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季節病

能力がないならば能力をつけてやらねばなるまい。

生徒が相手ならこう考える。そしてその手立ても教師ならいくつかもっている。

しかし、相手が同僚、それもある程度の年齢になっているとなるとこの勢いはどこかへ飛んでしまう。こんなヤツにかかわるまいとかたく決意してしまう。そういう事例をいくつも見てきた。そして自分でもそう思って、かかわりを避けた相手が一人や二人では済まない。

なぜこんなやつが教師になれたのか。

よくもこんなやつが教師になったなあ。コネでもあったのか。

と、こんな台詞を何度聞いたことだろうか。

こんなことを繰り返すばかりで、指導力不足教員も不適格教員もまったく減らない。悪循環である。

しかし、若手ならばともかく、とうに40を超えた年齢の、既に20年も特に非難されることもなくそのやり方でやり続けてきた者に、若手に対するのと同じように指導するのは被害が大きい。こっちが男性、向こうが女性ということになればなおさらだろう。いつセクハラだ、パワハラだと訴えられかねない。

最近の管理職が奇妙なほどに「調和型管理職」を志向するのも、理由は同じなのであろう。聞くところによると、最近の教頭研修には鏡に向かっての「笑顔の練習」なんてものまであるらしい。世も末…と思うのは私だけだろうか。

誤解のないように書いておくが、別に能力がなくて私が困っている、私が怒りを覚えているという同僚が勤務校にいるというのではない。

ただ最近、というか秋になると毎年のことなのだが、ある研究会でこういう声を聞いた。

春はみんなが張り切っていて、今年こそはいい学級経営をしようとか、今年こそはいい学年経営をしようとか、今年こそはいい学校経営をしようとか、今年の職員室のメンツはなかなかいいぞとか考えていたのが、現実はやはり厳しくて……。夏になった頃には少しずつボタンの掛け違いが見えてきて、夏休みが明けて1ヶ月がたった頃から他人のあらばかりが見え出す。

そりゃ人間だから得意なこともあれば不得意なこともある。春にはそれぞれがそれぞれの不得意をフォローし合おうという意欲があったのに、いまではどこ吹く風。少々の不得意なら許せるがあいつはフォローされっぱなしじゃないか……と不満たらたら。結局、その人の得意なところは一切見ずに不得意ばかりが目についてしまう。

しかもだれもに共通するのが、自分の不得意は棚上げするという、なんともわがままな、しかし人間の本質ともいうべき傾向である。

こんな時期だからこそ、みんなで酒でも飲んで騒げばいいのに、この時期には滅多に飲み会も開かれない。そんなこんなで、あいつと飲みたい……とは思わないのだ。行事の打ち上げなんかがあって、一応は多くが参加するものの、疲れもあって一次会でおさらばである。

こんな状態があと3~4ヶ月続く。

年度が終わりに近くなり、さあ、有終の美を飾りたい……とみんなが思うようになった頃、またちょっとだけ人間関係が改善の兆しを見せる。

こんなことを何年続ければみんなその構造に気づくのだろうか。

季節病みたいなものなのだよ、そんなものは……。

改善策は二つ。4月に必要以上に、つまり視野が曇るほどに張り切らないこと。もう一つは1年間を通じて冷静に、同じぺースで、粛々と業務をこなし続けること。職員室の人間関係もまた「業務」の一環なのだから。

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