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忘れないことである

最近、よく森田を想い出す。

森田茂之は私の師匠である。2001年12月30日、心筋梗塞でこの世を去った。54歳だった。明けて1月3日に葬儀があって、私は弔辞を読んだ。こんな弔辞だ。

「潟沼先生の御退官の折には、卒業生をたくさん集めて御苦労さん会を開かなくちゃなぁ」
ビールをあおりながら、あなたとこんなことを語ったのは、つい半年ほど前のことです。

そう言っていたあなたが、なぜだか今、かくも多勢の卒業生を集めてしまっていることを、私たちはどう理解すればいいのでしょうか。潟沼先生の御退官にはまだはるかに間があるというのに、早すぎるではありませんか。

思えば、あなたは学生を大切にする教官でした。あなたの研究室には、かつて四研に所属した学生の写真が初代から順に並んでいます。そして、どの写真でも、あなたは中央にドンと陣取り、どこか満足げな笑顔をたたえているのです。私たちは卒業後も四研におじゃまする度に、その写真を眺めて「おお、また増えた」と、四研の短い歴史に、どこか得意げな想いを抱いたものでした。

私たち四研所属学生は、俗に「森田ファミリー」と呼ばれ、まるでマフィアのファミリーのように鉄壁の連帯を誇っていると揶揄されたりもしました。私たち四研OBは、卒業してなお、森田が困っているのなら、森田が一声かけるなら、「いざ鎌倉」の用意も持っておりました。それなのに、私たちが馳せ参ずべきあなたは、既に帰らぬ人となってしまいました。こんな日は、二十年も三十年も先の話だと思っていました。

あなたが永眠した夜、私は学生時代の写真を見直しました。どの写真も、あなたは中央に陣取り、そして笑っていました。水ゼミ合宿では、浜益の海辺の民宿岩浅で焼き肉を食べながら笑っています。木ゼミ合宿では、支笏湖畔でジェンカを躍りながら笑っています。新歓コンパでは、多くの学生に囲まれて、やはりあなたは中央で笑っているのです。

浜益での水ゼミ合宿では、民宿の庭で焼き肉パーティをしながら、カラオケを歌う習わしでした。私が大学一年のとき、点数つきカラオケで高得点を挙げた折、それを見たあなたは、「よーし。堀君には負けられませんから」と選曲を始めました。選んだ曲は『哀しみ本線 日本海』。二点差で私に負けたあなたは、まるで子どものように、庭のコンクリートを叩いて悔しがっていました。先日の紅白歌合戦で森昌子が一六年振りの復帰を果たしたのを見た折、私はこの合宿での出来事をはっきりと想い出しました。私は元日からCD屋に走り、森昌子のCDを求め、一日中、『哀しみ本線』を聴き続けました。すると、聴けば聴くほど、あなたの低く、太い歌声が甦ってくるのです。もう一五年も前のことだというのに、はっきりと聞こえてくるのです。

私が大学三年のとき、私たち四研生は、あなたと、あなたの家族とともに、四研ドライヴと称して小樽に行きました。八九年七月一六日のことです。その中に、伊藤整文学碑の前で、私が京君を、梶が章君を肩車している写真があります。私たちが「先生も入って」と言うのに、あなたは「いや、私はいいです」と傍らに避け、自らシャッターを切りました。数枚の写真を撮る間、あなたはなんとも満足げな表情で目を細めていましたね。私が小馬鹿にして、「森田も人の親ですなぁ」と言うと、あなたは「それはそうですよ」と応じました。そのときのあなたの表情がはっきりと想い出されます。こんなことが想い出されるのも、あの日、私たちが二人を肩車したように、今後の京・章を支えてくれ、というあなたのメッセージでしょうか。

あなたとの想い出は、挙げれば切りがありません。ゼミの納め会で一気をし過ぎて国研横のトイレで一緒に吐いたこと、特製原稿用紙に手書きでびっしりと書き込まれた講義レジュメ、教育実習でもないのに学生の私たちを現場に連れて行き、年に六本もの授業をさせてくれたこと。そして、私たちが水ゼミ・木ゼミの歴史を、延ては四研の歴史を築くために創刊した『礎』『はまます』『幻像』の三誌。そのどれもが、いまなお私たちを根底から支えている宝です。

そして何より、私たちが現場に出て以後、十年以上にわたって月一で例会をもってきた共同研究、実践研究水輪。この水の輪と書く「水輪」という名称も、水ゼミの輪という意味を込めて、三ヶ月にわたってみんなで考えた末にできあがった名前でした。

