ワールド・カフェをやろう
岡山さんご紹介いただいた「ワールド・カフェをやろう」というイベントに参加してきた。大胆なコミュニケーション手法を用いて「コミュニケーション機能」自体について語り合うイベントである。岡山夫妻をはじめ、見知っている顔も10人以上いた。
ワールド・カフェについては、ぼくらもいろいろなバリエーションまでつくって月に1回程度実践しているので、あたらしい情報というのは特になったのだが、異業種の人たちが多数参加しているワールド・カフェは初めてだったので、それなりに楽しめた。ぼくがぼそっといったことを熱心にメモする学生さんとか、ぶっ飛んだ発想を次々に披露するプログラマーさんとか、北洋銀行から市役所に出向している方の経験談とか、教員研修の場では聞けない話を聞けたのも収穫だった。
しかし、実は今日、この会に参加して最も印象に残ったことと……というか、心地よかったことは、自己紹介してもぼくを「ただの中学校の先生」と見てくれる人とコミュニケーションを図れたこと。
ここ数年、どんな研修会に参加しても、職場でさえ、「あの堀先生」というのがつきまとう。それがウザい(笑)。仕方ないから既にぼくの中で整理されている話を話すことになる。
今日はそれがなかった。グループをつくった人たちが、みんなぼくを知らない。だから、無理にしゃべる必要もないし、真っ当なことやみんなが気づかないような本質を語る必要もない。グループの人たちが言ったことを整理してあげることに徹した感じ。「これとこれは同じでいい?」「いや、ちょっと違うような気がする」「じゃあ、こういうことかな?」「ああ、それ近いです」のようなやりとりをずーっとしていた。話を聞き、整理をしながら、ぼくは一般の方々の思考回路のデータを集めているようなところがあった。
もう一つ。あまりブログに書くべきではないのかもしれないが、講師の先生の指示の曖昧さとか、やることの不明快さとか、そういうことがずいぶんと気になった。たぶん開発能力は高いのだが、プレゼンは苦手にしている人なのだろう。シナリオライターであって役者ではない、といったらわかりやすいか。
岡山さんにはこれを感じたことがない。比喩的にいえば、岡山さんはファシリテーターとして、「自らの殺し方」をよく心得ている。ぼくが岡山さんから学んだことの一番はそこだった。だから、ぼくはいま、できるだけ研究会でファシリテーターの役について、「自らの殺し方」を研究しているところである。ところが、今日の講師は本質的には「オレがオレが」型の人で、ファシリテーターには向かないタイプの人だったという印象である。
ワールドカフェを一生懸命に広めようとしている型には申し訳ないのだが、ぼくはワールドカフェは基本的に16人という人数が一番機能すると考えている。4人グループが4つである。5人グループが5つの25人でもいい。そうすると、すべてのグループがすべてのグループから情報を集めてくることができる。同じ情報を得る場が保障されたはずなのに、最後のプレゼン内容の結論が異なる。それが実におもしろい……とまあ、こういう構成になる。
今日は、おそらく12~15グループくらいあったと思うのだが、プレゼンされる内容の要素となっている情報がぼくの中にないために、全体シェアの発表の連続がずいぶんと長く退屈な時間に感じられてしまった。あの形式で全体シェアをすると、そこにはかなり高度なプレゼン能力が必要とされる。
これが学びといえば学びである。
こんな感じの書き方をしているが、参加して良かったと感じている。ワールド・カフェのネガティヴなところをずいぶんと考えた今日の午後だった。
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