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2010年10月

周年行事が何のために行われるのか、ぼくにはいまだによくわからないのだが、それでもぼくが実行委員長を務めた40周年記念式典を終えた。概ね好評だったようで何よりである。

かつて、周年行事でおおきな感動を覚えたことがある。向陵中学校の50周年である。確か98年の秋、ぼくは32歳だった。

式典に感動的な演出があったとか、公開授業がうまくいったとか、懇親会が楽しかったとか、そういうことではない。来賓挨拶の最後に初代校長が登壇したのである。確かそのとき99歳だったように記憶している。

足が弱っているということだったので、介助役の女性教諭をひとり用意しておいた。初代校長はその手を振り払い、杖をつきながらゆっくりと一歩一歩登壇していった。元気な、張りのある声で、それでいて目を潤ませながら、挨拶をこう結んだ。

「私はこれで思い残すことは何もありません。もういつ死んでもかまいません。みなさん、ありがとうございました。」

体育館がふるえた。体育館に響き渡るような拍手が、生徒も教師も保護者も来賓も、みな感動に震えていた。向陵中学校がどのような思いのもとに建てられ、どのような歴史が刻まれてきたのか、だれもが思いを馳せたものである。

実は今回の北白石中学校の周年行事にも初代校長がみえられてていた。しかし、登壇の機会はなく、ただしみじみとした表情でステージと子どもたちとを交互に見つめる……そんな感じだった。御年87歳と聞く。

ぼくは式典全体の演出をしたのだが、何といっても力を入れてつくったのは11分ほどの記念映像である。岩代太郎の「蝉しぐれ」のテーマを使って、かなり念入りにつくった。北白石のかつての写真を自宅にもってきて、どれを使うかと検討していた折、初代校長の写真を見つけた。まっすぐに遠くを見つめる、いい目をしていた。

ああ、昭和の校長ってのはこういう目をしていたな……。

自分が小中学生だった頃のことを想い出し、そう感じた。この写真を見るまでは、適当に……といっては語弊があるが、まあ文句を言われない程度に気楽につくろうと思っていたのだが、この初代校長の写真を見るにつけ、また、初代校長が式典に来られるということを聞くにつけ、かなり念入りに時間をかけてつくることにした次第である。

それとともに、向陵中学校の、もう名前も忘れてしまったあの初代校長の姿が浮かんできた。あの方も昭和の校長の目をしていたっけ。

それにしても、平成の校長のなんと軽いことか。自分が年をとったせいだけではない、何かが異なる。おそらく戦時下、占領下、そして復興を見てきた、そうした経験が必然的につくり出す、そういう目なのだろう。

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あとは野となれ山となれ

国語の授業2時間のあと、2年生の合唱コンクール。ぼくが副担として指導に入った学級が優勝。とはいうものの、担任している学級のようには喜べない。まあ、生徒たちのすがすがしい表情には感慨深いものはあった。

合唱コンクールのあいだ、ぼくの仕事はビデオ撮り。歌っている生徒たちのアップの表情を撮るのが仕事。8学級が歌い始めてから歌い終わるまで、40分間ほど体育館を走り回る。あっちに行っては指揮者の表情を撮り、アングルを移動して伴奏者を撮り、ソプラノからバスまでなめて撮り……その繰り返し。

給食は優勝学級にまじって食べ、5時間目は3年生の合唱を聴きに行く。なかなか質が高くて、けっこう楽しめた。北白石中学校は確実に質の高い行事がやれるようになってきているなあ……という印象。順位にかかわらず、担任陣もいい満足げな表情をしている。何よりである。

その後、6時間目に書写の授業が一つ。

帰り学活の時間から明日の開校40周年記念式典のリハーサルを開始。各学年の優勝学級を集め、明日の式典での演奏のリハーサル。明日の授業で優勝学級3学級の音楽の時間を確保することもできた。更に吹奏楽部によるオープニング、式典用映像の試写、生徒会長の挨拶、吹奏楽部の演奏と、進行がスムーズに流れるように、間ができないようにつくる。

終了は18時。その後、こまごまとした仕事。懐中電灯を用意したり、シナリオを完成させたり。19時30分退勤。40周年式典のぼくの仕事も9分9厘終えた。

明日は野となれ山となれ。もうぼくにできることはない。正装をして、予想しないトラブルが起きた場合に判断するためだけに体育館後ろ側で待機している。それだけが明日の仕事である。しかし、おそらく何も起きない。生徒たちはリハーサルどおりに間違いなく動く。確信がある。

帰宅後は月曜日に録画しておいた「モリのアサガオ」。いまひとつ見ていて原作とイメージが違うなあとの印象だが、キャスティングの豪華さには目を見張る。ほんのちょい役に根岸衣季衣や谷村美月が出演していたりする。なんというか、プロデューサーの気概だけは感じさせてくれるドラマである。

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3秒以上の間

授業が4時間。空き時間が一つ。空き時間は40周年式典シナリオの確定版を作成。

放課後は久し振りに集めた生徒会役員と談笑。各学級の合唱練習を終え、全員が集まったところで打ち合わせを開始。

40周年記念式典の各人の動きの確認である。プロジェクタを用意するタイミング、照明を落とすタイミング、そして出演生徒を先導するタイミング、予想するシラブルに対する対応法、予期しない事態に対応するために用意しておくいわゆる「伝令」の配置やコース、それぞれを簡単に確認。30分程度の打ち合わせをして解散。

17時過ぎには退勤。

儀式的行事といえども、細かな動きは生徒を使った方が確実である。教師とは演出しているぼくが抱いているイメージを共有できない。生徒たちとはこれまでいくつもいっしょに行事をつくってきているだけに、彼らはぼくが絶対に3秒以上の間を置かずにプログラムを進める主義であることを熟知している。これが大切。

3秒以上の間をあけることなくプログラムが進めば、生徒を飽きさせないしダレさせない。これがぼくの信条でありこだわりである。

「行事は3秒以上の〈意図しない間〉をあけたら失敗だ。」

ぼくが生徒たちによくいう言葉である。授業も、講演・講座も、みな同じ原理である。これさえできれば、まず荒れることはない。そういっても過言ではないほど、大切な原理である。

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NO BETTER THAN THIS

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JOHN MELLENCAMP

ジョン・クーガー(どうしてもこの名の方が馴染みがある)の2年振りの新作である。傑作。シンプルな録音にして、旋律の美しさ。しばらくはまりそうである。

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躍動する指揮者

いろんな学級に合唱指導にはいる。2年生だけでなく、1年生にも3年生にもはいる。曲想をつけるための技術的な指導がほしい時期らしい。生徒たちも目の色が違っていて、教えたことを吸い込んでいくので、指導していても楽しい。

ただ今日いくつかの学級にはいっていて、どうしても気になるのが指揮者である。メトロノームになっている指揮者が意外と多いのである。

かつてある程度合唱のうまい学級を担任したとき、どの学級も指揮者が躍動していた。3割はセンスの問題であり、2割はぼくが教えた指導の成果であり、5割は照れを払拭できるか否かにある。躍動する指揮者の格好よさというものが中学生にはわからないからだろう。

ぼくも中学1年生のとき、そういう指揮者だったからよくわかる。生徒会で可愛がってくれていた3年生の菱川という先輩が、夜7時くらいまで音楽室で教えてくれたことがあった。その先輩が格好良かったから、ぼくは指揮者として躍動することにしたんだっけ。

しかし、指揮者が目立ちすぎるのも本末転倒。その微妙なところは間隔で会得するしかない。なんでもそうだが、ほんのちょっとのそうした機微が難しい。

合唱コンクールの時期になると、そんな中学生だったときのことを想い出す。

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まずまずの出来

金曜の夜は気乗りがせず、DVテープを少しスキャンしただけで寝てしまう。

土曜日は朝から白石区民センターにて「白石区中学生の主張発表会」。観客は150名といったところ。ぼくの指導した生徒は審査員特別賞。要するに、最優秀・優秀に次ぐ3位である。まあ、まずまずの成績。トロフィーが立派でちょっと驚いた。

帰宅後、DVテープのスキャン。一つ一つに時間がかかるので、1本スキャンしては居間に行ってテレビ。1本スキャンしては居間に行ってテレビ。そうこうしているうちに酒が飲みたくなり、バーボンを一杯と熱燗を一合。それで21時前にソファで寝てしまう。

起きたのは7時。今日はなんとしても開校40周年記念式典のビデオをつくらなくてはならない。仕方がないので、朝7時からスキャン。午前中でスキャンをなんとか終わらせ、午後から編集作業。やたらと時間がかかる。自分で撮ったものではない映像を編集するのは本当に骨である。使える映像がどこにあるのか、まったくわからない。途中PCトラブルもあり、結局、8時間くらいかかった。

まあ、まずまずの出来である。

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具体描写の原則

学級担任として理念的なことを語らなくてはならない場合があります。「このようにすればいいのだよ」「○○はこんなふうにやるんだよ」といった作業の説明ではなく、ものの見方・考え方を伝えなくてはならない、そんな場合です。

これから2週間かけて取り組む行事の準備、その一時間目の学活。年度当初に生活や学習のガイダンスを行う学年集会。そんなときを想定すればわかりやすいかもしれません。

作業指示であれば実際にやって見せたりやらせてみたりということが可能ですが、こうした理念的な話はそういうわけにはいきません。多くの場合、教師が自らの経験を語るという場合が多いようです。もちろんそれも悪くはないのですが、私はむしろ、生徒たちに「自分だったらどうするか……」と考えられるような、実際に自分がそうなったときの状況が思い浮かべられるような、そんな話し方をすることをお勧めします。

【例】

例えば、みなさんに弟がいるとします。その弟は小学校2年生。年の離れた弟で、みなさんは目に入れても痛くないほどに可愛がっている弟です。

ある日のことです。その弟がみんなが覚えている九九をなかなか覚えることができず、もういやになってきたというのです。そして弟はあなたに問いかけました。

「ねえお兄ちゃん、九九なんて覚えなくてもいいよね。別に勉強ができなくたって、楽しく、幸せに生きてる人はいっぱいいるもんね。」

さあ、みなさんはこの弟に対して、「そうだね。いいよいいよ九九くらい。勉強だけがすべてじゃない。」 そう言えますか?

では、どう説得しますか? みなさんはいま、中学1年生になって、九九を覚えなければその後の少数も分数も絶対にできなくなるということを知っています。日常生活でおつりの計算をするのにも人数を数えるのにも九九が必要であることを知っています。そういう経験があります。

でも、そんな説明はこの弟には通じませんよ。みなさんが経験を前提に当然のように感じている「あたりまえ」を、この弟は実感できないのですから。

なんていいますか? 将来絶対に役に立つんだから頑張りなさい。そう言いますか? でもそれは、みなさんがいつも親や先生に言われている、一番いやな言い方なのではありませんか? さあ、どうします?

実は、いま、親や先生方とみなさんとの間にも同じ関係があるのです。

勉強というものは、まさにその勉強をしているときには、その勉強が将来どんな風に役立つのかとか、それを学ぶことにどんな価値があるのかとか、そうしたことはわからないものなのです。その勉強の価値がわかるのは、それをしっかりと身につけた後、それが別の勉強に役に立ったとか、日常生活で実際にそれを使う機会があったとか、そういう場面に接して、初めて「ああ、あれを学んでよかった」と思うことができる、そういう性質をもつものなのです。

いま勉強していることがどんな風に役立つのか、いま勉強していることはこんなに努力してまで学ぶ価値なんてあるんだろうか、中学生になって勉強が難しくなって、ときにはそんなことを思うかもしれません。でも、それをなんとか乗り切って、先生方を信じて、学ぶことから逃げないで欲しいのです。(以下略)

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作業定着の原則

テスト監督に行ったとき、ちょっとだけイラッときたことはないでしょうか。

例えば、一番後ろの生徒が自分の列の答案用紙を集めてくる。集めてきてものを教卓の上にただ置いていく。すべての列がそうなので、列毎の答案用紙を出席番号にあわせて並べ直すのが自分の仕事になってしまう。

或いは、生徒たちが答案用紙を集めてくる。男女各々の出席番号最後の生徒が全員分を重ねて渡してくれる。名前が書いてあるかどうかを確認しようと答案用紙を順番に見てみると、所々出席番号順が乱れている箇所がある。時々逆さまを向いている答案用紙もある。この子たちは同じ向きで答案用紙を集めることもできないのか……。

もちろん激しい怒りは感じないのだけれど、ちょっとイラッとくる。担任はどういう指導をしているのか。そんなふうに感じたことはないでしょうか。

いえいえ、逆に考えてみましょう。果たしてあなたの学級は大丈夫でしょうか。同僚の先生方はあなたの学級の答案用紙の集め方に、ちょっとだけイラッときてはいないでしょうか。

小さなことのようですが、礼儀として指導したいことのひとつではあります。

これは次のように指導すれば、ほぼ完璧にできるようになります。しかも、一度できるようになれば、1年間、まず崩れるということがありません。

やり方は簡単です。「具体作業の原則」を使えばいいのです。

テスト前日の帰りの学活。生徒たちに配付するプリントが一枚くらいはあるはずです。何かの連絡プリントで構いません。要は表裏があり、こちら向きに見るという上下さえ決まっているプリントでありさえすればOKです。

まず生徒たちの座席を出席番号順に並べ直します。プリントを配付し、右上に学年・組・出席番号・氏名を書かせます。このプリントをテストと仮定して一度集めてみるのです。

一番後ろの生徒が自分の列の答案用紙を集めてくる。受け取った答案用紙は必ず上に重ねていく。その際、名前が書いてあるかどうかを確認させる。

男女それぞれの出席番号最後の生徒は各列の答案用紙の束を受け取り、出席番号順になるように重ねる。女子の出席番号最後の生徒が男子の答案用紙の束を受け取り、先生に渡す。先生は全員分の答案用紙があるかどうか、枚数を数えて確認する。

これだけの作業です。ものの2分とかかりません。できれば別のプリントを配付して、もう一度やってみるといいでしょう。まず間違いなくできるようになります。

また、実際のテストの1時間目は他の教師ではなく、学級担任が試験監督につくことにしましょう。そして生徒たちが昨日の練習どおりの作業ができているかどうかを確認するのです。私の経験ではまずもってたった一つのミスもないのが普通です。

この前日に二度目の練習をすること、そしてテスト本番の最初の試験監督に担任がついて確認すること、これが「作業定着の原則」です。

いくら「具体作業の原則」を用いて実際にやってみたとしても、一回きりの説明でそれが定着しないのでは何の意味もありません。「具体作業の原則」は定着させてこそ生きるのです。具体的な作業をしっかり教えようとする担任は多くいます。しかし、定着しているかどうかまで確認しようとする担任は滅多にいません。これを打開することが必要です。ちょっとした心がけ次第でできることなのですから。

「作業定着の原則」はテストの集め方なんていう小さなことばかりでなく、給食の配膳の仕方とか、掃除の仕方とか、机・椅子の並べ方とか、そうした日常の学校生活の根幹にかかわるすべてのことに応用できる普遍的な原則といえます。

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時は名医

仕事でおおきなミスを犯す。

保護者からクレームを受ける。

生徒との関係がうまくいかない。

学級がうまくいかない。

教師がこんな状況に陥ることはよくある。新卒から数年以内の若い教師なら、こういうことの連続である。そんなとき、「自分は教師に向いていないのではないか」「もう教師をやめてしまおうか」となる。しかし、少しだけ待って欲しい。

子どもの頃、いけないことをして母親に叱られることを怖れた日。その怖れはいつまで続いただろうか。

中高生の頃の失恋の痛みは、いまなおあなたを捕らえ続けているだろうか。

大学時代のゼミレポートの焦り、卒論の焦りは、いまでは笑い話なのではないか。

今回犯したおおきなミスだって、おおきいと思うのはいまだけなのだ。そのクレームがあなたの教師人生を覆しかねないと思えるのもいまだけなのだ。どんなベテラン教師も最初から生徒との関係をうまくつくれたわけではないのだ。うまくいかない学級なんて教師ならだれでも経験しているのだ。

それよりこう考えてみてはどうか。

いま自分が経験している哀しみ、苦しみを3年後の自分はどう捉えているだろうか、と。きっとどこか余裕の笑みを見せながら、その経験がプラスになったと感じてはいないだろうか、と。

