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ただ質が異なるのだ

学校祭が終わったのが先週。今週はもう全校を挙げて合唱練習一色に染まっている。教師も生徒もどうしてこう行事が好きなのか、本音では行事があまり好きではないぼくはちよっと不思議に思う。

しかし、過去、ぼくに担任された生徒もその保護者も、ぼくが本音では行事嫌いであることなどきっと気づかなかったに違いない。自分でいうのも何なのだが、そういうところだけは、ぼくはうまい(笑)。

まあ、ぼくは「結果主義者」であり「成果主義者」だから、何事も「結果を出す」ということにはこだわる。だから、学校祭ステージにしても合唱コンクールにしても、それなりの〈形〉はつくる。だから、生徒や保護者にはぼくが一生懸命やっているように見えるだけだ。

ぼくの前任校は学校祭と合唱コンクールとが同時開催の学校だった。

あれはきつい。正直に言えば、地獄だった。特に合唱がきつい。毎日30分きっかりの練習時間で3週間、それでそれなりの〈形〉にしなければならない。30分経ったら学級をばらして学校祭準備をする関係で、それ以上合唱練習の時間を延長することができないのだ。

裏話をすれば、毎日30分限定で3週間しか練習しないということは、総練習時間が7~8時間だということである。まあ、学活や総合の時間も2時間くらい練習時間として割り当てられるから、実際にはもう少し多い。それでも10時間は超えないはずである。

10時間しか練習時間がないということは、実は生徒の力量(つまりメンバー構成)がよほどしっかりしていない限り、合唱の技術面での力量の高い担任が勝つということになる。現状の課題がわかって、それを矯正するための練習方法を知っている者だけが短時間で修正することができる。

もちろんそれ以前に歌う意欲の喚起、つまり、声を出さずに歌わない生徒がいる……という状態を脱する必要があり、そこには合しよう技術のみならず学級担任の総合的力量が必要になるのだが、前任校は生徒たちの合唱コンクールに対する意識が比較的高く、この面で苦労するということがほとんどない。そうなると、合唱をそれなりに知っている者だけが生徒を導くことができる、という構図が生まれる。

おまけに前任校の大きな特徴として、合唱練習の時間において各学級に差がない。練習の〈量〉が同じなら勝負は練習間の〈質〉ということになる。これも技術的に優れている教師が成果を出しやすい理由の一つである。

もちろん、生徒がなかなか練習に取り組まず、教師に反抗してまともな練習にならないという場合がたまにはある。しかし、それは合唱練習が問題なのではなく、その担任のふだんの生徒への接し方があまりにもよくないのだ。

ところが、ぼくの現在の勤務校を含めて一般的な中学校は、確かに放課後に30分程度の練習拘束時間はあるものの、その後の放課後練習は基本的に自主練習になる。しかも5時間授業の日なら拘束時間のあと、更に練習可能時間が1時間以上ある。

生徒の中には「合唱コンクールなんてどうでもいい」と考えている生徒も少なからずいるわけで、彼らを形式的には「自主的」に、本質的には「強制的」に、要するに名前だけ「自主練」と呼ばれる放課後練習に取り組ませなければならないわけだ。要するに強制的に居残りさせるわけである。

こうなると、勝負は学級担任の音楽的技術、音楽的センスなどではなく、学級担任の総合的力量にかかってくる。放課後練習に残ることをみんなが納得するような学級をつくった者が勝つわけだ。

しかもぼきの現任校のように各学年に8クラスもあるような学校になると、最初から諦めている担任も少なからずいる。3~4クラスはそうなる。

そういう学級は30分の拘束時間で生徒を解放してしまう。隣のクラスは帰っているのに自分のクラスはまだ練習している……同じ学校でありながらこの差別は何なのだ……合唱コンクールに意義を見いだせない生徒たちがそう考えるのは必然である。

中にはその放課されたクラスに登下校をともにしている友人がいるとか、その放課されたクラスに部活のダブルスの相棒がいるとか、そんなことさえある。そういう生徒たちの個別事情を後ろに引かせて、残って合唱練習することを納得させるには学級担任にかなりの力量が必要である。

そこに横たわっている問題は、既に合唱コンクールでどうするかなどという問題ではない。まさに4月からどういう経緯を経てその学級の「いま」があるのか、4月からどういうスタンスで学級担任が生徒たちの前に立ってきたのか、学級担任が生徒たちに向けて吐いた言葉のすべてと、学級担任が生徒たちの前で見せた行動のすべてとが、その学級の合唱コンクールへの取り組みを決める。そういう問題になる。

何を言いたいかというと、前任校のような決まった時間、決まった期間の練習で行われる合唱コンクールと、現任校のような自主的な練習に多くを期待する合唱コンクールとでは、同じ合唱コンクールでもまったくの質の異なるものになるのだということである。

どちらが良い悪いではない。ただ質が異なるのである。

前任校タイプから現任校タイプに転勤した教師も、現任校タイプから前任校タイプに転勤した教師も、この違いはよく認識しておいたほうがいい。前任校タイプは、担任に力量があるとか、いい学級だからとか、担任と生徒の人間関係ができているとか、そういうことでは勝負が決まらない。前任校タイプの学校では、学級担任は合唱について勉強しなければならない。そこがきついところなのである。

もう一度言う。どちらが良い悪いではない。ただ質が異なるのだ。

今年も学校中に歌声の響く、そしてた教師はいやでもそれを聴き続けなければならない、気の狂いそうになる合唱の季節がやってきた。やれやれ……。

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