夜明けの街で/東野圭吾
夏休みとか冬休みとか、長期休業日に本を読まない。おそらく21世紀になってずっとそういう生活になっている。
この夏休みもそうだった。なぜそうなるかといえば、長期休業はまとまった時間が得られるので、どうしてもインプットよりもアウトプットの生活が中心になるからだ。だから長期休業中の読書というのは原稿を書いたりPPTをつくったりするための〈調べ読み〉というか〈つまみ食い読み〉というか、どうしても情報を得るための読書になる。
本を読まない生活が数週間続くと、長期休業が終わってもなかなか本に手が伸びない。そんなこんなで、8月に入ってから一昨日まで、ぼくはただっの一冊もまとまった読書をしていなかった。
金曜日に上條さんを迎えに札幌駅に行ったことは前に書いた。そこで街行く人をウォッチングしたり、ドトールのバイトの姉ちゃんに「そりゃねえな…」と感じたことも。実はもう一つしたことがある。それは本を物色したことである。
とは言っても、本屋に行ったわけではない。札幌駅東改札口に弘栄堂書店の支店というか、キオスクに毛の生えたような本屋がある。雑誌・文庫・新書を中心に、せいぜい2千冊くらいしか置いていないだろう、小さな小さな大衆書店である。
時間があったので暇をつぶしているうちに熱中し始めた。特に欲しい本など一冊も置いていないような本屋なのだが、東野圭吾の文庫を1冊と新書を1冊買った。東野圭吾の方は本から離れた1ヶ月半のリハビリとして軽い文体のミステリーでも……と思ったからであり、もう1冊の新書はタイトルに惹かれたからである。
さて、東野圭吾のほうを昨日の夕方から読み始めた。7月下旬に出た「夜明けの街で」(角川文庫)という新刊である。3頁ほど読み進めたところで、「これは読んだことがある」ということに気がついた。文庫化される以前、おそらくは単行本が上梓されたと同時に読んだのだろうと思う。それでもまずまずおもしろかったので、ついつい最後まで読んでしまった。390頁ほどのそれなりの長編なのだが、夕方から読み始めてその日のうちには読み終えてしまった。
ずいぶんと前のことになるが、ぼくは東野圭吾の文体について「人間が描けていない」と批判したことがある。古いタイプの文学青年のような批判の仕方だが、東野には確かにそういう傾向がある。でも、この「夜明けの街で」は割とよく人間が〈描写〉されている。細かな心情の起伏とか、情景の移り変わりによって主人公の視点の動きを表して心情を浮き立たせるとか、そんな〈描写〉群が適度に配置されている。いわゆる純文学ばかり読んできたぼくのような者でも、読んでいて退屈しない。
ただ人間が描かれているなあ……と感じたこの本では、東野の得意とする「どんでん返し」がガサい。ありきたりなのである。しかも無理がある。犯人…というか、犯罪を犯した登場人物が登場してきた時点で、それがわかってしまう。それもかなり物語としては前のほうでである。たぶん東野としては人間を描くほうに重きを置いた作品なのだろうなとの感触を抱いた。
さて、昨日の夜にこんなくだらない(といっては申し訳ないのだが)ミステリーを1冊読むと、脳が活字に慣れてしまったらしい。慣れたというよりも、元に戻ってきたらしい…というべきか。いつもよりちょっとだけ早く起きたので、朝からもう1冊の新書のほうを読み始める。
うーむ。おもしろい。
この本については、読み終わってからね。
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