学校祭の集中準備期間が始まった。要するに午後カットにして学校祭の準備時間とする期間が始まったわけである。勤務校の学校祭作業は「総合」にカウントされており、厳密にいうと午後カットなわけではない。しかし、生徒の意識からしても教師の意識からしても現実的には午後カットである。
さて、ここ5,6年だろうか、学校祭に対する生徒のノリが悪くなっているような気がする。
「気がする」という言い方は少々遠慮がちに言っている。本音は、気がするどころではない。明らかに悪くなっている。もはや確信に近い。いや、「確信に近い」という言い方も実は遠慮している。本当は確信している。「確信している」というよりも、「学校祭に対する生徒のノリが悪くなった」と本当は言い切りたい(笑)。
おそらくここ10年で、学校行事を支える文化の質に変化が見られている。それも圧倒的な変化である。しかし学校はそれに気づいていない。気づいていたとしても気づかない振りをしている。学校はいまそういう現状にある。
学校行事には3種類ある。「儀式的行事」と「旅行的行事」と「その他の行事」(中学校では「生徒会行事」)である。
「儀式的行事」は以前に比べて、つつがなく成立している傾向がある。現在は昔のように警察を入れての卒業式とか、保護者がガムを噛みまくりの入学式とかいうのは減ってきている。
おそらく世の中の右傾化が従来以上にこれらの行事を成立させる傾向にあるようだ。そういえば、ひどい成人式の報道も沈静化してきている。儀式は儀式、こうした儀式にミソをつけるような行為は社会が許さない、そういうメッセージを、21世紀になってからぼくらはずいぶんと享受し受容してきたように思う。
「旅行的行事」は以前とほとんど変化することなく楽しまれている。泊を伴った非日常空間の成立がこの行事を支えて続けている。修学旅行に行きたくないという生徒が保護者の賛同を得て実際に参加しないという事例もあるにはあるが、それはあくまで「超」のつく少数派である。大多数の生徒たちは修学旅行を楽しみにしており、それなりに充実した想い出を抱いて帰路に就く。
一時期、これだけ豊かな時代になったのだから、旅行など家族旅行でたくさんしているのだから、修学旅行などいらないのではないかという議論もあったが、最近はほとんど聞かなくなってきている。昔は修学旅行といえば酒を持ってきたり煙草をもってきたりということがよくあったものだが、最近はそれもめっきり減った。
せっかくの修学旅行なのだから違反行為などせずに楽しい想い出づくりをしようというのがコンセンサスのように見える。わずかに携帯電話を持ち込んで叱られる生徒がいるにはいるが、それも文字通りのわずかである。先生の目を盗んで夜中に携帯で連絡を取り合おうよ……という生徒が主流とはとうてい思えない。
「その他の行事」は、強引に二分類すれば「体育的行事」と「文化的行事」とに分かれる。
「体育的行事」は近年のスポーツイベントの流行が従来以上に生徒たちのモチベーションを盛り上げる傾向にある。かつてのように運動神経のにぶい生徒を徹底的に非難するということも見られない。イチローも中村俊介もミスした選手を決して責めない。むしろ全員で勝利したことを、或いは全員で一生懸命取り組んだ結果として惜しくも敗退したことを、紋切り型の言葉で満足げに語る。マスコミもミスした選手個人を責めない。今年のワールドカップでPKをはずしたなんとかいう選手がいい見本である。
「体育的行事」は間違いなく、かつてよりも学校教育が望む方向に進んでいる。もちろんうわべだけなのだが。それでも従来通りに、或いは従来以上に成立させることのできる学校の構成要素がほとんどないという現起用をみるとき、成立しているだけでよいではないかということになる。多くの教師にとっては検討の対象にもならない。まあ、それはそれでよい。
問題は「文化的行事」である。これだけが間違いなく生徒の意欲喚起に成功していない。年々目に見えて、生徒にとって消化行事と化している。
ごくごく単純にいえば、「文化的行事」はみんなで一つのものをつくりあげる、創造するという思想の体現の場として設定されている。学校祭や合唱コンクールはそうした目的を達成する場として用意されている。
しかし、それに対する生徒のモチベーションが上がらない。まずは90年代後半から2000年頃にかけて、「合唱コンクール」が大変な行事になってきた。担任教師はまじめに取り組ませることまず四苦八苦し、3日前くらいになってやっと軌道に乗り始める。しかしそれもまずまずの担任がまずまずのクラスを受け持ったときの話であって、ついに最後まで生徒たちのモチベーションは上がらなかったという学級もよく見られるようになった。