ネガティヴな体験をしたときこそ、いまこのときだけを基準に考えるのではなく、未来の自分を基準に考えてみるといい。

今日の自分を考えることも必要だが、明日の自分を考えることのほうがもっと重要である。そして、明後日の自分を考えられるようになると、今日の自分を叱咤することができる。

明後日の可能性を今日の自分だけを基準に摘んでしまってはいけない。

悩みは癒える。哀しみも苦しみも癒える。時は名医である。

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おやすみなさい

昨日一日休みをもらったおかげで、すっかり寝不足も解消し、熱も下がり、めまいも消える。体調は万全である。だるくもなければコリも感じない。少々寝過ぎが祟って、腰に違和感があるけれど……。

まずはロッテファンの同僚とともに、ロッテが日本シリーズに進出したことを喜び合う。彼は日本シリーズを見に千葉まで行こうと思っていると言っていたが、どこまで本気なのやら。

1時間目は空き時間。40周年式典関係の文書づくり。

2時間目は自習監督。これまた40周年式典関係の文書づくり。

3~4時間目は授業で暗唱テスト。次々に「春はあけぼの」を最後まで暗唱した生徒が出て、なかなか気分のいい時間だった。

昼休みは廊下で、来週の職員会議のプリントの素案を点検しながら、生徒たちと談笑。

5時間目は1年生で書写。行書の「未知」。初めての行書なので一筆書き的な筆遣いをひたすら練習させる。

6時間目は学活。すべての学級が合唱練習をしているので、茶々を入れつつ、いろいろな学級をまわる。放課後もその続き。

16時30分から弁論大会の指導。短時間で密度の濃い練習をさせ、40分弱で指導をあげる。17時10分、勤務時間終了きっかりに退勤。

帰宅後はヤフースポーツでセ・リーグのCS2の進行を眺めながら、まずは雑誌の連載原稿を書いて送付。その後、ブログの更新やメールのやりとりなど。

21時に居間に下りていき、「相棒 season9」の第一話。第一話はここしばらく2時間の特番だったのだが、今回は1時間もの。しかも次週に続くとのこと。視聴率が落ちてきて2時間特番を立てるほどのステイタスがなくなってきているのだろう。それも仕方がない。第一話はぼくにとってはいまいち。

「相棒」終了後は書斎に戻って、巨人vs中日の試合結果を確認。やっぱり予想どおり中日の圧勝。このまま中日が4勝1敗以上で勝利するに違いない。そりゃそうだろう。今年の中日は、少なくともナゴヤドームでは巨人こどきには負けない。

再びブログの更新。先日の講座の内容を整理しておこうと思った次第。これをしばらく続けることにしよう。

おやすみなさい。

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具体作業の原則

あなたは今年度、一年生を担任することになりました。入学式直前の学活。時間は十五分ほどしか設定されていません。あなたはこの十五分で何を指導するでしょうか。

おそらく教務からは、①出欠確認、②身だしなみの確認、③入学式に対する心構えの指導、④入学式の流れの確認、⑤入学式の並び方・整列の仕方・入退場の仕方の確認、⑥着席・起立の練習、⑦座例の練習などなど、項目だけが並んだ「あれもこれも型」の指示がなされているはずです。

しかし、たった十五分や二十分でこれらのすべてが指導できるでしょうか。

もちろん簡単に説明するだけならばできないことはありません。しかし、相手は入学式直前の新入生です。学級担任とはいっても、まだどんな子どもたちなのかまったくわかりません。中には理解の遅い子、説明だけでは理解できない子もいるかもしれません。ふだんなら理解できても、入学式を控えた緊張感の中で何を言われているのかわからない……なんていう子もいるかもしれません。そんな新入生に向かって、言葉だけで、しかも簡単に説明するというのはどういうものでしょうか。

私は中学校の教員として二十年以上のキャリアがありますが、入学式前の短い学活で、生徒たち全員に教務から提示されているような六つも七つもある指導事項を指導する自信はまったくありません。

この時間、一年生担任として最も考えなければならないことは何でしょうか。それはこの新入生たちに入学式で失敗させない、ということではないでしょうか。

では、入学式は彼らにとって何が成功であり、何が失敗なのでしょう。

中学校の入学式は人生にたった一度の出来事です。両親が揃って参加し、中には祖父母まで参加する場合も少なくありません。両親や祖父母から見て、入学式で我が子が最も光って見えるのはどの場面でしょうか。

そうです。それは入退場時なのです。

新入生代表としてスピーチする生徒ならいざ知らず、多くの生徒にとって入学式での一番の関心事は家族に格好いい入退場を見られるかどうかです。とすれば、この時間の優先順位の第一は格好いい入退場、言い換えるならば胸を張っての堂々とした入退場なのではないでしょうか。

私はこの時間、廊下に全員を入学式の入退場どおりに並ばせて、歩く練習をすることにしています。担任が歩くスピードに合わせて、胸を張って堂々と歩く練習です。

「いいかい?先生はこのスピードで歩くからね。みんなもこのスピードで歩くんだ。胸を張って、あごを引いて、常に同じスピードで堂々と歩くんだ。」と言いながら、廊下をゆうに百メートルくらいは歩きます。そして先頭の子には、「いいかい?先生から二メートル間隔くらいできみたちがついてくるのが一番格好よく見えるんだ。この間隔を縮めてもいけないし、広げてもいけないんだよ。」などと指導します。同様に椅子への座り方、退場の仕方も指導していくことになります。

これだけでもう十二、三分は使ってしまいます。残り時間を使って、「校長先生とかPTA会長さんとか偉い人が挨拶するときに礼をする場面があるけれど、それは周りの人の真似をしていればなんとなくできてしまうから心配するんじゃない。たとえ一人だけ多少遅れたとしても別に目立たないから気にしなくていい。」と言って笑いかけます。こういう言葉に生徒たちは安心して微笑みを返します。

ここでの指導のポイントは、決して言葉だけではなく、具体的に本番どおりにやってみる、ということです。これを「具体作業の原則」と言います。

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全体指導の原則

新しい学級をもちます。すると、給食当番と掃除当番、そして日直、この三つは年度当初に指導しなければならない必須の指導事項となります。みなさんはこれらをどのように指導しているでしょうか。

新年度、何はともあれ日直の仕事を確認しなければなりません。朝学活前・帰り学活前にプリントを持ってきたり、朝学活や帰り学活の司会をしたり、授業のあと黒板を消したり、こうした小さいけれど大切な仕事をするのが日直だからです。

この日直の仕事内容を確認を、みなさんはプリントを読み上げるだけで指導してはいないでしょうか。そして、できてあたりまえ、できなければやり直し、などと厳しすぎる指導をしていないでしょうか。そもそも年度当初に日直にあたった生徒たちがちゃんと仕事ができないことに、学級担任であるあなたの責任はないでしょうか。

「日直は朝学活前、帰り学活前に職員室に行ってプリントを取ってきます。職員室の入り口をはいるとすぐ右側に学級棚がありますから、その○年○組のところに入っているプリントをすべて持ってきて下さい。」

こんな説明をしていませんか。

もちろん、この説明で八割の生徒は理解できるでしょうし、六割の生徒は指示されたとおりに行動できるでしょう。しかし、こういう当番制の仕事内容は八割や六割ではなく、十割の生徒に理解してもらい行動してもらわなくてはならない仕事です。とすれば、十割の生徒、つまり学級の生徒たち全員が不安なく取り組めるように説明してあげるのが学級担任としての責任とはいえないでしょうか。

生徒たちは「職員室の入り口をはいるとすぐ右側に学級棚があ」るということをわかっているのでしょうか。二、三年生ならば特に詳しい説明がなくてもわかるかもしれません。しかし、一年生はこの時期、ほとんどの生徒が職員室に行ったことさえないはずです。そうした状況の中で、この説明は少し乱暴だと言わざるを得ません。

ではどうすればいいのでしょうか。

それは実は簡単なことです。労を惜しまず、生徒たち全員を職員室に連れて行き、自分の学級の学級棚を確認すればよいのです。

こうしたことは靴箱の確認や各特別教室の確認ならば、どの学級でも行われているはずです。しかし、日直がプリントを取りに行く学級棚、黒板消しクリーナーの場所やその使い方、チョークが切れたときに補充するためのチョークのある場所、こうした小さいけれども日常の学校生活を送るうえでは必須の事柄については、なかなか具体的な確認がなされていないのが現実です。

だれもが知っていなければならないことは、常に全員に指導する。それも今日は今日の日直にだけ指導し、明日は明日の日直に指導すれば良いというような時間差をつくらない。最初に全員を連れて行って指導する。これを「全体指導の原則」といいます。

同じことが給食当番や掃除当番にもいえます。最初に給食当番の指導をするとき、一班に配膳の仕方を教えながらも、他の生徒たちが周りを囲んでみているという状態で指導を行う。そしてできればそれを、年度当初に班当番が一回りするまで一週間続ける。こうすれば、学級の生徒たち全員がメニューがご飯のとき、パンのとき、麺類のときのそれぞれを確認することができます。

掃除当番も同じです。ほうきの係は教室の前方、両側の角から力を入れて回転箒をかけ始めるとか、水ぶきの係はまず掃除用具箱のうえにあるバケツに半分くらい水をくんできて教室右前方の床に置くとか、モップの係はまずすべての教室の窓を開けて、回転箒をかけた箇所からモップをかけていくとか、こうした細かなことを生徒たち全員に説明・確認しながら当番生徒にやらせていくのです。当番生徒がうまくできない場合には、生徒たち全員の前で何がよくないのか、どうすればよくなるのかをしっかりと説明します。

こうした取り組み方を年度当初にしっかりと確認しておくことで、その後の一年間が見違えるように楽になります。不真面目にやっている生徒がいたとしても即座に全体の前で指導することができます。「みんな、こうやるんだったよね?」と全体に確認するだけで、学級の生徒たちみんなが同意してくれます。なにせすべて全員の前で確認しているわけですから。

「全体指導の原則」はその後の学級経営にもよい影響を与えるのです。

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一時一事の原則

入学式を終えての学活の時間、目の前にはホッとした表情の新入生がいます。

言われたとおりにできるのだろうかと不安に感じながら臨んだ入学式。学級担任のあなたも取り敢えず第一段階をクリアしたなと、新入生同様、ホッとしているところです。

この学活、時間はそう長くはありません。15分とか、20分とか、長くても30分くらいでしょう。なのに配付しなければならないプリントは十数枚。しかも、これは明日提出、これは明後日提出、これとこれは来週の月曜日までに提出と、提出日がまちまちです。

皆さんなら、この学活でプリントを配るとき、どのように配付するでしょうか。

私ならこんなふうに配付します。

「はい、それでは、これからプリントを配ります。たくさんありますから、一枚一枚、確認しながら配っていきます。机のうえは赤ペンとマーキングペン。マーキングペンというのは赤ペン以外の印をつけるペンです。蛍光ペンが蛍光ペンがいいですね。それ以外はすべて鞄にしまってください。」(全員が二本のペン以外を鞄にしまったことを確認する)

「では、一枚目です。」(一列ずつ配付していく)

「このプリントは家庭環境調査を書いてもらうためのプリントです。提出は明日です。プリントの右上に、赤で、『4月8日提出』と書いてください。」(「提出」という文字は板書して教える)

「はい、では、隣の人が書けているかどうか確認し合って下さい。隣の人が言われたとおりに書けていない場合には、どのように書けばいいか教えてあげて下さい。」

「では、マーキングペンを持って下さい。」(全員がマーキングペンを持ったことを確認する)

「真ん中よりもちょっと下の方に『担任が家庭訪問のために使いますので、地図はわかりやすく記入して下さい』とあります。見つけましたか。」

「では、その文をマーキングペンで印をつけて下さい。(全体の動きを確認して)隣の人がマークしているかどうか確認してください。言われたとおりにマークしていない場合は……。」と続けます。

新入生は中学校とはどんなところなのだろうか、こわくはないだろうか、自分はついていけるだろうかと、不安に感じながら入学式当日を迎えます。その入学式が終わり、不安は「明日の準備を忘れずにできるだろうか」ということに移っています。そんなとき、このくらい丁寧に細かく指示しながら、明日しなければならないことを伝えてもらえることによって、新入生の不安は確実に和らいでいきます。これならば、すべてを自分で覚えなくても、保護者にプリントを渡すだけで保護者に伝わる……そういう思いが安心感を生むのです。

さて、この際、指示に用いているのが「一時一事の原則」です。一度に一つのことしか指示しない、次の指示は全員が一つ目に指示されたことをやり終えたことを確認したあとに提示する、そういう指示の原則です。向山洋一先生が提示し、「教育技術の法則化運動」によって全国に普及しました。

この「一時一事の原則」という指示の在り方は、小学校のみならず、中学校でも大切にしなければならない指導言の技術の筆頭です。生徒たちの信頼を得るためにも、学級経営をスムーズに進展させていくためにも必須の教育技術といえます。

授業で作業指示を与えたり、行事で全員を動かす場合など応用範囲も広く、むしろ生徒の人数が多くなれば多くなるほどその効力を発揮する原理ということができます。中学校の学級担任として、或いは教師として、まずはじめに身に付けなければならないのがこの「一時一事の原則」なのだと言っても過言ではないでしょう。

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追試の精神構造

MM「学びのしかけプロジェクト」第42号が届いた。

ふだんはほとんど開くこともないのだが、今夜は時間的にも精神的にも余裕があったので開いてみた。大木馨という小学校の先生が「ライフ・ヒストリー・アプローチ」について書いている。

書き出しはこんなふうである。

私がたくさんの教育実践からどん欲に学び,マネを繰り返していた頃,どうしてもうまくいかないという思いを持った。それは,真似する形は分かっているのに,どうしても真似しきれないという感覚だった。/その原因を,当初は,子どもの違いに求めていた。もちろん,それは間違いではないが,それより大きな要因が,「自分」にあることに気づくのに時間がかかった。実は,私が求めているものと,マネをしようとした実践家が求めていたものとが違っているということだ。/志向するものが違うために,子どもへのそれまでの働きかけも違う。ある授業だけを切り取って真似しようとしても真似できないのはそのためだと。

ぼくは正直、この感覚に一度陥ったことがない。これがなぜなのかと考えたとき、ぼくがただの一度も「追試」をしたことがないということに思い当たる。

もちろん、野口先生の授業技術を追試したり、或いはある指導案の展開を修正追試したりといった経験はある。しかし、法則化論文的な発問・指示をそのまま追試できる形式をとった授業記録を見て、そのまま追試したことはただの一度もないのである。

あるとき、研究会でこの話をしたところ、感想用紙に「さすが堀先生。追試をしなくても良い実践ができる堀先生ならではのお言葉……」などと書かれて、二度とこういうことを言わなくなった。

ぼくが追試をしないのは人真似が嫌いだったからに過ぎない。人真似をしないということはそれだけ自分で授業をつくらなければならないことを意味するわけであり、ということはそれだけ失敗実践を繰り返してきたということでもあるわけで、決して「優れているから追試をしない」という構造なのではない。

しかし、大木先生のような感慨を語る実践者はこの世界に多い。ぼくはこうした言説を聞きながら、自分とは根幹にある何かが違うと感じる。

たぶん一番の違和感は「志向するものが違うために、子どもへのそれまでの働きかけも違う。ある授業だけを切り取って真似しようとしても真似できないのはそのためだと。」というようなことに気づくのに、なぜ「時間がかか」るのだろうか、という点にある。本人が「時間がかかった」というのだから、時間がかかったのだろう。それはもう仕方がない。

しかし、では、このことに気づく以前、「志向するものが違うために、子どもへの働きかけも違」い、「ある授業だけを切り取って真似しようととしても真似できない」と悟る以前には、大木先生は何を目的に、何を目指して実践を重ねていたのだろうか。それがわからない。

問題はここにあるような気がしている。

もしも大木先生のような実践者がこれを明快に言語化することができるならば、同じような若手教師に同じような失敗を繰り返さないようにと助言してあげられるのてぜはないか。ぼくの目的意識はここにある。

ぼくは大木先生に対してのみこの見解を投げかけているわけではない。これまで大木先生のように言う実践者に対して、何人も何人もに対して、同じ質問を繰り返してきた。しかし、みな、明快に言語化することができないのだ。

たぶん読者の皆さんの中にも、大木先生のような意識改革を経験された先生は多いと思う。その記憶を整理し、その構造を明らかにすることによって、教師世界の上達論は格段に高まり、格段に充実するに違いないと思うのだが……。

