世論・道徳・倫理
「街場のメディア論」(内田樹/光文社新書474/2010.08.20)を読んでいたら、「世論」という語の見事な定義があった。
揺るがぬ真実であるのだが、自分の生身を差し出してまで主張しなければならないほど切実な真実ではない。(p102)
なんとも見事な定義ではないか。思わず笑ってしまう定義でもある。
この後、メディアがこの無責任気質的世論性に蝕まれており、医療や教育といった本来経済合理性・等価交換性でその是非を断じてはいけないものにまでその断罪欲を伸ばし、結果メディアが医療崩壊・教育崩壊への主要因となっている……とまあ、内田らしい展開にもっていくわけだが、その論理はもう読み飽きた。
それより、最近の内田の魅力は、こうした冗談とも本気とも窺い知れないような、それでいて自らの言とは論理矛盾するような、なんとも読者の無責任気質的世論性をくすぐるような定義を持ち出すところにある。言葉は定義して使うべきであるとは学問の常道であるが、言葉を楽しみ、言葉を世界観を形づくることに意識的な者にとって、日常的に用いる語に対してこうした世界認識の触媒となるような定義を施すこともまた大変有意義なことである。
かつて宮台真司が「道徳」と「倫理」を次のように定義したことがあった。
道徳とは、時代や場所によって変容しうる、共同体に基づいた基準
倫理とは、自らが逮捕・拘束されようとも、或いは処刑されようとも貫き通す個人ないにある基準
この二つは、いまぼくが理解しているままをあくまでぼくの言葉で語っているものであって、宮台その人の言葉ではないのであしからず。出典を忘れてしまったので、仕方なくこんな書き方をするのをお許しいただきたい。
いずれにせよ、内田の「世論」の定義と宮台の「道徳」「倫理」の定義とを敷衍すれば、結局「道徳」とは内田のいうようなレベルの低い「世論性」に帰結してしまう。
学校教育における「道徳」という語も「倫理」とした方がいいのかもしれない(笑)。だって多くの道徳の授業は、内田「世論」を言葉にしてみる作業であることが多いもんね。
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