読むこと/情報教材
【1日目】
模擬授業10/細山崇先生
まあ、なんとも形容しようのない明るさと、なんとも形容しようのない真面目さを併せ持った、なんとも形容しようのないキャラクターの細山先生。これまたなんとも形容しようのない模擬授業だった(笑)。
この「なんとも形容しようのない」はすべて褒め言葉である。ぼくの中で最も高く評価する価値観は「オリジナリティ」である。彼は間違いなくオリジナリティに溢れている。「サ゜・オリジナリティ」と言っても過言ではない。どういう親が、どういう育て方をすると、細山先生の人間ができあがるのか、ぼくは彼の両親に会ってみたいと本気で思う(笑)。
授業の難点を授業者のキャラクターによって許してしまいたくなる。そういうのも才能の一つである。先の記事で指摘した水戸先生にもそういうところがある。これは武器である。こういうキャラクターをもっていない人には、いくら努力しても獲得できない、強力な武器である。これはもっと自覚的に使って、自覚的に伸ばしていくべきだ。
しかし一方で、こうしたキャラクターはマイナスにもなる。例えば、この「なんとも形容しようのないキャラクター」を封印しなければならない授業というものがある。例えば、今日の文脈でいえば、「川とノリオ」の授業である。「一つの花」も「きつねの窓」もダメである。「ごんぎつね」の最終場面もダメである。「生命の尊重」を筆頭にほとんどの道徳授業でも封印しなければならないだろう。ということは、このキャラクターを伸ばすと同時に、しっとり型の題材に向かうトーンというものも自分なりにつくっていかなければならない、ということである。これは教師にとって、かなり大切な問題である。決して軽く考えていい問題ではない。
さて、「なんとも形容しようのない模擬授業」のほうであるが、自分の読んだ本を100冊以上会場に持ち込み、それぞれの4人グループに10冊程度ずつ配付する。その中から読んでみたい本を選ばせる。選ばせたうえでどんな観点でその本を選んだかを交流させる。
要するに、書籍検索の授業である。
たとえば、我々は本屋に行って本を買う。使える金は限られているから、ちょっと興味をもったらすべて買うというわけにもいかない。そんなとき、買う本と買わない本はどのように決められるのか。何を見て「これは買おう」「これはやめよう」と判断するのか。こうした観点の教材化である。
表紙デザイン・レイアウト・配色といった非連続型テキストから、帯のキャッチコピー・目次・まえがき・あとがき・作者紹介といった連続型テキストとリンクする観点、更に自分自身の興味関心・同一作者の作品を読んだ経験といった読者論的視点にいたるまで、観点は様々である。また、まえがきやあとがき、目次がどのように構成されていれば良しとし、どのように構成されていれば良しとしないのかという、情報検索レベルの観点もある。要するに本を選ぶ観点というものはかなり重層的なのだ。
実はこのアイディアは、先週のプレ検討会でぼくが提示したものだ。細山先生はそれを授業化してきた。しかし、この検索観点を紹介しようという発信型授業にしようした、つまり、いわゆる「関連指導」にしようとした発想に無理があった。こうした情報検索の観点を文章化するという活動は実生活上あり得ない。あったとしても「読書法」系の本を書く人だけに必要な言語活動だろう。
この授業は音声言語で交流し、メモを取り合い、学び合えば充分だった。ちょっと「〈活用〉という言葉に踊らされてしまった」授業提案という印象が否めなかった。ただし、徹底的に楽しい25分間ではあった(笑)。
模擬授業11/冨樫いずみ先生
いずみ先生の授業はひと言で言えば、おもしろい発想の授業だった。
構成としては読みの言語技術を具体的に教え、その言語技術を用いて別の物語を読んでみるという授業である。構成自体は典型的な「他教材転移型学力」を「活用力」と捉えた授業である。
おもしろいのはその手法だ。最初の言語技術を具体的に教えるためにとった彼女の手法は、物語の「語り聞かせ」なのである。「読み聞かせ」ではない。「語り聞かせ」である。野口芳宏先生のもとで学んでいる先生方が最近よく使っている手法である。ぼくはここ数ヶ月で野口先生ご自身の日本神話の語り聞かせ、駒井先生の論語、照井先生の民話、そして今回のいずみ先生の授業と4本参観している。おそらくいま、「鍛える国語教室研究会」では言語文化の授業をどうつくるかという視点で、盛んに実践されている手法なのだろう。
今回のいずみ先生の「語り聞かせ」も日本神話だった。ただぼくにはなぜここで日本神話(国生み)を使うのかがどうしても理解できなかった。それはその後の定着教材に「ずっとずっと大好きだよ」が用いられていて、日本神話よりもずっと簡単な教材だったからだ。
つまり、教材としては先に難しいもので教えて簡単なもので定着をはかるという構成をとり、手法としては先に難しい「語り聞かせ」(要するに聞き漏らすと消えてしまう音声言語)をとり、何度も読み返せる文字言語教材で定着をはかるという構成をとっているわけである。どう考えても、両方とも逆だろう……というのが率直な感想だった。
最後にとってつけたように(と言っては失礼なのだが)、定着教材の紹介文を書こうという活動につなげるという授業構成にも違和感を抱いた。
研究会後の小宴でも本人と話したのだが、やはり「活用型の授業モデル」というテーマ設定に戸惑っていたらしいのである。ああ、そういうことならありうるな……と合点がいった。
彼女の「国生み」の語りはそれはそれは見事だった。発問・指示もブレることなく、一度だけブレときにはすぐに「いまのはなかったことに。もう一度やります。」と潔い訂正を加え、そこにはストイックな視線を自分の指導言に向けている姿勢がありありと見えた。プレゼンテーションの領域については文句のない提案だったわけである。
しかし、与えられたテーマとの整合性、そのテーマを踏まえての授業構成法という点では、明らかに戸惑いが見えた。プレゼンが見事なだけに、なぜこの順番なのか……というテーマとの齟齬が余計に目立ってしまうのである。
でも、テーマとの整合の重要性については彼女はよく理解したようである。彼女ならすぐに修正してしまうに違いない。なにせ「言語文化の授業」というテーマなら、前半の15分だけで100点満点の授業だったのだから。
模擬授業12/平山雅一先生
これまた大胆な模擬授業だった。中学3年生に「後輩に読んで欲しいこの1冊」として授業したものを、模擬授業という場に合わせて「後輩教師に読んで欲しいこの1冊」にテーマを変えて、愛読書の紹介文を全員分壁に貼って交流させるという授業である。
経験主義的授業観といってもいいし、出力型授業観といってもいいのだが、徹底的にその授業観に立って、徹底してさの授業観に基づいた手法を用いた、主張のはっきりした授業だった。こうした主張の明快性と、こうした手法の大胆さをあわせもった授業をぼくは評価する。ぼくの授業観に合うか合わないかが問題なのではない。平山先生は平山先生として平山先生の授業というものの方向性を明確に意識して授業をしているのだ。平山雅一という一人の教師が、自分の授業観に従って自分の授業スタイルを構築していくという明確な意志をもつ。こういう姿勢は尊い。
しかし、書いて貼るという活動をしたが、他の人のものを読めて学べるというだけで、自分が書いた甲斐をもたせるということに配慮がないのが気になった。付箋紙でも配ってコメントをもらい、書いた甲斐をつくってあげればいいのに……というのが感想である。
経験主義的な授業観に立つ授業は、シェアリングが必要であると同時に、フィードバックの機能をしっかりとシステム化することが必要である。自分が授業解説者だつたこともあって、この点を大きく指摘させていただいた。
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