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真駒内

ロッテが日本シリーズに進出したというので、お祝いにお湯を沸かしてマグカップに注ぎ、少しだけバーボンをたらしたものを飲む。躰が芯から温まるのを感じる。平日には飲まないことにしているのだが、今日くらいはまあいいだろう。

感情的には嬉しいのだが、頭はどこか納得していない。それは先日書いたとおり。やはり3位チームの日本シリーズ進出というのは、ペナントレースの意味合いを根底から覆してしまう。シーズンオフになったら、そういう批判的な議論が起こるべきだ。

この際、セ・リーグも巨人が勝ってしまえばいい。3位同士の日本シリーズということになれば、さすがに「なんか違うなあ…」と感じる野球ファンが増えるはずである。しかし、6戦ともナゴヤドームで行われるCS2。まあ、ほぼ間違いなく中日ドラゴンズが勝つだろう。今年はどうやら、ぼくが夢にまで見た、昭和49年以来の中日vsロッテが実現する年であるらしい。

日本シリーズが刻一刻と迫る中、どうやら冬も刻一刻と迫ってきているらしい。

学校も書斎も寒いのである。ほんの1ヶ月前、猛暑だ、猛暑だと騒いでいたというのに、既にそんな大騒ぎも遠い過去になってきている。

今夏、校内でただ一つ、エアコンのある部屋として大人気だったコンピュータ室は、いまではパソコンから自然に発する熱でじんわりと温かい故に大人気となっている。

きっとあとひと月もすれば、夜、カーテンを開けると、静まりかえった夜空に粉雪が舞い散る、ぼくの大好きな風景が見られるに違いない。子どもの頃、中学生くらいまでだったろうか、庭の緑が少しずつ雪化粧を施していく様子を飽きもせずに眺めていたものである。

あの夜の闇の中に庭の深緑色が少しずつ少しずつ純白に包まれていくのを見ていた。明日も学校……そんな日でも、夜、2時、3時まで眺めていたのを覚えている。たぶん松山千春の「雪化粧」なんかを聴きながら。懐かしい、真駒内での日々である。

いま、ぼくの家のどの窓を開けても、地面にはただ一点の緑もない。景色はすべて灰色のアスファルトに覆われている。アスファルトを少しずつ覆っていく粉雪にはなんの趣もない。

終の棲家は真駒内がいい。それも真駒内中央公園の近くがいい。あそこには、どんな現実に追われることもなく、どんなしがらみにからめとられることもない、純粋なぼくがいまもいるような気がする。かつてオリンピックの余波にまだ沸いていた頃の活気はいまはもうないけれど、いわゆるふるさとを持たぬぼくにとって、あそこだけがふるさとっぽい感傷を与えてくれる場所だ。

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WINTERPLAY

韓国のジャズユニットである。

ボーカルにはどこか東洋的な甘ったるさがあって、なんとなく、昔、阿川泰子に感じたような気持ちよさがある。メンバーにいいトランペッターがいるようで、間奏は常にトランペットが奏でる。原稿書きのBGMにまた一つバリエーションが増えて嬉しい。

Winterplay1 Winterplay2

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今更ながら

熱が出て、めまいがして、こんなに忙しい時期に学校を一日休んでしまった。公務が原因で躰を壊したのならともかく、公務外の研究会が原因で疲れがたまったようで、ちょっと申し訳なく感じている。なにせいまは合唱コンクールと弁論大会と40周年記念事業との3本を同時進行で進めている時期。すべて今週末から来週までの行事である。本当に申し訳ない。

8月21日(土)からすべての週末に研究会が入っていた。その間、遠征もあり学校祭もあった。休みらしい休みもなく2ヶ月半を過ごし、躰が悲鳴を上げたのだろう。

いまは通勤時間が片道7~8分。前任校は45~60分。勤務先が前任校の頃だったら、もっと早く倒れていたかもしれない。倒れておいていうことではないが、勤務先が近いということは躰への負担がこんな軽いものかと実感する毎日でもある。運転嫌いのぼくにとって、実は何よりも運転が疲れる。前任校には4年通ったが、それもある程度責任ある立場で4年を過ごさせていただいたが、やはり4年が限度だったのだと今更ながら感じる。

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桃崎イベント、終わる

4月から継続的に行われてきたライフ・ヒストリー・アプローチ的なコンセプトでの研究会が、この連休の桃崎剛寿先生の二つの研究会で小休止を迎えた。一応「小休止」という言葉を使ってみたものの、今後、こうしたコンセプトの研究会が行われるか否かは未定である。今後、ただの一つもその予定は組まれていない。気が向けば続けるかもしれないし、気が向かなければこのまま雲散するかもしれない。

ぼくらの研究会は気まぐれでものすごい勢いで連続的に行われることもあれば、ぱったりとやめてしまってほとんど人前に出なくなることもある。年1回とか年3回とかの定期的な研究会を行っていたかと思うと突如やめてしまったり、しばらくないのでもうやめてしまったのだなと思われていた研究会が突如5年振りに復活なんてこともある。

来年の予定なんか何も決めることなく、なんとなく思いついたときに、思いついた企画を、思いついたペースで行うことが習わしとなっている。

さて、ライフ・ヒストリー・アプローチ的なコンセプトの研究会の最後を飾る講師として、桃崎先生はぼくにとってこれ以上ない講師だった。

まず何と言っても中学校の現役現場教師だったこと。札幌と熊本だからシステム的な相違点もないわけではなかったが、基本的に根幹のところで同じ感覚をもっている。コンテクストに寄ったコミュニケーションと言われればそのとおりだが、しかしそれでも中学校教師同士の共通感覚というものは北海道でも九州でも同様のようである。

次に道徳教育の在り方に関して、ぼくの中である種の止揚ができたこと。誤解を怖れずにいえば、ぼくは文学教育をするために教師になった。それが国語教育界では文学教育を軽視する……というか縮小する方向性が大勢となり、ぼくもそれに従わざるを得ない……というか、その方向を模索し始めた。そしてぼくは文学教育の生き残る可能性を道徳授業の中に見出していた。正直なところ、それがぼくにとっての道徳授業だった。ところが桃崎先生は数学。まったく対極的な思考からのアプローチだというのに、ぼくが考えていたことと共通点がかなりあった。もちろん、相違点もたくさんあったわけだが、桃崎先生の講座はこれらを整理して、もう一度ちゃんと考えてみようと思わせてくれた。

これも桃崎先生の実践の確かさ、そしてマネジメント能力の高さがもたらしてくれたものである。感謝感謝である。

それにしても桃崎剛寿。素晴らしい実践家だった。

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研究会案内/9~10月

私に関係する9~10月の研究会をご案内させていただきます。

2010年9月4日(土)/第5期函館教師サポート研究会学級経営システム~その思想と技術/函館大学/終了

2010年9月11日(土)/第7回国語科授業塾in札幌国語科ワークショップ型授業~「五七五作文」を題材に/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費4000円/上條晴夫(授業づくりネットワーク代表・東北福祉大学)・石川 晋・大野睦仁・加藤恭子・高橋裕章・藤原友和・堀 裕嗣・南山潤司・山口淳一・山下 幸・山寺 潤(他・交渉中)/定員40名/終了

2010年9月18日(土)/第12回国語科授業改革セミナーin札幌新学習指導要領目前/言語活動例の具体化~「活用力」を高める国語科授業モデル・文学的文章教材編~/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費3000円(ただし、9/25の第13回とセットで申し込んだ場合は両日あわせて5000円)/山田洋一・高橋裕章・山口淳一・南山潤司・山下 幸・堀 裕嗣/定員30名/終了

2010年9月25日(土)/第13回国語科授業改革セミナーin札幌新学習指導要領目前/言語活動例の具体化~「活用力」を高める国語科授業モデル・説明的文章教材編~/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費3000円(ただし、9/18の第13回とセットで申し込んだ場合は両日あわせて5000円)/山田洋一・高橋裕章・山口淳一・南山潤司・山下 幸・堀 裕嗣/定員30名/終了

2010年10月2日(土)/「研究集団ことのは」「教育実践サークルDNA」10月合同例会「さっぽろ・秋の陣」登壇者プレ検討会/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費:会場費として一人500円徴収します/終了

2010年10月9日(土)~10日(日)/第4回札幌・秋の陣~累積科学国語教育研究大会in札幌道内実践家 模擬授業24連発!新学習指導要領目前・言語活動例の具体化~「活用力」を高める国語科授業モデル~24本の模擬授業と解説で新学習指導要領の国語科授業像を考える/札幌市コンベンションセンター206研修室/参加費:両日参加5000円・一日参加3000円/近藤真司・冨樫忠浩・浅野克実・兒玉重嘉・木下尊徳・小木恵子・水戸ちひろ・森岡達昭・坂本奈央美・細山崇・冨樫いづみ・平山雅一・太田充紀・柳谷直明・小林智・山口淳一・山寺潤・人見誠・加藤恭子・藤原友和・對馬義幸・大野睦仁・三浦将大・山下幸・高橋裕章・南山潤司・大谷和明・石川晋・堀裕嗣/定員60名/終了

2010年10月16日(土)/第16回中学校学級経営セミナーin札幌テーマ:学級担任の必須アイテム/学校行事と道徳授業/「とっておきの道徳授業・中学校」編著者桃崎剛寿先生 北海道初見参!/札幌市白石区民センター3F集会室A/参加費4000円/桃崎剛寿・石川晋・堀裕嗣・山下幸/定員40名/終了

2010年10月17日(日)/第5回堀裕嗣・石川晋「ふたり会」featuring桃崎剛寿/テーマ:学級経営の基本的な考え方を学ぶ/札幌市白石区民センター1F多目的室/参加費4000円/桃崎剛寿・石川晋・堀裕嗣/定員40名/終了

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2学期1回目の現実的な現実

今日はぼくの皮算用で行くと2学期でおそらく3回あるうちの1回目の調整の一日。押し寄せる現実……というか、何をどう調整してもぼくが動かなければならないことばかりが何件も集まっている一日。とにかく現実的な現実と現実的に格闘することだけで過ごした一日。

まず朝の打ち合わせ。連絡事項が3点。できるだけ短くと心がけながら、なんとか1分5秒で連絡を終える。我ながらよくやったな、と思う。

1時間目。唯一の空き時間。第一に今日の放課後に行われる40周年記念式典係会のプリント(式のシナリオ)をつくって印刷。第二に、本当は勤務時間にやってはいけないのだが、研究会資料の印刷・帳合。更に、午後の生徒会役員選挙立ち会い演説会の準備。

2~4時間目は授業。すべて暗唱テスト。おそらく100回以上の「徒然草」冒頭と200回以上の「方丈記」の冒頭と150回くらいの「春はあけぼの」を聞いた。「春はあけぼの」の春から冬まで通して言えた生徒が二人出た。「論語」「志学」「徒然草」「方丈記」「春はあけぼの」を3時間で覚えた生徒が二人いたということ。まずまずのペースの進んでいる感じ。

給食を10分で食べたあと、体育館へ行き、生徒会役員選挙立ち会い演説会の準備。その後、一般生徒の入場開始。ここからが大変。昨日打ったポイントに従って、40周年記念式典と同じ隊列を組んでみる。800人以上の生徒たちを初めて並ぶ隊形で整列させる。狭い体育館に800人を押し込め、来賓席・職員席・保護者席・吹奏楽部のスペースを確保する。並大抵のことではない。要するに机上の空論を実際に形にしてみる時間である。汗だくになった。

生徒一人あたり縦70センチ、横45センチのスペースしか与えられない。それでも両横は20センチずつしか余らない。しかし、一度並べて見て、修正点を見つけるのが目的。

その後、立ち会い演説会。生徒会部の若手がよく働き、まずまずの出来。ぼくは立ち会い演説会の間、メジャーをもって空いているスペースの距離を測り続ける。現実的な修正点をいくつか見つけ、会場図の修正点を頭の中に描く。

立ち会い演説会終了後、40周年記念行事委員会の総務会。ぼくが委員長。これが45分ほど。その後、式典係会。当日の細かい役割分担の確認、会場図の修正点の確認、式典シナリオの確認。これで16時45分。

その後、15分間だけ白石区で23日(土)に行われる弁論大会の指導。

更に17時から学年会。生徒指導がらみの話と合唱コンクールに向けての動きの確認、更に「総合的な学習の時間」の職業体験の打ち合わせ。これで17時45分。

更に教務主任と40周年事業関係の打ち合わせ。そして最後に選挙の集計作業をしている若手教師二人に声をかけに行く。

18時20分退勤。帰宅後、すぐに明日の研究会関係の電話を数本、更に数本の連絡メール。そして明日と明後日の研究会のパワーポイントの作成。21時51分現在、いまだ現在進行形。今日中に寝られたらいいな……。

これでも精神的には余裕たっぷりの自分に「オレ、成長したな……」と感じた一日(笑)。

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ファン心理は複雑なのだ

チリ落盤事故の救出作業は無事に終了。その映像には滅多に感動しないぼくも感じを覚えた。これまで彼らの地下での様子が映像化され報道されていただけに、数週間にわたってリアルタイムで応援してきた人たちが救出される瞬間の映像は間違いなく感動的だった。

マスコミは愛人が出迎え等々のゴシップを報道しているが、人の生命がかかっているこの手の問題に対して、そういうゴシップネタで遊ぶのは控えた方がいい。どう考えても落盤事故救出の問題と愛人問題とはまったく別の次元の問題である。彼らが愛人問題を取り上げられて然るべき「公人」とはいえない。

逆に、本来遊びから発祥したはずの、たかが野球。それなのに、ちょっと本格的に考えさせられてしまうのが、クライマックス・シリーズでのロッテの快進撃である。

最初に言っておくが、ぼくは昭和49年以来のロッテファンであり、ロッテのことだけを考えれば単純に嬉しい。セ・リーグは中日、パ・リーグはロッテというのがぼくの長年のひいきであり、日本シリーズが中日vsロッテなんてことになったら、ぼくにとっては涙が出るほど嬉しいことである。なにせ、ぼくがプロ野球を見始めた年、つまり昭和49年以来の対戦なのだから。

それでも、長年のプロ野球ファンとして、やはりぺナントレース3位のチームが日本シリーズに進出するというのはいかがなものかと思うのだ。

ペナントレースは交流戦を含め、144試合を戦って優勝チームが決まったのである。クライマックス・シリーズ第二ステージは最大でも6試合。ロッテは第一ステージを2試合で勝ち上がっているから、もしかしたら144試合の7ヶ月にわたる長い闘いの結果が、たった8試合の短期決戦で覆るかもしれないのだ。

確かに今年のパ・リーグは飛び抜けたチームがなく、3位ロッテとはいえ首位とは2.5ゲーム差ではある。それでも76勝63敗と75勝67敗の差というものはそんなに小さいものではあるまい。

もし仮に、飛び抜けて優勝したチームがあったとして、3位チームが首位から十数ゲーム離されていて、その3位チームがクライマックス・シリーズを勝ち上がったとしたら……多くのプロ野球ファンは納得できるのだろうか。いや、もっといえば、その3位チームのペナントレース結果が5割を切っていたとしてらどうだろうか。こういう可能性を考えさせるに充分な、そうした複雑な心境を抱いてしまうような展開に、いま、パ・リーグはなっているわけだ。

もちろんクライマックス・シリーズに利点は多くあることは確かである。消化試合が少なくなり、最後まで目が離せなくなった。最終的に敗れたとはいえ、今年の北海道の日ハムファンを見ていると、その感を強くする。9月の北海道は確かに日ハムの3位争いに沸いていた。

しかし、もしもこれでロッテが勝ち上がったとしたら、ロッテファンのぼくでさえどこか納得できないものを抱えながら日本シリーズを観戦することになるに違いない。ペナントレースの価値を下げることなく、クライマックス・シリーズのような盛り上がりをも獲得できる、そんなアイディアが何かないものだろうか。

ロッテファンのぼくがなぜ、こんな文章を書くかというと、こういう論理を一度表明しておけば、たとえロッテが日本シリーズに出場できなかったとしても、かくかくしかじかの論理で「いや、ファンでさえロッテが出るのはおこがましいと感じていたんだ。やっぱりソフトバンクが出てよかったんだよ。」と言い訳することができる。

ファン心理は複雑なのである。

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平成18年の文書

土曜日の道徳の講座をつくっていて、上篠路中学校時代に文科省の指定(平成17~18年)を受けた「命の教育」関連の文書を繙いている。よくやったといえばよくやったとも言えるし、やっつけ仕事と言ってしまえばそうも言える。

