「流れ」というもの
実に残念なことながら、仕事の遅い若者がいる。段取りが悪いとか、落ち着きがないとか、或いは謙虚さが足りないとか理由はいろいろあるのだが、何はともあれ頭が悪い。こう言っては見も蓋もないことは百も承知。しかし、他に言いようがないのだから致し方ない。
頭が悪いにも様々ある。このことは若者に知識がないことを意味しない。知識はあってもそれがつながらない。つながらないから活かせない。活かせないから評価されない。結局、思った通りに仕事が進まないから段取りが悪いと見られ、ちょっとした仕事にもばたばたするから落ち着きがないと言われ、助言しても助言通りにできないから謙虚さがないと思われる。あっちにふらふらこっちにふらふら、端からはそう見えるが故に、しまいには「頭が悪い」と片付けられる。
こういう烙印を押されるには1年と数ヶ月かかる。最初は新卒だから仕方がないと期待され、次第に周りをいらつかせるようになり、小さな期待はずれが二桁を超えた頃に見切られる。特に1年の経験を経て2年目にはいると、周りの眼差しは一気に厳しくなる。「おまえは去年何を学んだのか」と声なき声があびせられ、嘲笑が冷笑となっていく。それに本人が気づかないから始末が悪い。1年と2ヶ月もすればニベもなく、鼻にも歯牙にもかけられずけんもホロロ……。そういう若者を何人も見てきた。
さて、私が問題視するのはこうした若者たちが見切られたまま、放っておかれることである。先輩教師は若者を見切った時点でその若者に対する期待を捨て、あきれ、愚痴り、陰口を叩く方に時間と労力を費やし始める。若者はそのまま数年を過ごし、失敗を重ねてフォローを受け続け、次第に、周りに迷惑をかけることに慣れていく。転勤しても新卒教師よろしく、担任をもっただけで、或いはちょっとした仕事をこなしただけで、自分は何かしら価値ある教師だと自負するようになる。こうして、周りに迷惑をかけ続ける教師が完成していく。もう迷惑をかけてもそれはありうべきこと、お互いにフォローし合うのは当然の名のもとに一方的に周りのフォローを享受し続ける、そんな元若者のなんと多いことか。
私は学年主任として、四人の若者を指導した……というより、指導させられたことがある。そんなに遠い話ではない。つい3、4年前のことである。いま、うち二人は採用試験に合格してそれなりに実績を積み、二人はいまだ採用されずに臨採経験を重ねている。この合格した二人と合格せざる二人を比べてみると、その差はほんの小さなことに過ぎない。大差があるわけではない。ましてや本人たちの能力の差や努力の差などでは決してない。
合格した二人は仕事のできない新卒1年目から運よく2年目も同一の学校に勤務して少しだけ去年の自分を内省させられ、合格せざる二人は運悪く2年目に別の勤務校に赴任させられ、学校の体制、学校のシステムの違いに戸惑う1年を再び過ごさねばならなかった、それだけの話である。一度「根無し草」の教員生活に足を踏み入れてしまうと、そこから脱出するのがなかなか難しいのがこの世界。二人もなかなかその流れから逃れられないでいる。
おそらく彼らも、あと1年か2年早く生まれ、合格した二人の流れ同様に教員生活を送っていたならば、いまとは比べるべくもない充実を得ていたことだろう。彼らに実力がないわけではない。近くで彼らの1年間を見てきた私にはそれなりにわかるつもりでいる。自分ではどうすることもできない、「流れ」というもの。おそろしいものである。
彼ら二人が早くこの悪しき流れを脱して、その実力をいかんなく発揮する日が来ることを切に望んでいる。
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