愚か者(笑)
愚かな女は時にはかわいい
愚かな男はただ愚かだね
これは沢田研二の「ロンリー・ウルフ」(1979年秋/作詞:喜多條忠)の歌詞の冒頭だが、中学校1年生のときからこのフレーズはぼくの中で一つの哲学として位置づいてきたように思う。愚かで許されるのは女だけであると。
かくいうぼくは自他ともに認めるまったくの愚か者なのだが、理想態として「愚かでない自分」になりたいとの思いは昔から強くもって生きてきたように思う。
また内田樹の「街場のメディア論」の話になるのだが、書棚の記述についてぼくは「わかるわかる」と肯きながら読んだ。端的に言えば、書棚とは「いつかこうありたい自分」という理想態の体現であると。ぼくもまたこの穴の狢である。
一方で、80年代から民間教育界を席巻している「名人モデル」という教師像にぼくはずっと違和感を抱いてきた。法則化運動に参加する教師が「向山洋一先生のようになりたい」と言ったり、野口流に憧れる教師が「野口芳宏先生のようになりたい」と言ったりする〈あれ〉である。ぼくはただの一度もだれかのようになりたいと思ったことがなかった。
いま「ロンリー・ウルフ」を聴いていて、ふと思った。ああ、ぼくの理想は具体的モデルではなく、抽象的な言葉によって理想態が定められてきたのだと。
理想態が言葉によって形成されているということは、それは理想態が具象であったり形象であったりするわけではないということである。いわば、ぼくの理想態は常に〈ベクトル〉として、つまり〈方向性〉として意識されてきたのだと。
例えて言えば、「愚か者」にはなりたくない、「愚か者」とはかくかくである、「愚か者」とはしかじかでもある、するとかくかくしかじかを禁じればよい、しかしかくかくもしかじかも時と場合によって異なる、ということはかくかくもしかじかも場合分けで考えねばならぬ、Aという場合ならばかくかくは……といったふうである。
かつて吉本隆明が自分の思考は頭の中で〈書き言葉〉として現出してくると述べていて、「ああ、オレも同じだ」と感じたことがあった。
ぼくは何か思考をめぐらすとき、或いはだれかと会話しているとき、更には研究会で登壇しているとき、常に頭の中に〈書き言葉〉が浮かぶタチである。〈書き言葉〉で浮かんだ言葉を瞬時に〈話し言葉〉に翻訳して発話する傾向がある。もう数十年もそんなことを続けているから既に慣れっこになっているのだが、どうもこれは一般的でないらしいということに最近気がついた。
例えばいま、ブログを綴っていても、ブログというものは〈書き言葉〉と〈話し言葉〉との中間くらいのスタンスで書くべき媒体であろう……という理由で、頭に浮かぶよりも少し〈話し言葉〉に近づけるという思考を経てキーボードを叩いている。
いままでそんなことは思ったことさえなかったのだが、こんな面倒くさいことをしなければならない人間は、きっと「愚か者」である。
もう30年以上考え続けている、「愚か者」という語を構成する要素がまた一つ増えた。それがこんな真夜中にこの駄文を綴ろうと考えた直接の動機である(笑)。
と……ここまで書いて、ぼくが前の文の最後に(笑)とつけたことのニュアンスは多くの人にとって理解できないのだろうなあ、という気がしてきた。こういうことが腹の底から気になるタチだというのも「愚か者」の要素である(笑)。
ここで最後に(笑)とつけるニュアンスは多くの人に伝わるだろう(笑)。
現在、1時55分である。
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