土曜日の道徳の講座をつくっていて、上篠路中学校時代に文科省の指定(平成17~18年)を受けた「命の教育」関連の文書を繙いている。よくやったといえばよくやったとも言えるし、やっつけ仕事と言ってしまえばそうも言える。
ただぼくの部屋には「生命の尊重」を題材とした教育書、道徳教育関連の教育書、そして死生観に関する思想書等の書棚4段にわたるコーナーがある。あの指定研究以来、一度も開くことのない本たちである。おそらく20万円くらいはこの研究のために本を買ったはずである。
いま考えると、なんとも馬鹿馬鹿しい話なのだが、まあ良しとしよう。決してぼくの教師生活にとってマイナスになったわけではないのだから。
土曜日の講座の中身には入らないので、ついでだからここに理念に関する記述を再録しておく。
【引用開始】
1.子供の変容と「心の教育」
中学校・高校を中心とした校内暴力が全国的に広がり,社会問題化したのは1980年代初頭である。また,いわゆる「葬式ごっこ」を象徴的事件として,「いじめ」が学校教育の重要な問題として認識されたのは1980年代の中庸である。
この時代,こうした子ども問題・学校問題は主に管理教育や受験競争によって子ども達が抱くストレスを要因とする論調が多多数を占める傾向にあった。
一部に従来の生活指導・生徒指導のノウハウでは立ちゆかないほどに子ども達が変わってきたとする,いわゆる「子供変容論」の提起が教育現場からあり,マスコミもそれを取り上げたが,社会的機運の大勢となるには至らなかった。教師による体罰の社会問題化,いわゆる「校門圧死事件」を象徴とする管理教育批判の機運が,こうした学校現場の声をかき消してしまったのである。
そうした中,1990年代半ばになって,現代の若者気質が懸念されるようになり,「心の教育」が学校教育の課題として浮上し始めた。とりわけ1997年の神戸児童連続殺傷事件は,「心の教育」が現代の学校教育の最重要課題であるとする機運を高めた。
これを受けて中教審は1998年,「新しい時代を拓く心を育てるために」を答申,平成8年答申「生きる力」を育てる教育の核を為すものとして「心の教育」を位置づけることになる。
この間,1999年から「学級崩壊」「学校崩壊」といったキーワードが盛んに提起されるようになり,また,報道番組の討論会において「なぜ人を殺してはいけないのか」という素朴な疑問が高校生から提起されたことが話題となるなど,「子ども変容論」の機運を高めた。以来,学校教育行政は「心の教育」を学校教育の最重要課題の一つとして位置づけ,学校現場もその認識のもとに教育活動を行っている。
ただし,その後も黒磯の女教師刺殺事件,佐賀のバスジャック事件,長崎の幼児殺害事件,佐世保の小六女児刺殺事件など,神戸児童連続殺傷事件のように従来の認識を覆すような象徴的事件が起こり,教育行政と学校現場を戸惑わせている。殊に,これらの事件は少年事件の低年齢化・凶悪化の印象を社会に与え,「17歳問題」「14歳問題」「13歳問題」と心理学的な分析が施されるようになった。
一方,最近は学校教育を中心とした「社会の心理主義化」の現状を批判し,法整備による抑止効果を主張する声も高まりつつある。「心の教育」の現状は混沌としているというのが,最も正しい認識かも知れない。
2.「死への準備教育」と「いのちの教育」
前節において「子ども変容論」と「心の教育」との関係について概観してきたが,重要なのは,これらの問題の要所要所に,人間の生命を軽視するような象徴的事件が見られる点である。このことが最近の最近の若者が人間の生命を蔑ろにする傾向をもつように変容してきたのではないかという,社会的な不安につながっている。
もちろん,大多数の子ども達は生命が何よりも尊重されるべき対象であると認識し,また生命尊重の大原則に則った行動様式を身に付けている。しかし,これらの少年による凶悪事件頻発の印象,そしてマスコミ(主に映像文化と漫画文化)による生命軽視ととられかねない事例の多さとが相俟って,漠然とした生命軽視の不安を煽る時代機運が形成されていると言ってよい。
その意味で「命の教育」は,学校教育の最重要課題の一つとして認識されている「心の教育」の核心的な教育理念であると言える。
さて,こうした現状を受けて,現在,「命の教育」に関する二つの方向性がある。
第一に,アルフォンス・デーケンや鈴木康明が推進している「生と死の教育」,いわゆる「デス・エデュケーション」(或いは「デス・スタディーズ」)である。
これは様々な教材(生物学的な教材及び社会的事象を取り上げた教材等)を用いて生と死の関係について学習させ,「人間は死を前提とした存在であり,それ故に有限の生を充実させなければならない」とする認識に至らせるとともに,「充実した生へと行動変容を促すこと」を目的とした「命の教育」である。
