習得・活用・探究
いよいよ新学習指導要領の実施が迫ってきて、小学校では新しい教科書もできて、システム的には「習得・活用・探究」の理念を実現しなければならない時期に来ている。
しかし、今回の学習指導要領改訂には、現場の危機感がほとんどない。前回改訂の教科指導事項の縮減、「総合的な学習の時間」の創設、選択履修枠の拡大といった真新しいことばかりだった改訂と違い、学力向上のために指導事項を「もとに戻す」といったイメージで捉えられているためだ。真新しいことといえば、いわゆる「小学校英語」だけで、これだけは各小学校で盛んに準備が進められているようである。
かくいうぼく自身、今回の〈活用〉を主たる理念とする指導要領の改訂にそれほど現場的意欲も現場的危機感も喚起されていないのだが、それでも授業像だけはちゃんと打ち立ててしっかりと提案しなければ……という気にはなっている。その意味で、今回2週連続で「習得・活用・探究」理念に基づいた提案を整理するための研究会をおこなった。
「ことのは」と「DNA」そして山田洋一くんという6人で、とにかく「習得」と「探究」とを切り結ぶ「活用」の授業像を追ってみたわけである。10月の3連休では、模擬授業24連発の形で「活用」の授業像を集めてみようという企画も予定している。まずは取り敢えず、「活用」研究…というか「活用力」研究に一歩踏み出しているわけだ。
ぼくが教員になった90年代、現場は「新学力観」に沸いていた。猫も杓子も「関心・意欲・態度はどう評価するのか」「支援とは何か」「援助とは何か」に熱狂していた。2000年前後の「ゆとり教育」に対する熱狂もその延長線上にあった。「総合」「選択」のカリキュラムをつくりなさいという文科省の強権発動に踊らされていた感じである。
その頃、ぼくは現場も地教委も一方の振り子だけに沸くのを見て、危機感を募らせていた。そうした経験主義的な授業観に基づいた授業の在り方というものは、指導事項をしっかりと整理し、それらを地道に定着させる努力とセットで考えなければ機能しないのに……といった趣旨だった。そうした思いが当時のぼくを「言語技術」研究に走らせたといってよい。
ところが今回の学習指導要領改訂は、これまた「ゆとり教育」の反動として現れた「学力論争」を経て、「学力向上」一本槍に振り子が振れた感がある。前回の改訂で「総合」や「選択」といった独自カリキュラムをつくる能力など自分たちにはなかったのだということに気づいた現場人たちは、文科省の言うとおり…といわんばかりにちゃんと教えて定着させようというような従来の系統主義的授業観のみに基づいて、子どもたちに強制することに集中しようとしているように見える。少なくとも地教委も校長会もマスコミも、全国学テの点数を上げることを第一義に考えるような気配を見せている。
振り子が逆に振れれば、ぼくの危機感も逆に振れる。今度は、経験主義的な授業観だって大切なんですよと主張し始めた。少なくとも、ぼくの意識としてはそういうことである。
ぼくはこれらの経緯が、すべて地教委や現場やマスコミの勘違いから生じていると感じている。「新学力観」は指導事項の精選とともに提示された。「ゆとり教育」は指導事項の厳選とともに提示された。今回の「学力向上」路線だって「活用」「探究」とともに提示されているのである。
学習指導要領はいつだってバランス論を展開してきたのである。それなのに、前回と比べて真新しい部分にだけスポットを当て、振り子を大きく振ってしまうのが地教委・現場・マスコミの悪癖である。日本人の悪癖といってもいい。マスコミの影響といってもいい。学校教育システムまでが「劇場型」に捉えられている、といってもいい。いずれにせよ、この状況はよくない。
いま、「習得・活用・探究」に取り組もうと考えている教師たちでさえ、指導事項を明確にし、それを実際に使ってみる場面を設定して定着させればよい……というふうに「習得」「活用」を考えている傾向が見られる。しかし、それでは「探究」にはつながらない。何かレポートを書こうというときに、「スキルはあるが書くことがない」という子どもたちをまた大量に産み出すだけである。
スキルの定着とともに、課題の発見を志向する授業像として、「活用型授業」を構想すべきである。先週・今週と2回の研究会を通じて、こうした基礎的なことに課題があるのだということに気がついた。
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