ただぼくの部屋には「生命の尊重」を題材とした教育書、道徳教育関連の教育書、そして死生観に関する思想書等の書棚4段にわたるコーナーがある。あの指定研究以来、一度も開くことのない本たちである。おそらく20万円くらいはこの研究のために本を買ったはずである。

いま考えると、なんとも馬鹿馬鹿しい話なのだが、まあ良しとしよう。決してぼくの教師生活にとってマイナスになったわけではないのだから。

土曜日の講座の中身には入らないので、ついでだからここに理念に関する記述を再録しておく。

【引用開始】

1.子供の変容と「心の教育」

中学校・高校を中心とした校内暴力が全国的に広がり,社会問題化したのは1980年代初頭である。また,いわゆる「葬式ごっこ」を象徴的事件として,「いじめ」が学校教育の重要な問題として認識されたのは1980年代の中庸である。

この時代,こうした子ども問題・学校問題は主に管理教育や受験競争によって子ども達が抱くストレスを要因とする論調が多多数を占める傾向にあった。

一部に従来の生活指導・生徒指導のノウハウでは立ちゆかないほどに子ども達が変わってきたとする,いわゆる「子供変容論」の提起が教育現場からあり,マスコミもそれを取り上げたが,社会的機運の大勢となるには至らなかった。教師による体罰の社会問題化,いわゆる「校門圧死事件」を象徴とする管理教育批判の機運が,こうした学校現場の声をかき消してしまったのである。

そうした中,1990年代半ばになって,現代の若者気質が懸念されるようになり,「心の教育」が学校教育の課題として浮上し始めた。とりわけ1997年の神戸児童連続殺傷事件は,「心の教育」が現代の学校教育の最重要課題であるとする機運を高めた。

これを受けて中教審は1998年,「新しい時代を拓く心を育てるために」を答申,平成8年答申「生きる力」を育てる教育の核を為すものとして「心の教育」を位置づけることになる。

この間,1999年から「学級崩壊」「学校崩壊」といったキーワードが盛んに提起されるようになり,また,報道番組の討論会において「なぜ人を殺してはいけないのか」という素朴な疑問が高校生から提起されたことが話題となるなど,「子ども変容論」の機運を高めた。以来,学校教育行政は「心の教育」を学校教育の最重要課題の一つとして位置づけ,学校現場もその認識のもとに教育活動を行っている。

ただし,その後も黒磯の女教師刺殺事件,佐賀のバスジャック事件,長崎の幼児殺害事件,佐世保の小六女児刺殺事件など,神戸児童連続殺傷事件のように従来の認識を覆すような象徴的事件が起こり,教育行政と学校現場を戸惑わせている。殊に,これらの事件は少年事件の低年齢化・凶悪化の印象を社会に与え,「17歳問題」「14歳問題」「13歳問題」と心理学的な分析が施されるようになった。

一方,最近は学校教育を中心とした「社会の心理主義化」の現状を批判し,法整備による抑止効果を主張する声も高まりつつある。「心の教育」の現状は混沌としているというのが,最も正しい認識かも知れない。

2.「死への準備教育」と「いのちの教育」

前節において「子ども変容論」と「心の教育」との関係について概観してきたが,重要なのは,これらの問題の要所要所に,人間の生命を軽視するような象徴的事件が見られる点である。このことが最近の最近の若者が人間の生命を蔑ろにする傾向をもつように変容してきたのではないかという,社会的な不安につながっている。

もちろん,大多数の子ども達は生命が何よりも尊重されるべき対象であると認識し,また生命尊重の大原則に則った行動様式を身に付けている。しかし,これらの少年による凶悪事件頻発の印象,そしてマスコミ(主に映像文化と漫画文化)による生命軽視ととられかねない事例の多さとが相俟って,漠然とした生命軽視の不安を煽る時代機運が形成されていると言ってよい。

その意味で「命の教育」は,学校教育の最重要課題の一つとして認識されている「心の教育」の核心的な教育理念であると言える。

さて,こうした現状を受けて,現在,「命の教育」に関する二つの方向性がある。

第一に,アルフォンス・デーケンや鈴木康明が推進している「生と死の教育」,いわゆる「デス・エデュケーション」(或いは「デス・スタディーズ」)である。

これは様々な教材(生物学的な教材及び社会的事象を取り上げた教材等)を用いて生と死の関係について学習させ,「人間は死を前提とした存在であり,それ故に有限の生を充実させなければならない」とする認識に至らせるとともに,「充実した生へと行動変容を促すこと」を目的とした「命の教育」である。

その理念にも様々な諸派諸説があるが,一般的には「死を身近な問題として考え,生と死の意義を探求し,自覚をもって自己と他者の死に備える心構えを習得することは,いま,あらゆる面で最も必要とされる教育といえよう」(『生と死の教育』アルフォンス・デーケン著・岩波書店・2001年4月)に集約されると言って良い。

「デス・エデュケーション」は「死への準備教育」とも呼ばれ,①死へのプロセス,②人間らしい死に方,③死のタブー化を難点,④死への恐怖と不安への対応などについて,自殺や病名告知,スピリチュアル・ケア,ホスピス運動,安楽死,臓器移植,葬儀,死後への考察(哲学・宗教の立場)など,多様な観点からインパクトのある社会事象を教材化している。また,「死を前提とした生の輝き」を想定した概念であり,近世以後の日本文学の重要な主題と重なっており,一般的に日本人の精神構造には浸透しやすい教育理念であると言える。

第二に,近藤卓を中心とする「子どもといのちの教育研究会」の提唱する「いのちの教育」を推進する立場である。

この立場は「命」ではなく「いのち」と表記することに見られるように,死を前提として「死への準備としての生」を考えるのではなく,「いのち」=「生」そのものを問題化し教材化するとともに,体験的な学習を「命の教育」の中心に据えようとする立場である。

「いのちの教育」は「いのちのかけがえのなさ,大切さ,すばらしさを実感し,それを共有することを通して,自分自身の存在を肯定できるようになることを目指す教育的営み」(『いのちの教育』近藤卓編・実業之日本社・2003年3月)と定義され,狭義には「死や命と直接結びついた領域について,その知識や考え方や態度などをともに考える教育」,広義には「子どもたちのまわりの社会的,文化的,自然的なあらゆる環境との,出会い,かかわり,そして別れの体験を扱う教育」を意味する。

「自尊感情」(自分の生に対する理解)を育み「想像力」(他人の生に対する理解)を育てることを目的とし,集団で生に関する討議や体験を重ねる中で,思考のプロセスと心の動きのプロセスとを振り返り共有化すること(シェアリング)に重きを置くところに特徴がある。心理学的な「命の教育」理論と言える。

道徳授業における生命尊重のみならず,道徳教育におけるすべての項目,教科教育,保健教育食育教育,及び「総合的な学習の時間」など,ありとあらゆる場面で「いのちの教育」が行われているとする立場でもある。

双方の理念・目的・方法論等を精査すると,次のようなメリット・デメリットが考えられる。

【死への準備教育】

《メリット》

1.「死」の問題を内包する社会事象が広範に取り上げられており,(「死」の問題に関する限り)多様なテーマ(教材)が準備されている。

2.人間の生命を軽視するサブカルチャーに囲まれる子ども達に対して,現実の生と死の問題がインパクトをもって受け止められる可能性が高い。

3.道徳授業を中心としたカリキュラムを立てやすいとともに,時事的な問題を教材化・授業化しやすい。

《デメリット》

1.「死への準備」という理念自体が一面的であり,一部の哲学的・宗教的な理念に安易に結びつけられてしまう危険がある。

2.道徳授業を中心としたカリキュラム開発となるため体験的な学習に乏しくなり,子ども達の実感的・体感的な学習に乏しくなる傾向がある。

【いのちの教育】

《メリット》

1.子ども達の生活に密着した多様なテーマを体験的に扱うことにより,子ども達の実感に根ざした「命の教育」が実践される。

2.調査学習・体験活動・交流学習を中心としてシェアリングに重きを置くため,子ども達自らが学習内容を獲得する授業構造となる。

3.道徳授業のみならず,教科学習や特別活動,「総合的な学習の時間」と連携したダイナミックな学習として機能させられる。

《デメリット》

1.非常に広範なテーマに対して体験的学習を中心としてダイナミックに展開するため,学習事項が焦点化されない(インパクトがなくなる)危険性がある。

2.調査学習や体験学習を実施するにあたり,教科等との指導時数の調整や金銭的な裏付けの確保など,カリキュラム化するにあたり課題が多い。

子ども達の心に響く「命の教育」の推進に際して,こうした双方のメリット・テメリットに鑑み,できる限りインパクトが高く実感を伴うような,且つ現実的な条件に適した教材開発・カリキュラム開発が必要である。

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ベテランが育っていないのだ

若手が育っていないという声をよく聞きます。

40代のベテランからも、50代の大ベテランからも、管理職からも聞きます。

そういう印象をあまり抱いていないぼくは、敢えて反論する必要もないと思って「そうですね」と応じるのですが、本音では若手は育っていないのではなく、育てられていないというのが事実だと感じています。

そもそも「若手が育つ」ということはどういうことなのでしょうか。これが甚だ曖昧だとぼくは思います。それは「若手が育つ」というとき、その「育つ」の内実は自分をモデルにしているように思えてならないからです。しかも、遠い記憶の中の、本当は育ったのか育たなかったのかさえわからない、あまりにもバイアスのかかった自分自身の遠い記憶をもとに。

ぼくは上篠路中学校で4人の新卒さんと関わりました。学年主任として、おそらくは札幌市内でだれよりも厳しく、そしてだれよりも世話を焼いただろう思います。誤解を怖れずにいえば、生徒を育てること以上に彼らを育てることに心血を注いだ4年間だったとさえいえるでしょう。そして彼らは間違いなく、彼らなりに育ちました。ある者はものすごいスピードで、ある者はゆっくりと、そしてある者はその後の挫折のあとに。

例えば、Aくんがみるみる育っていき、Bくんが失敗を重ねながらもゆっくりと次第に育っていき、Cくんは大失敗と挫折を繰り返した後にぐーんと伸びた、こういう3人がいたとき、Aくんだけが評価されるというのがこの社会です。この評価の仕方にそもそも間違いがあります。

Aくんのように若いときにみるみる育つ人には30代で壁がやってくるはずです。その壁を超えようと努力するか、その壁に諦観を抱いてほどほどの教師になっていくか、真の勝負はそこにあります。Bくんはこのペースで失敗と成功を繰り返しながらのらりくらりと上昇していき、Cくんはぐーんと伸びたあと順調な成長を遂げるかもしれませんしそうでないかもしれません。

要するに、一時期の成長の仕方、成長の在り方を見て、「最近の若者は……」では若者も浮かばれません。評価に晒されながら生きていかなければならないのが社会人だとしても、その評価者が成長の構造をわからないままに評価を下し、それがフィードバックされるのでは悪循環に陥ってしまいます。

長年、民間の教育研究の場に身を置いています。毎年、新たな若者と出会います。新卒からある程度かかわってきて、ある程度花が開くまでの平均的な年数は、早い者で6年、遅い者で10年という実感があります。ぼくが「ああ、こいつの話には傾聴すべきものがある……」と感じるのにこれだけかかるということです。

いろいろなことを教え、いろいろな議論に参加させ、いろいろな研究テーマを与え、いろいろな登壇機会を与え、盛んに飲んで語り、これだけしてもこのくらいの期間はかかるのです。それが若いから、新卒だからとたいした仕事も与えず、自分が勝手に描く思い通りの成長しないことが、まるでその若者に人間的欠陥があるかのように論じるのはあんまりだ……と言えるでしょう。

そもそも職場では若者にたいした仕事が与えられません。言われたことだけをすればいい、授業だけしてればいい、生徒とかかわろうとしさえすればいい、そんな空気があります。ぼくはこれがいけないと思っています。

ぼくは上司として新卒教師とかかわるとき、必ず大きな仕事を与えます。あるときは学年の「総合的な学習の時間」の計画をつくってみろといい、あるときは年度当初の「学活計画」や旅行的行事に至までの「学活計画」をつくってみろといい、今年度は学校祭のステージ係の全体計画をつくらせるとともに、職員会議の提案、実際の運営と、最後まで責任をもたせました。みんな、いろいろな人に訊きながら、ときにはぼくに怒鳴られながら、なんとか形にするものです。

そしてこういう階段を一段昇ったとき、初めて生徒指導にも中心的にかかわらせるようになります。彼らはそれまで「自分一人で生徒指導をするな、必ずオレを呼べ」と言われ続けていただけに、「生徒指導をやってみろ」と初めて言われたときには一様に喜びます。「ああ、堀さんに認められた」という顔をします。

問題はこういうふうに新卒にある程度の規模の仕事をまかせられるということは、彼ら彼女らが失敗したときにフォローをすることができ、他学年・管理職に責められたときにも責任をとる覚悟をもっていなければならない、ということです。ぼくの中にはそれができるという自信があるからこそ、まかせられるわけです。

ぼくは「若者が育っていない」のではなく、ベテランこそがこの覚悟をもつほどには育っていないのだと思えます。

穿った見方でしょうか。

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逆説的アイロニー

「さっぽろ・秋の陣」の疲れが抜けていない。研究会の疲れというよりも、9日夜の飲み会の疲れというべきか。あそこで気分よく遅くまでやたらと飲んでしまったことがいまだに影響を与えている感じ。人間は同じ失敗を繰り返す生き物である(笑)。

それでも今日は札教研で午前授業。いいリハビリの機会。

授業が1時間、生徒指導案件が一つ、40周年記念式典のシナリオ作成、総合の職業体験先に電話連絡、吹奏楽部と40周年式典の打ち合わせ、という午前中を過ごした。その後は年休をいただいて失礼した。

札教研に思い入れを失って3~4年経つだろうか。

新卒から15~16年はいわゆる「札教研の日」はもちろん、ほとんどすべての札教研国語関係の会議を欠席することなく取り組んでいた。新卒2年目から区の中学国語の研究担当として多くの文書を作り続けてきた。公開授業だって何度したことだろうか。

思い入れを失ったのは、例の札教研事務局問題である。札幌市は札教研を公務と位置づけ、予算を出し、勤務時間内の会議を認めていた。そればかりか札教研事務局をセンターや公立学校の一室に独立して設け、専門にその業務に従事する者を置いていた。札教研事務局はある種の出世コースでさえあり、そこから指導主事になった者も多くいる。

しかし、これがあるとき、文科省から組合の専従と同じような批判を受け、札幌市はそれに抗ったものの、結果的に押し切られ、組織の位置づけを変え、官製研的な意味合いをもたせることとなった。

当時のぼくはこの動きに期待していた。これによって市教委は札教研への全員加入を強制するようになるはずだ、これで札教研は名実ともに公務として位置づけられるようになる、そういう期待である。

しかし、実際にはそうならなかった。札教研は次第に活力を失い、参加者も減った。何より中心的に担っている人たちの時間外労働が増え、モチベーションのキーになっていた「札幌の教育研究をみんなで……」という思想も薄れていった。ぼくはこれを市教委が「大人の対応をしたために、大人でない教員たちからそっぽを向かれた」と解釈している。研究は政治的な「大人の対応」でなんとかなるものではない。

ちょうど時代は現行の指導要領が施行されて数年の時期。様々な教育改革の波が押し寄せ、学校現場は戦争状態。普通の先生方にとって、これまでのように札教研に勤務時間外を割いてまでモチベーション高く活動しようという者はいなかった。札教研改革は教職員を二分することになった。管理職を目指して研究を手段とする者と、管理職志向をもたず従来以上に札教研に距離を置く者と。

これで決まった。

札教研の方向が決まった。

そう感じた。「札教研の日」は一日減らされ、研究紀要も出されなくなった。おそらく「札教研の日」自体の存続が危ぶまれる日がそう遠くない日に来るに違いない。

ぼくにとって研究は〈手段〉ではない。〈目的〉であり〈生き甲斐〉である。とすれば、こういう札教研には力を貸したくはない。ぼくは札教研中学国語を退くことにした。もちろん、一部急進的な組合員のように札教研自体から抜けるということはしていない。ただぼくが新卒以来中心的な研究の場の一つとして機能させてきた中学国語研究部からは退いたのである。