その理念にも様々な諸派諸説があるが,一般的には「死を身近な問題として考え,生と死の意義を探求し,自覚をもって自己と他者の死に備える心構えを習得することは,いま,あらゆる面で最も必要とされる教育といえよう」(『生と死の教育』アルフォンス・デーケン著・岩波書店・2001年4月)に集約されると言って良い。
「デス・エデュケーション」は「死への準備教育」とも呼ばれ,①死へのプロセス,②人間らしい死に方,③死のタブー化を難点,④死への恐怖と不安への対応などについて,自殺や病名告知,スピリチュアル・ケア,ホスピス運動,安楽死,臓器移植,葬儀,死後への考察(哲学・宗教の立場)など,多様な観点からインパクトのある社会事象を教材化している。また,「死を前提とした生の輝き」を想定した概念であり,近世以後の日本文学の重要な主題と重なっており,一般的に日本人の精神構造には浸透しやすい教育理念であると言える。
第二に,近藤卓を中心とする「子どもといのちの教育研究会」の提唱する「いのちの教育」を推進する立場である。
この立場は「命」ではなく「いのち」と表記することに見られるように,死を前提として「死への準備としての生」を考えるのではなく,「いのち」=「生」そのものを問題化し教材化するとともに,体験的な学習を「命の教育」の中心に据えようとする立場である。
「いのちの教育」は「いのちのかけがえのなさ,大切さ,すばらしさを実感し,それを共有することを通して,自分自身の存在を肯定できるようになることを目指す教育的営み」(『いのちの教育』近藤卓編・実業之日本社・2003年3月)と定義され,狭義には「死や命と直接結びついた領域について,その知識や考え方や態度などをともに考える教育」,広義には「子どもたちのまわりの社会的,文化的,自然的なあらゆる環境との,出会い,かかわり,そして別れの体験を扱う教育」を意味する。
「自尊感情」(自分の生に対する理解)を育み「想像力」(他人の生に対する理解)を育てることを目的とし,集団で生に関する討議や体験を重ねる中で,思考のプロセスと心の動きのプロセスとを振り返り共有化すること(シェアリング)に重きを置くところに特徴がある。心理学的な「命の教育」理論と言える。
道徳授業における生命尊重のみならず,道徳教育におけるすべての項目,教科教育,保健教育食育教育,及び「総合的な学習の時間」など,ありとあらゆる場面で「いのちの教育」が行われているとする立場でもある。
双方の理念・目的・方法論等を精査すると,次のようなメリット・デメリットが考えられる。
【死への準備教育】
《メリット》
1.「死」の問題を内包する社会事象が広範に取り上げられており,(「死」の問題に関する限り)多様なテーマ(教材)が準備されている。
2.人間の生命を軽視するサブカルチャーに囲まれる子ども達に対して,現実の生と死の問題がインパクトをもって受け止められる可能性が高い。
3.道徳授業を中心としたカリキュラムを立てやすいとともに,時事的な問題を教材化・授業化しやすい。
《デメリット》
1.「死への準備」という理念自体が一面的であり,一部の哲学的・宗教的な理念に安易に結びつけられてしまう危険がある。
2.道徳授業を中心としたカリキュラム開発となるため体験的な学習に乏しくなり,子ども達の実感的・体感的な学習に乏しくなる傾向がある。
【いのちの教育】
《メリット》
1.子ども達の生活に密着した多様なテーマを体験的に扱うことにより,子ども達の実感に根ざした「命の教育」が実践される。
2.調査学習・体験活動・交流学習を中心としてシェアリングに重きを置くため,子ども達自らが学習内容を獲得する授業構造となる。
3.道徳授業のみならず,教科学習や特別活動,「総合的な学習の時間」と連携したダイナミックな学習として機能させられる。
《デメリット》
1.非常に広範なテーマに対して体験的学習を中心としてダイナミックに展開するため,学習事項が焦点化されない(インパクトがなくなる)危険性がある。
2.調査学習や体験学習を実施するにあたり,教科等との指導時数の調整や金銭的な裏付けの確保など,カリキュラム化するにあたり課題が多い。
子ども達の心に響く「命の教育」の推進に際して,こうした双方のメリット・テメリットに鑑み,できる限りインパクトが高く実感を伴うような,且つ現実的な条件に適した教材開発・カリキュラム開発が必要である。
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