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距離感

学校祭が終わり、楽しみにしていた開校記念日がらみの三連休も終わってしまい、特別何も起こることのない日常を楽しんでいる。

金曜日は二日酔いの頭を振りながら溜まっていた録画ビデオを見、土曜日は1週間後にせまった研究会のプレ検討をし、日曜日はオアコン業者と打ち合わせをした。こんなことをしているうちに三連休などというものはすぐに行ってしまう。追いかけようもないし、追いかけようとも思わない。

既に金を払ってしまった大型のエアコンを我が家にはつりつけるスペースがないことがわかり、月曜日は授業のあと生徒指導研修会をさぼって再度電気屋に行く。火曜日も特に忙しいということもなく、後期役員選挙活動をしている生徒会役員と談笑しながら放課後を過ごす。必ずしも自分を必要とはしていない空間で、必ずしも自分が必要していない事どもに時間を割いている自分が決して嫌いではない。

実は明日も、明後日も、そして明明後日も、同じような一日が続く予定である。

一つだけ嬉しくもあり、反省すべきことだとも感じたことは、ある生徒会役員が選挙に出ることを迷っていて「堀先生がどうしても自分を必要だというならば出る」と言ったことと、「堀先生が生徒会をはずれるなら自分も立候補しない」と言った生徒が二人いたことである。

個人的には嬉しい台詞と受け取れなくもないが、生徒会役員生徒にこういう台詞を吐かせる顧問はダメである。少なくともぼくの仕事観には合わない。仕事というものは、次の人が引き継げるように構成していくことを旨とする。そういうものである。

こういった生徒の台詞を意気に感じてしまう教師が多い。これが教師の醍醐味だなどと勘違いする教師も多い。しかしそれは違う。ぼくらが育てなければならないのは、人間関係と仕事とを区別して生きていくことのできる「社会人の卵」である。そして、こういった情緒的な台詞というのは様々な条件が重なったうえでの「その場の空気」がいわせるものであり、それほど長続きするものではないということである。情緒とはそういうものだ。

かつてぼくにも、自分が担任する生徒たちを心の底から愛し、彼らのためなら何でもできると思っていた時期がある。卒業させたあとでさえ、生徒たちの相談に乗り、自己満足にひたっていた時期がある。時間など気にせずにパフォーマンスの向上だけを目指して真夜中まで部活を指導していた時期もある。

しかし生徒に対してそうした指導をしなくなり、適度な距離感を意識して指導をし始めたとき、自分がそれまで以上に生徒を育てていることに気がついた。

教師は生徒との適度な距離感を意識しなければならない。

教師は生徒との適度な距離感をつくれなければならない。

自分が生徒とも保護者とも同僚とも、適度な距離感をつくることが苦手だからこそこう思うのかもしれない。ぼくはいまだに、ちょっと気を抜くと「べったり型教師」に陥ってしまう。

反省の弁である。

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