最初から破綻している
漫画規制として議論が巻き起こっている東京都青少年保護育成条例の改正問題。とうとう都議会の総務委員会を通り、本会議でも可決する見込みと報道されるに至った。
いやはや、天下の悪法、ここに極まれり……といった趣である。
ぼくは漫画をほとんど読まない。21世紀になって買った漫画は「モリのアサガオ」(全7巻・郷田マモラ・双葉社)だけ。それも一度通して読んでしまえば、二度と読み返すことなどない。いま連ドラ化の真っ最中だが、それも途中で見るのをやめてしまった。ほとんど漫画に対する思い入れはないに等しい。そんなぼくでさえ、今回の条例改正には看過できない問題が巣くっていると強く感じる。
この問題、表現の自由の是非に論点が集中している感があるが、ぼくはこの論点よりも、出版不況の昨今にあって、更に出版業界の首を絞める方向に舵を切ったことのほうに驚いている。いま、ネットの普及に出版業界がこれだけ苦しんでいる状況下にあって、よくもまあ都がこんな政策を策定するものだと、意外にさえ感じてしまうのだ。
再販制度にはあれだけ批判的だった知事・副知事がそろっているというのに、漫画の内容規制があっさりと通ってしまうことにも矛盾を感じる。おそらく知事も副知事も文学作品やノンフィクションに比して漫画は価値の低いもの、あくまでサブカルチャーである、いまだにそう捉えているのだろう。そうした〈上から目線〉をなしにして、今回のこうあっさりとした条例改正はあり得ないだろうという気がするのだ。
しかし、「太陽の季節」になぜ性描写が必要だったのかというある種の〈芸術性〉の問題を考えても、「太陽の季節」がなぜあれほどの爆発的なヒットを飛ばし、石原裕次郎をあれほどまでのスターダムに押し上げたのかというある種の〈大衆性〉の問題を考えても、どちらも現在に移行すれば漫画問題と構造的に相似形を為すのはずだと考えるのは穿っているだろうか。
漫画とネットの闘いは、時代を遡れば文学とテレビの闘いと同質である。ともに前者に勝ち目がないことが共通している。つまり、こと性描写に関して漫画はネットに敗れざるを得ないし、文学はテレビにかなうはずがないのである。前者は有料、後者は無料。前者は能動、後者は受動。こうした月並みな対比もさることながら、こと性描写に限れば、漫画は読者の想像力を発動させられる猶与をもつ「物語性」という一点においてのみ、ネット上の性的な画像・動画に優位な位置にあったのである。
そんな、20世紀を象徴するカルチャーの最後の生き残りである漫画・アニメの世界を規制しようとは、実は文学やノンフィクションに近似したものに規制をかけ、それに対抗する更に有害なメディアを野放しにすることによって、敵に塩を送るようなに政策と言わざるを得ない。
前にも述べたように、ぼくは漫画を読まない。しかし、現在の「萌え」のアイデンティティの萌芽ともいえる時代に青春期を過ごした者の一人として、漫画・アニメに狂ったように耽溺し、生きる価値を漫画・アニメに見出すことを人生観とするような友人なら、小・中・高・大を問わず、数え切れないほどにもっている。彼らは森雪に萌え、メーテルに萌え、ラムちゃんに萌え、セーラームーンに萌え、綾波レイに萌え……。ぼくにはまったく理解できなかったが、一般に好ましいか好ましくないかの価値は別として、彼らが一つの文化を形成し、無視できないほどの市場を形成していることはまぎれもない事実なのである。
こうした「おたく」、そして「オタク」という新たな世代の中から、宮台真司・大塚英志・岡田斗司夫・東弘紀……といった明晰な頭脳が出現したこともまた紛れもない事実だ。いま、文学の代替物として、「新世紀エヴァンゲリオン」や「デス・ノート」が文芸誌上で真正面から取り上げられ、分析・検討されていることも紛れもない事実である。漫画やアニメというメディアが、いわば「新しい芸術」として時代を席巻しているのは確かなのである。そして芸術と性描写とが切り離せないものであるという言説に石原慎太郎は与し、いまもなおまず間違いなく賛同するはずなのではないか……。
ナボコフの「ロリータ」が、川端康成の「眠れる美女」が、或いはリュック・ベッソンの「レオン」が、ある種の少女趣味的性描写を指摘され、規制を受けるとしたら、知事・副知事をはじめ、都議たちは反対しないのだろうか。漫画の性描写はその延長線上にありはしないか。
もう一つ、ぼくが懸念するのは、正規のルートで販売される漫画のみに規制をかけて出版不況を後押しするのなら、著作権法違反と行きすぎた性描写の坩堝と化している同人誌市場にも規制をかけなければならないはずだが、それがおそらくは不可能であるという現実に対してである。コミケを中心とする同人誌市場を地下に潜らせるなどという政策は絶対にとるべきではない。そんなことをすれば禁酒法に近い悪法になる。おまけに禁酒法ならカトリックという強い正規の後ろ盾があったが、今回の規制の後ろ盾はあくまで実態のない世の中の右傾化に過ぎない。
更に懸念すべきは、今回の規制を急進的に主張しているのがPTA団体であることだ。性描写で味をしめれば、次は殺人シーン、更に暴力シーン、更にはドラッグシーン……と、次々に規制対象を広げよという主張になっていくだろう。PTAの主張が偏っていると言いたいわけではない。もう少し現実的な共存・共栄の方策は考えられないのかと言いたいのである。
漫画を規制すれば、物語欲求を漫画で満たしていた層の何割かがネットへと移行するだろう。ネット上の画像・動画の中に読者の想像力を発動させられる猶与をもつ「物語性」をもったメディアが誕生し、新たな市場を開発するすもしれない。それはそれでいい。しかし、それは漫画以上に有害表現を規制しにくいメディアであり、そもそも国内法では現実的に規制しきれないメディアであるということもよく理解しておく必要があるだろう。
ぼくにはいかなる方向からこの問題を眺めても、最初から破綻している条例改正であるとしか思えないのである。
※岩崎宏美の「万華鏡」を聴きながら……。
岩崎宏美/2007
CZECH PHILHARMONIC ORCHESTRA
これも完成度が高い。かつてシングルに幽霊の声が聞こえるなどと騒がれたが(笑)、この曲はよく聴いてみるとだれもが名曲と感じるような厚みと深みをもった曲である。このアレンジを得て、その厚みと深みが更に厚く深くなっている。
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