私が最後にあなたに会ったのは、一二月二六日。あなたが帰らぬ人となるわずか四日前、水輪の二○○一年最後の例会です。場所はやはり四研でした。会が終わったのは、夕方六時頃だったでしょうか。帰り道、私たちの前を走っていたあなたは、岩見沢インター手前で左ウインカーをあげて、ゆっくりとガソリンスタンドに入っていきました。思えばあれが、あなたと私との最後になりました。あのとき入れたガソリンは、おそらく使い切られることなく、いまなおあなたの車のタンクの中で、あなたをいずこへかと運ぶためだけに、静かに待っていることでしょう。

あなたの口癖は、「人生、太く短く」でした。この言葉を、他ならぬあなた自身の口から何度聞いたことでしょう。いま思うと、あなたは本当に、太く短い人生を送りました。戦後の混乱期に生まれ、七○年安保闘争に学生時代を送り、あの校内暴力吹き荒れる中に現場時代を過ごし、大学改革急激に進む中、毎日、奔走を続けていました。しかし、そんなあなたの人生を、武田泰淳とドストエフスキーをこよなく愛し、西尾実、荒木繁、大河原忠蔵を敬愛して止まなかったあなたの人生を、他ならぬあなた自身がまったく後悔していなかったということが、弟子の私にはよくわかります。

思えば、私とあなたの師弟の契りは、わずか一五年に終わりました。確かに現世では一五年でしたが、いつの日か、来世で、私は再びあなたの門を叩きます。私だけでなく、桑原も、北山も、梶も、山下も、竹美も、ヤスも、賢治も、再びあなたの門を叩くでしょう。そして、来世には、現世になかった、悠久の時間が流れていることでしょう。その日まで、私たちはあなたの研究を継承するのみならず、大いに進化させましょう。再びあなたの門を叩くときには、両手に抱えきれないほどの手土産を持って伺います。そしてまた、ホッケの開きとイカの一夜干しで、熱燗をキュッとやりましょう。

その日まで、しばしお別れです。安らかにお眠り下さい。

平成14年1月3日

教え子を,そして「実践研究水輪」を代表して/堀  裕 嗣

思えば、私が書いた幾千の文章の中に、これほど思いを込めて書いた文章はないのではないか。35歳。元旦の夜にバーボンを煽りながら綴った記憶がある。ハーパーを一晩に2本も空けたのに、ちっとも酔わなかった。酔いたいのに酔えない。精神はこれほどまでに強い影響を肉体に与えるのか、薬物の影響さえ最小限に止めてしまうのかと、馬鹿げたことを考えながらひたすら原稿用紙に向かっていた。

それから9年経って、私の中で何かが変わっているのを感じる。その変化を無理に言葉にしてみれば、森田は精一杯生きたのだからいいではないか……といった趣である。最近、私の中に現れる森田は学生時代に私たちといっしょに大笑いをしている姿ばかりである。輝いていた森田ばかりである。

つい最近、同い年の知人が亡くなった。この世を去るには30年早いなと感じた。

昨年、一つ年下の元同僚の女の子が交通事故で亡くなった。そのときもこの世を去るには40年早いなと感じたのを覚えている。

21世紀になって、どうも同世代の死を経験することが多くなった。森田が亡くなったときも若いなと感じたものだが、それとは少々異なるショックが私を捕らえている。

高校時代の同級生も何人も亡くなっている。中には自殺した者も少なくない。そのうちの二人は私が高校時代に懇意にしていた友人である。毎日のようにゲームセンターに入り浸り、金と女の話ばかりしていた。十数年後に彼らが自殺するなんて想像だにしなかった。いや、彼ら自身、自らが死を選ぶなどということを想像していなかったに違いない。遺された者は「死ぬくらいなら、なんとでもなっただろうに」とか「死ぬなんて馬鹿だ」とか「遺された家族のことを考えなかったのか」などと言った。

しかし、私にはそうした台詞がどこか死者への冒涜に聞こえたものだ。その程度のことを自ら死を選ぶ者が考えなかったとはとても思えないのである。そんな一般人が思いつく程度のことなら、彼らだって考えたに違いないのだ。むしろそれでも死を選ぶと決意させたものがあったのだ。

死者の死の理由を論じるべきではない。論じたって始まらない。死の動機を抽象的で月並みな言葉で括るべきではない。遺された者にできることはただ悲しむことだけである。

ただ悲しみ、淋しがり、残念に思えばよいのである。死の理由を論じたり、彼の分まで生きようと思ったり、遺族に必要以上の憐憫の情を抱いたり、これすべて死者への冒涜に過ぎない。もう一つだけできることがあるとすれば、それは彼らを忘れないことである。

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