分。部活動指導に関しては、「勤務時間が終わっても、あなたたち教師は生徒のことを見捨てないですよね。」といった確信犯的扱いとなっています。
どうしても愚痴っぽく聞こえてしまいますが、最近、教師を目指す若者がいなくなってしまうのではないかという危惧を感じます。
投稿: 門島 伸佳 | 2010年12月23日 (木) 20時57分
そう。北海道はずいぶんと恵まれているのです(笑)。まあ、もうこの国の学校は終焉に向かっているのでしょうね。ぼくらも退職までいまの身分でいられるか、あやしくなってきましたね。
投稿: 堀裕嗣 | 2010年12月23日 (木) 22時04分
教師の仕事ってなぜこんなになってしまったのでしょうね。昔の教師といえば尊敬され、慕われたものだと認識していたのですが…。
教師の能力が低くなった?制度が変わった?生徒、親がおかしくなったのかな…。
投稿: のり | 2010年12月25日 (土) 16時03分