かつてぼくが区の研究担当として盛んに札教研に取り組んでいた頃、3つの区で研究テーマをつくり、研究解説及び実践化の視点をつくった。ぼくが札教研を退いた3~4年前、調べてみるとそれらの区ではいまだにぼくのつくった研究テーマでそのまま研究活動が行われていた。

ある区の研究テーマは十数年前につくったものである。十数年前に20代の教師がつくった研究テーマ。それをいまだに改変することもなく研究活動を続けている研究団体は、果たして「研究団体」といえるのだろうか。そう感じたものである。学習指導要領改訂を前に、いくらなんでも研究テーマが更新されていることと信じたい。

かつて「札教研日和」という言葉があった。札教研の日は快晴になる、というのである。せっかく午後カットだというのに、今日あたり支笏湖にドライヴにでも行けばどんなに気持ちがいいだろうか、それなのにぼくらは研究会である……そんな心象をアイロニカルに表現した言葉である。確かに「札教研の日」は快晴が多かった……、ドライヴなどには一切興味がなく、そんなことをするくらいなら研究活動をしたほうがいいと感じていたぼくでさえ、そんな印象がある。

最近はほとんどこの言葉が聞かれなくなった。「札教研日和」というアイロニーは、札教研に思い入れがある人たちだからこそ言えた、逆説的アイロニーだったのである。

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読むこと/情報教材2

【2日目】

模擬授業22/大野睦仁先生

とにかく素晴らしい教材だった。「たいせつなきみ」(マックス・ルケード)という絵本である。様々な人間関係要素を取り込みながら、それを独特の幻想世界として設定し、見事な世界観を構成している。不明にしてこれまでこの絵本を知らなかった。この絵本と出会わせていただいたことだけで、大野先生に感謝したい。帰宅してすぐにアマゾンに注文した。

いい発想のワークシートだった。アニマシオンを参考にした「九つの窓」にいくつかの視点をまじえたワークシート開発である。これは使えるとだれもが思うワークシートだった。その意味で汎用性の高い授業構成、授業展開だったと思う。

ところがこの教材をこのワークシートで゜どうしても切り刻みたくない。ぼくにはそう思えて仕方がなかった。感動した映画についてメディアリテラシー的に分析されたくない、感動した音楽について音楽理論的に分析されたくない、感動した文学作品について文学理論的に分析されたくない、そうしたタイプの心象を抱いてしまった。それだけこの教材がぼくの琴線に触れたということである。

大野先生のセンスのよさがぼくという人間には合わなかったということなのだろう(笑)。

同じような感想を抱いた参加者は何人かいて、解説者の一人大谷先生も「これは読ませるだけでいいんじゃないか」とおっしゃっていた。久し振りに文学的文章の言語技術指導の限界性について考えさせられた授業だった。

模擬授業23/三浦将大先生

三浦先生の授業は討論の題材として討論テーマに沿った資料を読んで、討論の論拠を整理させる授業である。教材として用意した資料のつくり方に三浦先生らしい丁寧さが見えて、大変好感のもてる授業だった。

こういうふうに力を入れて資料をつくるという授業づくりの在り方、教師がしっかりと準備してこの授業に臨んでいるんだぞという姿勢を見せることは、間違いなく子どもたちに影響力を発揮する。三浦先生の授業にはいつもそうした誠実さが垣間見られる。

ただし、今回の授業は相手意識の設定の仕方に具体性を欠いた感がある。討論における相手意識ではない。コミュニケーション手段として手紙がいいか電話がいいかという教科書に載っている討論テーマをもってきたのだが、そのためのま相手意識を具体化させようとして「遠くの人に誕生日のお祝いの気持ちを伝える手段として」という縛りをかけた。これが甘かったということである。

「遠くの人」は具体的なようで具体的ではない。手紙か電話かを考える要素としての人間関係が見えてこないからである。その「遠くの人」とはどの程度の人間関係なのかを想定しないと、手紙か電話かの選択のしようがない。友人や恋人が相手の場合と、お世話になった上司が相手の場合とでは、条件が変わってしまう。一般論として手紙か電話かを討論することは原理的に不可能である。

こうした討論を前提とした資料の読み取りをするのであれば、もっと不確定要素の少ないものがいいだろう。紙パックか瓶か缶かペットボトルかという四者選択の教材が中学校教科書に載っているが、こうしたテーマならこの問題は出てこなかった。

テーマ設定の大切さについて改めて考えさせられる授業だった。

模擬授業24/山下幸先生

山下先生らしからぬ(笑)おもしろい授業だった。札幌近郊のホテルのレビューを教材化しての実践である。

ニセコ・小樽・洞爺湖畔・支笏湖畔のちつのホテルのホームページに掲載されている本物のレビュー、要するにお客さんの感想とホテルとのやりとりを教材化して、家族旅行に行く想定でそれを読ませてホテル選びをさせるという授業である。「ことのは」がかなり以前から研究テーマとしている「情報読み」の典型的な授業構成に、新しい題材を取り入れて再構成して提示した提案性の高い授業で、参加者の評価も高かった。

「情報読み」にしても「活用力」にしても、実生活で何気なくやっている言語生活の構造を意識化させるという営みは、かなり重要な観点になる。その意味ではこうした教材開発はどんどんやっていくべきだ。

図らずも教材開発の良さが色濃く出た三本の授業だった。

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読むこと/読解教材2

【2日目】

模擬授業19/加藤恭子先生

ぼくは加藤先生の授業を解説者として一刀両断した。理念的なことはわからないでもないのだが、研究会のテーマに正対した研究テーマというか研究テーマが最後まで決まらず、直前まで迷ったままで時間切れとなった授業だったのだろう。そういうことはある。ぼくにも何度も経験があるからよくわかる。しかし主催者のぼくの立場としては、そうした揺れている授業提案を褒めてお茶をにごすわけにはいかない。女性提案者の授業者をばっさり斬るか否か一瞬迷ったが、「加藤先生ならいいや」というのが結論(笑)。それが一刀両断。

さて、「川とノリオ」全文を相手にするという覚悟、主題を体現する人物の抽出、主題を体現する中心人物の人物像の把握、こうした段取りを踏んだこと自体はきわめてオーソドックスな手法で、「文学的文章教材をどう授業するか」といったテーマなら何の問題もない授業だった。

問題はこの授業の中から何を活用させるのか、そのためにとった手立ては何かという、研究テーマに沿った提案がなされなかったことだけである。文学的文章教材の授業で「活用力」をどうつけるかというテーマは膨大な難問なのであり、ぼくだっていまだに未整理である。おそらく加藤先生もここに迷いがあったのだろう。

しかし、それでも自分はこう思う、ということをバーン!と出すべきなのである。研究会なのだから。それが「学力から楽力へ」という抽象的なレベルの文言では何もいったことにならない。「学力」を「楽力」にするための一例を提示しなければならない。「楽力」の要素その1として「大胆なグループ討議を取り入れる」とか、「主題は教師が提示してしまってその検証をし合う」とか、何かこのレベルの提案が欲しかった。

彼女のブログを読むと、10月30日に自分の研究会でリベンジするそうだ。負けず嫌いの彼女らしい宣言で楽しかった。この日はぼくもあいてるなあ……。でも前日が勤務校の40周年記念式典でぼくが仕切り役。飲み会が何時に終わるかなあ……。

模擬授業20/藤原友和先生

実際に意見文を書いてみる。そこから課題を抽出する。その課題に沿って説明文を読んでみる。具体的には課題は文章構成である。

一般的な関連指導とは逆パターンをとった授業展開である。授業展開自体は提案性の高い模擬授業である。やろうとしている理念はよく理解できた。

しかし、いかんせん教材が悪い。その教材を読む必然性がない。しかも、その教材内容を批判しようとしても、人それぞれが許されるテーマであり、批判される側からみれば「私は私。大きなお世話…」というタイプの教材。これはいけない。

環境問題に関する投書を並べるとか、いじめ被害者の遺書を並べるとか、何か批判すべき、議論すべきテーマを設定し、考えるだけの必然性をもたせなければならない。後の本教材として設定されている「人類よ、宇宙人になれ」は決して宇宙関係のテーマにしか対応できないような狭い内容を言っているわけではない。もっと哲学的な文章である。

こう考えると、実は前半の問題意識喚起のテーマは何でもよかったのであり、無理に宇宙に関連させてウケをねらう必要はなかったのである。意見文に引用させるにも教材として提示されている20代女性の文章自体に論理がなく、それに対して論理的に反論させようとする試みに無理があった。

模擬授業21/對馬義幸先生

對馬先生の提案は、図らずも藤原先生の提案と同質のものになった。つまり実際に活動させる。その活動で当事者意識・課題意識を飽和状態に高め、その後に教材文を読んで読みの必然性をつくるとともに情報読みの原動力としていく、というタイプの実践である。

中学生短歌コンクールの審査員としての経験をもとに短歌の質について論ずるエッセイが教材である。これを読む前に、実際に中学生がつくった短歌を参加者に審査させる。しかも4人グループで話し合いをさせて、かなり迷いを生じさせる。そのうえで、教材文を読ませるのである。

実際の模擬授業では、小グループでの審査に授業者が思っていた以上に時間がかかり、教材本文をしっかりと読む時間がなくなってしまったのが残念だった。実際に本文をしっかりと読むことができたならば、参加者の納得も大きく得られたに違いない。

提案性は高かったのだが、ちょっと悔いの残る授業だった。

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書くこと・2

【2日目】

模擬授業16/山口淳一先生

子どもが書いたアブラムシの観察日記から絵を描いてみて、観察日記の文章の不完全さを実感させる。その後、この日記のもととなっているアブラムシの写真を見せて、観察日記の文章を精査させ実際に書かせてみる。しかも5文で書くという指定。

新指導要領の「言語活動の充実」、全教科を通して言語能力を伸張させようという理念に合致した提案である。しかもPISA型読解力に配慮された見事なプランである。更に、今後の発展性も高い。

山口先生と初めて会ったのはおそらく1998年のことである。言葉は悪いが、自信をもてない優男といった印象の若者だった。それが10年の時を隔て、「夏の陣」のストップモーションにしても「秋の陣」のこの授業にしても、安定感のある語りと指導事項のブレない提案性の高さとを両立している。最近の山口先生は百発百中の感がある。

「人は10年続ければ一流になる」とはよく言われることだが、はにかみながら一歩引いて語る、キャラクターを活かしたそんな独特の語りの在り方を確立した趣がある。それでいて、専門の理科を基盤としたネタづくりにもどんどん磨きがかかってきている。たいしたもんだと思う。

今回の授業提案には課題らしい課題もない。あとはこれを発展させて、観察記録の在り方の大単元化が待たれる。もしもそれが成し遂げられたとしたら、「総合的な学習の時間」や生活科・理科・社会の実践にかなり大きな貢献となるだろう。そういう段階に来ている。

模擬授業17/山寺潤先生

これまた見事の提案性をもった授業提案だった。作文指導の取材段階に絞り、「集材」「選材」の授業の在り方を示した授業。おそらく下位の子どもに大きく配慮して、だれもが意見文を書けるようにするにはどうしたらいいか、という発想でつくられた授業である。

提案課題を一点に絞ったこと、その効果的な手法を編み出したこと、よどみない授業展開の形としてパッケージ化したこと、どれをとっても提案性が高く、その手法は研究的である。

しかし、研究的であったからこそ、実は課題も見えやすい。

まず第一に、取材段階において小グループで集材ワークシートをまわし書きする際、書く側にとっての細かな配慮がなされていないという点である。「書けない子」を救うことに念頭を置いてつくっている授業であるため、「書ける子」「できる子」に対する配慮が希薄になっている。「落ちこぼれ」をなくす配慮はなされているが、「吹きこぼれ」をなくす配慮がなされていない。少なくともぼくの感覚ではこれを「全員参加子志向」として不十分である。ワークシートにもうひと工夫がほしいところだ。これが第一の課題である。

第二に、6人でまわし書きをしていくうえで、何巡目がどのように書きやすく何巡目がどのように書きにくいのかという細かな検討が施されていない。もしかしたら、山寺先生は実際にこの活動をしてみてはいないのかもしれない。第一の課題とも関連するが、書き方や時間配分の在り方について、一度体験してみると細かな課題がたくさんあることに気づかされるはずである。

ついでに言うと、前の記事の柳谷先生のところで述べた一斉授業で学ぶべき指導技術というのはこういうところに出る。教師が司会者となって話し合いをさせていると、できない子をどう使ってできる子をどう使うかとか、逆転現象をどう仕掛けるかとか、複数の立場が互いに譲り合わないときにどう捌くかとか、そういう課題の連続になる。6人でまわし書きするときに何が課題になるかということと、一斉授業で巻き起こるこうした細かな課題の連続とはまったく同質の問題として立ち現れてくるのである。

山寺先生は小さな学校で小さな学級を受け持って教師人生を歩んできた傾向がある。たぶんそういう経験に乏しいのだろうと思う。新しいことを提案する場合には、教材開発とともに、その教材をどのように機能させるかを考えなければならないので、この視点はどうしても必要になる。

第三に、今回の提案では「ダイアモンド・ランキング」を用いた「選材」の場面が雑だったということである。提案としては「集材」に絞るべきだったという考え方もあるし、「選材」までやるのであればもう少し「選材」の観点にまで配慮した提案をすべきだった。

山寺先生は非常に能力とセンスのあるいわゆる「できる人」であり、ぼくが今後最も期待している若手である。課題ばかり三つ書いたが、これも期待の表れと解釈して欲しい。また、こうした細かな具体的な課題が見えるということは、実はそれだけ山寺先生の授業がポイントを絞った研究的なものであったことをも意味している。ごちゃごちゃした授業からはこうしたピンポイント的な課題は出てこないものである。

また今後、できれば「発想・着想」「取材」「構成」「叙述」「推敲」「清書」という作文6段階のそれぞれについて、このレベルの提案をお願いしたいものである。山寺先生なら、2年もかければ完成させてしまうだろうと思う。そしてきっと一番苦労するのが第一段階の「発想・着想」、つまり「主題設定」のところになるはずだ。

模擬授業18/人見誠先生

わざわざこの会のために東京からおいていただいた。二つの投書例から主張を形づくる言語技術として具体例の重要性を指摘、それをもとに投書を書いてみようと授業。小学校の先生にはあまり馴染みがないかもしれないが、中学校・高校では投書は作文指導における一つの有効なツールとして認知されている。

特に、論理的思考の訓練として投書を読んでその論理の有効性や破綻を議論したり、それを書き直したり、或いは構成を意識して実際に書いてみたり、更には実際に投稿してみたりといった活動である。

人見先生の授業はこうした先行実践をよく踏まえた典型的な授業だった。ただし、25分という時間的制約のために、言語技術の抽出やテーマに沿った具体例の立案に時間をかけられなくて、指導の全体像を紹介することに終始してしまった感は否めない。

できれば、二つの投書例を提示するのであれば、どちらにもよいところがありどちらにも悪いところがある、そういう二つの投書を提示して小集団でそれをじっくりと指摘し合う。二つのよい点をミックスさせた文章を書くにはどうしたら良いのかについてもじっくりと検討していく、そうした授業像が望ましい。

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話すこと・聞くこと・2

【2日目】

模擬授業13/太田充紀先生

「まだ多少酒気を帯びておりますが……」というひと言で始まった太田先生の授業。そりゃそうだろう。前日は1時まで飲んでいたのだから。この時間、ぼくもかなりクラクラしていた。

さて、授業は「看図作文」のスピーチへの応用。教材は絵本からとった熊の描かれた4枚の絵。それを用いて4人一組で物語を創作して発表するという授業形態。

絵図は秀逸。トップダウン型授業を志向して与えたタイトルも秀逸。ただ実際に体験してみて、小グループで一つの物語を話し合いでつくっていくという活動は意外と難しい……というよりも無理があるという気がした。一人でつくるほうが思考は活性化したのかもしれない。

もちろん、授業時間が長ければいろいろなアイディアが出始めたのかもしれない。しかし、トップダウンでタイトルを与えている点、事前に4枚の絵から2枚を選ばせてしまっていた点という2点の縛りがきつすぎて、物語創作に自由度が欠けてしまい、あまりおもしろい物語が出てこなかったという印象がある。

時間が45分程度あれば、個人個人が物語を創作し、4人グループで交流。グループで一番いいものが全体発表へ……という流れになっただろうと思う。この流れなら、おそらく3割程度は突拍子もない物語、つまりユーモア満点の外挿が導入された世界観が出てきたに違いないと思う。

