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追試の精神構造

MM「学びのしかけプロジェクト」第42号が届いた。

ふだんはほとんど開くこともないのだが、今夜は時間的にも精神的にも余裕があったので開いてみた。大木馨という小学校の先生が「ライフ・ヒストリー・アプローチ」について書いている。

書き出しはこんなふうである。

私がたくさんの教育実践からどん欲に学び,マネを繰り返していた頃,どうしてもうまくいかないという思いを持った。それは,真似する形は分かっているのに,どうしても真似しきれないという感覚だった。/その原因を,当初は,子どもの違いに求めていた。もちろん,それは間違いではないが,それより大きな要因が,「自分」にあることに気づくのに時間がかかった。実は,私が求めているものと,マネをしようとした実践家が求めていたものとが違っているということだ。/志向するものが違うために,子どもへのそれまでの働きかけも違う。ある授業だけを切り取って真似しようとしても真似できないのはそのためだと。

ぼくは正直、この感覚に一度陥ったことがない。これがなぜなのかと考えたとき、ぼくがただの一度も「追試」をしたことがないということに思い当たる。

もちろん、野口先生の授業技術を追試したり、或いはある指導案の展開を修正追試したりといった経験はある。しかし、法則化論文的な発問・指示をそのまま追試できる形式をとった授業記録を見て、そのまま追試したことはただの一度もないのである。

あるとき、研究会でこの話をしたところ、感想用紙に「さすが堀先生。追試をしなくても良い実践ができる堀先生ならではのお言葉……」などと書かれて、二度とこういうことを言わなくなった。

ぼくが追試をしないのは人真似が嫌いだったからに過ぎない。人真似をしないということはそれだけ自分で授業をつくらなければならないことを意味するわけであり、ということはそれだけ失敗実践を繰り返してきたということでもあるわけで、決して「優れているから追試をしない」という構造なのではない。

しかし、大木先生のような感慨を語る実践者はこの世界に多い。ぼくはこうした言説を聞きながら、自分とは根幹にある何かが違うと感じる。

たぶん一番の違和感は「志向するものが違うために、子どもへのそれまでの働きかけも違う。ある授業だけを切り取って真似しようとしても真似できないのはそのためだと。」というようなことに気づくのに、なぜ「時間がかか」るのだろうか、という点にある。本人が「時間がかかった」というのだから、時間がかかったのだろう。それはもう仕方がない。

しかし、では、このことに気づく以前、「志向するものが違うために、子どもへの働きかけも違」い、「ある授業だけを切り取って真似しようととしても真似できない」と悟る以前には、大木先生は何を目的に、何を目指して実践を重ねていたのだろうか。それがわからない。

問題はここにあるような気がしている。

もしも大木先生のような実践者がこれを明快に言語化することができるならば、同じような若手教師に同じような失敗を繰り返さないようにと助言してあげられるのてぜはないか。ぼくの目的意識はここにある。

ぼくは大木先生に対してのみこの見解を投げかけているわけではない。これまで大木先生のように言う実践者に対して、何人も何人もに対して、同じ質問を繰り返してきた。しかし、みな、明快に言語化することができないのだ。

たぶん読者の皆さんの中にも、大木先生のような意識改革を経験された先生は多いと思う。その記憶を整理し、その構造を明らかにすることによって、教師世界の上達論は格段に高まり、格段に充実するに違いないと思うのだが……。

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