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授業観と授業勘

子どもたちが主体的に学習するような授業が大事だと考えています。

子どもたちが互いにかかわり合い学び合うような授業を心がけています。

子どもたちに学力をしっかり保障する、授業では何よりそれを大切にしています。

こういった声をよく聞きます。いわゆる「授業観」というやつです。なるほどと思い、そういう人の授業を見に行ったことが何度もあります。しかし、実際に見てみると、がっかりしてしまうことが少なくありません。教師の意図に反して子どもたちが野放しにされているだけの授業だったり、学力保障という名を借りた単なる講義であったり、説明して取り組ませるだけのスキル訓練であったりといったことが多いからです。

もちろん、子どもたちに試行錯誤させることも、講義形式の授業も、スキル訓練型授業も、決して悪いことではありません。その意味で、こうした方々の「授業観」が悪いわけではありません。

しかし、こうした「がっかりしてしまう人たち」の授業は、「授業観」ばかりが先行していて、その「授業観」を機能させるための工夫があまりにも足りない……そういう共通点があります。いわば、「授業観」はあっても、「授業勘」がにぶいのです。

例えば、子どもたちがたくさん意見を言い合い、一見活気に溢れているように見える授業なのですが、よく観察してみると、各々が自分の主張を言うだけで、それぞれの主張がまったくかみ合っていない。ときにおとなしそうな子が議論をかみ合わせるような重要なつぶやきをしているのに、教師はその重要性に気がつかずに流してしまう。このつぶやきさえ拾えば、議論は劇的に高まるのに……という発言を取り上げない。これは「授業勘」がにぶいからです。

例えば、教師が一生懸命に説明し、美しい構造板書をまとめ、子どもたちが必死にそれをノートに写している。しかし、動いているのは右手だけで、脳みそはちっとも動いていない。子どもたちは美しい板書をノートに美しく書き写すことのみに専念している。教師はそのことに気づかず、自分の説明を子どもたちが理解していると信じ込んでいる。それを疑ったことさえない。これも「授業勘」がにぶいからといえるでしょう。

どちらも、教師が意識せずに〈自己満足〉を求めていることが原因のように思えます。

「授業観」と「授業勘」。洒落のようですが、授業を進めるエンジンとして、どちらも絶対に必要だと思います。

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コメント

堀さんのblog、いつも楽しみに読ませていただいています。

京都でご一緒できるのが楽しみです。(百戦錬磨の堀さん、石川さんと同席するプレッシャーを感じつつも・・・)

「授業観」と「授業勘」・・・いつもながら感心させられます。私も同じことを考えていながら、明解でわかりやすい表現でさらっと書かれているのを見ると、改めて己の筆力のなさを感じます。

つまらない質問ですが、どうしてこの文章は敬体で書かれているんでしょう?

投稿: 門島 伸佳 | 2010年8月25日 (水) 23時34分

門島さんへ
京都では楽しくやりましょう。
敬体で書いているのは、若い頃、年上の先生にこういう方が多かったからですね。語りかけている対象として浮かんでいる具体的な顔が年上だからでしょう(笑)。

投稿: 堀裕嗣 | 2010年8月26日 (木) 07時35分

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