いずれにしても、「看図」をスピーチに応用した点、外挿を用いた物語法という理念をしっかりともっていた点、小集団でのグループ創作を実験してみた点、模擬授業の語りのうまさ等々、30代半ばの中堅らしい提案性の高さが見られた。

模擬授業14/柳谷直明先生

柳谷先生、久し振りの累積登壇である。調べてみると3年半振りであるようだ。管理職に昇進したあとも国語科授業研究に熱心に取り組み、今年度からは「鍛国研」の全国大会をまわし始めている。ぼくにもよくわかるけれど、こういう活動を継続するということは大変なことである。道内実践家の一方の雄である。

授業は「モチモチの木」を用いた主題討論の授業。主題を「勇気」とおさえた後、豆太の「勇気」を最も体現している一文を探し、論拠とともに討論する授業。発問のあと第一次自己決定をさせ、机間巡視で反応を拾い、指名計画を立てて討論させる。しかも、学資勇者の意見の中から対立を導いていき、発言の構成や枕詞もユーモアをまじえて指導するなど、一斉指導の典型的技術がすべて駆使されている、柳谷先生らしい授業だった。

ぼくも最近よく言っているのだが、こうした基本的な一斉指導をできない若手教師が増えている。21世紀になってからこの傾向が大きくなってきている。おそらくこれはまずいことだ。

具体的には、課題を与えて反応整理をしたあと、すぐに4人グループや6人グループにすべてを預けてしまうという授業があまりにも多い。しかし、すべてを預けてしまうのはまずくて、事前に何に縛りをかけて何に縛りをかけないのかを考えたり、机間指導をしながらうまく機能していないグループに助言したり、途中でどういう指示を与えればどのような論点が浮かび上がるのかを考えたりといったことを、一斉授業を機能させられる教師はやっているわけで、最近の若手の授業にはそれが見られない。

彼らが一斉授業を行うときにも、「発問→指示→活動」が繰り返されるだけで、横のつながりを教師が捌くという場面を見ることがほとんどなくなってきている。それではプログラム学習なんかに近くなってしまう。しかも積み上げのないプログラム学習である。これはまずい。

これを昨日は「見せかけの活性化」という言葉で批判したのだが、やはり授業の基本的な技術は一斉授業の中で培われるのだということを改めて認識させられた授業だった。

模擬授業15/小林智先生

圧巻の授業だった。指導事項は明確、活動のテーマも明快かつ機能的、授業の語りも最高。ベテランとはこういうもの……という象徴的授業である。

まず、小林先生のモデルスピーチがいい。3分のスピーチだったのだが、まったく長く感じられない。小林先生らしいぼくとつとした語りの中に、計算されたユーモア、エピソード、キャッチコピー、聞き手への配慮が盛り込まれ、モデルとしてこれ以上ないという素晴らしいスピーチだった。

この後、参加者から「このスピーチで工夫されていた点」を挙げさせて板書するわけだが、予定外の意見が出てきたときにも独特の間をとってユーモアに変え、会場を沸かせてしまう。まったくベテランの味といってよい。

今回のスピーチ学習はなんと言ってもテーマが秀逸。「これまで生きてきて最も痛かった話」である。これを色画用紙に書かれたキャッチ・コピーを交えて4人グループで話す。必然的に全員が「ボケ」の機能を果たすようになるテーマである。その中で、キャッチコピーやエピソードといった指導事項が必然的に機能するように練られている。

今回の24本の模擬授業の中で、おそらくパッケージとして最も完成度の高い、見事な授業だった。

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読むこと/情報教材

【1日目】

模擬授業10/細山崇先生

まあ、なんとも形容しようのない明るさと、なんとも形容しようのない真面目さを併せ持った、なんとも形容しようのないキャラクターの細山先生。これまたなんとも形容しようのない模擬授業だった(笑)。

この「なんとも形容しようのない」はすべて褒め言葉である。ぼくの中で最も高く評価する価値観は「オリジナリティ」である。彼は間違いなくオリジナリティに溢れている。「サ゜・オリジナリティ」と言っても過言ではない。どういう親が、どういう育て方をすると、細山先生の人間ができあがるのか、ぼくは彼の両親に会ってみたいと本気で思う(笑)。

授業の難点を授業者のキャラクターによって許してしまいたくなる。そういうのも才能の一つである。先の記事で指摘した水戸先生にもそういうところがある。これは武器である。こういうキャラクターをもっていない人には、いくら努力しても獲得できない、強力な武器である。これはもっと自覚的に使って、自覚的に伸ばしていくべきだ。

しかし一方で、こうしたキャラクターはマイナスにもなる。例えば、この「なんとも形容しようのないキャラクター」を封印しなければならない授業というものがある。例えば、今日の文脈でいえば、「川とノリオ」の授業である。「一つの花」も「きつねの窓」もダメである。「ごんぎつね」の最終場面もダメである。「生命の尊重」を筆頭にほとんどの道徳授業でも封印しなければならないだろう。ということは、このキャラクターを伸ばすと同時に、しっとり型の題材に向かうトーンというものも自分なりにつくっていかなければならない、ということである。これは教師にとって、かなり大切な問題である。決して軽く考えていい問題ではない。

さて、「なんとも形容しようのない模擬授業」のほうであるが、自分の読んだ本を100冊以上会場に持ち込み、それぞれの4人グループに10冊程度ずつ配付する。その中から読んでみたい本を選ばせる。選ばせたうえでどんな観点でその本を選んだかを交流させる。

要するに、書籍検索の授業である。

たとえば、我々は本屋に行って本を買う。使える金は限られているから、ちょっと興味をもったらすべて買うというわけにもいかない。そんなとき、買う本と買わない本はどのように決められるのか。何を見て「これは買おう」「これはやめよう」と判断するのか。こうした観点の教材化である。

表紙デザイン・レイアウト・配色といった非連続型テキストから、帯のキャッチコピー・目次・まえがき・あとがき・作者紹介といった連続型テキストとリンクする観点、更に自分自身の興味関心・同一作者の作品を読んだ経験といった読者論的視点にいたるまで、観点は様々である。また、まえがきやあとがき、目次がどのように構成されていれば良しとし、どのように構成されていれば良しとしないのかという、情報検索レベルの観点もある。要するに本を選ぶ観点というものはかなり重層的なのだ。

実はこのアイディアは、先週のプレ検討会でぼくが提示したものだ。細山先生はそれを授業化してきた。しかし、この検索観点を紹介しようという発信型授業にしようした、つまり、いわゆる「関連指導」にしようとした発想に無理があった。こうした情報検索の観点を文章化するという活動は実生活上あり得ない。あったとしても「読書法」系の本を書く人だけに必要な言語活動だろう。

この授業は音声言語で交流し、メモを取り合い、学び合えば充分だった。ちょっと「〈活用〉という言葉に踊らされてしまった」授業提案という印象が否めなかった。ただし、徹底的に楽しい25分間ではあった(笑)。

模擬授業11/冨樫いずみ先生

いずみ先生の授業はひと言で言えば、おもしろい発想の授業だった。

構成としては読みの言語技術を具体的に教え、その言語技術を用いて別の物語を読んでみるという授業である。構成自体は典型的な「他教材転移型学力」を「活用力」と捉えた授業である。

おもしろいのはその手法だ。最初の言語技術を具体的に教えるためにとった彼女の手法は、物語の「語り聞かせ」なのである。「読み聞かせ」ではない。「語り聞かせ」である。野口芳宏先生のもとで学んでいる先生方が最近よく使っている手法である。ぼくはここ数ヶ月で野口先生ご自身の日本神話の語り聞かせ、駒井先生の論語、照井先生の民話、そして今回のいずみ先生の授業と4本参観している。おそらくいま、「鍛える国語教室研究会」では言語文化の授業をどうつくるかという視点で、盛んに実践されている手法なのだろう。

今回のいずみ先生の「語り聞かせ」も日本神話だった。ただぼくにはなぜここで日本神話(国生み)を使うのかがどうしても理解できなかった。それはその後の定着教材に「ずっとずっと大好きだよ」が用いられていて、日本神話よりもずっと簡単な教材だったからだ。

つまり、教材としては先に難しいもので教えて簡単なもので定着をはかるという構成をとり、手法としては先に難しい「語り聞かせ」(要するに聞き漏らすと消えてしまう音声言語)をとり、何度も読み返せる文字言語教材で定着をはかるという構成をとっているわけである。どう考えても、両方とも逆だろう……というのが率直な感想だった。

最後にとってつけたように(と言っては失礼なのだが)、定着教材の紹介文を書こうという活動につなげるという授業構成にも違和感を抱いた。

研究会後の小宴でも本人と話したのだが、やはり「活用型の授業モデル」というテーマ設定に戸惑っていたらしいのである。ああ、そういうことならありうるな……と合点がいった。

彼女の「国生み」の語りはそれはそれは見事だった。発問・指示もブレることなく、一度だけブレときにはすぐに「いまのはなかったことに。もう一度やります。」と潔い訂正を加え、そこにはストイックな視線を自分の指導言に向けている姿勢がありありと見えた。プレゼンテーションの領域については文句のない提案だったわけである。

しかし、与えられたテーマとの整合性、そのテーマを踏まえての授業構成法という点では、明らかに戸惑いが見えた。プレゼンが見事なだけに、なぜこの順番なのか……というテーマとの齟齬が余計に目立ってしまうのである。

でも、テーマとの整合の重要性については彼女はよく理解したようである。彼女ならすぐに修正してしまうに違いない。なにせ「言語文化の授業」というテーマなら、前半の15分だけで100点満点の授業だったのだから。

模擬授業12/平山雅一先生

これまた大胆な模擬授業だった。中学3年生に「後輩に読んで欲しいこの1冊」として授業したものを、模擬授業という場に合わせて「後輩教師に読んで欲しいこの1冊」にテーマを変えて、愛読書の紹介文を全員分壁に貼って交流させるという授業である。

経験主義的授業観といってもいいし、出力型授業観といってもいいのだが、徹底的にその授業観に立って、徹底してさの授業観に基づいた手法を用いた、主張のはっきりした授業だった。こうした主張の明快性と、こうした手法の大胆さをあわせもった授業をぼくは評価する。ぼくの授業観に合うか合わないかが問題なのではない。平山先生は平山先生として平山先生の授業というものの方向性を明確に意識して授業をしているのだ。平山雅一という一人の教師が、自分の授業観に従って自分の授業スタイルを構築していくという明確な意志をもつ。こういう姿勢は尊い。

しかし、書いて貼るという活動をしたが、他の人のものを読めて学べるというだけで、自分が書いた甲斐をもたせるということに配慮がないのが気になった。付箋紙でも配ってコメントをもらい、書いた甲斐をつくってあげればいいのに……というのが感想である。

経験主義的な授業観に立つ授業は、シェアリングが必要であると同時に、フィードバックの機能をしっかりとシステム化することが必要である。自分が授業解説者だつたこともあって、この点を大きく指摘させていただいた。

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読むこと/読解教材

【1日目】

模擬授業7/水戸ちひろ先生

水戸先生の魅力はなんといっても、独特の語り口調と独特なスローテンポで、他の人にはつくれない、これまた独特の空気で教室を包み込んでしまう、これまたこれまた独特の手法である。いや、手法というよりはキャラクターというべきか。それなのに、飲み会ではキャピキャピでチャキチャキでバリバリである。このギャップがまた楽しめる、不思議な授業者である。

今回の授業は「わすれられないおくりもの」を用いた主題把握の授業。登場人物を列挙させ、中心人物を設定し、更に中心事件をも設定してその前後の中心人物の変容を捉えさせて主題把握へと導く、典型的な「他教材転移型学力」を想定した授業である。

「活用型授業モデル」としては、今回の指導要領が最も典型的と捉えているであろう(ぼくの認識でいうと最も狭いレベルの)「活用」の授業である。

とはいえ、小集団で中心人物の変容点を自己決定させ、それを交流させて議論させる手法には安定感があった。現在、道内で最も多くストップモーション授業検討に晒されている授業者らしい、そして飲み会では普通の娘なのに授業になると不思議ちゃんになってしまう授業者らしい、独特の安定感と独特の雰囲気をもった授業だった。

こんなことを書いても彼女の授業を見たことのない読者にはまったく伝わらないことは百も承知なのだが、他に書きようがないのである。ただ、この雰囲気がおもしろいと評価されるのもおそらく今年度限りだろうから(笑)、来年度は別の世界を見せねばならない、彼女にとって勝負の年になるだろう。

なんか芸能人に対する評論みたいだが、こういう言い方が一番的を射ているように感じられる。

模擬授業8/森岡達昭先生

前回の記事の木下先生の授業講評でも書いたが、言語技術の項目を挙げることと、実際にそれを使って言語活動に取り組むこととの間にはかなりの距離がある。これも「これは教えたね、さあやってみろ」型の授業だった。

扱ったのは定番教材いぬいとみこの「川とノリオ」。しかも他社教科書で習っている「川とノリオ」未読の同い年の子に推薦文を書こうという発信型授業。この動機付けの施し方が外発型だったという問題点は解説者の石川晋先生が指摘した通り。

推薦文を書くうえでどのような言語技術(森岡先生は「アイテム」という用語を使用)が必要かを挙げさせ、それらを確認したうえで「さあ、書いてみろ」。言葉は悪いが、ちょっと乱暴な印象。ここにも木下先生同様、スモールステップの視点が欲しいと感じた。

これで夏から秋にかけて森岡先生の模擬授業を3本見せていただいたことになる。しかも、1本目は説明文、2本目は詩、3本目は物語と文種の異なる3本である。

夏の説明文の授業はよく練られていて及第点を超える提案性と安定感があった。しかし、2本目の詩と3本目の物語はどうも課題のほうが目立った感がある。

おそらく、文学教材に対する教材研究、それも教材解釈レベルの、もっといえば素材研究レベルの取り組みが不足しているのである。少なくとも文学教材については、もう少し教材自体と格闘する経験を積んだほうがいい。

授業技術や授業者としての語りについては、回を重ねるごとに著しい成長が見られているので、そろそろ授業理念的なことと教材研究的なことにも取り組むべき時期が来ているということだ。ちゃんと読めていれば、授業が変わってくるはずである。

模擬授業9/坂本奈央美先生

夏の二つのイベントのそれぞれで1回ずつ模擬授業をした坂本先生。また、その前に6月にも函館で彼女の模擬授業を受けたことがある。今回はぼくにとって4回目の彼女の授業である。

あまり口数の多くない人なので(ぼくの前だけなのかもしれないが)、意見を求められて助言しても、正直、彼女が理解しているのか理解していないのか、これまで、ぼくにははかりかねているところがあった。

しかし、今回の模擬授業を見て、前に指導されたことを彼女がほぼ完璧に理解していたことが証明される形になった。指導されたことはほぼすべて克服されていた。夏から秋にかけて最も歩幅大きく成長したが見られたのは間違いなく坂本先生である。正直、目を見張るほどに驚かされたというのが実感である。夏と今回と、彼女の授業を両方見た方は同じ感想を抱いたに違いない。それはそれは見事な「大変身」である。

佐藤雅彦の論理クイズを導入に紹介して意欲を大きく喚起する。その解答論理を書くという目的を設定する。クイズがおもしろいので、参加者の意欲は頂点に沸騰している。

そこに「クジラの飲み水」という説明文教材を提示して、論理構成を明らかにする。しかも使いたい構成を取り出させるようにと教材をリライトしてくる念の入れようである。それも「問題提起」「仮説1」「仮説2」「結論」「まとめ」の五段構成というのだからおもしろい。これを提示し、この構成で論理クイズの正解論理を説明させようというわけである。

授業展開としては見事というほかない。

ただし、すべて褒められるかというとそうではない。車の両輪の一方である授業構成は素晴らしかったものの、「クジラの飲み水」の五段構成はぼくから見ると誤読である。しかも、「問題提起」「仮説」「結論」まではいいとして、「まとめ」というレベルの異なる用語が並列されているのもまずい。「結論」と「まとめ」はどう異なるのかが最後まで提示されなかったし、それが参加者にはわからなかったはずである。彼女の言いたいこと、彼女の捉えはわからないではない。しかし、一般化できない学習用語は学習用語として成立しない。こういう用語整理は多くの視点から検討されなければならない、実はかなり高度な営みであるということを、おそらく彼女は理解していない。それが今後の大きな課題になるだろう。