そしてここ5年ほど、「学校祭」である。学校祭もその企画を「先生が決めてよ…」といった雰囲気の濃度が上がってきている。少なくともその傾向がある。進歩的な教育学者や学校に批判的なマスコミ関係者などはそれは学校教育の在り方の問題であり、教師が生徒の主体性・創造性を摘んできたからだと批判しそうだが、その論理は既にあまりにも古い。或いは教師にモチベーションを高める力量がなくなっているという指摘もあり得ようが、特別活動を得意としている教師の学級にもその傾向が見られることに、その見解は少なくとも我々教師の教育的実感とはかけ離れていると言わねばならない。
教師の言葉として出てくるのは、「最近の子はみんなで一つのものをつくり上げることの価値がわかっていない」との子ども批判の声。しかし、果たしてそうだろうか。子どもの変容のみの責任に期すその論理は、「旅行的行事」や「体育的行事」はもちろん、「儀式的行事」までがかつて以上に成立している現実との間に齟齬がないか。
学校行事全般で見たとき、「帰属意識」とか「協働的な創造」といった次元のものはそれなりに高まっているのではないか。「儀式的行事」で今日はきちんとする日だとか、「体育的行事」で今日は得手不得手にかかわらずみんなで頑張ろうとか、そうしたモチベーションはかつて以上に高まっているのではないか。
なぜ、「文化的行事」だけにそのモチベーションの高まりが見られないのか。
実は「文化的行事」には、「帰属意識」や「協働的な創造」といった理念のほかに、もう一つ重要な要素がある。それは「芸術性」である。
「文化的行事」の目的の一つとされる「芸術性」は、「文化的行事」における発表物に「リトル芸術」或いは「プチ芸術」を求める。もっと平たくいえば、本物の芸術をモデルとして「学校祭」や「合唱コンクール」はつくられる。
本物の芸術とはすなわち「文学」「演劇」「合唱」「器楽」といったものである。
今日、ある同僚がステージ発表をダンスだけで構成することにしたら、ほとんど担任が指示しなくても指導しなくても生徒たちがどんどん進めていく、といっていた。その教師は、楽だ楽だと笑っていた。
ぼくはさもありなんと感じていた。
変わったのは生徒ではないのではないか。「芸術性」のほうなのではないか。つまり、「芸術」というものが「文学」や「演劇」や「合唱」や「器楽」であるというコンセンサスのあった時代が終焉したのではないか。その代わりに、「演劇」は「映像」に、「合唱」は「ダンス」に、「器楽」は「バンド演奏」に取って代わられたのではないか。そう思うのである。
冷静かつ真摯に考えてみていただきたい。ある学級が全員でひとつの完成度の高いダンスパフォーマンスをつくりあげたとする。それはある学級が全員でひとつの完成度の高い合唱をつくりあげることよりも価値が低いといえるだろうか。「帰属意識」の醸成や「協働的な創造」の要素はダンスにだって充分にある。それが学校教育の目的にあわないとなぜいえるのか。いえないとすれば、「合唱コンクール」は実は「ダンスコンクール」でも目的を達することができるのではないか。少なくともその可能性は検討されてよいはずである。
これはぼくが「演劇」や「合唱」や「器楽」を否定していることを意味しない。学校祭や合唱コンクールを時代に合わないからやめてしまおうという意味でもない。
ただ、ぼくらの世代が知り得ない、教師の世代には今ひとつ理解できない、「新しい芸術」概念が既に生まれてしまったということではないのか、と言っているだけである。つまり、ぼくら教師は、「文化的行事」を企画し取り組むときに、こうした「新しい芸術性」を念頭に置いて企画しなければならない時代が来たのではないか、と言っているだけである。
例えば、2000年代に入って、文芸評論の世界が、本気になって「エヴァ」や宮崎駿を論じているのをご存知だろうか。総理大臣がエックス・ジャパンを好きだと言い、サミットのテーマソングをそのメンバーがつくったのはもう一昔前の話なのである。現在の中高生がそういう時代に育ち、そういう空気の中で感性を育んできたことにぼくら教師は無関心であるべきではない。
「新しい芸術性」を本気で取り入れ、どのように「従来の芸術性」と棲み分けさせるか。両者をどのように折衷するか。両者をどのように止揚させるか。学校教育がそういうことを本気で考えなければならない時代が到来している。
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