とはいえ、夏から秋にかけての坂本先生の成長は、普通の人なら3年かかるような飛躍成長である。次の機会がもしも今回レベルの提案になったとしたら、それは末恐ろしい若手教師ということになる。

どっちに転ぶか、いまから楽しみである。

ちょっとプレッシャーをかけ過ぎだろうか……(笑)。

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書くこと

【1日目】

模擬授業4/高橋裕章先生

模擬授業者が一人、家庭にご不幸があって登壇できなくなり、急遽ピンチヒッターとして裕章先生に御登壇いただいた。内容は短歌の創作指導である。

結句の7音を固定し、数種類の初句から四句をつくらせる。それを交流し合う。更に推敲する。評価観点をシェアリングする。授業構成としては文句のつけようのない内容である。

適度な縛り、自己内ブレイン・ストーミング、選材による評価観点の意識化、交流による拡充、シェアリングによる抽象化、批評意識の醸成。キーワードを挙げればこの6つくらい挙げられようか。

運動会や学習発表会後の行事作文と同様、短詩系の創作というのも「活動あって指導なし」に陥りがちな領域である。この点に一石を投じる提案になっていたと感じた。

模擬授業5/木下尊徳先生

「アーチ橋の仕組み」から接続詞を抜き出して順序立てて説明することの大切さを確認。その後、紙鉄砲を実際につくってみて、その折り方を順序立てて小学校1年生に説明する文章を書かせる。更に出来上がった説明文を互いに読み合わせ、推敲させる。その際、順序がわかる表現を赤丸で囲ませ、1年生にわかりやすい言葉づかいを赤四角で囲ませ、わかりにくい表現には波線を引かせる。おおざっぱにいえば、こういう授業である。

授業構成としては典型的な発信型授業といって良いだろう。また、小学校1年生という相手意識の具体化も良い。

ただし、紙鉄砲は初めて書かせるには少々難易度が高いのではないか。また、ワークシートが粗雑な感じというか、寂しい感じがして、どうも意欲喚起に貢献していない。

教材・教具はどんな小さなもの、細かなものでも、授業推進の、或いは学習者の意欲喚起の仕掛けになっているのだという意識が欲しいと感じた。あまりごちゃごちゃ飾るのもダメだが、シンプルすぎるのもよくない。

また、言語技術(ここでは構成)を理解することと、それを使ってみることとの間にはかなりの距離があるのだということをもっと理解して、スモール・ステップで刻むべきところは刻むという意識が欲しい。基本的に「これは教えたね、さあやってみろ」型の授業になってしまっていた感がある。これでできる子どもは6割、戸惑いながらもついていく子が2割、2割は置いていかれる授業に見えた。

ただし、これまで見た4本の木下先生の授業の中ではピカイチ。木下先生の飛躍を示した授業だった。理念的なことを勉強することが課題か。

模擬授業6/小木恵子先生

小木先生の授業はいつも教材開発の視点に驚かされる。今回の教材開発は二点。

一つは市販の薬の取扱説明書を教材化したこと。薬の説明書がどのような論理で書かれているか、用語のレベルがどの程度統一されているか、生命の危険と直結しているだけにこうした細かいところまで配慮されているはずだとする仮説のもとに検証し紹介する。こうしたところに視点を向ける発想がいい。

ただし、これは日常的に触れる題材を教材化しようとする試みであり、10年前ならいざ知らず、現在はこうした教材開発の視点がかなり普及してきていて、基本的にこうした視点は国語教師の1割から2割はもっているだろと思う。

驚かされたのはもう一つの教材開発の視点のほうである。なんと休んだ教師の代わりに自習監督してはいったときに見た、自習課題の難点を教材化したのである。しかも他教科である。こんな発想で教材化を試みたのは、おそらく全国で小木先生以外にはいないのではないだろうか。この人の同僚はおいそれと自習課題もあずけられない(笑)。

授業としては、この自習課題に取り組ませ、その難点を指摘。生徒の自習課題の取り組みを配付して問題点を共有化したうえで、情報のレベルに合わせて視覚化を旨とした再構成をさせるワークシートに取り組ませる。

小木先生が「図解論理教育」と名付けて、プログラム学習的にPISA型学力の全体像を提示しようする試みの一環である。今回も非常に安定感のある、効力感の高い授業だった。

彼女の「図解論理教育」ワークシートの完成を待っている教師は多いはずである。早く完成させて欲しい(笑)。

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話すこと・聞くこと

【1日目】

模擬授業1/近藤真司先生

こういう場では初登壇である。詳しくは個人情報の問題もあるので書かないが、苦労人である。年齢も既に30代後半に突入。そういう授業者である。

初登壇とは思えない落ち着き。技能的な段階を踏まえた見事な授業構成。当日の朝5時過ぎまで授業準備をしていたという真摯な姿勢。どれもこれも頭の下がる思いがした。ある種、怖ろしいまでの〈可能性〉を感じさせる、ちょっと変人の混じった好青年である。

模擬授業連発型研究会ではなく、本人も主張できる研究協議の場で、彼の授業づくりの発想について、彼自身の口から聞きたいと本気で思わせてくれる授業提案だった。

授業としては、スピーチ活動から技術を抽出し、その技術を用いて対話型の説明活動をさらる実践。言語技術を明らかにしてその汎用性を実感させようという意図が明確だった。これは「活用型授業」の一つの典型といえる授業モデルである。

模擬授業2/冨樫忠浩先生

5年前に初めて逢って以来、おもしろい若者だという印象をもっていた。これまた個人情報の問題があるので詳しくは書かないが、彼も苦労人である。

インタビューの型を学習用語を明確にしながら教えるという、ある種「典型化」を模索した授業であったが、想定している相手意識・目的意識と方法との間にまだ緻密な検討が施されていない、との感想を抱いた。

音声言語は場所と時間を共有した者同士の言語活動である。場を共有していない電話でさえ、時間だけは共有する。そういう領域である。

ということは、音声言語活動というものは、コミュニケーションを図る者同士の関係性、場の状況性、それらによって形成される空気の支配力、更には高度なコミュニケーション能力としての臨機応変性、こういった諸々の条件に鑑みて言語活動を組まねばならない領域である。そういう言語活動を扱うのに、基本的に「書かれている教材」のみで指導しようとしたことに本質的矛盾がある。

もちろん、初期指導としての〈型〉を教える段階であることは重々承知のうえだが、それにしても「初期指導だから仕方なく書いたもので教材にしている」という意識を強くもっていれば、もう少しそれぞれの指導事項の中に、音声による活動段階に入っても絶対的に必要な指導事項と、将来的には動的な活動にしたいのだが現段階では仕方なく静的・固定的な扱いで……と割り切っている指導事項とのニュアンスの違いが参加している者に感じられて良いはずである。

自らの開発した教材、或いは自らの提案する主張の形を、少々狭い視座で価値付け、評価していることが垣間見られた。

ただし、授業の語りや指導言のブレのなさ等、授業技術の明快性・的確性にはかなりレベルの高いものが見られた。驚くなかれ、彼はこれで今年度、なんと初任者研修を受講しているのである。これまで彼が受からなかったことが不思議でならない。

模擬授業3/浅野克実先生

確か「研究集団ことのは」に属して12年目を迎えるはずである。これまで自信のなさが垣間見られる登壇が多かったのだが、今回は「ことのは」が開発した古典的実践を修正しての模擬授業。初めてといっていい、安定感のある登壇だった。

中学校入学直後の1年生に互いにインタビューをさせ、紹介文を書かせ合わせる実践。これだけを言うとよくある実践のようだが、発信の目的を明確にもたせたうえで対話型の発信を活動として仕組むという二重の発信型授業になっていたこと、インタビューのキモともいえる「事前情報」の収集について配慮がなされていたこと、インタビューが事前情報ネタに基づいて動的に構成されていて「対話」が世つい率するように配慮されていたことなど、授業構成として秀逸なものがあった。

動機付けへの意識、つまり、インタビューをし合うことの必然性をつくる、という配慮がなされていれば、インタビュー授業の「典型」として形づくることができただろうと思う。そこが惜しいところである。

しかし、授業構成としては及第点をはるかに超える。

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「さっぽろ・秋の陣」終了

「さっぽろ・秋の陣」が終了しました。

同一テーマで25分の模擬授業が3本、プラスその3本に対する3~4人の授業解説が15分、締めて90分。これが一日に4サイクル。このサイクルが二日間連続である。

つまり、二日間で25分の模擬授業が24本、授業解説が2時間ということになる。実際にはすべての解説がすべてのコマで少しずつ延び、おそらく解説時間は二日間で3時間くらいあったに違いない。

二日間で13時間もの時間を「活用とは何か」「活用型の授業とはどういったものなのか」を考えることにつぎ込んだわけである。しかもすべて具体的な授業の形で、解説もあくまで授業から離れない形で。

決してネタ収集するための24本の模擬授業ではない。すべての模擬授業が「活用とは何か」「活用型授業の典型とはどういったものなのか」を考えて提案されていた。模擬授業の形を取りながらも、提案自体は研究的であるとともに実践的であった。

ぼくは珍しく、ほとんど会場から出ることもなく、24本のすべてを見た。そのほとんどに解説も施した。ほとんど退屈する時間はなかった。頭をフル回転させた二日間だった。

これまで、一日日程で模擬授業12連発という企画を何度かやってきた。おそらく過去5回くらいやったはずだ。しかし、12連発と24連発とまったく違った。二日日程で参加された方の中に同じことを感じられた方がおそらくいらっしゃると思うのだが、24本もあると、リンクする授業がかなり出てくる。あの授業で話題になっていたことは、この授業ではこういうふうに克服されている。あの授業で成功した原理は、この授業はかくかくしかじかという理由で成功しなかった。こういったリンクが次々に意識されるようになったのである。

一日目は若手、或いは登壇経験の浅い者、二日目はベテラン、或いは登壇経験の多い者というように日程を組んだこともかなり機能したように思う。おそらく二日目の登壇者は気が気ではなかったはずだ。一日目に話題になっていることは克服したうえでの授業をしなければならない……そんなプレッシャーを感じていた人も多かったと思う。実際にはそんな必要はないとぼくは思っているけれど……。

嬉しかったのは、若手が今年8月のブラッシュ、夏の陣での経験を活かして、かなり作り込んだ提案性の高い模擬授業をもってきたこと。そして、プレゼン力においても夏と比べて格段の進歩を見せていたこと。正直驚いた。ぼくにとって、一日目はこの驚きの連続だったといっても過言ではない。

しかし、二日目はもっと驚いた。さすがにベテラン・中堅というべきか、昨日とは比べものにならないほどの安定感。私はこの領域のここを明らかにする授業をもってきました……という提案者の想定範囲がよく見えるものばかりが並んでいた。総じて、二日目の提案はものすごく「研究的」だった。これも正直驚かされた。

模擬授業12連発……という企画はもともと、登壇者を増やし、若手も含めて研究仲間に登壇経験を積ませることを意図して始めた企画である。しかし、今回の二日間を見ていて、正直、「ああ、この手の企画の役割はそろそろ終えたな」と感じた。登壇者がある程度自立し、研究的提案ができるところまで来ている。もう25分とか30分とかの模擬授業をしてもらって、ぼくらが解説を加えるといった形の提案ではなく、彼らに必要なのは50分とか60分とか90分とかいった講座による研究提案だな、と感じたわけだ。

もちろん個人差はある。しかし、個人差はあるにしても、自分の模擬授業を具体例として、某かの研究的な主張をすることができるレベルに達している。もう、いくらベテランだからといって、彼らの研究提案に対して他人が解説を施すという形は失礼である。そう思うレベルになっては来ている。そう感じたわけである。

そろそろ若手と中堅、中堅とベテランとがそれぞれ本気になって授業づくりの在り方を議論していい時期にはいったのだ、ということである。実感的に、というか直感的にこう思えたということは、おそらくはそういう地点まで来たのだということだ。

ぼくにとって、この二日間はいい二日間だった。同時に、北海道の民間教育における国語……というか、この世界の国語にとって、ぼくの役割もそろそろ終わりに近づいてきたな……というのが実感である。

あとは若手、というか中堅が若手を引っ張りながら、新たな道を模索する時代が来るはずである。我々世代も負けずに我々世代なりの、或いは「研究集団ことのは」としての提案を第一義に考えた研究会づくりにはいっていいな……とも感じた次第である。

冨樫夫妻の非常に気持ちのいい提案、そして初登壇の近藤くんのすがすがしい提案、木下くんや森岡くんといった十勝組の精一杯の提案、浅野くんや平山くんに垣間見られた安定感の萌芽、細山くんに見られたキャラクターを前面に押し出してそれを活かし切るという独自性、前回の反省を活かして見事なパッケージ化を見せてくれた坂本さんの提案、水戸さんが見せてくれた新たな授業観への挑戦、どれもこれも〈実践研究〉というものを体現する姿だった。

見事なものである。

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どうしようもなく長い時間というものがある

どうしようもなく長い時間というものがある。

退屈だからとか疲れているからとか、そんな現象的な理由など何もない。ただ時間が長いのだ。自分という存在を有意義に心象させるものが何もない、いまこの自分に価値を見出させてくれるものが何もない、そんなときただ無意味に時間は過ぎていき、そしてそんなとき、ただ時間の長さだけが意識される。

今週はまさにそういう一週間だった。

むだな会議、むだな打ち合わせ、待ち時間、職員室から離れられない電話待ちの十数分、そんな時間が日に何度もある。自分のペースで進められる仕事は授業だけ。そんな一週間だった。

本を読む時間だけはずいぶんとあった。今週読んだ本は7冊。新書を5冊に小説を1冊に学術書が1冊。これらは有意義といえば有意義だったのだが、7冊も読んだ割には生産に結びつくものが1冊もなかった。生活の時間に無駄が多い分、活字を追う思考も活性化しなかったのかもしれない。つまり、別の機会に読んでいれば生産に結びついたのかもしれない。そう思わないでもない。

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受付開始!さっぽろ・秋の陣

第4回累積科学国語教育研究大会
道内実践家 模擬授業24連発!
新学習指導要領目前/言語活動例の具体化
~「活用力」を高める国語科授業モデル~
                                           
いよいよ新学習指導要領の実施まで1年半となりました。「習得」「活用」「探究」の授業モデルもかなり具体化してきました。

今回の累積国研は、国語科で培う「活用力」とは何なのか、研究を進めてきた道内実践家のみなさんに模擬授業の形でご提案いただくことで、楽しく、実感を抱いた学びを体験することができます。また、道内有数の実践家に各模擬授業の解説をいただくことで、実践と理論との両面から学ぶことができます。

どうぞお誘い合わせの上ご参加下さい。

                                           
【 日 時 】2010年10月9日(土)~10日(日) 9:10~16:50

【 会 場 】札幌市コンベンションセンター206研修室

【参加費】両日参加5,000円/1日参加3000円

【 定 員 】60名(登壇者を含みます)

【日程】

1日目/2010年10月9日(土)9:10~16:50

9:00~  9:10 受 付
 9:10~  9:15 開会セレモニー

「活用力」を高める
  「話すこと・聞くこと」の授業モデル
 ~説明・報告/話し合い・対話・討論~
  9:15~  9:40 模擬授業1/近藤真司(石狩・小学校)
  9:40~10:05 模擬授業2/冨樫忠浩(胆振・小学校)
10:05~10:30 模擬授業3/浅野克実(石狩・中学校)
10:30~10:45 模擬授業解説
 【解説者】山口淳一・太田充紀・小林 智・堀 裕嗣

「活用力」を高める「書くこと」の授業モデル
 ~創作/報告・記録・意見/視覚化~
11:00~11:25 模擬授業4/兒玉重嘉(札幌・小学校)
11:25~11:50 模擬授業5/木下尊徳(十勝・小学校)
11:50~12:15 模擬授業6/小木恵子(札幌・中学校)
12:15~12:30 模擬授業解説
 【解説者】山口淳一・山寺 潤・小林 智・石川 晋

「活用力」を高める「読むこと」の授業モデル
 ~文学的文章・説明的文章を読む~
13:30~13:55 模擬授業7/水戸ちひろ(胆振・小学校)
13:55~14:20 模擬授業8/森岡達昭(十勝・小学校)
14:20~14:45 模擬授業9/坂本奈央美(渡島・中学校)
14:45~15:00 模擬授業解説
 【解説者】山寺 潤・加藤恭子・山下 幸・石川 晋

「活用力」を高める「読むこと」の授業モデル
 ~情報源として読む/紹介するために読む~
15:15~15:40 模擬授業10/細山 崇(上川・小学校)
15:40~16:05 模擬授業11/冨樫いづみ(空知・小学校)
16:25~16:30 模擬授業12/平山雅一(空知・中学校)
16:30~16:45 模擬授業解説
 【解説者】高橋裕章・大野睦仁・山下 幸・堀 裕嗣

2日目/2010年10月10日(日)9:10~16:50

9:00~ 9:10 受 付
  9:10~ 9:15 開会セレモニー

「活用力」を高める
  「話すこと・聞くこと」の授業モデル
 ~説明・報告/話し合い・対話・討論~
  9:15~  9:40 模擬授業13/太田充紀(上川・小学校)
  9:40~10:05 模擬授業14/柳谷直明(空知・小学校)
10:05~10:30 模擬授業15/小林 智(旭川・中学校)
10:30~10:45 模擬授業解説
 【解説者】高橋裕章・南山潤司・石川 晋

「活用力」を高める「書くこと」の授業モデル
 ~創作/報告・記録・意見/視覚化~
11:00~11:25 模擬授業16/山口淳一(札幌・小学校)
11:25~11:50 模擬授業17/山寺 潤(檜山・小学校)
11:50~12:15 模擬授業18/人見 誠(東京・中学校)
12:15~12:30 模擬授業解説
 【解説者】大谷和明・南山潤司・堀 裕嗣

「活用力」を高める「読むこと」の授業モデル
 ~文学的文章・説明的文章を読む~
13:30~13:55 模擬授業19/加藤恭子(胆振・小学校)
13:55~14:20 模擬授業20/藤原友和(渡島・小学校)
14:20~14:45 模擬授業21/對馬義幸(札幌・中学校)
14:45~15:00 模擬授業解説
 【解説者】大谷和明・高橋裕章・堀 裕嗣

「活用力」を高める「読むこと」の授業モデル
 ~情報源として読む/紹介するために読む~
15:15~15:40 模擬授業22/大野睦仁(札幌・小学校)
15:40~16:05 模擬授業23/三浦将大(渡島・小学校)
16:25~16:30 模擬授業24/山下 幸(札幌・中学校)
16:30~16:45 模擬授業解説
 【解説者】高橋裕章・石川 晋・堀 裕嗣

【講師紹介】

Photo_3 南山潤司

(みなみやま・じゅんじ/札幌市立南小学校・TT担当)

北海道教育大学札幌校卒。札幌市で長く小学校教諭として勤務した後、一昨年定年退職。TTとして各学級に入って少人数指導に勤しむ毎日を送り始めて2年目。かつての同僚、教職に就いた教え子等とともに「教育サークルDNA」を設立。サークル名「DNA」(=だれでも・なんでも・あり)が示すとおり、主義主張にこだわらない研究姿勢は、札幌近郊を中心に慕う者が多い。主著:『学級経営力・高学年 学級担任の責任』『聞き方スキルを鍛える授業づくり』(ともに明治図書)など著書多数。

1_2大谷和明

(おおたに・かずあき/札幌市立もみじ台南小学校・教頭)

北海道教育大学函館校卒。道南を中心に公立小学校教諭として勤めた後、札幌市内の中学校・小学校教諭を歴任。二十代の頃に「教育技術の法則化運動」に出会い、教育サークル「道南フリートーク」を設立。国語科授業においては、専門の理科を活かして、「オレのは自称『科学的冷徹読み』だ」と謙遜しながら、文相互・段落相互のつながり、叙述の適否、科学的事実との整合性など、徹底的に科学的視点による教材研究に基づいた授業を展開。主著:『確かな国語学力マスターカード』『学級を「学びの共同体」にしよう 小学校5~6年編』(ともに明治図書)など著書・編著多数。

Shin石川 晋

(いしかわ・しん/上士幌町立上士幌中学校・教諭)

北海道教育大学旭川校修士課程・国語教育専修修了。NPO法人「授業づくりネットワーク」理事/「教師力BRUSH-UPセミナー」事務局長/「日本児童文学者協会」など。学生時代に「授業づくりネットワーク」運動に参加し、教職に就いてからは北海道の中心的な実践家として活動している。ディベート・メディアリテラシー・ワークショップ型授業など、常に時代の先端的な授業の在り方、教育の在り方を取り込み、北海道の民間教育を活性化している第一人者。主著:『中1ギャップ』『クラスに安心感が生まれるペア・グループ学習』『中学校国語の授業ミニネタ&コツ』(以上学事出版)、『ワークショップ型国語で授業が変わる 中学校編』(図書文化)など著書編著多数。

Hori堀 裕嗣

(ほり・ひろつぐ/札幌市立北白石中学校・教諭)

北海道教育大学札幌・岩見沢校修士課程・国語科教育専修修了。「教師力BRUSH-UPセミナー」代表・「研究集団ことのは」代表・「実践研究水倫」研究担当・「日本文学協会」常任委員・全国大学国語教育学会・日本言語技術教育学会など。学生時代、森田茂之に師事し文学教育に傾倒、以後、1950年代の日文協実践、生活綴り方実践を中心に研究を続ける。1991年、「実践研究水輪」に入会。また、1992年、森寛・對馬義幸らとともに「研究集団ことのは」設立。「文学教育」と「言語技術教育」との融合を旗印に長く国語科授業の研究を続けている。主著:『全員参加を保障する授業技術』『発信型授業で「伝え合う力」を育てる』『絶対評価の国語科テスト改革・20の提案』『学級経営力を高める~感化主義の学級経営』(以上明治図書)など著書・編著多数。

その他、高橋裕章(札幌市立藻岩小学校)、大野睦仁(札幌市立厚別通小学校)、山寺潤(今金町立今金小学校)、加藤恭子(伊達市立東小学校)、山口淳一(札幌市立藻岩北小学校)、太田充紀(名寄市立智恵文小学校)、山下幸(札幌市立上篠路中学校)、小林智(旭川市立旭川第二中学校)ら、全道の実践家が模擬授業の解説をします。

【お申し込み】

□お申し込み方法は以下のとおりです□
以下の7点をお書きの上,FAXがEメールにて下記まで御連絡ください。
1.氏名/2.勤務校/3.郵便番号/4.住所/5.電話番号/6.FAX番号(ない場
合には「なし」と明記)/7.メールアドレス(なし場合には「なし」と明記)

小木恵子(こぎ・けいこ)
FAX (011)866-6422 E-mail : YFA39060@nifty.com

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バイオリズム

インプットしたい時期とアウトプットしたい時期とにはバイオリズムがある。アウトプットを中心に過ごしていると生活が荒れ、実践が荒れ、思考が荒れる。何か大きな開発をしたいと思いついたときには、その開発に集中したほうがいい。

石川のバイオリズムとぼくのバイオリズムはいつもすれ違ってきた。ぼくがインプット中心で引きこもっているときに彼は盛んにアウトプットし、ぼくがアウトプット中心に動き回っているときに彼は引きこもって何かを胎動させようとする。

石川は石川で何か考えるところがあるのだろう。

http://suponjinokokoro.blog112.fc2.com/blog-entry-442.html

取り敢えず、ぼくはいま、アウトプットの時期である。必要経費だけでどこにでも行く。場合によっては必要経費に満たなくてもどこにでも行く。そういう気分だ。

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ただ質が異なるのだ

学校祭が終わったのが先週。今週はもう全校を挙げて合唱練習一色に染まっている。教師も生徒もどうしてこう行事が好きなのか、本音では行事があまり好きではないぼくはちよっと不思議に思う。

しかし、過去、ぼくに担任された生徒もその保護者も、ぼくが本音では行事嫌いであることなどきっと気づかなかったに違いない。自分でいうのも何なのだが、そういうところだけは、ぼくはうまい(笑)。

まあ、ぼくは「結果主義者」であり「成果主義者」だから、何事も「結果を出す」ということにはこだわる。だから、学校祭ステージにしても合唱コンクールにしても、それなりの〈形〉はつくる。だから、生徒や保護者にはぼくが一生懸命やっているように見えるだけだ。

ぼくの前任校は学校祭と合唱コンクールとが同時開催の学校だった。

あれはきつい。正直に言えば、地獄だった。特に合唱がきつい。毎日30分きっかりの練習時間で3週間、それでそれなりの〈形〉にしなければならない。30分経ったら学級をばらして学校祭準備をする関係で、それ以上合唱練習の時間を延長することができないのだ。

裏話をすれば、毎日30分限定で3週間しか練習しないということは、総練習時間が7~8時間だということである。まあ、学活や総合の時間も2時間くらい練習時間として割り当てられるから、実際にはもう少し多い。それでも10時間は超えないはずである。

10時間しか練習時間がないということは、実は生徒の力量(つまりメンバー構成)がよほどしっかりしていない限り、合唱の技術面での力量の高い担任が勝つということになる。現状の課題がわかって、それを矯正するための練習方法を知っている者だけが短時間で修正することができる。

もちろんそれ以前に歌う意欲の喚起、つまり、声を出さずに歌わない生徒がいる……という状態を脱する必要があり、そこには合しよう技術のみならず学級担任の総合的力量が必要になるのだが、前任校は生徒たちの合唱コンクールに対する意識が比較的高く、この面で苦労するということがほとんどない。そうなると、合唱をそれなりに知っている者だけが生徒を導くことができる、という構図が生まれる。

おまけに前任校の大きな特徴として、合唱練習の時間において各学級に差がない。練習の〈量〉が同じなら勝負は練習間の〈質〉ということになる。これも技術的に優れている教師が成果を出しやすい理由の一つである。

もちろん、生徒がなかなか練習に取り組まず、教師に反抗してまともな練習にならないという場合がたまにはある。しかし、それは合唱練習が問題なのではなく、その担任のふだんの生徒への接し方があまりにもよくないのだ。

ところが、ぼくの現在の勤務校を含めて一般的な中学校は、確かに放課後に30分程度の練習拘束時間はあるものの、その後の放課後練習は基本的に自主練習になる。しかも5時間授業の日なら拘束時間のあと、更に練習可能時間が1時間以上ある。

生徒の中には「合唱コンクールなんてどうでもいい」と考えている生徒も少なからずいるわけで、彼らを形式的には「自主的」に、本質的には「強制的」に、要するに名前だけ「自主練」と呼ばれる放課後練習に取り組ませなければならないわけだ。要するに強制的に居残りさせるわけである。

こうなると、勝負は学級担任の音楽的技術、音楽的センスなどではなく、学級担任の総合的力量にかかってくる。放課後練習に残ることをみんなが納得するような学級をつくった者が勝つわけだ。

しかもぼきの現任校のように各学年に8クラスもあるような学校になると、最初から諦めている担任も少なからずいる。3~4クラスはそうなる。

そういう学級は30分の拘束時間で生徒を解放してしまう。隣のクラスは帰っているのに自分のクラスはまだ練習している……同じ学校でありながらこの差別は何なのだ……合唱コンクールに意義を見いだせない生徒たちがそう考えるのは必然である。

中にはその放課されたクラスに登下校をともにしている友人がいるとか、その放課されたクラスに部活のダブルスの相棒がいるとか、そんなことさえある。そういう生徒たちの個別事情を後ろに引かせて、残って合唱練習することを納得させるには学級担任にかなりの力量が必要である。

そこに横たわっている問題は、既に合唱コンクールでどうするかなどという問題ではない。まさに4月からどういう経緯を経てその学級の「いま」があるのか、4月からどういうスタンスで学級担任が生徒たちの前に立ってきたのか、学級担任が生徒たちに向けて吐いた言葉のすべてと、学級担任が生徒たちの前で見せた行動のすべてとが、その学級の合唱コンクールへの取り組みを決める。そういう問題になる。

何を言いたいかというと、前任校のような決まった時間、決まった期間の練習で行われる合唱コンクールと、現任校のような自主的な練習に多くを期待する合唱コンクールとでは、同じ合唱コンクールでもまったくの質の異なるものになるのだということである。

どちらが良い悪いではない。ただ質が異なるのである。

前任校タイプから現任校タイプに転勤した教師も、現任校タイプから前任校タイプに転勤した教師も、この違いはよく認識しておいたほうがいい。前任校タイプは、担任に力量があるとか、いい学級だからとか、担任と生徒の人間関係ができているとか、そういうことでは勝負が決まらない。前任校タイプの学校では、学級担任は合唱について勉強しなければならない。そこがきついところなのである。

もう一度言う。どちらが良い悪いではない。ただ質が異なるのだ。

今年も学校中に歌声の響く、そしてた教師はいやでもそれを聴き続けなければならない、気の狂いそうになる合唱の季節がやってきた。やれやれ……。

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距離感

学校祭が終わり、楽しみにしていた開校記念日がらみの三連休も終わってしまい、特別何も起こることのない日常を楽しんでいる。

金曜日は二日酔いの頭を振りながら溜まっていた録画ビデオを見、土曜日は1週間後にせまった研究会のプレ検討をし、日曜日はオアコン業者と打ち合わせをした。こんなことをしているうちに三連休などというものはすぐに行ってしまう。追いかけようもないし、追いかけようとも思わない。

既に金を払ってしまった大型のエアコンを我が家にはつりつけるスペースがないことがわかり、月曜日は授業のあと生徒指導研修会をさぼって再度電気屋に行く。火曜日も特に忙しいということもなく、後期役員選挙活動をしている生徒会役員と談笑しながら放課後を過ごす。必ずしも自分を必要とはしていない空間で、必ずしも自分が必要していない事どもに時間を割いている自分が決して嫌いではない。

実は明日も、明後日も、そして明明後日も、同じような一日が続く予定である。

一つだけ嬉しくもあり、反省すべきことだとも感じたことは、ある生徒会役員が選挙に出ることを迷っていて「堀先生がどうしても自分を必要だというならば出る」と言ったことと、「堀先生が生徒会をはずれるなら自分も立候補しない」と言った生徒が二人いたことである。

個人的には嬉しい台詞と受け取れなくもないが、生徒会役員生徒にこういう台詞を吐かせる顧問はダメである。少なくともぼくの仕事観には合わない。仕事というものは、次の人が引き継げるように構成していくことを旨とする。そういうものである。

こういった生徒の台詞を意気に感じてしまう教師が多い。これが教師の醍醐味だなどと勘違いする教師も多い。しかしそれは違う。ぼくらが育てなければならないのは、人間関係と仕事とを区別して生きていくことのできる「社会人の卵」である。そして、こういった情緒的な台詞というのは様々な条件が重なったうえでの「その場の空気」がいわせるものであり、それほど長続きするものではないということである。情緒とはそういうものだ。

かつてぼくにも、自分が担任する生徒たちを心の底から愛し、彼らのためなら何でもできると思っていた時期がある。卒業させたあとでさえ、生徒たちの相談に乗り、自己満足にひたっていた時期がある。時間など気にせずにパフォーマンスの向上だけを目指して真夜中まで部活を指導していた時期もある。

しかし生徒に対してそうした指導をしなくなり、適度な距離感を意識して指導をし始めたとき、自分がそれまで以上に生徒を育てていることに気がついた。

教師は生徒との適度な距離感を意識しなければならない。

教師は生徒との適度な距離感をつくれなければならない。

自分が生徒とも保護者とも同僚とも、適度な距離感をつくることが苦手だからこそこう思うのかもしれない。ぼくはいまだに、ちょっと気を抜くと「べったり型教師」に陥ってしまう。

反省の弁である。

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学校祭

29日・30日と二日間の学校祭を終え、今日は開校記念日。三連休である。

悪くない学校祭だった。「+α~High Quality」を謳い、教師にも生徒にも発表物の質を向上させることを第一義に考えてもらった。どの学級も質的に見違えるようなものになった。

劇もダンスもよく練習され、通しリハーサルが念入りにおこなわれていることを伺わせた。教室発表も参加型発表が多く、生徒たちの足を止めさせる発表物が並んだ。ステージバックや廊下、バザー会場の装飾にもこまかなこだわりが見え、きれいだった。特に3年生のステージ発表に躍動感が見えたのに驚いた。

閉会式が終わり、生徒たちが退場した体育館にゴミが一つも落ちていないのにも驚かされた。音響トラブル、照明トラブルといった、学校祭にありがちなトラブルが一件もなく、裏方の意識の高さも感じられた。ゴミの分別も例年になくなされており、そもそもゴミを減らそうという意識のある発表物が並んでいた。その最終打ち合わせでの教師の顔はくたくただったけれど……(笑)。

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